つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

期待の方向

2014-12-30 16:36:39 | 日記
最近2食めの晩ご飯が23時過ぎになることが多いのだけれど、なんとなくお腹が空いていなかったので、そこから書を書き始めた。
毎月の課題や、新年のあいさつ書や、依頼ごとや、自分の俳句や。

ちなみに年賀状は出す習慣がない。
書道をやっていて年賀状を出さないと言うと驚かれることがしばしばあるが、それも解せないし、数枚だけ来る年賀状の返信すらしていない私である。

何を書くにもそうだけれど、自分の思う“絶妙のゾーン”を見つけられるまで諦めてはいけない。
もちろん“完璧”とはいつもいかないのだけれど、“絶妙のゾーン”には行きたい。

時々、自分がいっぱしのアーティストみたいなことを言っていることがあって、あれ…と若干恥ずかしくなることがある。
元々そういう概念的なことを考えるのが好きで、それが自分で起こしていることで起こると嬉しいので、ついそのようなことを知った顔で言いたくなってしまうのである。
まあでもそのこと自体にあまりにも謙虚であることは、たとえば何か依頼者に対して失礼に当たることもある。
だからやるのであればいい加減自信を持てるほどの自分であらねばならない。

久しぶりにこんなにもという量の反故の山ができて、目途がついた頃には、午前4時半。
あぁお腹が空いたと思って、「こんな時間に食べるなんて」ということが普通には適用さえもできない時間にご飯を食べた。
例えばお茶漬け、のような軽いものにしておけば良かったのだけれど、達成感と空腹感によってまともな晩ご飯の量を食べてしまった。

「お腹いっぱいで寝てはいけない」とはよく言うものだが、「お腹いっぱいでは寝られない」のだなと思った。
物理的に体がとてつもなく重たくなってしまったので、少しでもと思い、食器を洗って筆を洗って。
掃除をするほどの体力はなかったので6時半ごろにベッドに入ったが、眠いし体は疲れているのだけれど、上手く眠れない。
度々目が覚めて、何となく苦しいし気持ち悪い。

朝まで飲んでいることもよくあるけれど、そういうときはあまりこのようにはならない。
飲んでいるときは食べるのがゆっくりだしスパンが長く、何時間も前から定常的に胃腸が働いている状態があるので良いのだろう。
やはり寝る前に、急激に血糖値を上げて胃腸を働かせるのは良くないのだなと思い知る。
眠い、ということと、消化したい、ということは、当たり前だけれど拮抗する。

起きて尚、胃もたれにより気分が悪い。

寝る前にお腹いっぱい食べてはいけない。
寝る前にお腹いっぱい食べてはいけない。

毎年年末に1年をここで振り返ることにしていたけれど、今年はそんな気分ではないのでそれをやめよう。
いや、たぶん、今の私が胃もたれで気分が悪いことがそうさせているだけだけれども。


最後、紙と墨が余ったので、何か書きたいなと思い、「カイジ」語録。
作者の福本さんの言葉づかいは何とも面白くて独特なのである。

私が以前「男子力」と呼んでいたような漫画的構造や、あと、理解を忘れずにお茶目さを携えて何か概念に立ち向かっていくこと、そんなことが私は大好きなんだなと思う。

ひっくるめ過ぎだけれど、私はロックンロールをというものを知ってからずっとロックンロールを愛しているし、ロックンロールのことばかり考えている。
だいぶ広義に使っているけれど、結局はロックンロールが欲しいだけである。


明日はブログを更新しないと思うので今年は最後の記事。

本年も大変お世話になりました。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
皆さま、良いお年をお迎えくださいませ。


