つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

壁の話

2015-09-04 00:50:29 | 日記
プリンターを買った。
お手本やらなんやら、コンビニのコピーやプリントアウト機能に走っていることが増えたからだ。

大きな機器を家に増やしたくないのだけれど、必要なものは仕方がない。
いろいろと探してみると、スキャンも両面印刷もWi-fi対応も付いているA4サイズの複合機が4000円もしない。

そんなものなのかと、その値段帯のいくつかの中からヒューレット・パッカードのものを早速注文する。
ヒューレット・パッカードがどうとかは一切何もないけれど、amazonの商品検索で一番上に出てきた、から。

電子機器全般に酷くひどく苦手意識がある私だけれど、アレルギー的に自分にバグが起こって、物事が無駄に進まなくなるのは避けたい。
こういう場合、少しでも躓くとその途端に心が折れて、「やっぱり初期不良を引いてしまったか…」と、もしかするとそうではないかもしれないのに、そう結論付けかねない。
事実、過去にはPCの初期不良などには当たったことがあるのだけれど、実際のところそれが“本物の”初期不良であったかどうかは既に闇の中である。

説明書を、一歩、いっぽ、と落ち着いて読み進めていく、丁寧に指示に従う。
最近の機器は、実に懇切丁寧な誘導をしてくれるのでありがたい。

無線接続と、ソフトウェアインストールのCD挿入口が私のPCにないことで少々戸惑ったけれど、HPのHP上からドライバはダウンロードすることができた。
プリントアウトしたかった請求書やお手本のスキャンとコピーまで無事にたどり着けた。
これで良し、と、色々と他の便利な機能がもるだろうけれど、必要事項はHPに書いてあるだろうから保証書と説明書は邪魔なので捨ててしまおうか。

テレビのレコーダーも、クロームキャストも、一応最低限の機能は初期設定から問題なく使えている。
こうして少しずつ機械アレルギーが克服できていくといい。

こういった家電を買うとき、必要性とクオリティの話は別物で話はいささか逸れるけれども、やっぱりBOSEのスピーカーが最近の私の家電の中では断トツに買って良かったものだ。
クロームキャストは買った当初、相当に推していたが、iPhoneを落として端末認識の設定を変えねばならなくなったことと、HDMI端子がテレビのレコーダーで取られているので全く使っていない。


雨空が止まない。
秋のしっとりとした空気は優しいけれど、天高し、といった青空が見たい。

アスパラを塩胡椒で軽くソテーする。
穂先が豆の味がする。

ぐるぐると渦になっている蚊取り線香の匂いは、焚きっぱなしは少し辛い。

寝づらいソファで、それでも数時間も寝てしまうのはどうにかならないものか。

煙草が、美味しい。

どれも、何か特別なところの意味は、ない。

いろんなことが散り散りで、散り散りなのは良いけれど、こじんまりと散り散りだ。


飛びだしてつぐんだ先に小鳥渡る







千の起伏

2015-09-03 02:32:10 | 日記
いもうとの家で食べた切り干し大根の煮物が美味しくて、初めて切り干し大根を買った。
今まで避けてきたのは、私に使いこなせる代物ではないと、なぜか乾燥大豆を水から煮るくらい面倒であるとレッテルを貼っていたからだ。
というのと、ひじきを水でもどすときにザルに目詰まりして面倒を被った学生時代の記憶から、乾物を扱うのを避けてきた節もある。
なんだか今思い出すとよく分からないけれど、そのとき私は何かに怒っていて、ひじきで目詰まりしたざるを確かそのまま捨てたのではないかと思う。

よく、料理番組などのレシピでは、「だし汁1カップ」という表現がある。
出汁をとることというのは、結構繊細な作業というか、工程が大切なように思うのだけれど、それが「だし汁1カップ」という言葉で省略されて良いものだろうか。
まあ、毎度そんなことをやっていては、肝心のレシピが紹介できないということだとは思うけれども。

斯く言う私も、よく使うかつおの厚削りでさえも正しい出汁の取り方はよく分かっていない。
味噌と同じで、沸騰して煮立ててはいけない、と言われると思うが、いつかの「きょうの料理」で小林カツ代さんが、「かつお節は水から入れて、美味しさをぐつぐつ煮出して搾り取ってください。灰汁だけはちょっと丁寧に取ってくださいね。これが美味しさの秘訣です。」と言っていたのがしっくりきて、今も私はそうしている。

