つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

研鑽なんて

2013-12-31 23:59:22 | 日記
年の瀬の早朝、自転車で受ける冬風は、おでこが凍りそうに冷たかった。
かき氷を食べなくても、おでこは凍りそうになるのだなと思った。

お正月用にマニキュアを塗り替えていつもよりもほんのちょっとだけ丁寧に掃除をして。
一年を振り返ろうと思ったけれど、そんな時間もないしそんな気分でもない。
かと言って過去を全て置き去りにして、今と未来だけを見ているわけでもない。

なぜだかふと思い出した、小学校の頃の校訓「独立独歩」。
先ほどウィキペディアで調べたところによると校訓は「よい子・強い子・明るい子」となっていたが、この言葉も確かにあった。
あの頃に意味を考えてみたことはないけれど。

今年はこのことを、体で、心で、知り始めたような気がする。
そしてそれはこれから死ぬまで続く私の人生の決意のようなもの。

どんなに苦しくても、どんなに楽しくても。
そうありたい、と同等に、ただそうなんだ、ということ。

来年も、どうぞよろしくお願いいたします。





満面の笑顔で万歳して

2013-12-30 02:20:42 | 日記
この前はじめてバンドのようなことをやったとき、男の声は、女の私たちには確かに低すぎて思うように大声を出せないことに少しの虚しさを感じた。
それはそれまでにもカラオケでも十分に感じたことがあったのだけれど、原曲キーでやりたいということになぜか私はとても固執していた。
ヒロトのように歌うことは難しくても、せめて音域でそれっぽくなりたかった。

それに、持っているコード進行表で、すぐにはキーを変えてギターで弾くなんてことなんて到底できない、と思っていた。
しかし、リンダリンダやtoo much painなどはどうやっても低音部は声が出ない。

ということで、ギターでキーを1音上げて弾いてみることを試してみる。
そんな芸当私にできるはずがない、となぜだか頑なに思い込んでいたので試したことすらなかったのだ。

ドレミファソラシドと、CDEFGABC。
半音と全音。
フレットは半音ずつ上がっていくこと。
コードは押さえ方はそのままの形でずらせること。
私のギターとコードで知っていることを総動員させる。

なんだ、大したことではない。
できる。
コードを書き換えることもせずに、見ればだいたいわかる。

CはDになって、そうか、EはF♯になるのか。
Emが随分ハイポジションにきてしまったと思ったら、そうか、Emは普段使っている場所はこっちだ。

当たり前極まりないことをギターと左手で認識しながら、プリントアウトしてある曲の片っ端から1音上げて弾いてみる。
もう上がったキーで歌いやすいかどうかも忘れて。

音楽的センスも、数学的センスも空間認識力もまるでない私が、頭の理解と実践をもってそれがわかったのだ。
たどたどしくも、できたわけだ。
なんて、なんてめでたいことではないか。
ちなみにギターは数学的センスと空間認識力が、音楽的なこと以外にも必要だと私は思っている。

簡単なコードを弾くことからさっぱり進めない私のギターが、今日ほんの少しだけ進んだ気がした。
やっているのはただ単純なコードを弾くことではあるから、ギターの技術で言えば1歩も進んではいないけれど。

そんな人にはわからない微々たる進歩の喜びついでに、またYouTubeで動画を探して、単にジャーンとコードを弾く以外のことをしてみる。
時々こういうことをするのだけれど、全然できなくて諦めて、またそういうのがやりたくなって少し練習して諦めて。

結局またコードだけを追う、なんとなく形になるから。
もっとロックっぽいギターを鳴らしたい、とそれは確かにそう思うけれど、私にはブルーハーツの歌を、ハイロウズの歌を歌いたい、ということの方が断然大事で、音はただ雰囲気的に存在してくれればいいのだ。
コードを追うだけで十分に頭には曲が流れるし、ヒロトやマーシーの気持ちが入ってくる。
それがしたいのだ、気持ちを持って行かれたいのだ。
いかに、気持ちを持って行かれるか、気持ちが乗せられるか、だ。

