諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

番外 第九演奏会 つづき

2021年12月30日 | エンタメ
前回の掲載でアクセスいただいたのでつづきを書きます。
その第九、ラジオで生放送がありテレビ放送(大晦日)に先だって聴いてみました。
Twitterみたいですが、この演奏会についてのつぶやきです。よかったら読んでください。
ほとんど趣味の世界で恐縮ですが。

以前、指揮をする尾高さんが、若いころ修行したウイーンを再訪するテレビ番組をやっていた。
で、尾高さんは、ウイーンの中心部を後にし、郊外のハイリゲンシュタットという街へ向かう。ここはベートベンが代表曲をいくつも創作したところで、当時のままの家も保存されている。

ところで、音楽家は日常的に、譜面を読み、イメージを膨らませていく。考え、時には格闘し?、音を響かせるまでの過程を何度も繰り返しながら作曲者とその曲に近づいていく。それをくり返してきた曲の表現者としては、その譜面の創作現場に立ち入ることは、通常、譜面からは得られない情報をイメジネーションとして得られるに違いない。

特にこの場所は、ベートーベンが耳の不調から遺書まで書きながら、複雑な心理を抱えまま書き続けたところである。音楽家はその感性で直接ベートーベンと対話するような感触が持てるのかもしれない。

そして、番組の中の尾高さんは、しばらく感じ入るようにゆっくり室内を歩くと、この日本のトップ指揮者が、窓の外に目をやって涙を流すのである。
その意味するところはもちろん分からないのだが、ベートーベンの何かが尾高の中に入り込んだようだった。
その時の印象が強い。
ベートーベンが最後に書いた歓喜の歌、第九をその尾高が指揮する。
「入り込んだもの」の表現といってもいいかもしれない。

また別の背景もある。
コロナ禍は合奏や合唱に打撃を与えた。
アマチアのオケ、合唱は再会の目処を持てず、プロは生活の糧を奪われかけている。
NHK交響楽団も設立以来、1900回以上ずっと続けてきた定期演奏会を中断した。プロ合唱団も同様だ。
コロナが落ちついてきても、聴衆がもどる保証はない。

そして、再起をかけて起用した気鋭の外国人指揮は入国ができず、このオーケストラがその任を託したのが尾高忠明なのである。
そういう意味では音楽界の今後にも、興行的にも、年末注目される第九演奏会はアッピールのチャンスである。その責任も尾高にある。

そして、FMの放送が始まる。
聞こえていた拍手がやむと、いよいよ始まる、第一楽章の抑制されたバイオリン合奏演奏から。

その後、70分して、高らかな歓喜の歌がおわり、再び拍手が聞こえてくる。
拍手の割に?誰もブラボーと声を掛けない!?。聴衆はマスクをして声を出せない。その代りに盛んな拍手が送られる。

拍手がやまない中、進行役の芸大出身のアナウンサーが、生放送の時間を気にしながら、
少し上気した感じで、「大きく、暖かい演奏でした」と短くコメントしたようだった。
「優しい」と言ったのかもしれない。
番組は拍手の終わるのを諦めたように終了した。

街の教会の神父さんのような指揮者が、指揮台をおり、にこやかに拍手に応えている姿が浮かんだが、もちろんそれは見えない。


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164 近未来からの風#3 風のみなもと

2021年12月25日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 八ケ岳 山麓の森 これが八ケ岳の魅力の1つです。

「予測不可能な未来社会」とは、つながりすぎたグローバル社会がどうなっていくのか、と重なるだろう。
今回は、そのグローバル社会の未来像をほぼ引用のみで考えたい。

ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』河出書房

とは、えらくセンセーショナルな本だが、『サピエンス全史』『ホモ・デウス』で、巨視的な人類史とその後の未来像を描いてきた歴史家のハラリさんが、この2冊をふまえて出した、現代へメッセージの本である。
そして、21章のレッスンの一つに「教育-変化だけが唯一の不変」という章がある。
今回は、ここから「風のみなもと」をさぐる。長い引用をはじめます。

人類は前代未聞の革命に直面しており、私たちの昔ながらの物語は皆崩れかけ、その代わりとなる新しい物語は、今のところ1つも現れていない。このような空前絶後の変化と根源的な不確実性を伴う世界に対して、私たちはどう備え、次の世代にはどんな準備をさせておけるのか?今日生まれた赤ん坊は、2050年には30代に入っている。万事が順調にいけば、その子供は2100年にも生きていて、2022世紀に入ってもはつらつと暮らしているかもしれない。2050年あるいは22世紀の世界で生き延び、活躍するのに役立ててもらうためには、子供に何を教えるべきなのか?その子は、仕事を得たり、周りで起こっていることを理解したり、人生の迷路をうまく通り抜けていったりするためには、どんな技能を必要とするのか?
あいにく、2100年は言うまでもなく、2050年の世界がどうなっているのかは誰にもわからないので、このような疑問の答えを私たちは知らない。もちろん、これまでも人間は未来を正確に予想することができなかった。だが今日、未来の予想かつてないほど難しくなっている。なぜなら、テクノロジーのおかげで一旦体と脳と心を作り替えられるようになってしまえば、もう何一つ確かに思えるものがなくなるからで、それには、これまで不変で永遠のように見えていたものも含まれる。