かつおの厚削りを水に浸しておく。
厚削りが水分を含んで茶色が少し白くぼけたくらいで中火にかける。
そうした方が、じっくりと旨味を搾り出せるような気がする。
火にかけて10分強、灰汁を少し取って、黄金色になっただし汁を器にあけておく。

切り干し大根を軽く水洗いして、こんにゃくを下茹でする。
こんにゃくは味が染みやすいように表面に格子状に包丁を入れて、サイコロ状に切る。
包丁できれいに切るよりもスプーンで抉った方が味が染みやすい、とこれもどこかの料理番組で見たけれど、スプーンが汚れるのでしない。

私は、生姜が好きで、冷蔵庫にあればかなり高頻度でいろんな料理に入れる。
だいたいすりおろしで使うけれども、今回は千切りにする。

この時点でまだ「切り干し大根の煮物」という構想しかないので、冷蔵庫を除いて入れられそうなものは全部入れる。
シーチキンと、三つ葉と、豆腐と、しめじと。
豆腐は水分がとても多いので安い豆腐は特に一度水切りをして、美味しい水を吸わせると美味しい豆腐になる、と友人が言っていてなるほどと感心したのだけれど、ごった煮を作るのに美味しい水を吸わせなくても良いだろう。

シーチキンをフライパンにあけて、火にかける。
何気なく空き缶を見ると「一缶159kcal」とあって、とても低カロリーな気がして、なるほどノンオイルである。
シーチキンを使うとき、私はたいてい葉物と一緒に煮ることが多いので、どろっとしたコクが欲しい。
ノンオイルは買ってはダメだ。

ごま油を少し足して、三つ葉と豆腐以外をフライパンに放りこんで軽く炒める。
だし汁を戻し入れて、ぐつぐつと煮る。
切り干し大根は甘いのでみりんはやめて、しょうゆと塩で味付けする。

味は冷めるときに入る、これも何かの料理番組でしつこく言っていた。
おでんなども長時間煮込むよりも、一旦火から下ろして冷蔵庫に入れた方が味は染み込む、と。

だから私は煮物を作るとき、たいてい今食べないときに、夜な夜な深夜も深夜に作る。
冷蔵庫に入れはしないけれど、ひと晩というか、ひと朝置く。

豆腐と三つ葉を入れてひと煮立ちさせて、火を止める。

翌日、混然とした感じが出たごった煮を温め直す。

切り干し大根は、滋味深い。


うそみたいなほんとみたいなうそみたいなほんとみたいな、うそみたいな、多肉植物。


ししとうの当たりを引いて夏終わる




メリメリ

2015-08-24 15:40:24 | 日記
ペンケースについて記憶の最後のお店に問い合わせてみたところ、どなたかが拾ってくださったらしく、お店に保管してあります、とのことだった。
良かった、とてもありがたい、頭が下がる。
財布や携帯電話、大切な落とし物はなんだか全部出てくる。
そういう私は何か落とし物を拾うことがほとんど経験がないのだけれど、そして拾って届けてくださった方には何のお礼をすることもできないのだけれど、何か拾った際には落とし主さんへ戻したい。


9月半ばが締め切りの展覧会の作品を書く。

ここしばらく、しかも結構長い間、私は何かとても停滞と諦めのような気持ちを抱いていた。
昨年、同じ展覧会で何か書きたいというあまりにも強い気持ちが持てず、何なら賞を狙ってみようという方針で出品した。
結果、それまでで最も良い賞を獲れたのだけれど、展覧会場で自分の作品を見たときに「あぁこういうことではない」そんな風に思ったことをよく覚えている。

でもやっぱり、良い賞をいただくことは嬉しい、そんな気持ちもあった。
でもやっぱり、賞ではなく自分の納得だ、とそんなきれいごとのようなことを本気で思った。

しかしながらそれからもどうして良いか分からず、とりあえずちょっとした技術の向上だけを積み重ねてきた。
前作については本当に「自問自答」していた感じがする。

今回書いてみて、少しだけ何かが戻ってきたような気がした。
人から見たら何が変わったか全然わからないだろうし、私でさえも何がどのように変わったのかは作品上で的確に言うことはできない。
でも何となく、手触りのような、テクスチャーのような、そんな風合いが違って見えた。

