諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

212 伯父さんのネクタイ

2023年08月13日 | エッセイ
間ノ岳から北岳へ 深田久弥さんの「この北岳の高潔な気品は本当に山を見ることの好きな人だけが知っていよう。」という一節を思い出しつつ出発

伯父さんは農家である。
むかしから、東京で親戚が集まるとひときわ日焼けした顔で大きく笑いつつ、都市部に住む親戚のよもやま話を黙って聞いていた。
そして、いろいろな場面できりっとしめるネクタイが不思議に似合った。

夏休み、伯父さんの農場に遊びにいくことがあった。
子どもだった私は納屋とか作業小屋の周りで従兄弟と虫取りやボール投げに興じていると、ずっと伯父さんは玉ねぎの仕分けをしていた。
翌日は、早朝から石垣の隙間の雑草をとり、トラックにたくさんの重そうなコンテナを積んで泥のついた長靴のまま街の市場に向かっていった。朝食は叔母さんのにぎったおにぎりを車中で食べるのだという。

その後も、害虫のこと、卸の値崩れのこと、台風や日照り、JAや他の農家との付き合い、人手不足、怪我をしたこと、開発によって山から獣が下りてくる被害も父経由で聞いていた。

こうした苦労が伯父さんのあの日焼けと重なった。

「そりゃ、仕事さぁ」

とすら伯父さんは言わない。

ネクタイの伯父さんは「家の方針」で農業をやることになったらしい。
東京育ちの伯父が戦時中の疎開で数年いただけのこの地域で農業をせよ、というほど「方針」は強かった。旧家制度の雰囲気が残っていただろうし、戦後の混沌とした事情もあったのだろう。

当の伯父さんは、そのころ世田谷区の大学に通っていた。
野球部の名ショートだったと父は自慢の兄について時々話すが、この若い伯父が、山の向こうの山村で鍬をもつ生活に入ることになった。

「あの頃はまだ戦後でなぁ」

で、実際今では想像もできない苦労があったようだ。
その後、ずっとその土地で農業をしている。

テレビで、
「畑に足を運んで、野菜(作物)にたくさん足音を聞かせてやることだねぇ」
という農家の方があった。
そういうことなのだろうと思う反面、農家はつらい。
野菜はいろいろな条件と手間がなければ出荷までこぎつけられない。
それでいて、そんな「足音」を聞かせたトマトであっても、人はそれが特別なトマトであるとは思ってはくれない。足音の数が卸値に反映するとはかぎらない。

伯父さんも、そうしたことを「そういうものだ」と受けいれながらずっとやってきたにちがいない。否、何とかやってきた、のかもしれない。

私も学校勤めをするようになったころ。
伯父さんの話し中に気が付くことがあった。
「百姓」という言葉である。
「百姓はさぁ」
「だって百姓だもんな」
叔母さんも、
「最近お父さん偉いのよ、「俺は百姓だ」って言うの」
と笑った。
少しの変化、でもその中に(僭越ながら)伯父さんのきりっとした格好良さを感じた。

「とにかく手間かけねーとトマトにならねんだよ」
とは言わないが、「百姓」の気分の中には、作物を育てることへの強さがある。


子どもたちもいろいろな条件の中で生きている。
何とかしてやらないと、とぐっと力を入れる時、伯父さんの言葉を思い出す。

「俺は、百姓だからさあ」

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211 保育の歩(ほ)#7 保育の「教育」

2023年08月06日 | 保育の歩
間ノ岳から北岳へ いわゆる天空の稜線を歩いて北岳山荘へ

保育指針によると、保育は、「養護」と「教育」とからなる。

養護…子どもの生命の保持及び情緒の安定を図るために、保育士等が行う援助や関わり
教育…子どもが健やかに成長し、その活動がより豊かに展開されるための発達の援助

と定義される。
つまり、「養護」は生命や情緒に、「教育」は発達と活動内容に依拠してなされる。
そして、「養護」が保育の基盤として、子どものあるがままを受入れる援助であるのに対し、「教育」は発達という軸と、活動の内容という軸とがあり、援助が「養護」よりも恣意的になる。
つまり、「教育」は成長段階に応じた必要な事々を子どもに求めるということになるはずである。