(大量の情報の断片を結び付けて、世の中の状況を幅広く捉える能力など)はこれまで何世紀にもわたって西洋の自由主義教育の理想だったが、今に至るまで、西洋の多くの学校でさえその実現を怠ってきた。教師は生徒の頭にデータを詰め込んでおいて、「自分で考えるように」生徒を促すばかりで良しとしてきた。自由主義の学校は、権威主義に陥るのを恐れていたので、単一の価値観に基づく包括的な「大きな物語」を特別に恐ろしがっていたので、教師たちは、生徒に多くのデータと少しばかりの自由を与えておきさえすれば、生徒は自分なりの世界観を作り出すだろうし、たとえこの世代が、すべてのデータを総合して、この世界についての首尾一貫した有意義な物語に仕立てあげられられなかったとしても、将来、真っ当な総合的物語を構築する時間はたっぷりあるだろうと思い込んでいた。ところが今や、私たちはその時間を使い果たしてしまった。

それでは、私たちは何を教えるべきなのか?多くの教育の専門家は、学校が方針を転換し、「4つのC」、すなわち「critical thinking(批判的思考)」「communication (コミニケーション)」
「collaboration(協働)」「creativity(創造性)」を教えるべきだと主張している。より一般的に言うと、学校は専門的な技能に重点おかず、汎用性のある生活の中するべきだと言う。中でも最も重要なのは、変化に対応し新しいことを学び、なじみのない状況下でも心の安定を保つ能力になるだろう。2050年の世界についていくためには、新しいアイディアや製品を考え作るだけでなく、何よりも自分自身を何度となく徹底的に作り直す必要がある。

人生の基本構造は一変し、不連続性がその最も目立つ特徴となるだろう。太古から、人生は補完し合う2つの部分に分割されていた。まず学習の時期がありそれに労働の時期が続いた。
だが21世紀の半ばには加速する変化に寿命の伸びが重なりこの従来のモデルは時代後れになる。人生はばらばらになり人生の各時期の間の連続性が次第に弱まる。「私は何者なのか?」という疑問は、かつてないほど切迫した、ややこしいものとなる。

産業革命が私たちに起こしたのが、教育の生産ライン理論だ。町の真ん中に大きなコンクリートの建物があり、中には全く同じ造りの部屋が並び、それぞれ机と椅子が何列も置かれている。ベルが鳴ると各部屋30人かそこらの、同じ年に生まれた子供たちが入っていく。毎時間、誰かしら大人が入って来て、話し始める。大人たちはみな、政府からお金をもらっていてそうしている。地球の形について語る人もあれば、人間の過去について語る人や、人体について語る人もいる。このモデルを笑うのは簡単だしそれが過去にどれだけの実績を上げたとしても、今や破綻していると言うことで、ほとんどの人が一致している一致する。だが私たちは今のところ、実用的な代案を見出せずにいる。

哲学も宗教も科学も揃って時間切れになりつつある。人は何千年にわたって人生の意味を論じてきたが、この議論を果てしなく続けるわけにはいかない。迫りくる生態系の危機や、増大する大量破壊兵器の脅威、台頭する破壊的技術がそれを許さないだろう。そしてそれが最も重要かもしれないが、生命を設計し直し、作り変える力を、AIとバイオテクノロジーが人間に与えつつある。程なく誰かが、この力をどう使うか決めざるをえなくなる-生命の意味についての、何らかの暗黙の、あるいは明白な物語に基づいて。哲学と言う恐ろしく辛抱強いものだが、それに比べると技術者がずっと気が短く、投資家はいちばん性急だ。もしあなたが、生命を設計する力をどう使うべきかわからなかったとしても、答えを思いつくまで、市場の需要と供給の原理は1000年も待っていてはくれない。

そして、最後は、『サピエンス全史』(あとがき-神になった人間)からの引用である。

人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進化してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいのかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのしあがった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に合わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでも決して満足できずにいる。自分が何を望んでいるのかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?