年賀状書かない私のブルートゥース





充実体

2014-12-28 21:04:31 | 日記
冬の朝、まだ暗いうちの自転車は、おでこが凍る。
おでこが凍って、次第に頭頂部から後頭部へと凍っていく。

ネックウォーマーは持っているけれど、覆面マスクは持っていない。
普通のマスクでも少しは温かいだろうけれど、おでこが凍るのは避けられない。

家までたどり着く前に、思わずコンビニに寄ってホットミルクティーを買う。
温かくて、甘いのが体に伝っていく。

外気にホットミルクティーの温かさを奪われてしまうとポケットに入れて、続きの自転車をこぐ。

「音色」と「墨色」の話が面白かったなあなんて思い出しながら。

「オンショク」と「ねいろ」、「ボクショク」と「すみいろ」。
音楽をやっている人の多くは「オンショク」と言う。
書道をやっている人の多くは「ボクショク」と言う。

私は「ボクショク」とたまに言ったりするけれど、「オンショク」は使わない。
「オンショク」と使う人に、なんだか“プロ感”を感じたりしている。

音読みにはなんとなく、それに向かっていこうとする「意志」が感じられる、広く言って外来読みだから?
でもその道で「オンショク」や「ボクショク」を追及しても、音楽や書道を知らない人が聞いて見て「良いねいろね」「良いすみいろだわ」というところを目指さないといけないのではないだろうか。
そんな話。

温かそうに見えて実はそんなでもないコートに冷たい空気が差し込んでくる。
どうして私はムートンブーツを履いてこなかったのだろうか。

いつもより長い道のりを感じながら帰宅すると、ホットミルクティーは少し温くなっていた。
全部飲み干してから、それでもまだ暗いうちに眠る。

起き抜けに、シャワーを浴び、いただいた鹿児島の美味しいお茶を淹れ、小石川植物園の年末年始の閉園情報を見ていると今日が年内最後の開園日。
閉園時間は16時半。
ならばと化粧もせずに出かけたのが15時。
日は既に力なく傾きかけていた。

この場所が大好きだ大好きだと言いながら、行ったのは数回である。
でも、大好きだ。

私が起きて気の向くままに過ごすと、すぐに日が暮れてしまって、平日に価値のある美術館などにも行けないのだ。

いつ何時も道に迷う私は、もれなく住宅街の迷路に飲みこまれ、最短で行けば自転車で5分ほどの距離なのに15分くらいかかって辿り着く。
近くの煙草屋さんでチケットを買うシステムが取りやめられ、自販機での販売になっていた。
確か330円くらいだったと思うけれど、400円に値上がりもしている。

閉園時間が近いことと、きんきんに寒いこと、紅葉も終わり花も咲いていないことなど、行楽には程遠く、客は私を入れて4人ほどしか見かけなかった。
しかもみんな私と入れ違いに帰っていったので、大きな林の中に一人ぼっち。
ああいう場所で何が怖いって、私が文字に書くのも嫌なくらい苦手なあの動物に出くわさないか、である。
でも冬はおそらく冬眠期間なのでと思い、安心はしている。

聴いていたはっぴぃえんどを止め、落ち葉を踏みしめながら、肺に冷たい空気が滲みていくのをしばらく感じる。
毛細血管みたいな裸の木々を見ると写真を撮らずにはいられず、しかし手袋から手を出すとそこから体温が逃げていった。

なんだかよくわからないけれど少し走ったので体は温まり、ひとしきり植物の写真を撮って植物園を後にする。
来た下り坂を登りたくないなと思って、迂回して帰ろうとしたらまた迷う。
Googleマップを片手に遠回りの遠回りをして、ついでに通りがかりの買い物を済ませて帰る。


ノエルギャラガーの来日公演に行こうかずっと迷っていた。
いつも色んなライブに一緒に行く友人は産後2か月で行けないので、一次先行抽選を見送っていた。

音楽ライブは、よほどそのアーティストが好きということを知っていないと人を誘い難い。
別に一人でもいいのだけれど、ただ武道館のような大きなところで椅子もある場所だと、誰かと喋りながら、共有しながら聴いた方が楽しい。

私はノエルがとてもとても好きで。
私が最も好きなミュージシャン5人にも入るし、最も好きな曲5曲にも「whatever」は入るくらい好きだ。
ちなみに、3年前のフジロックで一度見ているのだけれど、そのときにはノエルギャラガーズハイフライングバーズが何者かも、ノエルがオアシスの人であったことも、本当に何にも知らなかったほどファン歴は浅い。

そう言えば身近に、おそらく私よりも断然大きくノエルに影響を受けたであろう人がいて、その人を誘ってみると「是非」という回答だった。
二次抽選だから当たるかわからないけれど、とりあえず申し込みを済ませた。

