つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

拒否

2013-10-31 23:55:07 | 日記
ポールマッカートニーが来日することはなんとなく知っていた。
まあでも、きっとチケットは取れはしないだろうし、死ぬほどビートルズが好きな人たちが行けばいい、そう思っていた。

でもそんなポールマッカートニーの東京公演に行くことになった。
いつもの友人は、高価なチケットに怖気づいていながらも、私に相談したら絶対に行く以外の選択を選べないトピックを持って私にこの話を持ちかけてきた。

クロマニヨンズの3倍以上もする高価なチケット。
その上「S席 注釈あり」
注釈というのは書いてはなかったけれど、機材などのせいでステージがとても見づらいところ、らしい。

チケットが高すぎるから、節約しようと「何けずる?交通費?自転車で行く?」とか冗談で言ってみたけれど、東京ドームなので私は本当に自転車で行けることに後から気づいた。

ビートルズがものすごくビートルズであることは認識しているのだけれど、そのすごさが震えるくらいの体感が未だ持てないことはなんだか少しコンプレックスのように卑屈になりたくなる。
いっぱい聴いていたらだんだん違って聴こえてくるかもしれないし、曲そのものでない補足的な事項を取り入れることによって理解に近づけるかもしれないから、そういうふうにしてみる。
でも、体感もしないで「ビートルズは神!」とか「ビートルズよりも最高なんてあり得ない!」とか「ビートルズでロックは終わってる」とか口が裂けても言えない。

ビートルズが分からないなんてロックじゃない、というようなことを言われたとしたら、反撃できないくらいすごいのだろうということは何となく分かる。
ポールマッカートニーはビートルズではなくて、ポールマッカートニーだけれど。
少し前に借りたポールのソロのアルバム、どんなであったか思い出せないくらい1回流して聞いただけだから復習しておこうと思う。

私の身体がビートルズに震えるようになってほしい。
なんて変過ぎる考えだけれど。

何はともあれ、特別な日になりそうで。
何にしても、楽しいだろうなと。


ヒロトがブルーハーツを解散したあとに一時的に結成していたヒューストンズ。
私は時々、YouTubeで改めてヒロトとマーシーを検索してみるのだけど、今日はヒューストンズ時代の初めて見るライブ映像が上がっていた。
ヒロトは小ぶりなギターを弾いていて、とても自然体で楽しそうだった。

ブルーハーツもハイロウズもクロマニヨンズも、私がヒロトとマーシーを大好きだから死ぬほど見たくて好きだ好きだと思って凝視しているけれど、やっぱりなんとなく、彼ら自身にとっての「ほんとの瞬間」をコンサート中に見られる、というのは少ないような気がしている。
これは最近になってようやく私は自覚してきた。

当然と言えば当然なのだし、そうでなくても十分すぎるくらいに大好きだからいいのだけど、やはりそれなりにパッケージされた商品なのだ。
これは書いている側から「そんなはずない!いつもロックンロールだ」と叫ぶ青き私も今まさに顕在だけれど、でも、そういうことだ。
自分たちが楽しむ、という要素を大事にしながら、お客さまを楽しませるということも念頭に置いている。
それに、「ほんとの瞬間」のような丸裸の姿は、いくらロックミュージシャンだってそんなにあるものではないだろう。

「ほんとの瞬間」というよりかは「はだかの瞬間」というのはコンサート中でも過去のライブ映像でも時々垣間見ることがある。
時には、1曲まるごと、「はだか」であることもあって、そんな「はだか」を私はいつもに増してぎゅうっとなりながら凝視している。
ヒロトは瞬間瞬間で「はだか」を見せるし、1曲まるごと「はだか」のときもある。
安定感のあるマーシーも、時折一瞬にして「はだか」になることがある。
「はだか」が見たいのだ。

そのヒューストンズのライブ映像は、ヒロトは結構長い間「はだか」に近い感じがした。
とても良かった。

もちろん、すべては私が感じた「はだか」であるけれども。

「はだか」が見たい。
それは「ほんとの瞬間」が欲しい、とか、「本当のことを知りたい」とか、そんなことだ。


宇宙にタッチ

2013-10-29 22:11:02 | 日記
自分の傲慢さや勝手さを思い知らされて、恥ずかしくなった。
自分のどうしようもなさをコントロールできるようになることが、大人であるとも良い人間であるとも思わないけれど、グインと引き戻されてなんだか両手で顔を覆いたくなった。

