諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

15 健康な学校#6 落としてはならないこと  

2019年04月21日 | 健康な学校
(写真)山ツツジ。


<font color="black">「健康な学校」について、
「呼吸がしやすく、細胞が生き生きして、食べ物もおいしく、身体も軽い。
そして、明日の新しい自分が楽しみになる。だから目標に向けて努力ができる。」

そういう場をつくる条件を4つ挙げた。

1 リーダーが子どもを可愛がること
2 子どもに向けた小さなファインプレーを大切にすること
3 子どもが主人公になる活動の大小の輪が重なること
4 子どものことを心に留める努力や習慣をもつこと

 改めて箇条書きすると、学校のみならず人のケアをするヒューマンサービス業には共通した方針に感じる。


 一方で、民間企業を想定したあるホームページから「リーダーの条件」というのを見てみる。

1 夢のある者、希望がある
2 希望のある者、目標がある
3 目標のある者、計画がある
4 計画のある者、行動がある
5 行動のある者、実績がある
6 実績のある者、反省がある
7 反省のある者、進歩がある
8 進歩のある者、夢がある

という。
 これが、そのまま民間企業一般の方針に当てはまるかわからないが、学校のそれとはずいぶんと違う。
アグレッシブで、強い意志を持てという。厳しいビジネス界で戦う心構えであろう。それは理解できる。

 しかし、私たちからには違和感がある。強すぎて何かを見落としてしまいそうな感じ。
こういう考えで例えば保育園経営などを行うと、少し恐ろしさすら感じる。何かが落ちてしまいそうな。

 裏を返せば、教育(ヒューマンサービス)には意識や計算では計りきれないことが大きいのであろう。
 その自明なことをしっかり認識して、独自のユニークな経営をしないと基本となる「健康な学校」が損なわれる。
 可愛がるとか、心に留めるとかいった見えにくく、評価もしにくい領域などを含んで。

 また、学校も校務や雑務で忙しい。ライフワークバランスだし、作業を効率よくすることは当然のことだ。サクサク進めたい。

 だがその中でも「心の中で名前を読んであげる」ような努力を確保しないといつの間にか子どもの回りから酸素が少なくなってしまうのではないか。  

(シリーズ 了)



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13 健康な学校#5 名前を呼ぶ時間

2019年04月14日 | 健康な学校
(写真)八ケ岳


私立のミッション系の学校に勤めていた時、その学校独自の研修が行われていた。
講師は神父さん。
聖堂のとなりにある木の壁の部屋で着席して待つと、陽気な神父さんが親し気な笑みを浮かべて入ってくる。
「はい、こんにちはっ。」
その雰囲気で労をなぎらてもらっている感じ。
 先生達のほとんどはクリスチャンではないが、毎回の講話にはそれほど違和感はない。なんだかすっきりした気分になる。

 そして、今でも印象に残っていることは、講話に入る前に必ず、
「心の中で子ども達の名前を呼んであげてください。」
という時間をもつことである。目を閉じて沈黙の時間だ。
たぶんわすか5分ぐらいだったのだろうが、かなり長く感じた。


 別の話。
 自宅に20年以上前に人からいただいた西洋画の複製が架かっている。
 モンマルトルの丘から市街地を眺望した画だ。実はフランスの風景画で少し洒落ているな、という印象だけで20年暮らしてきた。もともの派手な画ではない。

 ところがある晩、なんとなく寝付けず、仕方なく深夜照明をつけ起きていると、ふとこの画がいつになく目に留まる。「そうだ、「ユトリロ」だったな」。忘れていた。
 で、腕組みをしつつ画をながめると、その画家が画に込めた力のようなものが伝わってくる。

 絵というのは、そのアングルで第一印象が決まる。しかし、その画と一体化?するまで待っていると色づかいやタッチの動的な感じでその画家の存在が感じられてくるときがある。内実が伝わてくるというのか。
「あー、そうだったのか。」
20年間申訳かなった。ずっと一緒だったけど少しも見ていない。


 大したことでもないように思うが、私たちは平気で見ていないものをも見ていると思い込んじゃうもののようだ。
 昨晩も使ったいつものご飯の茶碗の模様が思い出せるだろうか。「ライン」に夢中で下車する駅のアナウンスを聞き逃したことがないだろうか。


 だとすると、校務や事務作業に追われて子ども達をきちんと見られているのか、声を聴き落としていなかっただろうか。

 もしその懸念があるとしたらきちんと子どもを想う時間を意識的につくるべきなのであろう。それほど私たちには元来見落としが多い

 健康な学校に行くとおしなべて先生同士の仲が良いように見える。その雰囲気で日ごろから子ども達のことを話題にし、先生同士がお互いに「心の中で子ども達の名前を呼んであげる」時間を設けている。


 

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11 健康な学校#4 授業の流通

2019年04月07日 | 健康な学校
(写真)メンタルヘルスの先生が、「たまには仕事を忘れて、ハイキングでも行くといいです」なんてよく言われますが、新緑の径を歩くとそれは本当のようです。


 総合的な学習が始まった時、ある大学の付属小学校を見学した。
それぞれの教室の様子は廊下から覗いてもバラエティーに富んでいて面白い。

 あるクラスは、田植えの準備、あるクラスは模型飛行機づくり、あるクラスは模造紙に恐竜を大きく描いたりしている。
 付属ということもあるのかもしれないが、エネルギッシュで個性的だと感心した。
 子ども達は興味津々、集中を超えて熱中している。違う授業なのだが何か共通したいい表情だ。

