諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

50 生体としてのインクルージョン#02 モニュメント

2019年10月27日 | インクルージョン
一輪挿し

 

 

改札を出たモニュメントの前で、友人ヨシダと待ち合わせている。

 

ヨシダは高校時代から待ち合わせに遅れない。

まだ5分前、階段の方からヨシダが歩いてくる。

 

ダークグレーのスーツにえんじのネクタイ。眼鏡が少し光っているのが、年齢層を感じさせる。

「待ったぁー」

という一声。

そう言うだろうなと、なんとなく察しがついている。

実は先に着いて駅ビルの本屋で時間をつぶしていたのだろう。

 

笑みを浮かべながら近づいてきて、少し顎を引いて2~3回瞬きをする癖。

久しぶりだという気持ちとか、「本当は自分より先にここに来てたのかな」という彼らしい気配りとか、「この後どんなことを話そうか」と考えているのかもしれない。

そんなことをこの癖から自然に読み取れしまう感じ。15年ぶりなんだけど。

 

 

焼き鳥屋に案内して、久しぶりと言ってビールで乾杯しつつ、

「それで、あれ、どうしたっけ?。」

と聴くと、いくつかのテーマの中から選んで?、

「そうそう、そうなんだよ。」

という。それだけで話が通じる。

いや、通じているか分からないけど彼の言いように任せている。

「やっぱり大変でさー。」

「そうか、そうなんだろうあー。」

……

同じテーマで考えているのか分からない。分からないけど、しばらく二人でだまって煙の向こうの宙を見るている………

 

噛み合っいないかも知れないけど、それでいいかと

 

「ああ」とか「そうか」とか「なるほど」とか言いながら、時間が過ぎていく。

 

考えてみると、彼とは、高校卒業以来長い時間を一緒に過ごしたことはない。

知っていることは、人物年表のトピックのようなことだけなのである。

 

 

ヨシダは、専門学校に進んだ。その後中堅企業に入って、結婚したり、マンション買ったりして、今は部長になったという。

そんなスカスカなことだけある。だけど毎日彼と接している会社の同僚より彼のこと分かっている気がするのはどんな機微なのだろう。

 

「本当の友達!」とかいうのではなく、ヨシダという人は、自分にとって〝機能″ではないということかも知れない?。

 

 

店を出てモニュメントまで戻って来た。これでお開き。

「じゃ、ここで」

「そのうちまた」

 

明日も会社と学校という機能として場がある。

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49 ボランティアスピリット

2019年10月20日 | エッセイ
 どんな取り組みでも同じだが、結果的に義務感でやるより、自分から進んでやった方がいい場合が多い。

 日々の教育活動や介助が大変だと感じた時、単調に思った時、トラブルがあった時、元来この仕事って奉仕(ボランティア)なんだよ、と思い返すとやっていいることに力も入りやすく、バランスもよくなるのではないか。少なくとも自分はそう思っている。

 仕事の中に「ボランティア」を持ち込むと無防備な感じだけど、やっていることの価値みたいなものが直接感じられて、自分の側にも得ることが多いように思う。

 いろいろあって、教職を奉仕職と言わなくなって久しいのだが。

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48 生体としてのインクルージョン#01 はじめに

2019年10月13日 | インクルージョン
前号の登山口から4時間。八ケ岳(赤岳)が見え始めます。


終戦直後、鶴見俊輔さんは、「言葉のお守り的使用法について」という論文を書いた。
戦時中、戦争ムーブメントを煽るように過剰に告知されたいくつかの言葉の働きを指摘した。


最近では、保育所不足を打開すべく放った「日本死ね」というブログの言葉が思わぬ影響を持った。
座談会でこのことの賛否が議論されている中で、ある作家が感慨に近い感情とともに「それにしても言葉の力だねー」言っていた。

もう少し広げる。
話題の「サピエンス全史」によれば人類の進歩は、共通に信じられる虚構を言葉を介して持つことで同じ方向を向き、飛躍的に交流が進んだという。
一方で、ヘレンケラーはものには個々に名前がついていることをサリバン先生に教わり、そのことでそれまで粗末に扱っていた人形を大切するようになったという。

言葉のもつ不思議な働き。


そんなことを少し気にしながら「インクルージョン」の内実を考えてみたい。


言わずもがな、インクルージョンは障害者の権利条約のキーワードであり、世界基準の用語である。
インクルージョンとそのイメージを代表した口語「私たちを除いて決定しないで(Nothing about us without us!)」は国連の人権意識と相まって、すごいスピードで世界に浸透していき、現在180の国が条約を批准している。
政府が実施しなければならない義務も多い中での広まりが驚きである。


