つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

喉が切れるほどに

2015-01-30 01:03:14 | 日記
飲みやすい日本酒のことを「水みたい」と表することがあると思うけれど、私はそれについて実体感したことが今までなかった。
普段日本酒を飲まないし、たまに誰かが飲んでいるのをもらったりすることはあっても、美味しさについて考えたこともなかった。
そもそも、私はお酒の味が心底美味しいとは思って飲んではいない。

でも、昨日飲んだ日本酒は「水みたい」に美味しかった。
「味付きアルコール入りの水」といったところだろうか。
口当たりが軽いこと、水のようにさらりとして刺激がないこと。
そういうことなのか、という体感。

しかしながら、アルコール度数が高いということは、当然少量でも酔っぱらってしまう。
当然二日酔いにもなる。

久々に、気持ちが悪くなるほどで、横になるとそのまま寝てしまった。
寝てしまう私に、「お餅食べる?」と聞くと同時に座布団を二つ折りにして枕をくれたことをかろうじて覚えているが、「お餅食べる?」と聞かれた記憶はもしかすると私の妄想なのかもしれない。
「お餅食べる?」と聞いたのか、今度聞いてみようと思う。

お互いにとって、話したいことをある程度話したいように話せる人がいるということは、本当にありがたい。
その開示度は、互いに推し量りながら時間をかけて紡いでいくもので、私は一般的に言う人見知りではたぶんないけれど、当然みんながそうであるようにやっぱり人見知りだとは思う。
リラックスした反応ができるようになることも、気負わず話ができるようになることも、初めからいつもなるべく自然にやりたいと思いつつ、時間が経ってみて、最初の頃を思い返してみるとやはり関係値は徐々に上がっていくものだなと思ったりもする。
あと、他人に対する緻密な理解、というものも少しは積み上げていくことができるのだな、という気もする。

ある意味でとても信頼していて、ある意味で信頼していない。
信頼できない、ということを信頼している、そんな関係。
それでいい、それがいい。

少しでも、話したい話ができる、ということは、人生の中でもとても貴重で、とても重要なシーンだ。

そこにお酒は必ずしも必要ではないけれど、あった方が楽しい場合も確かにある。
それに、あった方が美味しくなる食べ物もたくさんある。


いただいたしいたけの原木にしいたけがびっしり生えた。
毎日霧吹きで水をあげて湿らせ、しいたけが原木から吹き出してくるのを観察していた。
寒い部屋にうっすらといつもしいたけの香りが漂った。
原木からひょこっと芽が出てからは、ぬおおお、と大きくなっていった。

驚くべき成長力で、菌の力を思い知ったわけだけれど、これに関しては心から愛おしいという気持ちが沸いてくることがなかった。
植物の若葉はあんなにも愛おしいのに。

おそらくこれは、見た目によるものだなと思う。
ぼこぼことごつごつと吹き出してくるしいたけは、ちょっとおどろおどろしい。

この後胞子を吐くらしいのだが、胞子を吐くと味が落ちるらしい。
それまでに刈り取ることはしいたけ栽培において重要事項なようなので、密集している小ぶりなしいたけすべてをはさみで刈り取った。

すぐには食べないので、そのままジップロックに入れて冷凍する。
石づきも食べられるらしい。
しいたけ祭りができそうなほど収穫できた。

何にして食べようか、シンプルにバターソテーなどがいいだろうか。
食べると愛おしくなったりするかもしれない。

この後は、一旦給水させて2~3週間休眠期間。
上手くいけば3回ほどこれが繰り返すことができるらしい。


傷ついたミントを千切った冬の朝




膨れ上がる清涼感

2015-01-26 13:19:37 | 日記
最近1週間くらいずつ、同じ格好をしていることが多い。
そんなこと、公に告白などしなくていいのだけれど。

同じ人に毎日合わないので、毎日服を変える必要がないのである。
週に1度だけ服を選べばいいので、とても楽である。
あぁ私、服を選ぶことが結構面倒だと思っていたのだと知る。
もちろん、言うまでもないと思うけれども、下着とかそういうものは変えている。

着尽くす感じになるので、ニットなども洗いたくなって普通に洗濯機で洗う。
まあ縮んでしまったらそれまでで。
ワンシーズンに一度クリーニングに出すよりも服を洗うことになるような気がする。
それに、最近はあまり服は買わないけれど、新しい服があまり欲しくならないのもいい。

時々週に2度顔を合わせてしまう人もいて、そうなるとついこないだと同じ服を着ている、ということになるけれど、そんなことは特別な問題ではなく、相手はそれにさえ気付いていないことだって多いだろう。
まあ、毎日毎日同じ人と顔を突き合わせていたって、同じ服を着ていることの問題など、汚れていたり臭うといった不快感さえないのであれば、何にもないのだけれども。


