諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

138 「ズレ」を考える #11 中間まとめ (補足)

2021年05月30日 | 「ズレ」を考える
前回の道の途中、振り返った写真です。種池山荘、立山、剣岳

(まとめの補足です。要旨だけ箇条書きしました)
〇 5感によって脳へ入力された情報は、筋肉によってのみ出力される。ところが、5感と脳との間、脳と筋肉の間には、ズレが生じることがある。これがはなはだしい状況になると障害ということになる。

〇 人類は、著しく発達した「前頭連合野」をもち、脳の中で、空想したり、想像力することができたから、夢想した内容と現実とのギャップを感じるようになった。

〇 サルトルが 「人間は現在もっているものの総和ではなく、彼がまだもっていないもの、これからもちうるものの合計である。」といったように、今ある自分とイメージの先にある未来の自分の中の自分とを同時にもっているということだ。

〇 教育はこの未来の自分を意識しやすい方向づけをすること(目標の設定など)だと考えると、ビゴツキーのいう「最近接領域」は未来へのズレを領域という形で子ども成長段階に応じて計画的に設定してあげるべきだとう考えは、意図的な教育として理論的に説得力がある。

〇 また彼のいう、その時に行われる学びは共同体の中での啓発し合うことで促進されるという。友達と未来の自分たちに向かって、共に頑張ることを奨励している。

〇 一方、ヘルバルトは、一斉授業の中で、教師主導の教授を突き詰め、子ども達の認識を揺さぶり、それぞれが思考して新しい認識を得る方法を探求した。

〇ヘルバルトの教授方法は、国民教育のさまざまな制約のある中ではあったが、学校教育の標準化に役立った。

〇 そして、その授業(教授)を積み重ねることで、「教育的教授」を主張した。その中心目標を「品性の陶冶」という道徳的理念でまとめている。

〇 日本に持たらされた「5段階教授」という方法論が、「教育的教授」として効果を発揮しながら「品性の陶冶」へ高揚していくのだろうか。

〇 そもそも、特別支援教育の立場でいうと「教育的なこと」といった時、言葉では表現できないだけど、存在するというものを多分に含んでいるものである。教科書という文字媒体を主たる教材として、座学を中心にした教授の方法には限界がある気がする。


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137 「ズレ」を考える #10 中間まとめ

2021年05月30日 | 「ズレ」を考える
道! 爺ヶ岳へ 後立山連峰の南西向き角地?にあり、特に剣岳、立山、鹿島槍ヶ岳、針ノ木岳が一望できます。種池山荘から。

ここまでを振り返りつつ。

ズレている感覚をもって生きているのは人間だけかもしれない。
それは人間の特徴であって、必ずしも特長ではないのかもしれない。
サルトルは、
「夢は、閉ざされた想像界の完璧な実現である」
という。
明日の自分を想像することで、今の自分のありようが規定される。
現在の在り方に対して、想像は作用し、それは単なる夢としてけして無形のものではない。
だから、明日(未来)をどう想像するか、によって人は一人ひとり今の選択肢からちがってくる。
今の先の想像は切実な問題ともいえる。

この今の自分と、未来の想像上の自分と間の隔たり、このことを本シリーズでは「ズレ」としている。

教育の定義はさまざまあるが、
「ズレ」の先に子ども達を案内するし、善いイメージの自分像を提示してあげること
という言い方もできるだろう。今の自分を投げ込むに値する未来の自分像である。

特別支援教育に携わっていると、このことにが日々の教育活動の中でたくさん実感できる。
パズルができるようになること、ポストまで歩けること、一人で給食を食べて片付けまでできること、コンビニで買い物ができること、という目標がすなわち未来の自分像ということである。そして、それが達成された時、新鮮な喜びが、子ども達にも教師にも表れる。

たぶん、学ぶ意味とは、新しい自分と出会うことなのではなかい。そのことは生きる喜びへとつながっているはずだ。
そして、新しい自分へのテーマ設定とそこに向かう過程を上手に支援するそれが教師の役割なのではないか。

そして、それが子どもへの支援である以上、ズレは「成長の途上のズレ」である。そこで、「最近接領域」というステージの発想を認知心理学がもたらしている。ズレの設定には順序性や共同性が必要でありながら、「学習は発達に先んじて組織されるべきである」というビゴツキーの主張は、子ども達の「成熟を待つ」という発想から解き放って実際の指導場面でいかされている。
これらの原理や原則にしたがって学校が作る計画を教育課程ということができるだろう。

