諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

197 続「俳優のマクベス」

2022年12月25日 | エッセイ
丹沢 蛭ヶ岳から 数年前の暮れ

「83 俳優のマクベス」に「続き希望」をいただいたので、「続き」を書いてみます。

加藤周一さんはその「マクベス」の前に、次のように述べている。

例えば、孔子の牛のはなしを考えてみましょう。孔子は、重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見て、かわいそうに思って助けようと言った。
すると弟子は中国にはたくさんの牛が荷物を背負って苦しんでいるのだから、1頭だけ助けたってしょうがないのではないかという。孔子は、しかしこの牛は私の前を通っているから哀れに思って助けるのだと答える。それが第一歩です。
第一歩というのは、人生における価値を考えるためには、すでに出来上がった、社会的約束事として通用しているものから、まず自らを解放することです。例えば、牛に同情するのだったら、統計的に中国に何頭の牛がいて、それに対してどういう補助金を与えるとか動物虐待を止めるような法律を作るとか、様々な方法でそれを救う必要がある。それは普通の考え方です。その考え方から解放される必要があるのです。どうしてその牛がかわいそうなのかという問題です。たくさん苦しんでいるのだから、1頭ぐらい助けてもしょうがないと言う考えには、苦しんでいる牛全部を解放してしなければならないと言うことが前提にある。なぜ牛が苦しんでいるかへの答えにはなっていない。牛が苦しんでいるのは耐え難いから牛を解放しようと思う、どうしてそう思うかと言うと、それは目の前で苦しんでいるのを見るからです。だから出発点に返る。やはり一頭の牛を助けることが先なのです。


「文学の仕事」という章の中である。そもそも加藤周一さんの評論そのものも文学的だ。
「神殿より百合の花、と思えるかなんだなぁ」とも聞いた。事象と自分との間。

ある人が似た表現をしている。

静かに、地下水のように、かぼそいが絶ゆることなく、流れつづけるいのちがある。火のように燃え上がり、周囲を焼きつくういのちもある。否、生きとし生けるもの、動物にも植物にも、空にも地上にも水中にも生きつづける大小のいのちがある。
すべてのものの、生命の尊さと絶対性を認めた上で、人間のいのちの尊さを考えるのでなければ、人間尊大の思想になってしまう。その行き先は、思いやりや謙虚さのない砂漠のような人間社会が出来上がってしまいそうな気がする。いつ、どこで、どんな環境の中で生を受けたにしても、1つの命は尊く絶対である。
この確信こそ教育の原点であろう。


やや大仰の感はあるが、この筆者は急速な行革路線の学校のあり方に危惧を表した。
1984年の臨時教育審議会、急進的な第一部会に対して、初等中等教育の立場から異を唱えた第三部の会長のものである。


副題の「教育は静かに語ろう」がいい。


≪引用≫
加藤周一『私にとっての20世紀』岩波書店
有田一壽『いのちの素顔 ―教育は静かに語ろう』教育新聞社


※「近未来からの風」のまとめまで、しばらくお休みにします。いつも読んでいただいてありがとうございます。

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196 近未来からの風#32 そして日本へ

2022年12月18日 | 近未来からの風
秋の山で🈡 八ケ岳 大河原峠で 秋と冬の間。

「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省

終 章 これからの日本の教育を考える
この章は、これまでEducation 2030 プロジェクトの知見をもとに、白井さんが日本の教育に対してどのような示唆が得られるかについて最後に考察するところである。ところで、この部分わずか8ページなのだが、単に紙幅の都合だけではないようである。

こうした国際的なプロジェクトに参加する事は、日本の教育を考える上でも重要な様々な示唆を与えてくれる。とりわけ、現在の日本が直面している様々な教育上の課題は、日本に固有のものではなく、諸外国においても認識されている共通の課題であるという視点も重要だろう。こと教育に関しては、どの国も内政事項として扱いがちであるが、そうした先入観にとらわれず、国際的な比較の視点を持ちながら、教育と言う営為そのものに内在している課題を特定し、それらに対して科学的にアプローチしていくことが重要である。

