諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

42 「聴く」哲学

2019年08月25日 | 
写真)塩見岳山頂
 
 
かつて校内で読書会をしたことがあり、同僚が紹介してくれた本です。
 
鷲田清一『「聴く」ことの力 -臨床哲学試論』筑摩書房
 
哲学とあると難しそうですが、いいなぁと思う部分がたくさんありました。
その一部です。
 
 
「語る、諭すというという行為でもなくという、他者のことばを受けとる行為のもつ意味である。」
 
「聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場を劈(ひら)くということであろう。じっと聞くことそのとこの力を感じる。」
 
「人間が半分つぶれた虫のように地面でもがくことになるような類の衝撃を受けた人々は、自分の身に起こっていることを表現する言葉がない」
 
「苦しみの語りは語りを求めるのではなく、語りを待つひとの、受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれ落ちてくる。つぶやきとして、かろうじて。」
 
「(注意をもって聞くこと)は、もっとも高度な段階では祈りと同じものである」(ヴェイユという哲学者の引用)
 
 
 
最近、教育相談をする分掌にもあり、含蓄のある文章を紹介しました。
 
「他者の自己理解の場を劈(ひら)く」を助産する、その傾聴の姿勢は祈り、と説いている。

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41 子ども時代の意味#8 共生のはじまり

2019年08月18日 | 子ども時代の意味
 ある村で子どもが産まれた。
母子とも「大丈夫か」と今父親になったばかりの青年が今まで感じたことのない気持ちになっている。

 こんな時はねえと言っておばあちゃんは腕まくりをして働く。
無口だったおじいちゃんが「どれどれ」と言って読んでいた新聞を畳んで赤ちゃんを見に来る。

 近所の人もニコニコしてお見舞いにやってくる。「おめでとう。」
お祝いも届く。郵便配達の人までいつもと違う。
組合長さんもやってきて「ああ、この子は将来村長だな」とか言っている。

 子どもが産まれると家や地域の雰囲気がかわる。

 無力な赤ちゃんが生まれるということは、周りを変える。
それまで、子どもの座?にあった子は、おにいちゃん、おねえちゃんに。「若い衆」は、家長をめざすようになるし、娘は母になるし、父母は祖父母へとシフトチェンジしていく。組合長だって責任感が増す。

 そういった具合に赤ちゃんの誕生はドラマティックに周囲に影響する。

 そんな存在だから、両親のみならず周囲のみんながこの子を可愛がりたいし、将来の教育にも関心をもっている。
自分の大切にしてきたものをこの子の紹介したいと無意識に思う。自然な感情として。

 後年、この赤ちゃんは、隣のお兄ちゃんにザリガニ釣りを教わったし、お姉ちゃんに字の書き方を教わった。おじちゃんにトラクターに乗せてもらい、組合長からお祭りの太鼓の仲間に入れてもらった。そしておばあちゃんに料理の手ほどきを受けた。

 子ども時代は確かに自由な空間のようだが、周囲の人たちの愛情(場合によっては軋轢)とともにダイナミックに中身が構成されていく。
たぶんこのことは古来かわらない自然な教育である。

 子ども時代というのは周囲の人々と共鳴しながら一緒に生きる黙示的な文化性をさかんに身に着ける時なのだろう。


 



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40 子ども時代の意味#7 不思議な時間

2019年08月11日 | 子ども時代の意味
(写真)コマクサ

夏休みだからではありませんが、教育と迂遠な話です。

 
 人の一生、ライフステージのどこを切っても、時々の特徴があるから「子ども時代」だけを特別なものとするのは不自然ともいえる。
昨今はキャリア教育の中で「子ども時代」は次のライフステージの準備期間のように扱われることすらある。

 たぶん、子ども時代を特別な時期と考える思想は、ルソー以降なのではないかと思うが、それ以前だって大人は子どもを可愛がっていて、理解できない行動をとる子どもはどう考えても特別な存在だっただろう。
そもそも近代以前は乳幼児期の生存率が極端に低かった。そういう意味からも子どもは単に「大人の準備段階」ではなかったはずだ。 

