つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

半球の大空

2012-07-31 23:53:25 | 日記
疲れすぎると眠れない、とか言っておきながら、23時にシャワーを浴びて23時15分には眠りに落ちた。
フジロックに行っていたのは、金曜日の夜から日曜日の朝までで実質丸2日間強だけれど、随分長い間自分のベッドで寝ていない気がした。
起きたときには、自分の部屋であることを認識するまでに何秒か要した。

そういえば、疲労困憊、意識朦朧で宿に帰った土曜日の夜、越後湯沢の夜空は星がいっぱいだった。
疲れと眠気と、でも私の好きな星空が、と上を向くと身体と意識のバランスを崩して卒倒してしまいそうだった。
それを同じく疲れと眠気に襲われている彼女に話すことすらできなくて、それでも私は何度かふらふらと空を見上げた。
宿への橋は淡いオレンジ色の街灯がぼわんとしていて、もう歩くのが面倒だからこのまま空に落としてほしいと思った。

何にもない、人けのない、川と山と空と。
越後湯沢の駅のあたりはお土産屋やコンビニもあるけれど、あのあたりは本当にペンションがぽつぽつと点在しているだけ。
スキーシーズンがハイシーズンなあの辺りではあるが、フジロック期間以外の夏も、静かと涼しさだけを求めるのであれば良い場所であったことを覚えておきたい。


いつも忘れたころに、年間購読している雑誌「NUMERO」が届く。
いつも東さんと篠木さんのflower artには見せられてしまうけど、烏賀陽さんのコラムにもいつも魅せられる。
紙面1ページの記事コラム。
トピックの選び方、その視点と捉え方、言葉遣いの鋭さと簡潔さと論理展開。
トピックは世間にある身近で一般的なことだけれど、それへの切り込み方は、核を突く角度も抉り方もスピードも切り裂き方も鮮やかである。
新聞社の記者であった彼は、たぶん大衆に伝えるときの文章の組み方、文章のそぎ落とし方を知っているのだろう。
烏賀陽さんの本でも買おうか。

良い花や良い色や良い音楽には大いにどきどきさせられるけれど、いい文章も同様のどきどきがある。

我慢できずに、8月を待たずにブルーハーツのDVDをまた買った。
欲しいものを手に入れるのに、ネットショッピングは便利すぎて、怖い。
もっと必死になって、閉店時間に駆け込むくらいの、電車に乗ってはるばる買いに出かけるくらいの、そんな気概も持ち合わせているのだけど、現代に生きながらしてそれはできない。

いろいろ、ないわけじゃない。
でも、麻痺させたいだけじゃない。
真っ当に、ぶっ飛ぶのだ。



モヒートのミントを

2012-07-30 22:46:51 | 日記
人生初めてのスキー場は、真っ白な景色では全然なくて、色とりどりで空間が鳴っている山だった。
遠くから見ると急斜面にカラフルなテントが無数に立てられていて、全部が滑り流れてしまうのではないかという気がした。

大きな山が渋滞するほど、こんなにこんなにたくさんの人で埋め尽くされているのに、私たちはどうして「フジロック」という言葉さえも正しく知らなかったのだろう。
こんなにこんなにたくさんの人がいるのに、どうして私に教えてくれなかったのだろう。
いや、もしかすると耳にしていたのかもしれない。
自分が興味のないものというのは記憶から淘汰されているだけのことかもしれない。
新しい物事にはフラットでありたいし、柔軟でありたいし、色んなことに触れたいと思うけれど、興味のあるものを中心に入ってくる耳というのは悪くはない。

当日に調達した真っピンクのスーツケースは思いのほかいい色で、会場には持っていかないけれど、フジロックの会場に相応しいと思った。
ここでは、どんなにカラフルだって目立てない。
もし目立ちたいのであれば、炎天下の山で上半身だけでも裸でいることだ。

果てしない東京のお祭りの人混みが、山の上で起こっている。
川があって、バスがあって、リュックやら大荷物を背負って、帽子をかぶって、みんなでぞろぞろと行く。
なんだか戦争中の疎開が浮かんでしまった。
ぞろぞろと向かう先は、自分の心を揺さぶってくれる悦楽の場所だけれども。

音楽が好きだ、ロックが好きだ、と完全なる認識を始めてからも、フジロックに来るアーティストのことはほとんどと言っていいほどわからない。
私が自分から見たかったのは、サカナクションと渋さ知らズオーケストラくらいだ。
だから周りの音楽好きな人に何を聴いてきたらいいか、何をしてきたらいいかを聞いて、だいぶ忠実にそれをこなしてきた。
あとは、移動中に聞こえてくるいいなと思う方へ行けばいい。