意外なほど、各国の課題は、日本と共通しており、むしろグローバルな視点であっても、教育そのものに内在している課題に帰結することが多くこれまでの記述がすなわち日本の課題かなりの部分と重なるということらしい。
しかし、その中でも、白井さんは、この章で再度日本の教育のどこに問題意識を感じるかを述べなおしている。どんなことなのだろう。

1 エージェンシーの視点からの教育全体の見直し

まずはエージェンシーである。

エージェンシーは、「変化を起こすために、自分で目標設定し、振り返り、責任を持って行動する能力」と定義されているが、生徒のそうした能力が、生徒のそうした能力が、今の日本の学校教育において、十分に育まれているかは、疑問な人はできないだろう。

とした上で「ブラック校則」を例に挙げながら、次のように述べている。

学校教育の段階から、単に「ルールを守る」ことだけでなく、そもそも「このルールは本当に正しいのだろうか」、「このルールは変えるべきではないか」、「ルールを変えるためには、どのような手段を踏んでいくべきなのか」、「ルールがないのであれば、どのようなルールを整備する必要があるのか」、といったことを考えていくことが不可欠になってくるのである。

また、新しいルールを作っていく上で重要になるのが、倫理や道徳である。倫理や道徳の基礎がなければ、どのようなルールを作るべきか、作ろうとしているルールが妥当なものかどうかを判断することができない。

多くの他者と共同することも重要だろう。学校教育を通じて、多様な他者の考えを聞いたり、共同したり、議論したりする中で、生徒一人一人が、それぞれの倫理的基礎を築いていくことができる。


こうした変革へのエージェンシーの育成が、日本には特に必要だと指摘している。学校は「一つの共同体生活の形式」と言ったのはデューイだったが、その学校社会の中で変革のエージェンシーが育成できうるとしているようである。

また授業に関してである。
日本の中学生が学習の楽しさや実社会との関連に関して、肯定的な回答をする割合が低いことを指摘して次のように述べている。(「数学・理科の学習に対する生徒の意識」 (ページ末参照))

数学や理科の学習には取り組んでいるとしても、試験等の外在的な動機付けに依拠している部分が多いことが推察されるのである。その場合には、生徒の学びの目的が、通知表や入学試験といった、他者が設定したゴールをクリアするための学習になってしまっていると考えられる。もちろん、他者が設定したゴールをクリアすること自体が否定されるものではない。しかしながら、よりVUCAが進行する世界においては、他者が設定したゴールに向かうだけでなく、「そもそも、設定されている頃自体が適切なものなのか」、「設定されているゴール自体を見直す必要は無いのか」、といった事まで考えていくことも求められてくるだろう。

高得点や高い評価を得ることにどのような意義があるのか、といった事まで考えていくことも必要になってくるだろう。


従来からの学力の質の問題だが、白井さんも改めてここで問題提起している。

2 コンピテンシーの視点に基づいたカリキュラム・デザイン

ここでは、カリキュラム・デザインという概念の意図をまとめ直している。

カリキュラム上に書き込むだけでは、それは「意図されたカリキュラム」での対応に過ぎない。授業時間は当然有限であるし、教師の指導力や準備に要する時間、学校のICT環境の整備等を含めた「実施されたカリキュラム」、生徒がどこまで身に付けたか、また、それを評価できるという「達成されたカリキュラム」までを視野に入れて考える必要がある。

これは当然カリキュラム・オーヴァーロードも念頭に置いた指摘だ。そして、

従来のようなコンテンツ中心の発想から、コンピテンシーの意味を理解していくことが求められる。そのためのエビデンスをカッコするためにも、コンテンツとコンピテンシーの関係性を明らかにしていくCCMのような手法を洗練させていくことが重要だろう。
※ CCMとは、カリキュラム・コンテンツ・マッピングのこと

コンテンツからコンピテンシーへというのはこの会議のキーワードとも思える。

3 カリキュラムの意義の再認識。

この節が本書の最後のページになる。白井さんは再確認として、カリキュラムの3つの役割を(たぶん)あえてとりあげている。

第一は、カリキュラムの学習基盤機構機能である。

カリキュラムを通して学習の基盤となる基礎的な学力をつける事は、社会的な公平の観点からも重要である。基礎的な学力がなければ、より高度な学問を身に付けることも難しくなるし、社会に出てから活躍する事は、もちろん、成熟した市民として、権利を行使したり、義務を果たしていく上で支障が生じかねない。カリキュラムは、生徒一人一人がエージェンシーを発揮する上での基盤を作るものである。