と、思ったところで、たぶんもっと弾けたらもっと気持ちも乗るだろうことも分かっているので、上手くなりたいとは切に願っている。
ただ今の方法では埒が明かなそうなので何か方法を考えねばならない。

いよいよ年が暮れてきた。

ウインナーなどの加工食品は冷蔵庫であれば1~2か月問題ないだろうと思っていたのに、カビが生えた。
確かに賞味期限は10日ほど過ぎているけれど。
食材をダメにするのは、結構大きな後悔に苛まれるものである。

そして、年内のゴミの収集最終日に、なぜかいつもよりも収集時間が早くてゴミを出し損ねてしまった。
カビが生えたウインナーそのまま年越しになってしまうではないか。
ものすごいショックだ。


「終わらない歌」





あんパンパン

2013-12-27 18:21:05 | 日記
私は部屋に物が増えるのを嫌う。
広い部屋に引っ越して、机など一部大きな家具は増えたけれど、その他のものはほとんど増やしてはいない。
部屋が狭くなるのも嫌だし、物が増えると掃除が大変だし、そもそも10年もここに住もうというふうには考えていないのでいつでも身軽にしておきたい。

だから何かを新しく買うとき、何を捨てようかとまず考える。
いつもたいていそうしているから、最近はあまり捨てるものが思いつかない。
それでも何か捨てようと、比較的使ってきたが最近使っていないものや、使ってはいるものの使い勝手がよくないものを捨てていくことになる。

なぜかいつも容量とデッドスペースのイメージが私にはあって、容量の大きな段ボール箱に入っているリンゴなどは小さな紙袋に移したり、ほんの少しのデッドスペースに収納できるものを探して片づけたりする。
ゴミで部屋の容量を取られているのも本当に我慢ならない。
要らないとわかりきっているものを手元に置いておくのが嫌なのだ。

また、容量が大きなギターアンプをもう一つ買うのはとても躊躇うけれど、容量の食わない音楽やピアスはいくつでも買ってしまう。
しかし本当はギターアンプの方が私の心の充実度を上げるには大きなことかもしれないから、この癖は時々自分で破壊しながら物を買う。

電気ひざ掛けを2枚買ってから何も捨てられていなかったので、物としては好きだったがかさ張る上にあまり使い勝手が良くないラタンのかごを2つ粗大ごみに出す。
次はたぶん、大好きで購読しているがほぼ読み返すことなく、お気に入りのインテリアの一部と化している雑誌NUMEROのバックナンバーの処分だろう。
雑誌は容量も大きいことに加えて、密度もある。

ついでに服を買うときも好き嫌いや色やデザインなどの他に、容量について考える。
ダウンコートを買うならば、2着くらいニットやジャケットなどの物を捨てたい。
もこもこで容量の大きなニットを買いたくなることも多々あるのだけれど、収納面だけでなく洗濯をするときの容量も考えて今まで何度も断念したことがある。
別に収納しきれないということも今のところないし、容量の大きなものは総じて温かいのだけれど。

さて否応なく年末だけれど、私は毎週の掃除が大掃除みたいなものなので特段大掃除をする必要もない。

ローリング・ストーンズの先行抽選が外れてしまったので、一般発売開始の0時にスタンバイ。
アクセス集中で購入に進めず、何度かのトライの後にチケットを手に入れた。
たぶんポール・マッカートニーのときと同じくらい米粒サイズだろうけれど、これはロックンロール記念として是非見ておきたい。
そして何か感じられたら最高だ。


これは依頼をされて書いたもの。
言葉が言葉だけに「複雑な生活」にだけはならないように、と思って書いた。

私は古典の中では篆書体を書くのはとても好きである。
歪みのない鮮やかな線を引くのは心地よい。

まっすぐな線を引くにはある程度のスピードが要る。
これには少しの訓練と潔さが要る。

ところどころ曲がっているのは技術不足か愛嬌か。
そういうものか。





どうして君は

2013-12-26 03:15:53 | 日記
最近、ひとりでいると、いつも自分の心を試している。
何かも見るとき、何かを書くとき、何かを読むとき、何かを聞くとき、何かを食べるとき。
場合によるけれど、私はこれらをするときに誰かと一緒だと混じりけのない私の判断がうまくできない。