青春じゃないと言い張る私に、「青春は、人への寛容さが欠けている状態だ。多感であることではない。」と言った。
確かに、と思った。
適わない、と思った。

今の私には、自分の中の正しさ以外のものを跳ね除けるような性質が育ちつつある。
だけれども、したかったのは他者への批判ではなかったはずだ。
自分のリアルは他人のリアルではないけれど、他人のリアルはその人のリアルだ。

全てはこの身が体験しなければ手に入れられない。
どんなに人が創ったものから何かを感じても、それは現実的な意味で、生でも今でもない。
いや、それは確かにリアルなのだけれど、人の意見を借りた半分擬似的なものだ。

だから、より「自分だ」ということだけれど、逃れられないその道は素晴らしく楽しいだろうし、やっぱり結構面倒そうでもある。
そっちに行くけれど。


愛読させていただいているブログがある。
大学の先生を通して知ったブログで、大学の先輩の女性の方。
たぶん私よりも10歳くらい年上の方だろうか。
お子さまが生まれてからは、1週間に一度更新される。
もしかしたら、その方は私のこのブログを先生のブログを通してお読みになっているかもしれない。

初めて読んだ時、なんてやさしい風合いのきれいな文章を書く方だろう、と思った。
薄いサーモンピンクの雲のようなイメージの文章。
でもやさしさややわらかさの中に、すごく自分の考えをお持ちの方で、自分の言葉で綴る方。
私は自分の言葉で喋る人が好きだ。

そのブログを読んで私は何度か涙したことがある。
それはほとんど、息子さんに対するこの方のとても大きな愛情の部分。
それと、一昨日更新された記事の中のご実家の話と「卒乳」の話。

私は彼女の書く記事を読んで、時々自分のことに派生させたり置き換えたりしてしまう。
もちろん母としてではなく、子どもとしての自分。
実経験としての境遇が似ているからとかでは全然なくて。
私はこんなふうに大切にしてもらえただろうかとか、私はこんなふうに感謝の気持ちを持てているだろうかとか、そんなことを思うと大人の私と子どもの私が大泣きを始める。

そうか、私はこんなことを考えていたのかと、まとまってはなくても気付かせてくれたひとつのトリガーだった。
それは私が欲しいような大きくてひたひたの愛情を、丁寧な言葉で綴っているからだろうなと思う。

ただのブログ読者の私が、なぜこんなことを、と思うけれど、息子さんはお母さんと一緒で「考えるやさしいひと」になるのだろうなと思う。
そして息子さんは、はっきりとした幸せのかたちをした愛情をたくさんたくさんもらって、とってもとっても幸せだろうなと。
やっぱり子どもがいっぱいいっぱい愛されるのはいいことだなと。

ブログを書いていると、どこまでを赤裸々に書こうかという開示度はいつも微妙なところだと思う。
意識的にも無意識的にも、「そう見せたい」と思う方向に書いているものだ。
彼女のブログはかなり開示度が高い方だと思う。
もちろん全部なんてあり得ないけれど、開示度が高い分だけ、気持ちがちゃんと伝わってくる。
それと、文章がとても上手だから心に落ちてきやすいというのもある。

じんわりあたたかくなる。
ひらがながつかいたくなるような、そんな。


超きび砂糖

2013-10-28 01:07:00 | 日記
イエティ対クロマニヨンのライブに私たちは何度行っただろう。
渋谷、渋谷、渋谷、名古屋、座間、渋谷、水道橋。
甲本ヒロトと真島昌利が私のロックンロールの入り口だったわけで、その彼らが創るものをでき得る限りすべて生で手にしたいと、途中から加速度をつけてライブ以外にもいろんなことをしてきた。

初めて自分で買ったDVD、買い漁ったヒロトとマーシーが出ている雑誌のバックナンバー、勝手にお祝いしたマーシーの誕生日とヒロトの誕生日、勝手に縛られた真島昌利作詞作曲のカラオケと甲本ヒロト作詞作曲のカラオケ、ヒロトをおっかけに行ったフジロック、初めて書道で書いた「情熱の薔薇」、初めて書いたアーティストへの手紙、返って来たヒロトのサイン、続いて書いた「リンダリンダ」「手紙」、マーシーが影響を受けたという「オンザロード」の小説と映画、26年前のライブ映像が映画化された「ビートチャイルド」、ヒロトがゲストで登場する元憂歌団の内田勘太郎さんのライブ。