そして、いつまで経っても「自問自答」など終わりはないけれども。

「ひこうき雲」荒井由実
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」かまやつひろし
「男の子と女の子」岸田繁(くるり)

の3つをとりあえず。
どれも私は書いている途中に泣きそうになってしまう。
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」以外の2つは過去に書いたことがある。
最近はもう一度、今の私が触れてみることをやってみたい。

一方で、多方面で活躍するある書家の方が「楷書の臨書は難しい」ということを言っていたことにも、改めて考えさせられる。
そう、当然ながら楷書は難しい。
線のブレも空間のブレも許さないから。
私は中国の古典においては楷書体が一番肉迫するものを感じる。


いもうとの第2子が産まれて、その手伝いにと日程を1か月前ほどから予約されている。
いつも比較的つっけんどんなおばさんだけれど、早く会いたいな、なんて初対面の日を待ち望んでいる。

決まっていたはずの名前は、2つの候補で悩んでいるようで、名前なき空白の数日。
いもうとは私の意見に重きを置くような人ではないので、おばさんとしてはこっちの方が、と言ってみる。
名前がないから「赤ちゃん」と呼ぶ。

赤ちゃんの物づくりに精を出している友人に何かプレゼントを作ってほしいなと頼むと、快くオーケーしてくれた。
「赤さんの身長体重、生年月日時を聞いておいて」と、彼女は「赤さん」と呼んだ。

どうか、赤さんの人生が良きものでありますように、と心から願う。


仏間にて扇風機だけ首を振る




ぷんすいとゲリラゴーレ

2015-08-23 12:53:28 | 日記
中学生のときにオーストラリアで買ったカンガルーの皮のペンケースを失くしてしまった。

財布を落としたり、携帯電話を洗濯機で洗ったり、花瓶を割ったり、ペットボトルのお茶がバッグの中で全部こぼれたりと、何かとヒューマンエラーの多い私であるが、最近はそんなことが前にも増しているような気がする。

いつも、なぜそれが起きたのか、そのときの状況をだいたい事細かに思い出せるのだけれど、今回はさっぱり身に覚えがない。
そして、花瓶のように、失くして良かったなどと思えない。
愛用していた花瓶よりもずっと、毎日愛用していたのだ。

あの年でよくあんなものを、というような類の毛皮のペンケース。
動物が座っていてお尻が皺にならないように、皺にもならず、また毛を削がれた皮のように古ぼけた味わいが出ることもなく、いつでも同じ形と同じ風合いをしていたペンケース。
ときどき、無意識に毛並みを撫でたりして、もう20年弱もの間使ってきた。
ペンケースを新しく他のものにしたいという発想すら、抱いたことがなかった。

それを使った記憶の最後であるカフェに電話をしてみるも、生憎定休日。
明日また電話することにするが、なんだかもう遠く手元を離れてしまった心持ちに耐えられなくて、出てこないことを早いところ納得させたくなる。

服や靴などよりも、私は大切にしている雑貨が多い。
服や靴は自分の体に纏うもので、纏う本体が細胞の変化で常に変わりゆくから、それに着せるものも自然と代謝されていく。
自分の外にある物は、物として変わらない限り、またそれに対する自分の精神が変わらない限り、そこにあってほしいと願う。
これは我が儘だなと思う。

自分の外にある物が、壊れたとき、失くなったとき、よくある言い方で、“失くして初めてその重要性に気が付く”、あるいは“重要でないことに気が付く”。
自分の外にある物、だけでなく、環境などにも言える。

しかしながら、とても重要性の高いものでさえも、お腹が空いたり、どうにも眠かったりという本体の生理現象にはかなわない。
重要なペンケースを失くしたところで、私は食べ物がのどを通らなくなることも眠れなくなることもない。


岡本太郎の『今日の芸術』という本が名著であった。
私は本を読むことが得意ではないけれど、食い入るように読めた。
とても現実的で、地に足が付いた芸術論。

私は、芸術、なんて言葉を自分が発することに恐れ戦いているのだけれど、まさにその考えこそゲスであるというようなことが書かれている。
幼い頃にも全く自由に絵を描いた経験など、ただの一度も、本当にないわけで、そして今でさえ全く自由に私は書を書けるわけでもないわけで。