年明け6日に発表。
4月16日、日本武道館。


大晦日に予約が取れれば、スタジオに行けることになった。
私のリクエスト曲ばかり、わざわざ付き合って下さるのだから、少しでも誠意をと思って練習する。

音楽に乗ってギターを弾くことや、力いっぱい入り込んで歌うということが、たとえどんなに単純な曲であっても、どれほど難しいかは知っているので、決して奢ってはいけない。
まあ奢るほどの何かもないけれど。


あまりにしんしんと冷えるので、早くから暖房をつけた。
乾燥するので、特にやらなくても良い洗濯をして、洗濯物を部屋に干す。

長野のりんごを頬張って少し仕事をしたら、借りた「天」を読もうかなという楽しみ。


初雪を三十階から見上げたり





マッス

2014-12-26 23:27:31 | 日記
世間的な仕事納めは全然関係がないけれど、取引先は仕事納めだったりするので、少し気忙しさがある。
休み中に1月分の進められる仕事をできるだけ進めたいが、最近の無精っぷりからするとどうだろうか。

「元旦には帰っといで」とメールで言われ、そう言えばとお年玉代わりの「妖怪ウォッチ」と「アンパンマン」のお弁当箱をとりあえずamazonからけいこに送りつける。
今の私の生活時間ではもう全然実家にいられないので、3が日が精いっぱいだろう。
まあそうでなくても3日もいることは今までもあまりないけれど。

去年の今頃にはまだけいこにもおじいちゃんにもおばあちゃんにも、会社を辞めたことを言っていなかっただろうか。
今はもう皆知っているけれど、さほど心配をされてないのは、家がサラリーマン家庭でなかったからというのが大きい。

実家は自営の町工場だったので、もちろん月から金、朝から夜、という勤務体系だったけれど、一般サラリーマンよりはだいぶ自由度が大きな感じで働いていたと思う。
工場は家から5分くらいのところだったので、父は昼食兼昼寝で2時間強、家に戻ってきていたりしていた。
ものすごく時々、私が工場に行くと、けいこは事務員さんとコーヒーを飲んでいたりもした。

また、特におばあちゃんは、一般企業のお勤めというと銀行窓口などをイメージするようなので、私がIT企業で働いていたことをどうにも説明しようがなかった。
まあそんなに事細かに伝えようと思ったこともないけれど。

あと、やっていることが「書道」というのもイメージが固くて受けがいいような気もしている。
その「道」は仏道のように淡々としていて真っ当である、そして今も昔もあるからという根拠以外は一切なく仕事もなくならないだろうと、なんとなくそんな風に思っているのだろうなと思う。
例えば「ギターの講師」とか「洋服のデザイナー」とか「バーの経営」とか、イメージ的に少しの“チャらい”ような要素を含むものだったらもう少し心配されていたかもしれない。

「書道」だけで食べているのではないことや、別に私は「書道」の道に入信しているのではないことや、「書道」もあらゆる個人事業主と同様のリスクを当然に孕んでいることは説明の必要はないけれど、しかしまあ、30にしてフリーランスなど、もう少し心配されてもいいような気もする。
それは私のないものねだりでもある。


とても久しぶりにミュージックステーションを見た。
中高生の頃、変人、奇人、偉人だと思っていたアーティストたちがある意味で「普通の人なんだな」と思う。
もちろんとてつもないあらゆる技術の集積は、テレビは特に甚だしくあるわけだけど。

ある人に言われたことを思い出していた、「飛んでいるように見えるものも、実は飛んでないのだ。まずは自分と同じ地面に下ろしてみよう」ということ。
談志の落語を見ての、あらゆる「芸」についての話だったわけだけれど、私が音楽に対してのコンプレックスに満ち満ちているのでそのことを言ったようだった。
さまざまな芸をする人たち、ミュージシャンも書家も漫画家もお笑い芸人も、意識的無意識的かは置いておいても、先人たちが積み上げた構造と技術を借りながら芸をしている。
大切なのは、その上でもなんでも、いかに自分であるかということ。
そして、現芸人たちが飛んでいるように見えることも、それをやろうとして最初にできないことも、別に全然大したことではないと。