振り返ると、その疾走っぷりだけで、ぎゅうっとなる。
どうしてこんなに、と思うけれど、だって楽しいから、だってそこに何かありそうだから、ということに尽きる。

彼らだけを見ていたわけでもなくて、そこから派生したギターやその他のロックミュージックもロックの精神も、随分と進んできたなあと思う。
私の場合、ロックミュージックで言えばほとんど何もないところからのスタートだったから、これまでからしたらiTunesははち切れんばかりとなった。
それでも未だに彼らの歌う曲たちを飽きもせず、毎日まいにち、一日も欠かさずに聞き続けている。

彼らに取りつかれているようにも見えるかもしれないけれど、彼らに教えてもらった一番のメッセージは「自分だ」ということで、私はそれをきっかけに自分というものをずっと試しているようだ。

ロックンロールの思い出は、一つひとつが閃光のようにキラッと強い光を放っていて、それは昼の明るいときに起こると白過ぎてほとんど何も見えなくなって、夜の暗いときに起こると一瞬だけ身震いするくらい鮮明に見えるくらいに辺りを照らす。

あるときはひとりで、あるときはふたりで、その光を味わいたくて、文字通りのバカみたいに泣いたり笑ったりぎゅうっとなったりしている。
ひとりでも十分楽しいし、ふたりだともっと楽しい。

最後のライブは家からほど近い東京ドームシティ。
今日が最後の「イエティ対クロマニヨン」
私はすっかり冷たい秋風に吹かれながら自転車で向かった。

渋谷の会場で前方位置を確保する身の守り方を一通り会得したのだけれど、名古屋で節度なく無意味に暴れ狂う人たちのせいでやむを得ず前にいることができずに後方へ撤退したことがあって以来、いつも始まる前は周りに控えている人たちがどんななのかを気にするようになった。
文京区だから大丈夫、という偏見に満ちた見方をしながらもそれでも後ろに下がらなければならなかったらどうしようと不安だった。

でも、文京区だったから、かどうか知らないけれど、とても節度のあるライブ会場で今までで一番前列である2列目にずっといることができた。
マーシーはもう肌の質感までが見えてしまうのあと1mくらいのところにいて、時々人に埋もれながら、私たちが「小窓」と呼んでいる人と人との隙間の小さな視野からヒロトを追った。

私の世界に光を見せてくれるきっかけの人たちが、そこにいる。

相変わらず前方列は身を守るのに必死ではあるものの、周りの人のおかげでいつもよりも安心して見ることができた。
そのおかげか、今までのライブで一番満ち足りた気分だった。
人の何かでびちょびちょになった体で再開したとき、それは友人も同じだったようで、恍惚とした顔をしていた。
彼女はまた、マーシーのピックを握りしめていた。

前日に見た「ビートチャイルド」でも、私をぶち抜いた若かりし頃の彼らの姿に目を潤ませたけれど、それでも生に勝るものはない。
今のクロマニヨンズは本当にハッピーソングを歌うというか、ハッピーソングしか歌わないし言わないからもっと擦り切れたものが観たいような、そんなひねくれたおかしな考えを抱いてしまうのも確かだ。
でも、表面上に表れなかったとしても、彼らが誰の目も気にせず自分のロックンロールを追い続けてくれているといいなあとこれまた勝手に思う。

家に帰って、マーシーがヒロトの頭を撫でているシーンがあるライブ映像を見る。
こんなのってあるの、という感じのする、まるごと感。


スーパーフリー

2013-10-24 08:04:51 | 日記
時々、自分のこのブログを読み直して、本当に私は何度も同じことを書いているなあと思う。
そのときに考えていることを書いているだけなので、気分の振れを主には書いていることになる。
もちろん忘れていて思い出す類のこともあるし、今はそうは思っていない、というようなこともある。
自分で書いておきながら、だったらそんなこと言うなよ、という類にこともちらほら見受けられる。

今は私にとって決して少なくない人が読んでくださっているようだけれども、私が書くのも、読んでくださるのも、どちらも自由なので、何度繰り返し堂々巡りをしていても別に問題はない。
私が書くことは私の表現力や少しの世間体などで制限もされてはいるが。
なんにせよ、私は思いの真ん中にあるようなことしか書いたりすることはできない。