ところが、世界基準の「インクルージョン」は、私たち一般教員にはどうも言葉そのものからくる力が伝わってきにくい。
これまでの日本の学校文化の機微に触れる、というわけにはいっていない(のではないか)。
同じことを、地域での活動でも感じる。多分住民は「聴き慣れない横文字の一つ。」に違いない。


インクルージョンには社会の制度や意識の変革を求めるイメージもある。勇ましい。
ところが、「私たち(障害者)を除かないため」にする傾聴は静かな行為であるし、共に生きるとはいえそれぞれがもつ現実もある。共に生きるとは簡単ではない。
絨毯の色を変えるように地域が変わるはずはない。

インクルージョンが変革を進めるなら、それは制度の問題だけではない。

共に生きるとは心のでもある。

個々の心の向き合い方について慎重な検討が必要である。


そんなある種の違和感もあり、地域支援の実際の中でのインクルージョンについて静かに考えたいと思います。新シリーズ「生体としてのインクルージョン」。

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47 山登りについて

2019年10月06日 | エッセイ
この径から3.5時間かけて八ケ岳(横岳)につきます。杣添尾根ルート。


 登山口は、多くが意外なほどひっそりとしている。
未知の世界の入り口としてはそれがまた良い。

 山を登るというのは、自前の筋力を使い、それを応援すべく息を弾ませつつ、移動する単純な動きである。
ところが、その単調なリズムが自然に周囲の環境に自分を溶け込ませる効果があるかもしれない。木々や草、苔、石や倒木、鳥の声、風の音、空と雲の動きに気づいてくる。
山の自然はこの日も「営業中」なのである。
この中にいることがなんだか嬉しい。

 次第に体も心も山中にいることに慣れてくる。
本来人間も自然なんだよなぁと、運動中のため余計に?それが真実として感じれるようになる。
自然は厳しいし、その中に入り込んだ以上厳しさを共有するのがルールのような気がして、汗を拭きながら体を押し上げる。そして、自然の一員にしてもらう。

 さらに登り続けると、身体は機能的に動くことを思い出す。動力機関と化してくる。定期的に水分補給と行動食を摂る。そしてまた出発。
人間の身体は長距離歩行には向いているという。

 振り返ると視界が全くちがっている。向こうの山より高いところまで来ている。体が欲している水が実にうまい。我が動力機関も結構エライ。
 
 そしてこの身体感と、適度な疲労のハイテンション、そして物理的に高地にいる実感とが周囲の自然環境を鮮やかに感じさせる。そこで知り合う登山者も機嫌がいい。

「遠く、高くここまで来た。」
 

 ところが、動力機関にも限界がくる。

 海抜2600M前後に森林の限界点がある。この上に高木はない。
森林限界点と関係はないが、体力にも限界点(と感じる)があるものだ。

 動かない身体をバテはじめている気持ちが頂上まで押し上げねばならない。限界点以上の山登りは、
できれば避けたい苦痛。
ただそれだけである。山登りのもう一面。
 
 そんな状態だと、次々に頭の中で苦痛を逃れる言葉を吐き始める。
「何でわざわざこんなことしてるんだろう」
「もっとトレーニングしておくとよかった」
完全に弱気だ。
「そういば、あの映画の続き見逃したな」
「アメリカはシェールガスを輸出してるけど、国内の石油元売り業者は黙ってないだろう」
と話題をかえる。
「そもそもこの山は〇〇さんの紹介だ、結構大変じゃないか」
と責任転嫁する。
「とにかく早く終わらないかな」
とシビレをきらす。
「いや、誰かと競争していない、自分と相談してマイペース」
と持ち直す。
他にも、「あー」と叫んだり、ストックで石で遊んだりして気を紛らわす。
 弱い自分とこんなところで向き合ってしまう。それだけきつい。まだ、頂上まで2時間と無常の標識。

 そして、さらにこれが続いたある時点で真理!に行き着く。
「そうだ、今、山登ってんだ…。山登ろう!。」

 腹が据わり、次第に自分を取り戻せることを発見したりする。
足の置き方にも注意が向く、体のバランスも整う。むやみに時計を見ない。苦痛と冷静な自分が同居できている感じ。

 こんな時、頂上に着いても、あまり感激はない。
「ちゃんと山登んなきゃな。」
ザックを下してつつ反省する気分がある。

 こんな山に限ってまた行きたくなるのはなぜかわからない。

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