自分のダメさ加減を思い知りながら、まあでもそれがしたかったので書いた。


フォトチャンネルがいっぱいになっていたので、最近のものをまとめてアップしました。
記事にはアップしていますが、よろしければご覧ください。



ユーカリの思うがままの呼吸かな




大丈夫して

2015-08-21 12:52:38 | 日記
京都駅の階段で足を滑らせ、1,2段正座のような状態で転げた。
「キャッッ」と自分でも似つかわしくないと思うような悲鳴を上げて、ほんの一瞬宙に舞った。

寸分の間もなく、ノースリーブの私の腕を温かい手が触れた。
「だいじょぶ?」と片言の声が聞こえて、「すみません、大丈夫です」と振り返ると、タイ人らしき肌のこんがりした若い男性がいた。
正座の私をすくい上げ、タイ人らしき若者は去って行った。
ヒヤッとした後の混乱した頭で、「ありがとうございました」と言った声は届いたのだろうか。

全然大事には至らなかったけれど、足の甲が少し腫れている。
軽い捻挫だろう。


大きなユーカリの葉っぱが重すぎて、不意に触れたら花瓶がグワンとバランスを崩して倒れ、弾けた。
「うわー」という大きな声が出た。
ソファーや墨池に水が掛からなくてあぁ良かった。

あぁ良かったと思ったのはもう一点あって、比較的よく使う花瓶が割れてくれたこと。
最初は「大事な花瓶が!!」と思ったのだけれど。
こうでもならなければ失くせない、そんな風に思った。
考え物の精神性だ。


いもうとがふたり目を産気づいているらしい。
初めて姪が産まれた三年前、私は産気づいたと聞いて、会社の外に出てうろうろした。

今はそんなことはない。
がんばれ、と念は送る。


なんだかいろいろあったような、何も変わらないような、そして何かが分かったような、だからと言って何でもないような。
床に横たわって瞑想する用の布を買った。
瞑想というほどのものでもないけれど、これをするなら溶けそうなくらいに暑い方がいい。

夏が行ってしまう淋しさは、きちんと私のものだろうか。


似ていることや共感はある種の嬉しさを産む。
最大級のそれが欲しいかもしれない。
しかし、それよりももっと、ただそれだけのもの、の方が欲しい。


今日の書は、お名前の漢字一字をLINEなどのアイコンにしたいと依頼されて書いたもの。
その方は、左上が一番自分らしい感じがします、と言っていた。


ミントが、きれい。


姉になるその日に姉にサマードレス




ジレンマ

2015-08-13 11:30:53 | 日記
揚げたてのセロリと稚鮎といちじくの天ぷら。
花の形の小鉢に入ったひじきの煮物。
手作りのにんじんのバルサミコ酢和え。
普通のキムチ。
大きな湯呑みの茶碗蒸し。
1本だけキリンの缶ビール。

もぎたて剥きたてのいちじく。
セブンイレブンの冷凍アップルマンゴー。
1年前の冷凍ブルーベリー。
冷たいジャスミン茶。
マキシムのインスタントアイスコーヒー。

高い天井。
宇宙感ベッド。
色彩感が美しいマグノリア。
昇る煙。
冷たい井戸水。

ぷっくりしたアロマミント。
分厚い葉っぱのゴムの木。
数年前のハート型の植物。

低い建物。
煤けた駅のホームの屋根。
重たい曇り空。
幾分密度の軽い空気。


「季寄せ」を持って出かけよう。


稲妻よ空を割れよとガラス越し




東洋的

2015-08-09 00:24:40 | 日記
いろいろあって、こんなにも長い間ブログが更新できずにいた。
とりあえず、作品だけアップすることにする。

おそらく、しばらく。


加熱してトマトな気持ちになりました





赤に黒

2015-07-29 14:52:08 | 日記
「先生の字は、なんていうか、さわやかで凛としていて潔くて、それでいて優しいですよね。」

そんなことをペン字を教えているときに生徒さんから言われた。

爽やかで凛としていて潔くて優しい。

どれだけの素敵な言葉を私に向けて並べてくれるのだろうか。
でも、私は自分が書くペン字に自信がないわけでもなくて、素直に照れながら「ありがとうございます」と言った。

非常に真剣に書けば、とにかくこの字は誰のものよりきれいだ、この字とタイはあったとしても、くらいに思えるときがある。
これは私自身の自慢話でもあるし、曲がりなりにも講師をしている立場からして当然とも言える。
もちろんそんな風にすべてがバッチリ決まることも少なく、それは私の技量不足を責めなければならない。