同じ地面にあるものと見れた方があらゆる芸は面白いと思う。
というか、同じ地面にあるものとして見れなかったら、それを堪能していると言えるだろうか。


こんな時期に、会社の観葉植物に新芽が芽吹いた。
子犬や子猫がかわいいのは、未熟さを愛らしさでカバーするためだと聞いたことがあるけれど、植物にだってそれは言える。

ひょっこり出てきた危うい柔らかさの新芽。
蛍光灯と水だけで植物は育つ。

なんてかわいいのでしょう。

先日、しいたけキットでしいたけを家で栽培している生徒さんの話を聞いて、できたしいたけを送りますと言われた。
しいたけの成長の早さは目を見張るものがあるらしく、とても熱を上げてしいたけ栽培の話をしてくれた。
なんでも、刺激を与えると大きくなるらしく、良きタイミングで原木を揺らしたり、強い光を与えたりするのだとか。
だから雷が落ちたあたりはきのこがいっぱい生えるんです、ということ。
ついでに、菌友になりましょうよ、とのこと。

愛おしくて、美味しいらしい。
しいたけのために帰宅が早まることさえあるそうだ。

私もしいたけの原木なんて手に入れたら、きっとしいたけのわくわくが止まらないなんてことになるだろう。

たぶん私がそういう話を好きそうだから余計に熱を上げて話してくれたのだと思うけれど、人のこういう姿ってきらきらしている。
菌の話であろうと、ロックンロールの話であろうと、自分の意に適っている話をするのも聞くのも好きだ。


山手線乗り過ごして尚大晦日




ベタな主張

2014-12-24 04:16:51 | 日記
いつからあるのか分からない干し椎茸をちぎって、白菜と煮る。
もう今冬、3株くらいは食べただろうか、白菜、ひとりで。

動物系を入れないと味が難しいので、鶏肉か豚肉かシーチキンかを入れて、あれば生姜をすりおろして、唐辛子も2本。
今回は干し椎茸だけれど、いつもはしめじとえのきをがばっと入れる。

酒をだばだばっと入れて、塩をぱららと入れて、ほんだしをざざざと入れて。
水は入れない。

鍋に山盛りだった白菜から水分が出て、しんなりして半量くらいになる。
木べらで底からすくい上げるようにして全体をなじませる。
さらに煮て、醤油をちゅーっと2回りくらいかけて、さらに煮て。

白菜が大好物、というわけではないし、けいこの定番料理でも全くない。
けれど何だかとてもとてもよく作る私の定番料理。
びっくりするほどは美味しくないけれど、私にとって体馴染みの良い味。

そのまま食べてもいいし、うどんを入れてもいいし、とろみをつけてやきそばにかけてもいい。

これまでにも何度もこの白菜の煮物のことをブログに書いたことがある。
ブログまで含めて作業として好きなのであり、私の愛すべき日常なのである。

「ブログを見ていると料理が上手みたいだね」と言われることもあるが、私は料理らしい料理は大してしないし、全然上手でもない。
ただ、自分の美味しいストライクゾーンを知っているので、他人よりはそこに投げられる確率は高い。
そのために、普通の和食の味付けも、主要食材の大まかな扱い方も、皮向きも千切りも、まあ問題なくできる。

しかしながら、手が汚れない、調理工程が少ない、食器が少なくて済む、洗うのが面倒でない、無駄がない、そんな範囲のことしかしない。
美味しかった鶏ハムもあれ以来、全くもって作る気は起きていない。

しかし、料理番組は結構好んで見る。
21時にテレビの前にいれば、「きょうの料理」を見ることも多い。
誰かの料理ブログも好きで、2つ、3つ頻繁に読んでいるものもある。
「孤独のグルメ」も「深夜食堂」も「昨夜のカレー、明日のパン」も「食べるダケ」も「天使のわけまえ」も「食堂かたつむり」も、食べ物を中心に描いたドラマや小説は基本好きだ。

今日の「きょうの料理」で正月料理で「お煮しめ」を作っていて、高野豆腐、にんじん、こんにゃく、絹さや、里芋を全て別々の味付けで、別々に煮る、ということをやっていた。

「にんじんは素材の甘みを活かして砂糖を入れない」
「こんにゃくは味をきりっとさせるために醤油を多めに」
「里芋に色が付かないように白醤油で」

理屈は分かるけれど、今後私にそんなお煮しめを作る機会は訪れないだろうと思う。
では、さして料理をしない私がなぜ料理にまつわるあれこれを見るのが好きなのだろうか。

一般的な意味においての食への飽くなき探求心、というようなものは私には全くないけれど、完全に個人的なものとしての食にはとても興味がある。
それはすなわち毎日毎時間変わる自分をちゃんと知るということで、極めて純度の高い望みになり得るからだ。
そしてそれは基本的に「食べたいものが分からない」私には結構難しいことだったりする。