 霊長類の研究者から見た人類は多産で子どもが成人まで育つ確率が低いことが特徴だという。出生から長い年月養育が必要であり、青年期に入っても、肉体的に完成されず労働の主力でもなく、家族をもつこともできない役割の不明確な存在だったようだ。
チームとして集住する中で役割が曖昧な時間が子ども時代として長く存在していた。

 さらに生物学者によれば、生物の多くが、弱肉強食の世界に生き抜き、種族の繁栄のため、出生後、急速な肉体的、性的な成熟があるという。つまりできる限り早く食糧の確保に奔走し、生殖行為の闘争のための準備に入る。
が、人間にはそれがそれほど明確にはないという。つまり差し迫った目的的な努力を強いられない長い時間があるというのだ。

 人間の子ども時代というのは大人への直線的な準備の過渡期ではなく、生物の成熟として「定型」といった規定もなく、本人や周囲や社会がその中身を決めうる時間として子ども時代がある。

 その時代を タナカは野球をやり、スズキはスキー学校に行き、ヤマダはミニ四駆に興じたりしている。(もちろん他にいろいろ)

 動物的の本能的で生理的な成長に対して、それとはおよそ無縁な文化活動を行っているというのはなんとも人類は不思議な存在だ。

 裏を返せば、描くべき教育の中身の自由度は大きく、大きいが故に悩みも生じる。
 

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39 子ども時代の意味#6 感覚質の蓄積

2019年08月04日 | 子ども時代の意味
(写真)夏のテント場で。三伏峠。

 

 

 

子ども時代のことがどう広がり、それ以降とどうつながっていくのか、そういうことを考えようと思って物語みたいなものを書いてみました。

それが読んでくださる方にどう伝わるかは心配なものです。こんな文は普段は書きません。

 

要は、子ども時代の経験は線で引っ張ったようにその後とつながっているのではなく、経験から得た自分なりの質感をともなった感覚として保存されていくものであること。そしてそれが子どもたちの成長を音もなく後押ししているだろうという感じ。子ども(大人も)の成長のエネルギーはこの感覚質なのではないか。

 

たぶん、それは、ジブリの映画『おもひでぽろぽろ』のように直接的な作用として小学校5年生の「私」が今の「私」を変えることは稀で、かつての経験の断片が感性の一部として意識されず、でも日常のいろいろな場面で自分を支えて(あるいは縛っている)いるのでしょう。書いた3つの物語は日常のルーチンから少し外れることで自分を支えている感覚質の起源が見える場面を想像しています。

 

子ども時代の意味は、子ども自身(大人もだが)、の成長を支えてくれる良き感覚質を得ることではないか。

 

小学校から当時の養護学校に転勤してきた時。一人ひとり違う状況の子どもたちに教育内容をほぼ手作りで考えなければならないことに呆然としました。学習指導要領に沿って教えることが先に決まっている小学校と全く違う。現在のように情報も多くありません。

実は子どものことが分かっていない。教科教育の座標軸がないと何が子どもたちの成長にとって大切なことなのか見当もつきませんでした。

 

また一方で、高等部の生徒に接すると、障害による特性ではないのに、「なぜかそれができない」という生徒が多いことに気づきました。いろいろなことに違和感があって生きにくい生徒です。

流行りの言葉でいうとトラウマなんでしょうが、ものごとへの捉えの印象があまりよくない、だから自己肯定感が低いまま生きている。

 

これもよく言われることですが、子どものころから客観的で公平性のある評価がされます。高等部になると人材的な観点で評価をされます。それはそれで否定されることもでもありませんが、子ども時代に得る一番大事なことはその後の人生を支えてくれる良き感覚質なのではないか、と思います。

 

以上、書いて見ましたが、何しろテーマが無意識の中のものだから説明できにくい。理屈っぽくなりますがもう少し続けます。

 

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