一応、私は色んな字が書ける。
どれが一番“自分らしい字”なのかは定かではない。
言ってしまえばどれも“自分らしい”。

しかし私は自分が見る用のメモなどの走り書きは、驚くほどに無茶苦茶である。
力など入れずにフラフラの状態で滑らせて書くし、バランスも気にしない。
これが字についての講師の字か、と罵られても文句は言えまい。

が、別に問題はない。


ヒロトの「II(ひと)」という曲
詩集だけに載っていてどこにも音源がない曲。
「ヒロト」がカタカナであるのは、ここに理由があるのだろうと、私は信じてやまない。


夕凪に煙の行く先ひとり旅




スタンス

2015-07-22 19:32:19 | 日記
iPhone6のカバーを買った。
初めてのブックカバー形式。
真っ赤な色の。

私はよく、バッグから取り出す際や操作中にiPhoneが手から滑って落としてしまう。
だから生身のiPhoneはとても危険で、またいつ壊れてもおかしくない。
そんなわけで長らく、事あるごとにカバーを探していたのだけれど、あまりに日常的に手にするものだから多少のこだわりはあって然るべきと思い、しかしなかなか良品に出会えず、買うことができずにいた。

今回はなんとなく、ブックカバー形式のものを買おうと思っていた。
分厚く、重たくなるだろうという想像は容易についたけれど、それにスイカを入れられるのがメリットのひとつだとしてもそれはブックカバー形式に限定されたことではなく、しかし、なんとなく、ブックカバー形式のものが使ってみたかったのだ。

使った感想は、カバーの分だけ重たく、やはり画面を開くまでのアクションが増えた分だけ面倒くさい、ということだ。
あとは、メッセージなどが届いてもカバーを開かないと画面が見られないので返答が遅れてしまう。
本を片手で持つように持つので、手から滑り落ちる心配は減った。
そしてiPhone自体は、かなり守られている感じがする。

良くも悪くもそんな事実だけを今のところは感じている。


大都会、東京・渋谷。
歩道橋に、ハイウェイに、食い入るように乱立するビルディング。
幾重にも重なったそれらは、私を眠たくさせた。

真夏の空気が暮れていく。


枝豆をつるり並べて父の膝




隠れて

2015-07-14 14:19:43 | 日記
7月11日は、父の命日だった。
命日だから喪に服するとか、命日だから祈りを捧げるとか、そんなつもりはないけれど、命日だから回想したりはする。

もう、私の中では、誰かに聞いてもらわないとおさまらない思いではない。
でも誰かが聞いてくれるのなら話したい事柄ではある。

大好き、ではなかった父への思いが、最近になってようやく、感謝、に変わろうとしている気がする。

私は自分の中で腑に落ちない何か象徴的な言葉を口に出すのは、意識的に避けている。
おそらく無意識的にも避けているだろうと思う。

回りまわった言葉をたくさん積み重ねて、なんとなくだけれど、感謝、という言葉がまっすぐに、ただそのものとして言えるかもしれない。
しかしながら、美化するつもりは毛頭ない。


夏だから、ナスとトマトとズッキーニを買った。
ガーリックオイルで炒めて、コンソメやら唐辛子やら塩胡椒やらを入れてそのまま適当に煮る。
これは色んな過程を省いた、適当なラタトゥイユ、だろうか。

本当に毎度まいど思うけれど、自分の料理は“絶妙に微妙な”味がする。
それは、繊細、ということとも少し違う。

ぼやけているそのゾーンの中のどこか一部分、といったようなそんな塩梅。
今の私はこれが好きなんです、以上、といったそんな塩梅。
でももっと良いものはきっとたくさんあるでしょう、それも欲しいです、とも言っておきたいそんな塩梅。

生のトマトを使った煮物はおいしいということが今回よく分かった。
私は、トマト缶の上手な扱い方が未だ分からなくて好きではない。

相変わらず私の思う面倒が取れないので、料理において見た目に美しいものはできない。
飾り切り、といった類のことはもしかすると一生やらないかもしれない。

基本、私が作るものはほとんど、ごった煮、である。
でもまあ、そのときの気分でしか作れない、ごった煮、は私の「ピタリ」を射抜けることが多い。
最近はその打率が高まってきた感じもある。
しかしながら打率が高まれば高まるほど、前と同じ、ということになって、その「ピタリ」では満足行かなくなってくる場合もある。

