面倒なことをするのには他人が必要なんだよね。
とふと人に言われて、あぁなるほど、と思った。
誰かが見ていてくれたり、味わってくれたり、誰かと一緒ならば、魚も焼けるし、ハンバーグも作れるのかもしれない。
その場合、美味しいごはんが食べたい、ということよりも、自分について賞賛してほしかったり、同じ時間を過ごしたいという願望が上回っているように思う。
ひとりの場合になるべく省エネルギー、低コストになってしまう事柄は、好き極まりない、ということはないのだろう。
私にとっての料理や旅行はそういう感じがする。
ただもちろんそれを他人がいてくれてやれるのは結構楽しいし、しかし、長期間それをやり続けることは難しい。
一方で、私にとって書くことは、他人を必要としないこともある。
その事の最中に、最も麗しい時間が訪れる、そんな瞬間がある。
ダメだダメだと思う半面で、あぁなんとなく私の思い通り、なんてこともたまに起こる。
無論、他人からのレスポンスというのは嬉しい。
できれば、というかもう当然、批判よりも賞賛の方が良いだろう。
でも、批判されるというのは存在自体は他人に認識されたということに他ならないから、もしかしたら「私の思い通り」であるものに対する作品への批判は、ないよりも良いのかもしれない。
たぶん、食らったら痛いけれど。
世の片隅で誰からも頼まれることなく、ナチュラルな気分で、うふふ、と書いたもの、あるいは、うふふ、でなくても、うぐぐ、でも何でも良いけれど、何かが消化され昇華したものはきっとその時点で完結を迎えているような、そんな気がする。
そんなものであれば、他人がそれを見るときに、何かそのコンテンツにおける素養や、理解を強要することはなくなるであろう。
見る側はいつだって“全体感”から何かを感じたり感じなかったりすればいいだけのはずだ。
まあその一方で、先日俳句について思った通り、その道についての素養教養を積み上げて興じる、という領域も別としてあるけれど。
今の私が思うに、創作において自分だけの楽しみの他に、人を介して成し得たいと思うものは、まったくの理解の強要なしに理解をしてもらうこと、ということなのかもしれない。
いかにも高慢ちきで欲深く、理解の度合いとして極めて高次だけれど、そんなところだろうと思う。
サンボマスターの山口さんが「言葉にならないから、ギターを弾くわけですよ」と言っているけれど、そもそも私も、自分についての何を分かってもらいたいのかが、きちんと系統だてて説明することができない。
それに、そんな自分なんてものは日々刻々と変化を遂げている。
だからまあ、“全体感”を醸せる何かを、そのときの感じでやるのだろうと思う。
音楽やギターについては、私は人に見てもらいたいなどと思ったことが露ほどもないけれど、表現として音楽をやる人がごまんといることの意味は今までよりも分かるようになったのではないだろうか。
ビリージョエルの「ビリー・ザ・ベスト」を聴いて、これぞベストアルバムというような名曲揃いに今さら驚く。
よく耳にする、誰もが聴いたことがある、そんな曲たちなわけだけれど、尚、ビリージョエルがちゃんとそこにいるのである。
心地の良い音楽、に留まらず。
私が拾いたいものは、心地良い、ということだけではなく、心地良くない要素を含むものである。
ポールマッカートニーなどと並んでメロディーメーカーと言われているらしいけど、そうか、メロディがすごいのか、とこれもまた今さら思ってみる。
スーパーで大学生らしくカップルが、「俺これ買って立ち歩きしたいんだけど」とお惣菜の鮭のパン粉焼きを指さして言っていた。
「立ち歩き」という時点でもう私は楽しくなってしまったけれど、鮭のパン粉焼きを「立ち歩き」したいとはもう。
楽しい気分にさせてくれてありがとう、と、飲むつもりはなかったのにワインを買って店をあとにした。
「神の雫」が面白い。