「ロックンロール」がここ1年くらいの私の中心に強くあって、それについて何度も何度でも触れたいし欲しくて仕方がないのだからしょうがない。
私を揺さぶっているものについて、私が私を知りたいのだからしょうがない。
それにまつわる喜びや怒り、つまりは自分の感情の振れどころ、振れ幅、そして何がそれを起こしているのか。
「どうしようもない私」を精一杯私がかわいがって愛してあげたい。

ただ、時々否定的なことを言うのは、もっと別の言いたいことがあるのにそれをうまく言えなかったり、言うのを留めていることがあるからだ。
それを何か別の形で出すことができるといいなと思う。
何か別の形で、というのがいまいち定まらないからこれから色々試そうと思う。

11月8日で現在勤めている会社を辞める。
と言っても、同じ会社から仕事を請ける業務委託のような形態への変更となる。
28歳にして、自らフリーター志願。
理由は、簡潔に言うと、「ロックンロール」を追いたいから。
それに伴って私の心と体が今の仕事に全くついて行けなくなってしまったから。

と周りに言うと、「音楽作るの?」とか言われたりするけれど、そういうことではない。
書道をやっているから「書道家になるの?」とも言われたりするけれど、書道はたしかにひとつの表現方法として私が好んでいるものではあるものの、「書道家」ということにしっくりきているわけではない。

ロックミュージックも書も大好きだけれど、私が欲しいのは音楽そのものや書そのものというより「ロックンロールの精神性」なのだ。
だから音楽でなくても書道でなくても構わない。
先ほども書いたけれど、では何で表出させればいいのかはやってみないと分からないし、探ってみて見つかるかどうかも分からない。
今考えているやりたいことをやってみて、それがどうであるか体で感じ、その後は飽きないように何かを見つけていきたい。

「ロックンロール」を追い求めながら、それとは違う仕事ができないということはないと思う。
しかしながら、今の会社はベンチャー企業であり常に革新、改善、実行をしなければならないし、それについて極めて柔軟でなければならないし、賃金よりもそれにかける労力や時間を厭わない在り方が必要になる。

いや、必ずしも今の会社の皆にとって、そういう在り方が必要ではないし、そんなこと思ってない人もいると思う。
しかし、私がこの会社で社員としているのであればそういうスタンスを取りたいと思ってきたし、少し前まではそうやってきた。
「一緒に働く人が好き、この人たちと仕事がしたい」というふうに思ってきたけれど、会社の人がどうとかではなくて、自分のロックンロールの方が断然重要になってしまった。
誠にまことに勝手なことだけれど、ここで社員として働くことは私の精神的自由を脅かし始めて、それはたぶん社員として働く限り取り去れないだろうと思った。
もっと単純に勝手なことを言うと、興味のないことに精神力を費やせなくなった。
帰属意識が明らかに欲しかったこともあったけれど、組織に帰属していてもいなくても、私の望む安心など得られない。
人に迷惑はかからないようにとは思うが、どうしてもある程度はかかってしまう。

かと言って食い扶持は稼がないといけないわけで、それはなるようには努力もする。
ただ、社会的なキャリアやステータスは、本当に全くもって一切どうでもいい。
これに関しては強がっている部分はない。

新卒で入った会社を辞めるとき、私はあり得ないほどの盛大な送別会をしてもらった。
辞めることはそれで良かったけれど、あの会社というか職場から離れることにものすごい寂しさと切なさがあった。
今回は驚くほどそういうものがなくて、それは業務委託になるだけだからということが多分にあるとは思うが、私から「良い職場環境」というものを取り除かれても困らないし悲しくもない。
これを会社の人が聞いたら何て勝手で何て薄情だと思うだろうけれど、それは私が持つある種の冷たさなのだろうと思う。

仕事も人とつながるひとつの手段だけれど、そうでない、1対1の人としての良い関わり方がしていけたらと、これまた勝手ながらに思う。


自分の欲しいものは何ですか。
自分がやりたいことは何ですか。
自分はどうなりたいですか。
自分のことが好きですか。

それは本当ですか。
それをやれていますか。

自分でずっと、聞いていく。
面倒な自分の面倒は、一生をかけて見ていく。

「自覚的であれ、当事者であれ」



全裸のクロマニヨン

2013-10-22 22:47:01 | 日記
私を揺さぶっている一番根底はなんだろう、とずっと考えてきた。
それがだいたい言葉になるようになって、その思いは決して透明で純度の高い水のようなものではなくて、全然きれいなんかではないことも分かった。