私は昔から料理番組が好きだ。
今でもNHKの料理番組を録画しているくらい。

塩をふって野菜に汗をかかせるように炒めます、とか、
肉の繊維をほぐすように叩きます、とか、
水で血合いを洗い流して臭みを取ります、とか、
赤唐辛子を1本入れて味を締めます、とか、
氷水で色止めして、鮮やかな緑を保ちます、とか、
冷えるときに味が染み込むので冷蔵庫でできればひと晩寝かせます、とか、

そんな料理でよく使われる言葉たちが好きで。

ただ体に合うものを見つけたくて。


「笑顔」
自分にとってこっ恥ずかしいことに立ち向かうシリーズは、字体を含め、これもやっぱりどこかくすぐったくて恥ずかしい。


夏休みの声が走る大通り





触れられないど真ん中と本意のすべて

2015-07-10 10:03:41 | 日記
久しぶりに晴れている。
雨もいいね、とはどうしても言い難くて、やっぱり晴れの方がいい。

窓を開けると、朝からカレーライスの匂いが舞い込んできた。
どことなく朝に相応しくないと思いたい気持ちがありつつも、嫌な気はしなかった。
朝からカレーライスなんて、という考えこそ、私は持ちたくない。
もちろん、朝からカレーライスなんて、ということがあっても良い。

ここぞとばかりにベッドシーツを引っ剥がして洗濯機に放り込む。
ゴミを出しに出て、部屋に戻るといささか煙草臭いので、1度目の洗濯機が終わった直後にカーテンを全部引っ剥がして、もう一度洗濯機を回す。
煙草の味も匂いも好きだけれど、日常そこにある空気としての煙草の匂いは好ましくない。
床を水拭きしたいけれど、今日はそんな時間と気力がなさそうだ。


いただきもののパティスリー・サダハル・アオキの焼き菓子をひとつ、開けてみる。
小さくて、でもずっしり重たい、しっとりしたパウンドケーキ。
生地には、くらっとするくらいの洋酒が染みていて、芳醇で、豊潤で。

ごはんの後に気軽に食べてはいけない気がした。
コーヒーとか、紅茶とか、そんなものを淹れて、そのための環境を整えないといけなかった。
水では負けてしまうし、お腹も空かせていた方がいいだろう。


今作、向井秀徳「自問自答」。
書というよりは、私自身が、きっともっと自由になれる、と思った作品だった。
お忙しいところお足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございました。


紫陽花の顔に降る雨零れ落ち




忠告

2015-07-06 12:34:52 | 日記
私は食べ物に優しくされるのが好きだ。

クレープのしっとりした皮とか、羽二重餅とか、セブンイレブンのクリーム大福とか、まい泉のカツサンドとか。
そういう感触としての絶妙なそれらは、しばしば私を魅了してきた。
唇に乗りかかってくるような柔らかい感触が好き、というのは共通するのかもしれないけれど、「これでなくてはダメ」という絶妙なラインをこれらは満たす。

とあるところで、ミルクせんべいをいただいて、感触的な意味でない、衝撃的といってもいいほどの優しさに触れた。
その優しさの正体は、甘さ、なのだけれど、とてもとてもほんのりな甘さなのだ。
軽すぎるせんべい生地全体にまんべんなく薄く染みわたっている、舌全体で味わわないと感じられないようなほのかな甘さ。
ほんの少しの砂糖の甘さ、というよりは、ミルクそのものの甘さを思わせるような。

甘さ、という点では、さっくりとしたクッキーにまぶしてある粉糖もとても優しいと感じる。
しかしそれは感触や質感の上に、ダイレクトに脳に届く甘さにおけるエンドルフィンの分泌、のようなことの意味合いが強い。

ちなみに今私が言っているそれらは全て「美味しい」けれど、でも「優しい」と「美味しい」は別物である。
私の中の、幼き少女が目をきらきらさせて「わぁ」と言っている、と言ったら余計に分かりづらいだろうか。