 特別支援学校でも時々こういう状況が起きる。別に意識して申し合わせている訳でもないが、それぞれ別のクラスが同時に充実した授業を行っている学年やグループがあるのだ。


 優れた授業をするのは授業のうまい教員が行うのだがら、個々全員が研鑽をつんで授業の名人を目指すべきである、と一般に考える。
 優れた先行実践にを研究したり、進んで研究授業をおこなったりする。それを怠らないように努力する。

 ところが、ある時、授業のイマジネーションの源は蓄積した知識だけでないことに気が付く。他のクラスや他の学年の授業の「感じ」である。それは、具体的なテクニックや教材だけではない刺激のようなものも含む。

 研鑽を積むことで授業がうまくなる方向を縦とすると、授業の内容や雰囲気や熱意を共有しながら授業が充実していく横方向も大きいと感じる。
 別の言い方すすれば、縦方向による「授業の蓄積」と横方向の「授業の流通」とが両輪となって学校全体の授業力は向上する。
(つづく)




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09 健康な学校#3 夜光虫たち

2019年03月31日 | 健康な学校
<写真>山で桜花を見つけるとまさに特別な存在です。これに魅せられた古人が街に連れていってお酒を飲んで愛でたのだと確信したりしますが、どうなのでしょう。

 時計を見るとそろそろ退勤の時間である。
 教頭先生を助けて、施錠を確かめるべく、懐中電灯を手に校舎を一巡する。

 そうするとところどころの教室に「夜光虫」たちがまだいて、一心に作業をしている。

 近づいて、覗き込むと、給食のおかずの写真カードの周囲にフェルトのような生地を両面テープで貼ろうとしている。メニュー紹介カードを、生徒自身が手を伸ばして取ってもらいたい。そのために、手のひらに過敏のある子も考慮しつつ、取りたくなるようにしているという。
「先生、ここにフェルトが4色あるですけど、献立をどんな分類で4色に分けますかね」
と言って、腕を組んで考えている。

 次の夜光虫は、修学旅行の勉強だと言って行く先の水族館の大きな魚の張りぼてを作って、色塗りにかかっている。
「いいでしょ」なんて言っている。戸締りにきたのに。
 これが明日、子どもたちの前で泳ぎ回り、修学旅行の期待感を高めるのだろう。

 つぎの部屋では、車いすを前に2人で話し込んでいる。
 座面の角度も背もたれの角度に合わせて傾斜をつけないと体に緊張が入りやすい。でも、顔がやや上を向くので、テーブルの上のものが見えにくくなる、と言っているようだ。たぶんそのうち理想の姿勢が作られる。

 ようやく、職員室に戻るとさっき片付けを初めていた先生が何かが気になってハサミで画用紙を切り始めている。
 家に持ち帰って深夜、試行錯誤する人もあるだろう。


 小さな(目立たない)工夫環境づくりをいとわない教員が多いことは学校として誇るべきことである。その努力が子どもたちへの教育の内実づくりそのものだから。(もちろん残業を勧めているのではない。)


 彼らには大きな声の評価いらない。ただ、静かに同僚に関心をもたれている、たぶんそれだけでいいはずだ。
 しかし、そういう目立たない努力は、何かに追われている感じでいる学校では意識されにくい現状がある。


 翌朝、夜光虫たちのいた教室は活気のある学びの場に変わっている。そして、若い先生はその一連を見ている。
 (つづく)



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07 健康な学校#2 かわいがる

2019年03月23日 | 健康な学校
 教育行政に携わっている時、たくさんの学校へ行って校長先生とお話しをした。
 どの学校の校長先生も当然、組織の長の立場だから、用件に適格に、理性的に話される。

 この日は病院に併設する特別支援学校である。
病院の長い廊下をコツコツと歩きながらの校長先生との会話もその「校長先生」の話口調だ。
学校の課題、病院の実情、入院している生徒のこと…。簡潔に、一定の調子で。
「そうですか」「なるほど」「はい、わかります」…。こっちも職制として頷く。


 ところが、である。
角を曲がったところの小さな教室に入り、数名の子ども達が集まってくると、

「おはよう! 〇〇さん、△△さん、□□さん、…、それでみんなねー、この間の〇〇のことだけどね…。」

と話し始める。(さっきと違う…。)

 生気に満ちたオーラが見がみえるほど全身が雄弁に見える。
 引き込まれて、子ども達の表情もぐっと明るくなっている。その場にいた先生もそのオーラの中にいて子ども達と同じような気分になっているように見える。

 ベッドサイドで授業をしいる子ども達も、重度の障害で言葉のない子ども達も同じように、全身で歓迎し、かわいがっていることが心地よく伝わってきて、担任もこちらも笑顔になってしまう。


 エレベータの中で、すでに一定の調子に戻っている校長先生に、そのことを聴いてみると。
「そりゃ、無意識だよ」
と少し照れている。



 可愛がることは他の職員にも共鳴していく。単純なことのようだが、なんだか文字による「学校目標」なんかよりずっと大きな学校の理想を学校長が伝えているようにも感じたりする。

 もちろん校長先生だけではない。可愛がるセンスを備えたサブリーダーが、酸素の多いグループを作っている例をたくさん見てきた。  (つづく)


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