クニヨシの若い頃からの行動を追ってみると外見に見合わず強い決断力と行動力を伺わせます。
今から百年以上前に十七才で単身渡米する事は、彼にとって大きな冒険だったでしょう。 未知の地に行く事への興味と期待は、何よりにも大きな力に成ったのではないかと思います。
私が1970年9月2日にパンナムのボーイング747、ジャンボ・ジェットで羽田からサン・フランシスコに着いたときは、1ドルが360円、当時の大蔵省に留学の理由、目的を書いた書類を出して面接があってやっと許可が下りて外貨を得て、パスポートの他にも入学許可証とか胸のレントゲン写真も必要でした。 200ドルを持て船で横浜からシアトルに来たクニヨシは、どの様な手段をとったのでしょうか?
クニヨシの若い頃、アメリカはイーコール、「ランド・オブ・オポチュニティ」で彼がシアトルに着いた同じ年に約8400人の日本人が米国に移民しています。 現地で実情を体験したクニヨシは、限られた英語力で情報収集、費用を工面して実際に行動に移し、寒く濡れたシアトルをサッサと後にして、暖かくて仕事の多そうなL.A.に移りました。 ここでは当時の最先端技術、飛行機のパイロットに挑戦していますが、当時事故が多く危険すぎると判断して止めています。
クニヨシが、漠然とした好機の国、アメリカのウェスト・コーストでの数年の体験から、ニューヨークに移る事を決めたのも当然の結果だったのかも知れません。
From Left: Yasuo Kuniyoshi, Katherine Schmidt, and Dorothy Varian and Robert Laurent.
Ogunquit, Maine in 1922 or 23, Carl Zigrosser Papers, Van Pelt Library, U of Pennsylvania.
1919年(大正8年)にオガンクイットでキャサリン・シュミットと結婚したクニヨシは、30歳でキャサリンは21歳でした。 二人の結婚を巡ってリーグでも賛否両論で大きな話題になったそうです。 当時の法律で結婚によってキャサリンはアメリカ国籍を失い、親からは6年間も口をきいてくれない事になりました。
移民の国、アメリカと言われても移民してくる国によって差別があった様で、文化が未熟であると無意味な差別偏見で多くの人が公平平等に扱われません。
その当時のアメリカ東部では、まだ「ヨーロッパに行かないと一流の画家に成れない」と言われていた時代で、クニヨシ達はまだ見ぬパリ、ヨーロッパが、次のあこがれの地になっていました。 彼らの友達はほとんど既にヨーロッパを経験していた事も刺激になったことでしょう。
Yasuo Kuniyoshi, "Photographer on the Beach", 1925, Linocut, business card.
Collection of Dorothea Greenbaum, Princeton.
前置きが長くなりましたが、以上私なりに何故クニヨシが写真を始めたのか考えて見ました。
いずれにしてもクニヨシが彼の置かれた環境のなかで何時もその時代の最先端の事に強い興味を示していたかが感じられます。 そして1919年のキャサリンとの結婚後、スタジオ・カメラを買って商業写真家としての仕事を独学で始めたのも頷けます。 キャサリンはリーグの食堂でフルタイムで働きクニヨシはコマーシャル・フォトグラファーとして働き、ヨーロッパ旅行を目標に頑張ったのでした。
(訳註:クニヨシの使っていたスタジオ・カメラ=Korona 8x10 with a Goertz Dogmar variable diffusion lens.)