私が食べたのは、「さとうのミルクせんべい」だったわけだけれど、他のもそんな感じがするのだろうか。
気が向いたら試してみようと思う。


時々、人の欲深い顔を見ることがある。
そしてその顔を見ると、私は少しドキッとするというか、興奮する。

それは、所謂意味の「欲深さ」ではないかもしれない。
例えば、何かを知りたいとか、分かりたいとか、そんなものも欲の一種だとして。

自分が自分のために自分本位で、自分を満たそうとして、それが満たされかけています、というときの顔。
何の疑念なく何かを狙っていて、恍惚としているときの顔。
それは悪魔的であり、無色透明のクリスタルのような輝きも放っている。

自分が、盲目的なタイプであることだけはいつでも忘れてはならない。
バランスは難しいし、いつだって何かを決めないといけないのだけれど、まずもって決めてかかってはいけない。

自覚的であれ、当事者であれ。
というマーシーの言葉は、私は本当に長らく、事あるごとにとても大事にしている。


私は「絆」という言葉にとても違和感がある。


洗濯機の音の向こうに遠雷あり




体温計が示す後

2015-07-01 13:04:13 | 日記
オアシスのアルバムを久しぶりに聴いて、酷く飛んだ夜、良いこととそうでないことが同時に起こっていた。

やっぱりリアムはカッコよくて、ノエルは包容力がある。
オアシスの曲が全体としてオアシスな感じがするのは、その多くの要素がノエルギャラガーという人の表現物だということに他ならないだろう。
英語はわからないので基本的に音として聞いているわけだけれど、時々気になってタイトルや歌詞を見てみると、とても「あぁ」と思うことがある。

洋楽の好きなロックバンドをひとつ挙げるのならば、現在の私は間違いなくオアシスを挙げる。


食材を腐らせるのはとても悲しい気持ちがするので、そういう理由で料理をする。
絹揚げと新玉ねぎとにんじんと豚の挽き肉と。

基本的に、いつも、炒めて、煮る。
そうすると、具材は変われど、いつもの名もなき料理ができる。

味付けは、酒と醤油とみりんと、時々塩かだしの素。
あるいは、コンソメや昆布茶、時々ウェイパーや。

たいてい、誰か他人が食べておいしいと思わないだろうな、と思うものができる。
ただ、時々、過不足なく絶妙に私にフィットするものができることがあって、その時の私の幸福度はとても高い。

みんなで食べると美味しいね、というのは厳密に言えば私は経験がない。
その場の感じ全部ひっくるめて、みんなで食べると美味しいね、はもちろんあるけれど。

味、としてはやっぱりひとりでいるときの方が断然に素直な感想を持てるし、美味しい、という経験が多い。
それだけ私は人目を気にしているということだろうか。

基本的に、料理はそれなりに食べられれば良い、と思っている反面、この舌を正しく使わないことがどんなに損なことであるかを思うのである。


時々、誰かに抑えつけられているような感覚を持った金縛りにあう。
息苦しくて動けなくなる。
幼い頃から時々起こるのだけれど、そんなとき私は決まって、誰か死んだのだろうか、とオカルト的なことを思う。
また、誰かに抑えつけられているような感覚があまりにリアルなときがあって、家の鍵をかけ忘れたかもしれない、と思うこともある。

しかし、その想像が当たったことは一度もなくて、金縛りがただの金縛りであることを思い知ることになる。


以前書いた「夢」とは別バージョンの夢。
渋谷のシダックスのあたりにも大きな「夢」の書がある。
私はあれを好きになれないのはなぜだろう。


乾きゆく髪柔らかに梅雨の朝




ラッキー

2015-06-23 12:53:56 | 日記
用があって実家に帰ると、90を過ぎたおばあちゃんが、今までに見たことがないほどにやせ細っていた。
そんなおばあちゃんは私を見て開口一番、「痩せたかん?」と私に言った。
そう、私も最近少し痩せた。

杖をついて、恐ろしくスローペースで廊下を歩く。
健常な大人ならなんてことはない距離の廊下は、2歳の甥と姪が走り回るにも十分で、今おばあちゃんが歩くには長すぎるのかもしれない。

随分耳が遠く、腹から声が出ないので、コミュニケーションも難しくなった。
今年の正月頃には、私の持ち前の声の大きさであれば話ができたのだけれど。

実家に帰ると、私はいつも決まって仏間に行って父に手を合わせる姿を見せる。
信心深いおばあちゃんにその姿を見て喜んで欲しいから、なのかもしれない。
今回は、仏間が見える場所におばあちゃんがいなくて、私はそれをしなかった。