決断が動かぬ列車と秋雨前線
とふと人に言われて、あぁなるほど、と思った。
誰かが見ていてくれたり、味わってくれたり、誰かと一緒ならば、魚も焼けるし、ハンバーグも作れるのかもしれない。
その場合、美味しいごはんが食べたい、ということよりも、自分について賞賛してほしかったり、同じ時間を過ごしたいという願望が上回っているように思う。
ひとりの場合になるべく省エネルギー、低コストになってしまう事柄は、好き極まりない、ということはないのだろう。
私にとっての料理や旅行はそういう感じがする。
ただもちろんそれを他人がいてくれてやれるのは結構楽しいし、しかし、長期間それをやり続けることは難しい。
一方で、私にとって書くことは、他人を必要としないこともある。
その事の最中に、最も麗しい時間が訪れる、そんな瞬間がある。
ダメだダメだと思う半面で、あぁなんとなく私の思い通り、なんてこともたまに起こる。
無論、他人からのレスポンスというのは嬉しい。
できれば、というかもう当然、批判よりも賞賛の方が良いだろう。
でも、批判されるというのは存在自体は他人に認識されたということに他ならないから、もしかしたら「私の思い通り」であるものに対する作品への批判は、ないよりも良いのかもしれない。
たぶん、食らったら痛いけれど。
世の片隅で誰からも頼まれることなく、ナチュラルな気分で、うふふ、と書いたもの、あるいは、うふふ、でなくても、うぐぐ、でも何でも良いけれど、何かが消化され昇華したものはきっとその時点で完結を迎えているような、そんな気がする。
そんなものであれば、他人がそれを見るときに、何かそのコンテンツにおける素養や、理解を強要することはなくなるであろう。
見る側はいつだって“全体感”から何かを感じたり感じなかったりすればいいだけのはずだ。
まあその一方で、先日俳句について思った通り、その道についての素養教養を積み上げて興じる、という領域も別としてあるけれど。
今の私が思うに、創作において自分だけの楽しみの他に、人を介して成し得たいと思うものは、まったくの理解の強要なしに理解をしてもらうこと、ということなのかもしれない。
いかにも高慢ちきで欲深く、理解の度合いとして極めて高次だけれど、そんなところだろうと思う。
サンボマスターの山口さんが「言葉にならないから、ギターを弾くわけですよ」と言っているけれど、そもそも私も、自分についての何を分かってもらいたいのかが、きちんと系統だてて説明することができない。
それに、そんな自分なんてものは日々刻々と変化を遂げている。
だからまあ、“全体感”を醸せる何かを、そのときの感じでやるのだろうと思う。
音楽やギターについては、私は人に見てもらいたいなどと思ったことが露ほどもないけれど、表現として音楽をやる人がごまんといることの意味は今までよりも分かるようになったのではないだろうか。
ビリージョエルの「ビリー・ザ・ベスト」を聴いて、これぞベストアルバムというような名曲揃いに今さら驚く。
よく耳にする、誰もが聴いたことがある、そんな曲たちなわけだけれど、尚、ビリージョエルがちゃんとそこにいるのである。
心地の良い音楽、に留まらず。
私が拾いたいものは、心地良い、ということだけではなく、心地良くない要素を含むものである。
ポールマッカートニーなどと並んでメロディーメーカーと言われているらしいけど、そうか、メロディがすごいのか、とこれもまた今さら思ってみる。
スーパーで大学生らしくカップルが、「俺これ買って立ち歩きしたいんだけど」とお惣菜の鮭のパン粉焼きを指さして言っていた。
「立ち歩き」という時点でもう私は楽しくなってしまったけれど、鮭のパン粉焼きを「立ち歩き」したいとはもう。
楽しい気分にさせてくれてありがとう、と、飲むつもりはなかったのにワインを買って店をあとにした。
「神の雫」が面白い。
決断が動かぬ列車と秋雨前線