場に流されて、あれもいいねこれもいいね、とは言えなくなってしまった私は、音が正なのか負なのかがやけに気になって、負のものをあまり体に入れたくなかった。
正負とは、簡単に行ってしまえば、前向きさや明るさや陽気さの方が強い音楽か、それとも憂いや嘆きや批判、やるせなさの方が強い音楽か、ということ。
完全に私の中の表現なので、それが人によって違う風に聞こえるかはわからない。
ただ、今の私は正の音楽がほしい。

ちなみに、渋さ知らズオーケストラは正、星野源も正、RADIOHEADは負、井上陽水も負、サカナクションはゼロ、JUSTICEもゼロ。
またちなみに、ブルーハーツもハイロウズもクロマニヨンズも正。

サカナクションのライブで私は初めてモッシュを体験した。
熱気という露天風呂に、頭のてっぺんまですっぽりと入ってしまっているような感覚で、手を高く伸ばすと日が落ちてすっかり冷えた山の空気に触れることができる。
息苦しいとか、物理的にぎゅうぎゅうとか、人の吐く息とか湿り気とか、それでも前方から発射される音とそのうねりで、意識と無意識を繰り返す。

人は熱い。
気熱と体熱。
混沌と混乱と狂熱。

熱狂することは自分にはないだろうと思っていた。
なんだこういうの好きなんだと、あっさりと思う。

ただ、サカナクションの曲は私の中の魂を揺さぶるものでないことも分かった。
彼らは青いことをしているのではない、彼らはデザインをしている。
今後ライブも行きたいし、今後も聴くけれど、今の私にはたぶん心地の良い止まりのBGM。

ロックをたくさん見た、聞いた。
青い表現も、熱い表現も、気取った表現も、楽しい表現も色々あった。
それでもどうにも、私はブルーハーツが好きで、ハイロウズが好きで、ヒロトが好きで、マーシーが好きだ。
予定通り、ドラゴンドラの中では、ドラゴンドラの中でなくても少し、ブルーハーツもハイロウズもiPodから聞いた。
私の隣にも、いつでもヒロトの声を聴きたがってる人がいた。

その彼女は日曜日には東京に帰らなければならず、私は彼女を出口まで見届けて、その後一人フジロックをした。
とりあえず酔っておこうと、私は一人になってまた一杯飲んだ。
日曜日はジャズロックのような音楽ばかりで、最後も「NEW COOL COLLECTIVE」、そして「渋さ知らズオーケストラ」
NEW COOL COLLECTIVEの後の待ち時間、私は柵に持たれて胡坐の状態で少し寝た。

渋さ知らズオーケストラはもう本当に最高だった。
彼らの精神と、彼らのポップでキッチュなパフォーマンスには、強さと優しさがあった。
最後に不破大輔さんが散々素敵な音を浴びせたあと、「負けない、だめかもしれないけど、絶対負けない」と突然言って会場を去って行った。
不意に泣いてしまった。

「自分の好きなように声を出していいんだよ。出したい音を出していいんだよ。音楽なんて簡単だーーー」

足は酷く筋肉痛だし、まさに燃え尽きて凪状態だし、単純に寝不足ゆえに眠い。
でも、私はフジロックを彼女と経験できて本当に良かった。
いつも言うけど、私の友達はみんな、強くて優しくて、心がきれいだ。
そんな人たちと、共感を爆発へと転化することができるのは、たぶん人生の中での最上級の喜びのひとつなのではないかと思う。

興奮と悦楽と爆発のために、労力を使う。
好きとは言え労力と面倒はいろいろあるけれども、労力のその先の興奮と悦楽と爆発を見たい。


また新しいことをするかもしれない。
今のところ、私の肌に合うかが珍しく全くもって分からないのだが、やってみたいことではある。

世界は私のために回っているわけではない。
でも、私の世界は私を中心に回っている。

導火線に火がついたのはいつだったろうか
中学生の頃か生まれる前か
爆発付前の火薬のような
レコードが好きだった




ガーリー

2012-07-27 14:00:16 | 日記
「私は荷物が少ないから」といつも自慢げな私であるが、フジロックにはいつもと違う想定外の嵩張る荷物がいっぱいだ。
長靴もポンチョも多めの着替えも、普段は絶対にもっていかない。
前日になってネットで買ったプーマのボストンバッグに荷物を詰めてみると、持っていこうとしている荷物の半分も入らない。
笑えてしまって、結局出発当日のお昼に真っピンクのスーツケースを新調した。