一番中枢の部分に触れてみると、そこはまだ驚くほど熱くて、どうにもしようがない。
言葉にしてしまうと、それは本物の嘘みたいに思えて、でもそれが私を揺さぶっているという本当のことを、私はずっと誰かにわかってもらいたいような心持ちと、そうすることが卑しいような心持ちの両方を抱えてきた。

今でも変わらず、抱えている。
そのことで私は自分自身を破壊してしまうことはないのだけれど、誰かが私の思うようにそれを赦してくれることを夢見ているのかもしれないし、でもそれをたとえ私の思うように赦してくれる人がいたとしても、最後の最後で私の満足はたぶん得られないだろうことも想像がつく。

とても傲慢で、とても独りよがりで、とてもずるくて。
自分でわざと作り上げたような思考を、私は時に自分で疑う。
跳ね返らないことをいいことに。

人は大袈裟だと言うかもしれない。
私だってそう思わなくはない。

少しずつ、遅々と変化する心の動きを見ながらやっていく。

悲観は嫌いだ。
卑屈も嫌いだ。
それに全面的に悲観しているわけでも卑屈になっているわけでもない。

見えない自由を、掴みかけの自由を、自分のものにするために。
その自由をずっと手放さないために。

時々、自分で自分を実験してみる。
私は何をすると喜ぶのか、何をすると笑うのか、何をすると熱くなるのか、何をすると悲しいのか、何をすると怒るのか。
自分でも計り知れない深淵に、はまってみたり、楽しんでみたり。


嬉しい話を聞いた。
望んでいることが叶うことは、とても嬉しい。

人の自由は自分の自由だよ、と友人は私に対して言った。
自分の側にいる人が自由を手に入れると、自分も自由になるきっかけを得られる、と。

私を見て自由になるきっかけを友人が感じてくれて、実際に友人自身の自由の方向に動き出したとしたら、それはそれは嬉しい。
各人にとって自由が真に良いことどうかという点も含めて、私はその自由に責任は持てないけれど、私は自由であることはとても良いことだと思っているし、好きな人たちにも自由であってほしいと願う。


“ロックっぽい”ギターの演奏がどうにかやりたくて、YouTubeで探してみると、懇切丁寧に説明をしてくれる動画があった。

マーシーのギターが耳コピできればまた違うけれど、とりあえずブルーハーツやハイロウズの曲をコードだけで弾くのは飽きてきたのだ。
もちろん大好きな曲に触れられるのは嬉しい。
でも、さすがに3つから5つくらいの簡単なコードを繰り返すのは、ギターを弾くということにおいて面白味に欠ける。
そう思えるくらいには弾けるようにもなった。

だから最近は弾きやすい他の曲もコードで弾く。
「さすらい」「フロンティアのパイオニア」「イージュー★ライダー」「ずっと好きだった」「チェリー」「空も飛べるはず」「少年時代」「Whatever」「Don't look back in anger」「Stand by me」「Macy's parade」など。

ただあくまでコードを追っているだけなので、特に“ロックっぽい”感じはしない。

動画で演奏している人は大げさなくらいの弾きっぷりで、出している音は“ロックっぽい”感じ。
耳コピするのも、タブ譜を読むのも、諦めたくなって大方諦めているので、動画という手だてはありがたい。

「超初心者向け」というタイトルが付いているのだけれど、その演奏を通して聞いてみると、あまりに難しそうで手だしできないのではないかと思ってしまう。
見る人が見れば、「超簡単」なことをやっているのだろうけど、私が見ると「すごい」となる。
でも、その通し演奏の後に小節を分解して、一つひとつの音をものすごく丁寧に説明してくれるので、その通りに追いかけてみる。
それより細かいことを聞けはしないけれど。

やっぱり最初はできない。
ギターはよく“センス”が問われることが少ない楽器であると言われるが、いや“センス”だろうと思っていた。
それでもフレーズを分解して何度も反復していくうちに、なんとなくそれっぽくなってくる。
リフが手に馴染んで、スピードも出せるようになる。

「練習あるのみ」と言われて、「練習して本当にできるようになるのなら練習するけれど」と卑屈に考えたくもなったが、たぶんそれはある程度理解ができればあとは確かに「練習あるのみ」なのだろうと思う。

できると楽しい。
そう、できると楽しい。