ところで、一般に教育課程というと、小中学校、高等学校ともその主たる部分が、各教科の指導内容である。特に中学校以降は教科担任制になり、教科の系統的学習が続く。
「(ヘルバルト主義の)「5段階教授」は一斉授業の手続きとして、全国の教室に浸透し、今日まで続く定型的な授業の基本的構造を形成している」(佐藤学さん)というが、世界各地の国民学校の設置の理念になったヘルバルト主義は「一斉授業を効果的に実現するために生徒の管理を教育課程に組み込むことも意図した」ともいう。
果たして、この教科領域ごとの一斉授業方式がヘルバルトがめざした「品性の陶冶」にどうつながっているのか、また、国民学校の理念が変化の激しい社会環境あり、子どもとその家庭も多様性が増している中にあってこの方式がどう対応できうるのか、そんなことを考えたい。




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136 「ズレ」を考える #9 教授の中で

2021年05月23日 | 「ズレ」を考える
道! 木道 植物の保護のため木道が整備されているところは多いです。これは丹沢 檜洞丸頂上付近です。1000mの急登後一息。

19世紀の初め、ドイツの教育学者が、
「教授の無い教育などというものの存在を認めないし、逆に、教育の無いいかなる教授も認めない」
と言った。さらに
「この「教授」こそ「陶冶」である」
と加えた。
この人は教授の可能性を信じた。
教授こそ子ども達の能力や才能を開花させるものだと。
このヘルバルトの強い思いが、今日の日本国中の授業の定型につながることになる。

その学派にあったハウスクネヒトという人が明治中期に東京帝国大学に招聘され、ヘルバルトの「5段階教授」(正確にはお弟子さんがまとめた)を勢力的に提唱する。
これは子どもの興味に視点を置くのではなく、教師側に視点を置き、教師の教授活動の手順を示すものとして明確で広く普及した。
5段階の中身というのは、

第一段階 準備 「教授をはじむる前に、新たに教授せむとする目的を予告する」
第二段階 提示 「新事物を提示する」
第三段階 比較 「類同もしくは反対の事物顕象を提示し相比較判断せしむ」
第四段階 統合 「個々の念より総合したる概念的結果を純正明瞭にする」
第五段階 応用 「新例を与えてこれを説明せしむ。試問も含む」

表現は、文語調だが、その意図はけして古くない。
「「5段階教授法」は一斉授業の手続きとして全国の教室の浸透し、今日に続く定型的な授業の基本的構造を形成している」(佐藤学さん)としている。

この方法が普及した背景には、日露戦争に戦勝して「一等国」入りした機運の中、「学制」発布後の教育システムが整い一斉授業の在り方も刷新する必要があったのだろう。
ちなみに1900年「小学校令」により学年制が普及、均一内容、均一時間が整った時期でもある。
そこでこの「最新式」の「5段階教授法」が多くの教師たちに支持されたのだろう。
ヘルバルトの「逆に、教育の無いいかなる教授も認めない」と言い放ったことが、教師たちの心をつかんだのではないか。近代の機運と共に。

均一空間、均一年齢、均一時間、均一内容の学校の条件で、教授の在り方で子ども達に思考の揺れと自由を与え、陶冶(人間形成)につなげる教育をめざしたのには各地の教師たちの志が見えるきがする。

ただ、少しありきりなことをいうと、120年前のヘルバルトの授業論が今日も違和感が少なく感じられること、学校の均一的な条件も本質的には当時とさほど変わっていない、そして、求めれるスペックだけが高くなっていることこそ問題であるということだろう。

参考:佐藤学『教育の方法』岩波書店
   「5段階教授」の部分は、HP「Study further」 https://www.hpymt.net/tsu/ 






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135 「ズレ」を考える #8 言語の外と内

2021年05月16日 | 「ズレ」を考える
道! 仙丈岳まであと少し。南アルプスの女王といわれ、山頂から広がるカール(右がわ谷間)も優雅に感じます。

もちろん言葉(文字を媒介とした場合でも)そのものにも、深い世界がある。
単なる、意思疎通の道具ではないではない。
言語を取り交わすうちにヒトは、一見"外にある言語"が、実は内面の発達に役立っていることを指摘したのが、かのヴィゴツキーである。
この説は当否を超えて、現場の私達にも興味深い見解である。改めてその説を読んでみよう。
佐藤学さんの説明が分かりやすいのでそのまま引用させていただく。

