諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

223 保育の歩(ほ)#16スウェーデンの厚み

2024年01月28日 | 保育の歩
箱根八里(三島大社→小田原城) ここから東斜面にそって小田原に下っていきます。

そもそも保育所の目的は「子守」や「託児」だっただろう。
担った人たちは家庭やコミュニティでの自然に育っていく子どもたちの姿をイメージし、それに近づけようとしだろう。
それは近代の学校のもつ教育の機能的なあり方とは一線を画していた。
いわば「子ども(らいし)時間の確保」である。
そして、つかみどころのないそのイメージの中に子どもがいることこそが、子どもたちの将来の“大きなこと”になるように思われるし、実際そうだろう。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来に対して確実にできうることともいえる。

もちろん、保育所も社会的機関である。
行わる保育は意図的に行われ、説明と評価とがあるべきである。
しかし、逆に、その中でこそ漠然としたイメージとしての「子ども(らしい)時間」が確かな形となって見えてくる可能性があるのではないか。
そんな作為的な無作為みたいなことができるのかどうか、あるべき「子ども(らしい)時間」にむけて、各国の知恵を訪ねたい。

テキスト:
秋田喜代美/古賀松香『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』明石書店

スウェーデン 2
スウェーデンの保育はその質を様々な評価によって維持していることを述べた。
このシステムそのものは、必ずしも伝統的なものではない。

特筆すべきは、1990年代初頭における未曽有の経済危機に陥った際、政府がこれら独特な教育観を発展させる形で事態を乗り越えようとした点であろう。
すなわち、すべての国民が「学ぶ」ことによって情報産業や知識産業を基軸とした産業構造を支える「知識国家」を形成し、不況から脱出しようと目論んだのである。これにより、失業対策にかかわる教育的措置も含め、「いつでも、どこでも、誰でも、ただで」学ぶことのできる教育制度、すなわち生涯学習制度の構築が目指されるようになった。その過程で、当時の首相が「幼児期の教育こそ知識国家を形成する要である」とする教育論を展開して、生涯学習制度に保育を統合する改革を断行したことが、その後の保育改革の方向性を決定づけるものとなった。改革においては、保育を生涯学習の基礎に位置づける制度設計が課題となり、保育の教育制度への行政移管、学校法の適用、就学前学校”1教育要領の策定、就学前クラスの設置などが行われた。この結果、スウェーデンは保育と学校教育を統合したユニバーサルな教育制度を構築し、国際的に高い評価を得たのである
2000年代に入ると、学校教育のみならず保育にも普遍主義を貫くために、教育制度における学校教育との公平性を担保するような制度改革が図られた。


こんな、経緯がある。
こうした大きな教育政策の一環の中に保育の改革もあり、保育が生涯学習制度の中で機能しているのか、学校教育と連動しているか、また、これを機に多額の公的資金を導入したことも、多様な評価・管理の必要性につながっているのだろう。

ところが、その中でも保育が保育であることとして、その哲学の存在感を示しているところが興味深い。

一方、コーエン(Cohen ct al. 2004)によれば、スウェーデン保育における最大の特徴は、パダゴジー(Pedagogy)の本質的な要素が存在することにあるという。ペダゴジーとは、education-in-its-broadest-senseといわれ、学校教育などのフォーマルな形態のみならず、インフォーマルな形態を含み、包括的な人間形成のために行われる教育のことを指す教育概念である(Patie2002)。 ペダゴジーの概念がスウェーデンの公的な保育に導入されたのは1972年の保育指針策定の際である。
しかし、1998年に策定された就学前学校教育要領の中でも「就学前学校の活動は養護、ケア、養育、学びを包括する教育的(Pedagogy)なものである」と定義された。ここからは、時代を経ても、スウェーデンの保育カリキュラムの中心に息づくのはペダゴジー概念であるという方針が貫かれたことが理解できよう。
それでは、このような保育カリキュラムを支えるのは、一体どのような哲学と実践方法なのであろうか。スウェーデンでは1972年の幼保一死化に伴う保育指針の策定時に、ジャン・ピアジェの発達心理学、エリク・H・エリクソンの社会理学、パウロ・フレイレの教育実践などを学術的基盤とする保育実践手法を考案した。
それらは、「対話教育法」「テーマ活動」「ノーマライゼーションとインテグレーション」「チーム保育」「異年齢編成」「遊びの重要性」「両親との協働」などであり、現在の就学前学校における保育実践にも存分に反映されている。
また、保育が福祉から教育へ移管されたことに伴う 1998年の就学前学校教育要領の策定時には、これら伝統的な保育方法を基にしながらも、レッジョ・エミリア教育の哲学を反映した「文化と知識の創造者としての子ども」像を打ち出して、乳幼児期の学びにかかわる理論と実践を保育内容に盛り込んだ。つまり、従来のペダゴジー概念を核としつつ、就学前学校は子どもを主体として、生涯にわたり学びながら社会を創造していくような人間を育む場なのだということを広く表明したのである。

というのである。こうした厚みがこの国にある背景にあるのである。
ところで、
ペダゴジーとは、education-in-its-broadest-senseといわれ、学校教育などのフォーマルな形態のみならず、インフォーマルな形態を含み、包括的な人間形成のために行われる教育のことを指す教育概念である