今年の初句会に参加する。
毎度違う思いを抱いて帰ってくるのだが、今回思ったのは、自分の句を晒すのに随分慣れてきたな、ということであった。
句会の得点は別に良いものではなかったけれど、ただ晒すということも、得点をいただくことも、批評を受けることも、変に緊張せずにやれるようになってきた。

それは日常的にこのブログで晒すようになったということが大きいと思う。
俳句を作る、という行為の背景や、思いの乗せ方、遊び方、みたいなものに触れる量が少し増えたので、「まあいろいろあるよね」というふうに思えるようになってきたのかもしれない。

そうなると、今回「ロックさが失われてしまった」というような意見もいただいたように、当初知識も味わい方も知らずに作った句の新鮮さからは遠のいてしまうことにもなる。
しかしそれは「ビギナーズラック」の要素も多分に含むわけなので、全くもって同じスタンスでそれに望むことはもはや不可能である。
知識や技術を集約して、狙って自分の思い通り、ができることが望ましい。
そして、それに周りの評価が付いてくるのであれば、それはもう、尚素晴らしい。

今回のひとつに、私は自分のあいさつ句として、「思い込め髪止め息止めお書初め」という句を持っていった。
実はこれ推敲前は、「お姑お止めお咎めお書初め」だった。
もう一段回前は「二度書きはお止めお咎めお書初め」だった。

生徒さんからよく「小学生の頃、二度書きをして怒られました」とか、「二度書きっていいんですか?」などと聞かれるのでこの言葉を使おうと思った。
ちなみに二度書きの話をしておくと、「バレない技術があればどれだけでもしたら良い」というのが私の答えだ。

せっかくだから全部韻を踏みたくなったのと、新年初句会なので少しめでたくしゃきっとした感じの方が良いかと思い、最終的に「思い込め~」になったのだった。
「お姑」は、所謂口うるささが掛かっているので良いかなとも思ったが、「お書初め」に繋ぐには遠いか、とも思った。

俳句は、私にとってまだまだやっていきたいと思える、楽しいことである。


その後、句会に初参加の方とお茶をして、仕事に向かう。
連日の早起きで、疲労感を盛りに持って家に着く。
いつものようにソファで1時間ほど変な体勢で寝てしまって、いつもはあと3時間も4時間もそこで寝てしまって首を寝違えたりするのだけれど、「疲れているならベッドで!!!」と自分に叱咤してベッドに向かう。

久しぶりに午前2時に就寝、昼12時に起床。
今日の朝が締め切りだった仕事を昨日の朝やっておいて良かった。
よく寝た。


思い込め髪止め息止めお書初め
お姑お止めお咎めお書初め









眩しすぎてできない

2015-01-23 15:18:49 | 日記
結婚式の花に追い打ちをかけるように定期便の花が届いて、今までにないほど部屋が花だらけである。
まあでも部屋が広いので、いくつもの小瓶に分けて、部屋のあらゆるところに花を飾る。
ひとしきり、写真を撮る。

レッスンについて思うことが、とてもたくさんあるのだけれど、どのくらいここに書いて良いものか、と思う。
今さら少し失敗したなと思っているわけだが、名刺にこのブログのURLを載せてしまっていて、特別な案内は全然していないものの、見られてしまう可能性は多分にある。
いつ何時、誰に見られても良いように書いているのは、「勿忘草」の頃から変わらないし、無論見ている人が誰であろうと全部をここに書いているわけでは毛頭ない。
それでも仕事用の「外向き」「内向き」の顔があるのも当然のことで、その開示度の制約を私として決められずにいる。

まあ、このブログくらいの感じも含めても私のことを良しとしてくれるくらいの方でないと、続けてくれもしないだろうなと思ったり。
当然に、仕事は真摯にやるのだけれど。

というのも、ひとつ、黙っていられないことがあって、それは「レッスンを受けただけでは上手くなりませんよ」ということである。
要は「自分で意識すること」「自分で練習すること」しか上手くなるなんてことはあり得ない。
コツを聞いたら、次の日から上手く書けるようになんてならない。
「30日で上達!」と書いてあるテキストは「あなたが30日でやった分だけ上達!」ということである。

まあ見ただけ、聞いただけで上手くなれる人がいたとしたら、別に習う必要もないと思うのでここでは置いておく。

理解をすることは非常に大切なことであるし、私もいかに理解をしてもらおうかと思って解説をしたりする。
しかし、「字が上手くなる」ということは、「緻密な運動が的確にできるようになる」ということでもあるので、それは手が、体が覚えてくれるしか方法がない。
それに、今まで何十年もそれでやってきた無意識化の癖と向き合うということは、自分と向き合うということにもなり、案外容易なことではない。
しかし、その屈強なものと向き合いながら、理解と運動によって、なりたい方向へ近づいていくのは当然誰にでも可能なこととも言える。