私たちにはこういう面があることは、どうやらすべての議論の根本になるようだ。


この本を紹介して下さった読書会のみなさんありがとうございました。




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番外 第九演奏会

2021年12月24日 | エンタメ
74 〜81音楽の経営術」で紹介した指揮者、尾高忠明さんが第九演奏会でタクトをとります。

名演が期待されます。
詳細は、以下。



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163 近未来からの風#2 状況と感じ方

2021年12月18日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 八ケ岳 連峰の東の中央付近 みどり池登山口

いつの時代でも、未来は予測できないものである。
しかし、現在から見通す未来は、これまでの「未来」と違うのではないか。

それを私たちは予感しつつあって、各種の世論調査で「将来は今より良くなる」と答える人が少ない。
下の図は「18歳意識調査」(日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査))である。

図1 Q あなた自身について、答えてください。


図2 Q 自分の国の将来についてどう思っていますか。


この年代(18歳)に特化した調査だが、同じ傾向がみられる。
調査は10年以上前のものだが、この傾向は大きく変わっているとは思えない。
少なくとも現在は30歳前後のこの世代の18歳現在には、近未来からの風を心地よく感じていない。

これらの結果は、もちろん学校教育の責任ではない。教育を含めた社会の実態とそれに伴う空気感の表れと言えるだろう。

ところが、この国際比較の中の低調さに比して、別の見方で日本を見ると、GDPは世界第3位であり、エネルギー消費は世界第5位である。人口は世界第11位であることを考えると、日本国民一人あたりは一般に豊かで、贅沢にエネルギーを使っているということになり、ハッピーであっても不安な条件ではないのである。

この点が興味深い。人心と経済統計上のデータとのかい離である。これも今日の問題といえるだろう。
(ちなみに幸福度のランキング(これも基準によるのだが)は50位にも入っていない。)

以前にも紹介した学習指導要領(高等学校 総則)の記述、
 
今の子供たちやこれから誕生する子供たちが,成人して社会で活躍する頃には,我が国は厳しい挑戦の時代を迎えていると予想される。生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会構造や雇用環境は大きく,また急速に変化しており,予測が困難な時代となっている。

という「見通しのつかなさ」をすでに私たちはブルーな気持ちとともに共有しているのかもしれない。
早くも「近未来からの風」を感じながら、先読みをしているような。
何しろ、未婚者が、家族をもち子育てをする前提で終身保険に入り、住居には30年先まで続くのローンを組むのが普通なのだから、未来の変化は想定していない。

しかも、この風はすべてがグローバルな国際情勢と連動して吹くもののと分かってしまうからなおさら無力感に陥りやすい。
その結果、「自分で社会を変えられると思う」18歳が極めて少ないことにつながっている。

だだ、ここで疑問がわく。
日本より積極的で、楽観的な国も、グローバルな国際情勢にあって、同じ条件下であることも多いことである。
どの国でも、「厳しい挑戦の時代を迎えていると予想される」のである。
むしろ日本はこれまでの努力によって、有利なこのも多いはずだ。
そのわりに、18歳(たぶん私たちも)の自己肯定感は何でこんなに低いのだろう。

もしかしたら、考え方、感じ方の問題のようにも思う。
空気を感じ過ぎ、風の読み過ぎているのだろうか。
もし、そうだとしたら学校教育の課題でもある。

次回は、風の源をつきとめたい。



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162 近未来からの風#1 プロローグ

2021年12月05日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 八ケ岳。 最近はアプリをつかって山行もデータ化でき,道迷いの心配が減るのですが、山中までスマホ見ながらというのはどんなものでしょう。

再開します。
また宜しくお願いします。

しばらくのあいだ、“これからの教育(学校教育が中心になるだろうと思いますが)”についてつれづれに考えていきます。
馬鹿げているほどの大きなテーマで、書くことに抵抗感もあり、恥ずかしさすら感じますが、勝手に“登らざる得ない山?”の気がして書き始めます。

それは、もちろん社会の未来像の見えなさにかかわります。
そのことは、戦後、未来社会を想定して更新してきた学習指導要領にも「予測不可能な未来社会」という表現が率直に述べられているぐらい有識者にも知りえないことのようです。

しかし、私たちは教師の立場上、「君たちの未来は予測不能と言われています」という未来観では、教育活動に責任がもてません。未来のことはわからない一方で、20世紀の初期に作られた学校の条件のまま、これまでの文化伝統を教科書に沿って規定の時間の授業で教授するということを続けていっていいのか、そんなことも感じます。

また当面必要そうな英語教育やICT教育ということですら、精度高い翻訳機の開発が英語教育を、人工知能の進歩に対応するための技術の更新がICT教育を、そのありかたの根本をすぐにも変えてしまうかもしれません。

そして、職員室の窓から外を眺め一瞬現実から離れた瞬間にも、かつてメモした先輩の教師が語った教訓が「今現在には響かないあ」と感じたり、教科道徳について、政治的な議論を抜きにしても「ちょっと違うなあ」と思ったりすることがないでしょうか。
風は私たちの中にも感じられはじめている気がします。

近未来からの風は、コンフォータブルな肌触りのまま、コロナ感染で消極的になってる社会や街に吹き、大事にしてきた何か風化させてつつ、変化を強いるように思います。

そして、そういう中でもネイチャーとしての人間は生きて行くわけだし、当然のこととして営みとして教育は続いていくことと思います。

さて、教育はどうデザインされるべきなのでしょう。近未来からの風の中で。

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