実際、保育指針の「教育」の項には、「ねらい及び内容」が掲げられる。
どう表されるのか、たとえば、「1歳以上3歳未満児の保育」の「環境」では、次のようである。

他の人々と親しみ、支えあって、生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う。
(ア) ねらい
① 保育所での生活を楽しみ、身近な人と関わる心地よさを感じる。
② 周囲の子ども等への興味や関心が高まり、関わりを持とうとする。
③ 保育所の生活の仕方に慣れ、決まりの大切さに気づく。

続いて、保育内容。

(イ) 内容
① 保育士等や周囲の子ども等との安定した関係の中で、共に過ごす心地よさを感じる。
② 保育士等の受容的・応答的な関わりの中で、欲求を適切に満たし、安定感を持って過ごす。
③ 身の回りに様々な人がいることに気づき、徐々に他の子どもと関わりを持って遊ぶ。
④ 保育士等の中立により、他の子どもとの関わりを少しずつ身に付ける。
⑤ 保育所の生活の仕方に慣れ、決まりがあることや、その大切さに気づく。
⑥ 生活や遊びの中で、年長児や保育士等の真似をしたり、ごっこ遊びを楽しんだりする。

「ねらい」と「内容」の関係については、解説書に説明がある。

子どもが生活を通して発達していく姿を踏まえ、保育所保育において、育みたい資質・能力を子どもの生活する姿から、とらえたものを「ねらい」とし、それを達成するために、保育士等が子どもの発達の実施を踏まえながら援助し、子どもが自ら環境に関わり、身に付けていくことが望ましいものを「内容」としたものである。

「ねらい」は子どもの姿像、「内容」は身に付けてほしいもの、つまり外にあるもののイメージである。

そして、「ねらい及び内容」のあとには、「内容の取扱い」がくるのも学習指導要領の形式だ。

(ウ) 内容の取り扱い
① 保育士等との信頼関係に支えられて生活を確立するとともに、自分で何かしようとする気持ちが旺盛になる時期があることに鑑み、そのような子どもの気持ちを尊重し、温かく見守ることとともに、愛情豊かに、応答的に関わり、適切な援助を行うようにすること。
② 思い通りにいかない場合等の子どもの不安定な感情の表出については、保育士等が受容的に受け止めるとともに、そうした気持ちから立ち直る経験や感情をコントロールすることへの気づき等につなげていけるように援助すること。
③ この時期は自己と他者との違いの認識がまだ充分でないことから、子どもの自我の育ちを見守るとともに、保育士等が中立となって、自分の気持ちを相手に伝えることや、相手の気持ちに気づくことの大切さなど、友達の気持ちや友達との関わり方を丁寧に伝えること。


以上のように保育所の「教育」から、「ねらい及び内容」「内容の取扱い」が登場し、その形式は、小学校、中学校、高等学校へと連なっていく。

しかし、一読して気づくことは、保育所保育指針は明らかにそれらの学習指導要領と雰囲気が異なっていることである。
雰囲気の違いとは、保育所の「教育」には、「育みたい資質・能力」に対して、子どもに使役するような表現が一切ないことである。
内容は与えるものではなく、導かれるものというような。

保育の目標に掲げる「望ましい未来を作り出す力の基礎」は、子どもと環境の豊かな相互作用を通じて養われるものである。(中略) 子どもの意欲や主体性に基づく実施、自発的な活動としての生活と遊びを通して、様々な学びが積み重なってやっていくことが重要である。(解説書)

「養護」の理念が、「教育」の側にみごとに浸透していると言ってもいい。



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