誰かといれば、基本は喋ることに重きを置いているので、感覚の部分を一部放棄する癖があるのかもしれない。
多かれ少なかれ求められていそうな役割を果たそうともしているだろうし、喋ることに真剣で他のことまで気が回らないということもある。

ただ、誰かといてそれを越え割り込んで感覚として入ってくるものもあって、そういうとき私は嬉しくなる。
喋ることを遮るくらい、そういう直感的に良いものに出会えた、という喜びと、他人を気にせず自分が勝手になれた、という喜び。

時々、心が動いていない期間が続くと不安に思うことがある。
私の心が動きづらくなってしまったのだろうか、とか、私は私に飽きてしまったのだろうか、とか。
もっと震えたい、ちゃんと反応してくれ、と心底願っている。

それは本当に不意にやってくる。
「いきなりくる」である。
「昨日はガイコツだったのに、今日はサイダーになってる」
ちょっとしたことで心のジャンプ力を確認できると安心して、また次のを探す。

私は一体、どうなっちゃったのだろうか。
そうなっちゃったのだろう。
そうなっちゃっていたいのだろう。


生活の質を向上させたいと、買った少し高価なタオルが全然使えていない。
つい“バシバシ”のタオルを使ってしまうのであって、それでまた結局“バシバシ”のタオルを使ってしまうのである。
雑巾にすべく切ってしまえと思ったけれど、雑巾ストックが何枚かあってそんなに雑巾ストックを増やしても、と思いしていない。
いっそ“バシバシ”のタオルに墨がこぼれるなどのアクシデントが必要かもしれない。

生活の質を向上させたいと、パン屋さんで食パンを買う。
いつもは1斤100円程度のもので、今回は1斤282円。
ついでにシナモンロールも買ってみる。
パンは、買った高い方を置いておいて安いものを別に買って食べる、ということはあり得ないのでそこは安心。
100円の食パンなどもう買わない、と思えるほどのおいしさを明日に期待して。

トマトミートソースを作るもののなんとなくいまいちで、まずいわけでは決してないけれど、すごく良い、というふうに作れない。
これまでにも何度も作ったことがあるのだけれどすごく良い、となったことが一度もない。
砂糖がポイント、ソースがポイント、など色々とネット上のレシピを漁ってみるものの、もうこうなると私はトマト缶が好きではないのかもしれないと、そのせいにしたくなる。
私が望んでいるトマトミートソースの味の決め手は一体何なのだろう。

クリスマスのプレゼントみたいに届いたクロマニヨンズのライブアルバム。
私たちが何度もなんども行ったライブの収録版。
びっくりするくらいライブがまるごとそのまま、真空パックされたようなアルバム。
あの会場にいるとわからないけれど、ライブがこんなにも荒削りなものだったとは。
でもそれがどうしようもなく良くて、生々しいから良くて。

リーガルハイが面白すぎて、ついシーズン1を2日間で観てしまった。
ついでにシーズン2の観ていなかった回もいくつか。
ど真面目でど真ん中で、生きているのか死んでいるのかも分からないくらい真っ暗で光り過ぎていて見えないくらい明るくて、そんなとてつもないものを突いたり翻したりする様がたまらない。

たまに覗いている写真家の川内倫子さんのブログのある日の内容がとても印象的だったので、抜粋。
あの人を救えなかった、と言うのは傲慢な感じがする、この人に救われた、というのは盲目的な匂いがする。
人が思うことなど全て勝手だけれど、私も全くこう思っている。
言葉を操れるということは、その時点でそれについてある程度の理解に至っている。