ヴィゴツキーは言語をコミュニケーションの道具としての「外言」と思考の道具としての「内言」に分けています。そして、ピアジェの「自己中心的な言語」を批判しました。ピアジェの「自己中心的言語」の考え方によれば、子どもの言語発達は独り言の「自己中心的言語」から出発し、その言語が社会化されていく過程をたどります。しかし、ヴィゴツキーは子どもの言語は最初から社会的なものであると主張します。子どもはコミュニケーションを通じて社会的言語を「内化」するというのです。ヴィゴツキーによれば、発達はまずコミュニケーション(外言)という社会的過程をして成立し、次にその「外言」が「内言」として「内化」される心理的過程として展開することになります。
 そこからヴィゴツキーの発達理論にとってもっとも重要な概念である「発達の最近接領域」という考え方が導き出されます。ヴィゴツキーは通常考えられている「教育と発達の関係」について、発達の後を教育が追いかけていく関係であると批判します。
 ヴィゴツキーは「一人で到達できる段階」(通常言われている発達段階・言下の発達水準)と「教師や仲間の援助によって到達できる段階」(明日の発達水準)との間の領域(ゾーン)を「発達の最近接領域」と呼び、教育と学びは「発達の最近接領域」において行われるべきであると主張しています。
 「発達の最近接領域」は学びの可能性の領域であり、教師や仲間との対話をバネにして学習者が背伸びとジャンプを行う領域です。旧来のレディネス(発達段階)の考えでは、学習者は一人で到達できるレバルに合わせて教育することが求められていました。それに対して、ヴィゴツキーは学びを個人主義的な活動として認識するのではなく、協同で社会的な活動として認識し、教師や仲間の援助によって到達できるレベルで教育すべきだと主張しているのです。


佐藤学『教育の方法』左右社

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134 「ズレ」を考える #7 見えないボリューム

2021年05月09日 | 「ズレ」を考える
道! バスが入らなかったころ、この道の先、徳本峠を越えて上高地に入りました。今ではこの道はクラシックルートと呼ばれています。中間地点「岩魚留の小屋」附近。(行かれないので写真掲載も寂しいのですが。)


ベートーベンは田園交響曲で「田舎に到着したときの愉快な感情」を音楽で表した。音楽は、音によって情報を伝える。このことは、言葉(文字)にはできない。

料理についても、味覚によって感じられる美味しさは、言葉や文字では表せない。タンレントさんが「食レポ」と言って、どんなに言葉を選んでも(あるいは視覚として、美味しさを表情で示しても)、味覚としての情報は絶対代替えできない。

ところで、前に述べたように、ヒトという動物は、系統発生をくり返すうちに、ある個体(ある時代のある人)がもった想念を、言葉を記号に置き換えた文字によって、他の任意の個体にトランスポート(移送)するという、奇跡的な技術を身に着けた。
いろいろな脳の中の情報は文字に置き換えられるものに限って、時空間を超えて持ち出せることになった。

その結果、過去の文化遺産の蓄積を文字として後世に残し、現世代はそれを解釈、発展させ、人類の福祉のために提供することが可能になった。
科学技術は特に効率よくそれを可能にした。科学技術史年表などを見ると、その文字情報をバトンリレーしながら、科学技術は加速したことが分かる。

(その蓄積は簡単に見られる。例えばGoogle scalarである。試しに「内燃機関」と検索すると世界中の論文が16100件もヒットする。誰にでもオープンである。)

ついでに?言うと、有名なグーテンベルクの印刷術の発明直後、コメニウスは「学校は「印刷機」であり、子ども達は「白紙」であり、教科書は「活字」であり、教師の声は「インク」である」といって教授学を打ち立てた(17世紀)。教育にも文字のトランスポートを最大限利用できると考えた。現在も書籍が「主たる教材」(教科書)として定着しているから。学校教育は文字から学ぶことが基本である。

ところが、である。冒頭の例の通り、文字が再現できることは個人の想念の限定的ものに限られていることには変わりがない。
反対にいえば、個々人は、この奇跡のトランスポートに乗せらない想念をたくさんもっている。

(長くなるので省くが)実は、子ども達は胎児以降から、この言葉(ましてや文字)では表せない他者の表現によって、自己を見出していく。当たり前のことである。

久しぶりに祖父母の家に行くと、抱きしめられ、頬刷りされた。勉強を頑張った父親が握手してきた。友達が傘を貸してくれた。近所のおじさんに怒られた…。ま、なんでもいい。

これらが、どういう意味をもつのか、言葉(文字)では説明できない。でも。確かに意味のある何かがある。
「教育的なこと」といった時、言葉では表現できないだけど、存在するというものを多分に含んでいる。
もしかしたら、教育という仕事はこの言い表せないことの存在を証明するためにやっているのではないか、と思ったりするがどうなのだろう。

特に特別支援教育では、言葉(文字)以外のもので勝負することがあまりに大きい。

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