祈りはどこにいたって捧げられると思っているし、そもそも仏間における純粋な祈りなど私にはないのかもしれないし、祈りは届かないと思っているのかもしれない。
それに、仏間に飾られている父の黒枠の写真は未だに私を締め付けるのも確かで、しかし、“無くなる”というそれ自体が私の一つの理解のしどころだったことも事実で。

実家には観賞用の小さな庭がある。
昔は小さいとは思っていなかったけれど。

手入れが行き届かなくなった今、芝生は枯れ果て、庭石はくすみ、松は色を失っている。
まるで忘れ去られた廃墟に這うように、蔦は朽ちたまま壁に張り付いている。
カエルの置き物は、そんなところにあっただろうか。
青光りするトカゲは今もいて、そういうものが苦手な私は今もぞっとする。

この状況は私には、悲しい、という感じはなくて、ただその変化に目を見張る。
明らかに、こんな風ではなかった。

大きなスパンでなくても、今だっていつだって変化は止まらない。
それは物質的にも、感情的にも。


いつも何か好きな言葉や身近な言葉を適当に書いてきてください、という創作の課題を出す。
楷書体は皆一通り書けるわけだから、お手本なしで書くことは自分をあぶり出すことになって勉強になる、と考えている。

言葉のチョイスは人それぞれで、私はいつもそれが楽しい。
それに、字を書く題材は、要素を取り出すには本当に何だっていいわけである。
それに、ちょっと密かに私が意味を見出してしまったりとかして、それもまた面白い。


梅雨曇りの朝に満ちたしアッサムティ




僕の興味

2015-06-21 17:21:39 | 日記
auからの封書が来ていて、何かキャンペーンの案内かと思ってしばらく開けずにそのままにしていた。
いつもならそのまま捨ててしまう可能性も十分にあるのだけれど、「重要書類」となっていたのでかろうじて取っておいたのだった。

気が向いたので開けてみると、落としたiPhone5が警察に届いている、という案内だった。

私は今回を含め過去に、重大な落とし物として、財布を2回、携帯電話を1回、落としている。
そのいずれも、遺失物としてどなたかが届けてくださって警察に届けられている。
財布は現金もまったくそのままで。
そして届けてくれた方は「お礼は要らないです」と名乗ってくださらない。

もちろん落としてすぐ、クレジットカードや免許証など、あらゆる機能を止めたり再発行に駆けずり回るので、手間としてはさほど変わりはない。
京都で財布を落としたときは、翌日に免許証の再発行手続きをしに行き、あともう少しで受け取りというところで、京都府警から連絡があった。
免許証を2枚所持するのは違法らしく、失効した元の免許証を警察署まで返しに行った。

なんだかんだ、財布が手元に戻ってくることが一番うれしいかもしれない。

なんにせよ、親切な方がいらして、それで私の手元に巡り巡って戻ってくることは頭が下がる思いがする。

今回も既にiPhone6を利用しているので端末としては要らないけれど、LINEの写真が戻ることや、目覚まし機能を独立で使えることや、音楽保存端末としては十分に有用であろう。
いやしかし、LINEはログインできないのかもしれないが、どうだろう。


茹でた鶏肉、豆腐、えのき、食パン、そうめん、ヨーグルト。
最近、白いものばかりを食べている気がする。

梅雨冷えにお味噌汁を作ってみたものの、早くも変な匂いがしたので捨ててしまった。
これからの季節、2日で食べきれる量に留めなければならない。


最近あまり積極的に書道の手が動かないので、ペン字のレッスン中に少し筆ペンで即興的に書いてみたりする。
当然ながら、いつもやっている創作ではなく、万人が読めるレベルのアレンジにする。
まあそれでも、場合によっては異体字を使いたいときがあるので、ついでに説明する。

こういう場合、たぶん生徒さんよりも私の方が楽しくなってしまっているかもしれない。
そして、筆ペンの扱いがだいぶ上手くなってきた。

その場で書く、ということは私はかなり苦手なのだけれど、作品の作り方、みたいなことを説明しながら何枚か書いているとまとまってくる。
もう少しここをこうすれば良かった、という点はいつだって尽きないけれども。


空行きの梅雨のトンネル疾走し