「too much pain」
詞の中に「too much pain」と英語が出てくることを、そこに至るまで気づかずに書いていた。
さも何事もないように書いているけれど。
この詞に対する私の勝手な解釈は、今の私の胸を打つ。
ヒロトの歌声でないと成り立たない。

そして、ピントがぼけている。





真剣にイランイラン

2013-12-24 03:19:09 | 日記
依頼されている書の裏打ちをする。
裏打ちとは、作品を展示できるように、作品である書道用紙の裏にもう1枚紙を貼り付けてしわを伸ばすこと。

乾いた作品の裏面に霧吹きでまんべんなく水をかけ、しわが伸びたところで、裏打ち紙に水でのばしたデンプン糊を刷毛でむらなく塗る。
糊を付けた面を空気が入らないように作品の裏側に貼り付ける。
平らなところで乾かす。

簡単に言うとこういうことだけれど、本当に紙に水をかけて墨が滲んだりしないのか、デンプン糊はどのくらいの硬さが適当なのか、紙は破れてしまわないか、何せすべてが初めてなのでいちいち怖気づきながらしかできない。
今回は3枚の半切を裏打ちしたけれど、1枚は使い物にならないほど皺が寄ってしまい、もう2枚も決してピンとした出来上がりにはならなかった。

今回は初回なのでまあこんなものだろうと思うけれど、たぶんこれは慣れだけの問題のような気がするので、数をこなせばきれいに裏打ちできるようになるのではと思う。
当然ながら、1枚目よりも2枚目、2枚目よりも3枚目の方が上手くできる。

それにしても、水を吹き付けたり糊を塗ったり乾かしたり、全ての工程を場所を変えてできなければいけないので、1作品を裏打ちするにも非常に場所を取る。
これは絶対に私の旧居ではできなかった。
新居の広い部屋でも、全紙サイズを裏打ちすることは1枚でも難しいかもしれない。
また、今回は私ひとりでやったけれど、窓に目隠しシートを貼るように、1人でやるよりも2人でやった方が断然早く断然上手にできるだろう。

作品を作品らしくするには、書く以外の工程もプロがいるのだなと思い知る。
展覧会への出品料や、表装代が別途であることもおよそ頷ける。

掛け軸の作り方も、額の色も、ただ書いただけでは想像もしない。
全部ひっくるめて自分でやれるのは、面倒はさておき、自分のしたいように自分でできるということだから素晴らしいことだ。
ただ、それこそこういう技術こそ誰かに教わった方が早くて上手くできるだろうとも思う。
それに、全ての行程において自分のしたいようにしたいというほど、そもそも発想は広くには及んではいない。

本当に、なんとかかんとか、雑な感じは否めないもののひとつの掛け軸になったけれど、案外書いた書のインパクトが大きくてどこかに飾っていただいたときに気になり過ぎないかと少し心配している。
でも飾る場所は雑多な場所と伺っているので、うまく紛れてくれるといいのだが。


「リーガルハイ」のシーズン1をスマートフォンで観る。
先日「孤独のグルメ」は全シーズン観終わった。
ドラマは1話30~45分なので次々に観られてしまうのだが、軽く4~5時間も観てしまうことになる。

これまで黛先生や蘭丸が古美門先生のところに来た経緯や、三木先生との関係などもよく知らなかったのでシーズン2の話と繋がって改めてこのドラマの全体像を知る。
背景や、キャラクター設定などはもちろんだけれど、全体を通して一貫したスパイスというか毒というかが部分部分で出てくるところが面白い。
それの集大成がシーズン2の最終回だったように思う。

しかしやはり、シーズン2の方が物語や演出のレベルが高いと思う。
一定のテーマの中で、何話ものをレベルを高めながら洗練させていくのは並大抵のことではないだろうけれど。


「月の爆撃機」
この曲にはとても思い入れがあって、私の好きな曲ベスト3に入るかもしれない。
曲の感じも好きだし、詞もものすごく好き。

もはや紙が大きすぎてどうやって写真に撮っていいのやらわからないので、入るように撮っている。
でも、小さく書くより、大きく書きたいのだから仕方ない。