しかし最近、「お茶漬けが食べたい」とか、実際あまり得意ではない「白ワインが飲みたい」とかが突発的にあって、私はそんな自分をとても愛おしく思ったりする。

料理にまつわるあれこれが好きな理由になっていないけれど。


今日の書の句は11月22日の「夫婦の日」に作ったものだ。
十一月夫婦電話で丸くなる、というものだが、これは実家の電話番号から発想している。

私が上京した後随分と大人になってから、おじいちゃんが言っていた。
「うちの電話番号の下4桁の2209はじいちゃんが決めたんだ。“夫婦丸く”ってな」

私はこのことを他の家族に話したことはないけれど、これを知っている家族は何人いるのだろうか。


クリスマスソングで壊す色眼鏡




Blue tooth!!!!

2014-12-22 17:15:14 | 日記
私は割に高価な化粧水を使っている。
化粧水がどこから高価か分からないけれど、現在の価格日本円にして1本5800円だから十分に高い。

いつからだろうか、3,4年ほど前にハワイに行ったときからだ。
それまでは何を使っていたか思い出せないくらい、適当なものを使っていた。

全般的に「植物の力」を信じている私は、化学系の化粧品よりも、植物系の化粧品を好む。
といっても例えば自作のへちま水の化粧水などは、防腐剤も入っておらず、状態が悪ければもちろん肌にも良くないだろうと、根底で自前を疑い既製品を信じているので、自作したりなどはしない。

当時1ドル80円ほどの円高で、化粧品各種や、今使っているPCバッグ、もう使っていない小さな皮のバッグ、真っ赤な用途不明のオーナメントとか、本当によく買っていた。
思い出すに恐ろしいほど。
私は今も昔も特別な浪費癖はなく、荷物が多いのを極端に嫌う。
あれほどにショッピングでお金を使ったことも、あれほどにスーツケースがいっぱいだったことも、後にも先にもあのとき一度だけである。

あれこれと化粧水を免税店で試し、出た結論が「高いものは良いんだな」ということだった。
確かに良いのだ、強めの香りも肌馴染みも。

現にあのとき買って今でもリピート購入しているものがいくつもある。
化粧品代は飛躍的にアップしたけれど、年もとるわけなので、そこへの投資は惜しむまいとそのときに決めた。
それに、化粧品に対してさほど興味がないので、良品を探し当てるのも面倒で、いつも決まって良品を買えるのであれば、時間もかからずむしろありがたい。

と、思って3,4年経って、それにしても高いなと思って、何となく誰かがいいよと言っていた1本800円くらいの化粧水を買ってみた。
どちらかと言うと化学系だろう。

無味無臭、無色透明。
つけ心地も澄んだ井戸の水をつけているような。
無味、というのは少し変かもしれないが、無味だ。

少し、感動した。
ドキッとするほど透き通っていて、水の質感としての滑らかさがあって、何にも影響しませんただの水です、でも水です、と言っているかのような。
そんな感じがした。

植物の精油の強い香りなどもすごく好きだけれど、私はもともと、無味無臭、無色透明というむしろ概念が好きなのである。
全くの透明、や、全くの無臭、というのは周りにほぼ存在しないことだけれど。
そしてそんなものがあったら、たぶん全く落ち着かないだろうけれど。
一瞬の高潔な透明感、というのはとても欲しいものなのかもしれない。

まあその化粧水のボトルデザインからはまったくそんな高潔な感じは一切しないし、当たり前にグリセリンなど諸々のものが入っているのだけれど。
あぁこれなら化粧品って匂いがない方がいいな、というふうに思う。

そして潤いなどの話をしても、5800円のものと遜色ない。
とは言え、5800円のものの強い香りや強いつけ心地も好きだから、併用していこうかなと思う。


紙が大きすぎて写真に全体像を撮れないので、撮れた分だけ。
漢詩についてはデザイン的な意味合いが大きくなるので、まあ良しとしよう。
本当は、まあ、全然良くないけれど。


たんこぶにすさぶ北風許すまじ