第二が、カリキュラムの民主主義維持機能である。

カリキュラムを通じて、国民一人一人が適切な判断力を身に付ける事は、個々人が自らの権利を守りながら、その社会的な責任を果たし、社会のウェルビーイングを維持していくと言う観点でも極めて重要である。

第三が、カリキュラムの国民統合機能である。

国民統合の原則原理としてのカリキュラムの役割に対する認識は希薄だった部分があるかもしれない。しかしながら、より多様化が進んだ社会においては、そもそも日本国民がどのような存在なのかを規定するとともに、多様なバックグラウンドを持つ人々を、日本国民として受け入れていく上で、学校教育の役割はよりいっそう大きくなってくるだろう。

そして、最後に加える。

国の将来を担う子供たちに対する国民の様々な願いや希望、夢や期待、そして、伝統や文化を凝縮したものがカリキュラムなのである。そのことを、大人はもちろん、子供たちも含めたすべての国民が、もう一度認識することが必要だろう。

以上で本書の本編は終わる。






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195 近未来からの風#31 OECDと教室の間

2022年12月11日 | 近未来からの風
秋の山で 近くの低山で

「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省


第7章 国際的なカリキュラム課題への対応

前回までカリキュラムのオーバーロード問題の対応へのアプローチとして2つの見解をまとめてきた。今回は、そのアプローチの続きと、カリキュラムの運用への提言をまとめていく。近未来への教育は、どうカリキュラムというかたちに落とし込めるのか。

1 カリキュラム・オーバーロード(続き)
カリキュラムのオーバーロードについて、
第三のアプローチとして、学習テーマを実社会・実生活上の様々な課題に結びつけることとしている。

より少ないコンテンツであっても、様々なことを学ぶことができるようにする取り組みがある。例えば、北アイルランドでは、統計に関する学習に際して、単に統計を学ぶだけでなく、社会的・経済的な課題と関連付けようとしており、軍事への支出と債務の返済のどちらを優先するべきか、とか、リサイクルに要するコストと便益をどう分析するか、といった様々な課題を扱うように工夫している。

続く第四のアプローチは、現場関係者への啓発である。

より生徒に近い立場にいる学校や教師に、カリキュラムという課題に対して、その実態を最もよく把握する立場にいる教師自身が裁量を発揮することで、柔軟かつ、迅速な対応が期待される。また、このことは、カリキュラムの実施に関して、教師がエイジェンシーを発揮していくと言う事でもある。

さらに、第五のアプローチは、参加意識の形成である。

カリキュラムの段階から、教師や各教科の専門家を巻き込み、その意見踏まえたカリキュラムを作ることである。各分野の専門家は、どうしても自らが関わる教科や分野を手厚くするように求められがちであるが、カリキュラム全体の構造や、オーバーロードの状況を十分に理解してもらうことで、より現実的で妥当な解決策を作り出していくことが期待される。

最後、第六のアプローチである。

カリキュラム・オーバーロード問題への対応を、教育関係者だけでなく、より広い利害関係者を巻き込んでいくことである。カリキュラム・オーバーロードの問題の一般的な構図としては、全体としてのオーバーロードを抑制し、各国教育省と、それぞれの個別的なニーズを主張する利害関係者との間での対立や利害調整といった構造が生じがちである。しかしながら、カリキュラムの開発段階から利害関係者との議論を深めることで、オーバーロードを含めたカリキュラム全体の設計制度設計についての関係者の理解が深まり、効果的な解決につながることも考えられる。

以上6点が、OECDで出されたカリキュラム・オーバーロードへの対応の方向性であるという。

ここで少し驚くのは、これらの提言は、日本国内でのカリキュラムに関する議論や、カリキュラムを取りまとめていく手続きのあり方、そしてそこで生じる諸問題をそのまま擦るように、各国共通の課題であったと言うことである。
何処も実にリアルにこれらの問題を感じていたのである。