つまり、家庭や地域の教育、そして学校教育とは分化する以前の教育を意図的に概念化しているのは注目され、そのつかみにくいところを「ジャン・ピアジェの発達心理学、エリク・H・エリクソンの社会理学、パウロ・フレイレの教育実践」に学んでいるのである。

1998年の就学前学校教育要領の策定時にも、保育の哲学がいかされる。
それは、その時とりいれたレッジョ・エミリア教育が、学校教育と一線を画するもののようだからである。

調べる余裕がなく、ネット情報を参照させてもらうと、

レッジョ・エミリア教育とは、イタリアの都市レッジョ・エミリアで発祥され、子どもが主体的に活動し、それぞれの個性を引き出すことを大切にした教育方法のひとつ」であり、
子どもそれぞれの個性を引き出す方法として「社会性」「時間」「子どもの権利」3つの教育理念を唱えています。
社会性:子どもの社会性を育むために、4名~5名のチームを作り、意見交換の中で活動を展開していく
時間:時間割やタイムスケジュールなどは設けず、長期的なテーマにチャレンジし、深堀していく
子どもの権利:子どもが主体的な活動を行うことができるよう、否定的にならず、子どもの権利を尊重する


具体的には4~5人の子どもたちのグループに「プロジェクト」を提案する。そしてそれを長期に渡って子どもたちが完成させていく。その間の子どもたちの様子を「ドキュメンテーション」の手法で記録しながら、子どもたちの主体的な活動を支援していくという方法らしい。

その特徴は、

レッジョ・エミリア教育方法と一般的な教育方法の違いは「教師の指示で動くのではなく、子どもたちが自ら行動する力」を大切にしている点

とあり、これは日本の「保育所保育指針」にも共通するものだという。
(以上は、「保育士バンク」HPから)


自治体レベルで積極的に推進できそうな、積極的なことをスウェーデンでは、国レベルでおこなっている。
もっとも、スウェーデンの人口は神奈川県より少し多い程度なのである。

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222 言葉の限界

2024年01月14日 | エッセイ
箱根八里(三島大社→小田原城) 峠から少し下ると芦ノ湖が広がります。冬場なので人影まばら この先が箱根の関所です。

保育について、テキストを追っていって気が付いてくるのは、保育ということの捉えきらないさである。
保育はそこに子どもあって、ある動きと、ある暖かさと、ある感触を伴って、保育者自身のある質感をともなった受け止めようもあるのだが、それは言葉では表しにくい。

保育という営みみたいなことを「保育」として決めて言葉にすると、なんとなくそれを手にいれたような気がしてしまう。
ところが仮にそれに「優れた」など言葉をくわえ、「優れた保育」とは、と問われたとき、誰もがすぐには答えられず、使い慣れた「保育」がいかに曖昧なものだったか実感してしまうだろう。

そもそも言葉には限界がある。
コーヒーという言葉は誰でも承知している。
しかし、おいしいコーヒーの味というと、もう言葉では説明できない。
ただ、おいしいというのみで、コーヒーを飲んだこと少ない人にはイメージも伝えられない。
味覚は言葉に変換できない。

モーツァルトは誰でも知っているが、モーツァルトのピアノ曲がいかに名曲なのかは、言葉では表現できない。
やってみるとひどく不器用な感じになる。

こんな例にもあてはまる。
向山洋一さんだったか、
「優れた教師が、各学校に一人必ずいる」
という。
この場合の「優れた教師」は、教員だったら、授業力があるのか、生徒指導に長けているのか、保護者との協調力があるのか、ある程度想像がつく。
しかし、実際はその学校の空気を吸いながら、ある程度の時間を一緒にすごして〝それ”が分かるのであって、とても言葉では伝えられるものではない。

ほんとうは言葉では表せないことも、なんでも便宜的にまとめてひとつの言葉にしているものである。
言葉でないと表せられないし、そうしないと社会的なやりとりが成り立ちにくい、そもそも思考も言葉によるから原理的に仕方がない。
が、そもそも言葉では覆えないことも多いことを再認識することは改めて重要ではないか。

保育所も学校も言葉や記号が求められる。
慣例的な言葉をさがしてデリケートな感覚さえもゆだねてしまう。
すぐにわかり得ないことも保留せず統計処理によって明晰にしようとするIT技術の活用も習慣になってきている。
このなかで、保育や教育も、容易に「さまざまなこと」が言葉に置き換わり身体から離れていく。

まずは「あるけど見えないもの」があること、「感覚の領域」があること、そしてそれをどう育んでいくのか、それがヒューマンサービス全般の課題なのだろう。
言葉が届かないことへのセンスと共有。

そういえば、幸福学という分野があるようだが、他の学問領域のように言葉や記号を積み上げ進歩させていくのが難しいようだ。保育にも似た感触がある。

以上のことは、宮城まり子さんの次に言葉によって触発されものです。
その言葉の中にあるものは、こちらの想像力にまかされいる。

私は彼等と共に泣き
また共に笑った
彼等は、ただ私と共にあり
私はただ彼等と共にあった

       宮城まり子    


※ この言葉、箱根峠に置かれていた石碑に刻まれたものです。
偶然見つけたのですが、ひっそりと置かれていてこの機会にとりあげました。




    





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