驚くべきことに、私たちは懇切丁寧なありがたい義務教育のおかげで、ほとんど皆記号として読むことができる字は書くことができる。
考えてみると、あらゆるさまざまな線を使った文字というものを無意識に言葉としてつらつらと書けるということはそれだけで恐ろしい技術のようにも思える。
たとえば義務教育でギターが文字ほどに社会的に必須、必修なことだったとしたら、おそらく私たちはみんなある程度速弾きなんかもできてしまうのではないかと思う。

記号として読める字が書ける、本当はそれで十分なはずだ。
そういう意味では、私も生徒さんも、まったくの同レベルである。
字なんか習う必要なんてない。

けれど、なんらか他の望みや欲を叶えたいと思うから、「自分の字が恥ずかしい」と思ったり「字が上手くなりたい」と思ったりするのではないだろうか。
それは悪いことではない、というか、むしろその欲はとても好ましいものだし、愛おしいものだと思う。
記号として読める字が書ける、その必要以上に成し得たいことがあるというのは、生きていく上でもとても良いことだと思う。

それには、字のことを好きになる必要がある。
少なくとも、興味を持つ必要がある。

私が、人の字に対してできることは、その手法をできるだけ多く、できるだけ多角の方面からアドバイスすることくらいだ。
もちろん教えるということについての手法は私はもっともっと磨かなければならないというのもあるけれど。

自分が苦手意識があることに向き合うことがいかに難しいかは、私もできないながらにギターをやるのでよく分かる。
人前で苦手なことをやることがどれほど恥ずかしく縮こまってしまうかも分かる。
それでも気になる、それでもやりたい、だからやるのだ。

物事を体得する、というのは何であっても根底にはとても近しい、いやほぼ同じ概念を持っているように思う。

私は、「きれいな字」の定義をさて置いておいたとしても、「きれいな字」が好きだ。
人それぞれ持っている「味のある字」も好きだ。
それに、どうせ一緒の時間を過ごすのであれば、当たり前にお互い楽しんでメリットを享受できたら良いね、ととても単純に思う。

熱くなってしまった。
そりゃあ熱くなってしまう。


鯛焼きを割り見て湯気に溶ける愛




魔術師は何度も捲る

2015-01-22 03:11:28 | 日記
朝9時、比較的良く寝た、と自転車を走らせると、小針のような霙が降っていた。
冷たい空気の中、微かな細い針が顔に刺さるようだった。

忙しいいそがしいと言いながら、酒なんか飲んでいたのだけれど、別に私は忙しいと酒が飲みたくなるタイプではない。
ただでも、誘ってもらえれば7割くらいは断らない方だったりもする。

諸々の仕事を終えて帰宅し、焼きそばを作る。
何が食べたい?などと自分に問うている暇などなくお腹が空いていた。

ごはんがあればごはんが食べたかったけれど、生憎炊いたご飯はなく、一番早くできるのが焼きそばだった。
玉ねぎとにんじんと、肉はベーコンしかなかったのでベーコン。
まあ別に得体の知れたものばかりを炒めて、ソース粉で味付けしたのだから不味いわけでもないが、やぱり豚肉や卵が入っている焼きそばの方が断然おいしい。

最近、トマトまるごとと長葱とウェイパーを一緒に炊飯すると「悶絶ものの美味しさ。女子が2合一気食いするレベル」というネットの記事を見て、それを先日やってみた。
確かにおいしい、が、悶絶はしない。
2合ではなく、半合を食べた。

記事では米2合に対し、トマト2個となっていたが、炊飯器の大きさに対して多すぎる気がして1個にした。
長葱もなかったのでたまねぎで。
それらが問題だったのかもしれない。

塩胡椒は炊きあがってから好みでかけるのだけれど、その量が微妙だったような気もする。
しかし後日、冷蔵庫にいれてあったそのトマトごはんを食べると、味がなじんでいて何とも美味しかった。

まだトマトが1個あるので、今度は長葱にして、塩加減にも注意して再度やってみようと思う。
リゾット風だったから、タイ米を使っても良いかもしれない。


日曜日の句会の投句締め切り。
日常的に俳句を作るようになって、いくつか溜めてあるものもあるのだけれど、いざ句会へ出すとなると「これはいかがなものか」と再び推敲することになる。
良かれと思ってブログには載せずにとってあった句も、再度対面すると「はてこれもいかがなものか」となる。
それに、句会用の3句は絞ってあったはずなのに、他のも捨てがたいように思えてもくる。