そしてこのことに言及しつつ、白井さんは日本のこれまでのオーバーロードへの取り組みをコラムの中で紹介している。

文部省(当時)が、1998年・ 1999年に改定を公表した学習指導要領は、その後、メディア等においては「ゆとり教育」と呼ばれ、社会的な批判の対象になった。ここでは、その批判の当否については、論じないが、現在、「カリキュラム・オーバーロード」が国際的な共通課題となっており、各国が増大する一方のコンテンツをいかに抑制・削減しようかと苦慮している中で、日本における当時の学習指導要領は、逆に注目を集めている。(中略) 20世紀末の時点で、日本が大幅なコンテンツ削減を実施したことについて、今ではむしろ、OECDや諸外国からも注目される先駆的な取り組みの例となっているからである。

このように「ゆとり教育」は、今日的課題の先取りとして当の日本でも貴重な経験として再認識するべきなのであろう。
そしてまとめとして、白井さんは次のように述べている。

今後、各国がカリキュラム・オーバーロードの問題を考えていく中では、カリキュラムを減らす際の、「減らし方の原理」であるとか、「減らすための方法論」についての原理・原則を確立していくことが求められるだろう。

たぶんこれは差し迫った問題に違いない。かつて学問領域が細分化し、それぞれに専門分野が広がる中で、評論家の立花隆さんは、“学問工学“のようなものが必要だと述べた。教えるコンテンツは急速に増えているのである。その中で従来から言われている教育内容の精選と言うことを、どこまで合理性と説得力を持った形で実現していけるのかと言うことが問われてきているのであろう。

2 カリキュラムの効果的な実施
この項は、カリキュラムの実施を阻害している他の要因を挙げながら円滑にそれを実施できる方策を考えている。
会議では「一般に、カリキュラム改革がうまくいかないことの主要な原因」として、次の3点をあげている。

・カリキュラム改革の内容が革新的・野心的なものにかかわらず、実施までのスケジュールが現実的でなく、教師を始めとしてカリキュラムの実施を担う人材に対する十分な投資が行われていない。
・カリキュラム改革の内容が、教師の養成や研修、学習状況の評価や試験の内容など、他の教育システムと十分に整合していない。
・様々な利害関係者が、カリキュラム改革の当事者として、適切なタイミングで関わっていない。


やや抽象的だが、どれも重要なことがわかる。もう少し具体的な表があげられているので、ページ末に引用しておく。
ところで、子どもたちと教師とが対峙しながら進めていく教育活動は常にライブ的である。
一方、教育行政が教育に加わるためには、教育活動への理念を策定し、各専門家チームによってコンテンツが設定させ、それに対する教授方法が検討され、これらの妥当性を評価するなどに時間を要する。
しかし、この過程を経て表れたものが、必ずしもそれが全国の個々の教室でライブの中でいきいきと表されるかは、現場の意識にもよる。
このジレンマは、公教育の原理的な課題と言えるだろうが、近未来への変化はますます早いレスポンスを求めてくるのだろう。今回のこの会議で、そのことが改めて表面化してきている。 

そして、このジレンマへの方策として、いくつかのアイディアが示されている。

カリキュラムに関する分権化を進めると、居住する地域や通学先の学校によって、生徒間での公平が担保されなかったり、学力に差がつくといったことが生じかねない。また、地域や学校の権限を広く認める場合には、政府による国レベルでの政策の実施が円滑に進まないことにもなりかねない。結局のところ、トップダウンとボトムアップ、あるいは国等のレベルでのカリキュラム統一性と地域や学校レベルでの柔軟性といった軸の間で、適切なバランスを考えていくことが必要である。また、カリキュラムの効果的な実施を考えていく上では、カリキュラム作成に着手した早い段階から、教師を始めとした関係者を巻き込んで、その理解を得ながら実施していくことも重要である。

としている。いずれにしても、当事者意識というのがキーワードになる。この具体的な取り組みとして、ニュージーランドで行われた教師や保護者、行政機関や地域団体、企業等を巻き込んだ、国民的な議論の例や、教師のネットワークを構築して、そこから草の根的にコミニケーションを進めていくことといったカナダやブラジルの例、カリキュラム改訂のスケジューリングを明確に示していくエストニア、中国、日本の例などが示されている。
いずれにしても、教育のあり方改革は、それぞれの立場が議論を尽くし、その必然性を内面化させていくと言うプロセスが必要なことも原理的な必然といるのだろう。

そして、カリキュラム運用上の課題として、最後に「タイムラグ」の問題を取り上げている。

3 カリキュラムにおけるタイムラグ

カリキュラムが策定されたとしても、それが各学校や教室において実施されるようになるまでは、教師による研修や教科書、教材の準備など、通常数年の時間を要するのであり、それまでの間に状況が変わってしまう場合もある。こうした問題を総称して、「タイムラグ(time lag ; 時代遅れ)」と呼んでいる。

そして、変化の激しい時代において「後追い」が指摘されると言う。

例えば、近年、AIが注目されるようになってから、数学やプログラミング等の重要性が指摘されるようになってきたが、そうした指摘は、AIの発達に伴った、いわば、「後追い」の指摘に過ぎない。

そして、これらの問題に対する処方箋として、カリキュラムの分権化によって、現場の判断が優先されることで、迅速なカリキュラム作りが可能だとしたり、カリキュラム策定に至る手続きやサイクルを明確化することで「あらかじめ次の手続きが何かを予見することができていれば、必要な準備や心構えをしていくことが容易になると考えられる」と言う原則などが挙げられている。いずれにしても、

最後は、各学校は、どのようにカリキュラム改革を受け止めて、それを実施していくかと言うことになる。タイムラグを埋めるっていくために、いかに学校や教師一人一人が迅速、的確に対応できるかは、各学校のリーダーシップと支援による雲が大きいのは当然である。

と言うのは、至極当然と思わざるを得ない。

以上、ここで実質的なOECDの教育の未来への提言は終わりである。

次回は、著者の白井 俊さんのまとめを読む。



※上手にスキャンできず失礼!


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194 近未来からの風#30 オーバーロードの重荷

2022年12月04日 | 近未来からの風
秋の山で

「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省

第7章国際的なカリキュラム課題への対応。

この会議では、国際的なカリキュラムの課題として、カリキュラム・オーバーロードについて第一に挙げている。白井さんは、この問題の所在を次のように整理する。

(1)問題の所在
オーバーロード(overload)とは、「過積載」や「過重負担」といった意味で使われる言葉である。典型的な場合としては、すでに荷物で満載のトラックに、さらに多くの荷物を積載しようとしている状態がイメージやすいだろう。一般に、カリキュラム・オーバーロードは、カリキュラムにおいて、学校や教師、生活に過大な負荷がかかっている状態として理解されている。

そして従来からあるこの問題に、

急速に変化する現代社会においては、カリキュラムに対する社会からの要請は、より一層強いよいものになっているだろう。
実際、生徒が学ぶべき事柄は、増大の一途をたどっており、それ故、多くの利害関係者も、より多くの内容を教えるべきと主張している。


その結果、

アメリカでは、カリキュラムが「幅1マイル、深さ1インチ(mile wide、inch deep)」と揶揄されているというが、実際、とりあえず授業の中で少し触れたものの、本質的な理解にはつながらないと言う状況は、程度の差があっても、多くの国で生じている現象であろう。

ただし、

学習時間が有限である以上、「深さ(depth)」と「広さ(widthあるいはbreadth)」は常に相反する関係に立つので、カリキュラムをデザインしていくうえでも、この両者のバランスには常に配慮しなければならないのである。

ではいったいオーバーロードとはどんな状況か、またそれが計り得るものなのだろうか。

①オーバーロードの判断
教師や生徒の経験や能力、適性などによっては大量の内容であっても、十分に消化できる教師や生徒もいれば、そうでない場合もあるだろう。

カリキュラムにおけるコンテンツの増減を数量的に評価することを難しい。実際、カリキュラムが簡潔で短いものだからといって、必ずしも内容が少ないわけではないし、反対に、カリキュラムの分量が多いからといって、必ずしも内容が多いとも言い切れない。


つまりこれまでオーバーロードの現状は漠然としたものとして把握され、したがって具体的な手立てできにくかった言うことなのであろう。

②オーバーロードの背景
その具体例として、

ノルウェーからは新しいニーズに応えるためのコンテンツが追加される一方で、既存のコンテンツはそのまま維持されるため、結果的にカリキュラム全体が肥大化する傾向にあるとの指摘が出ている。