結局、投句分の3句のうち2句は、句会主催者さんにメールを書きながら、当初のものにだいぶ手を加えることとなった。
0時を超えて、日付が変わってしまってから、遅くなりましたと投句。

日曜日にまでレッスンを入れてしまっているので、句会の前後にも仕事がある。
なんて多忙な奴だと思われるかもしれないが、おそらくこの多忙は長くは続かないような気がする。
新規で来る人のうち、当たり前に初回のみの人も、3回くらいしか続かない人もいる。
新規数の流入口も狭めているし、残ってくれる人は残ってくれる、ということで落ち着いてくるだろう。


あまり人が入った写真を撮らないけれど、手だけでも入れてみると人間感がとても漂う。

たぶんこれで最後、『カイジ』語録。


喫茶室初老集いて春場所かな




両手でバイバイ

2015-01-20 03:55:41 | 日記
自転車をお迎えに行った。
ここの撤去保管場は2回目なので自信を持って行ける。
「開かずの踏切」が開いていたので急いで渡る。
つかまったら大変だ、と知っているから。

牢屋みたいな高い鉄壁の中の自転車置き場。
この前と同じように足を踏み入れると警告音と警告ランプが迎えてくれた。

「日曜はほとんど撤去作業しないんだけどねえ。ごめんねえ、5000円かかっちゃいます。」と受付のおじいさんになぜか謝られた。
支払いを済ませて、道を聞き、鉄壁の外に出るとなんだか少し釈放された気分になった。


書道やペン字のレッスン数がとても増えてきて、私の心を占める割合も大きくなってきた。
ある企業に登録している講師であるとは言え、ほとんど何かを背負わない「私」と「誰か」がお金が発生するという中で接するのだから、そりゃあ心も占められるというものだ。

本当に新規の体験レッスン希望が途絶えず、断らねばならないとか、場所や時間を変えてもらうとかしないと受けられないくらいになってきて、駆けずり回っている感じがする。
借りた「ジョジョの奇妙な冒険」も全くもって読む時間がない。
言ってみれば仕事としては「良い状態」とも言えるかもしれないけれど、疲弊してしまっては色んな意味で良くなくなってしまう。

トラブルも起こるもので、今日は自宅でのレッスンの生徒さんが時間を間違えて30分早く来てしまった。

私はまだシャワーを浴びた直後で、パジャマで化粧もしておらず、洗濯機は回っているし、机も出していない、もらった花を活けかえている途中で部屋はわちゃわちゃ、という状況だった。
どうしよう!!!と思ったが、とりあえずインターフォン越しに1分ほどお待ちいただいて着替えだけして「こんなで良ければ…」とわちゃわちゃの部屋に迎え入れた。

まあ時間を間違えたのは生徒さんなので、「私、30分時間をどこかでつぶしてきます」と仰ったのだけれど、もう部屋も私もわちゃわちゃなのは見られてしまったので「やりましょう」と言ってレッスンを始める。
髪は半乾き、ノーメイク、かろうじて眼鏡でなくコンタクトという状態で。

しかし、レッスンでは私の伝えたいことがいくつか伝わった気がして、またその生徒さんが初回よりも饒舌に話をしてくれるのが単純に嬉しかった。
話の内容が何であれ、熱を帯びて話している人の顔を見ているのは好きである。

ほとんどの生徒さんが私のことを「先生」と呼ぶ。
案外それには早くに慣れてしまって、「先生」と呼ばれたりメールの宛名が書かれていても自然に思うようになった。
ただ、「先生」と呼ばれても、普通に苗字で呼ばれても、私の態度は別に何にも変わらない。
どちらで呼ばれたいとか呼ばれたくない、とかもない。


友人の結婚式の花をオアシスから引き抜いて花瓶に挿しかえる。
青を主とした色合いのアレンジメント。
ミントやゼラニウムもあって、度々深呼吸してしまうほど良い香りがする。
ありがたいことに、また部屋が花だらけになっている。

忙しいから尚、わちゃわちゃの部屋を久しぶりに猛烈に掃除する。
タスマニアンラベンダーの精油を使って、いつも通り2回水拭き。

すっきりして今度はPCに向かう。
ブログを書いたら、ライター業の仕事をする。

多忙ぶるのは好きではない。
私の場合基礎が怠惰なので、疲れて動けない、という時間がとてつもなく長かったりする。
そういうことも含めて多忙、ということなので、人の心配には及ぶものではない。
それでも、個人事業主になって以来、初めての多忙っぷりである。
全然風邪ひかないけれど、風邪ひけないな、という感じである。


ミントにちょっと傷をつけて香りを吸い込む。
精油とも全然違う、生々しい生の香り。
この香りは、モロッコを思い出す。


また『カイジ』語録。


着膨れたわけじゃないのよキャバクラ嬢