韓国では「教科書文化」が根強く、教科書に記載されている事項は全て教えるべきだと言う保護者の期待があると言う。そうした保護者からの期待の背景には、試験を重視する文化的背景もあるようだが、そうした教科書や試験重視の文化が、結果的にカリキュラムを減らすことに対する慎重意見となり、オーバーロードにつながっていると言うのである。

チェコにおいても、保護者から教師に対してカリキュラムの内容をもっと拡大するように要望があり、結果的に正規のカリキュラムに、さらに内容を付加して実施される場合もあると言う。


各国のその現場の様子が見えるようである。
もともと、ICTなど技術革新が進む近未来に向けて、新たに必要なスキルが増大する一方で、それを下支えする高い認知的スキルが求められ、また、主要なコンピテンシーについても、キーコンピテンシーとしてのいわゆる人間力と言う形で重視せざるをえないわけなので、カリキュラムの内容は増大する構造がもともと背景にはある。

さて、こうした分析を踏まえて、会議では、このオーバーロード傾向に7つのアプローチを提示する。

第一のアプローチは、「カリキュラムの中でも、特に各学問分野の原理や原則に焦点を当てて、ある種のメリハリをつけていくもの」で、第二のアプローチは、「各教科における本質的な思考の方法や視点、考え方に焦点を当てていくこと」という。

コンテンツの詳細を積み込むことに終始するのではなく、教育内容を1つの大きな価値の体系の中で捉え、その意味付けを十分に抑えることによって、過積載とも思われるそれぞれのコンテンツを統一して認識するべきだ、と言うことである。

アメリカでは、科学分野でのノーベル賞受賞者を輩出する一方で、初等中等教育は脆弱だと言われている。(中略) 仮に、卒業に至っても、教科についての十分な理解を伴わないまま卒業しているケースも多いと指摘されている。そうした状況を憂えたアメリカの科学者たちが、同国における公教育を改善するためにどうしたら良いか議論し、たどり着いたのが「8 +1」という考え方である。

この知見は会議でも注目されたようなので、その関係図をそのまま上げておく。(ページ末)

図7-3の見出しは「科学における根本原理『8+1』 」とされており、序文では、「科学とは何か、科学とは何のためにあるのか」という問いが記されている。この「8 +1」に通底するのは、「私たちが知っていることを、どのようにして知ることができるのか」という問いであり、「+1 (プラスワン)」に相当する探求(inquiry)の視点である。「8 (エイト)」の部分は、①モノは何からできているのか、②システムはどのように相互作用したり、変化するのか、という2つの問いに分けられる。

こうした構造図を頭に入れることによって、

教師もまた生徒も、こうした根本的な原理を理解し、必要に応じてこれらの原理に立ち返ることで、数多くの細かい知識にとらわれるのではなく、科学における重要な概念を理解することが期待されるのである。

また別の例として、

ニュージーランドでは、各教科に「キー・コンセプト」を設定している。ニュージーランドにおける「キー・コンセプト」については、「生徒が学校を卒業し多くの詳細な内容を忘れてしまった後でも、なお生徒の中に残ることが期待される考え方や原理についての理解である。(…中略…)このキー・コンセプトを探求し、その範囲の広さや深さ、そこに付随する、微妙な意味合いなどを深く理解するとともに、意味が常に一定でないことも理解し、人によって異なる視点から、これらの概念をとらえることについても学習するには、時間とそのための機会が必要である。様々な方法で働きかけ、また異なる状況下で、比較的短時間のうちに、このようなキー・コンセプトに触れることによって、生徒は理解を深め、その概念を自分のものにしていくのである」(田熊・秋田、2017)とされている。

こうした考え方は、現行の日本の学習指導要領にも導入され、各教科の「見方・考え方」につながっているという。

現場で教えていると、教えるべき末端の内容をおさえると言う発想からその知識、内容群が総体としてどのような意味を持つのかなどについては後回しになりがちである。しかし「学校を卒業し、多くの詳細な内容を忘れてしまった後でも、なお生徒の心に残ること」は、きっとその根本原理や考え方の構造だったりするのであろう。それが卒業後の何らかの発想の源になるはずである。

以上、この回だけではまさにオーバーロードになるので、第三のアプローチ以降は次回にしたい。







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