初めてのフェスで、どんなに人から話を聞いたって、持ち物に過不足がないなんてあり得ない。
必要なものがなかったら困ればいいし、「やっぱり使わなかったね」というものは次に生かせばいい。
もう、クロマニヨンズが来るわけでもないのに結構浮足立っているので、考えることが面倒だ。
ただ、チケットと新幹線の切符だけは忘れてはならない。

いつもより少しだけ遠くまで来たので久しぶりにタイ料理を食べた。
ガパオとグリーンカレーのハーフ&ハーフ。
最近、自分の好きな食べ物がわからない、とつくづく思っていたのだが、タイ料理は好きだなあとしみじみ思った。
焼肉を食べていても、魚定食でも、パスタでも納豆ごはんでも、おいしいと思うけれど、しみじみ好きだなあと感じたことはない。
しいて言えば、自分で作る赤みそのお味噌汁くらいだろうか。

トムヤムクンは酸っぱいから好きではないが、パッタイもガパオもタイカレーもソムタムも、他の名前がわからないタイ料理も好きなものが多い。
パクチーのことが好きになれて良かった。
暑いのが辛さでさらにまとわりついてくるような、そんな冷房の効いていない温室のような場所で食べたい。

今後、「何が食べたい?」と聞かれたら「タイ料理」とでも答えようか。
ただ、タイ料理店はお酒を飲んで長居するようなところではないところが多いのであくまで食事として。
しかしタイ料理屋はどこにでもあるものでもないから、かえってそんな提案しないほうがいいだろうか。


いつでもまっすぐ歩けるか 湖にドボンかもしれないぜ
ロックの神様。
苗場にもいるだろうか。

タイミングというのは良かったり悪かったり、客観的に考えればあるものだけど、いつもその時にそれ以外にあり得ないことしか起こらない。

「楽しみに待つ」ことが苦手だった。
「期待していたほど楽しくなかった」とき残念な気持ちが膨らんでしまうから。

でも、もし「楽しみに待って」楽しくなかったとしたら、「楽しくなかった」と落胆すればいい。
「楽しみに待って、楽しかった」方がいい。

カラスが窓の外で暑そうに黒光りしている。
行水できるように、桶でも置いてあげたい。

クダらねえインチキばかりあふれてやがる
ボタンを押してやるから吹っ飛んじまえ




色と花と色と花

2012-07-25 21:41:37 | 日記
Facebookに溜め込んでいた写真をアップした。
携帯のカメラで撮った花の写真は今はマイクロSDカードとドロップボックスへの同期で保存をしている。
自分が写った写真はどこにあるのかも知れず、過去のものを見返したこともほとんどないのだが、花の写真だけは暇なときに見てはひとりうっとりしてしまう。

今回は抜粋集を作りたくてアップをした。
抜粋集といっても、さほど抜粋にはならなかったが。
いまいちFacebookとの馴染み方がわからなかったが、Facebookは写真アップ制限がないようで、ここにアップしておけばドロップボックスよりも都合よく見られる。

あと思わず一言コメントしておきたくなる花の写真があるから、そういうのことにもFacebookは適しているようだ。

また天地を全く気にしない写真たちをせっせとアップする。
自分で「いいね!」する場所ではないことはわかっているが、私はひとり「いいね!」だ。


RADWIMPSやRADIOHEADを聞いてなんだか落ち着かなくなったり、悲しくなったりしてしまうのは彼らの憂いが外に向いているからなんだと思う。
というか外的要因の憂いを歌っているからなんだと思う。

彼らがあの表現をしたということはおそらく、最も深いカオスは抜けたということなのだろうが、同じような憂いを持っている人がこれらを聞くことによって安心感を与えることもあり得ると思う。
そしてそれがいいことなのかどうかは捉え方次第だ。
もちろん、音がいいとか演奏が上手いとか声が好きとか聴き方は色々とある。
もちろん、私のように感じない人もたくさんいる。
だからあくまで今の私が聴いての個人的な感想にすぎないし、わかったりわからなかったり、それでも妙に入ってきてしまうことを認めつつ、私はこれ以上彼らの歌を取り入れることはしないだろう。
音楽というのは、音である分、受動的である分、体に取り込まれて影響を及ぼしやすい。

ここからは彼らの曲には関係ない。

どうにもならないことに対して、何か抽象的なもの、例えば社会、に鬱憤を撒き散らすことも卑屈になることもできる。
それをし続けるのは、どうにもならないことを知っていて、直接的に自分に跳ね返ってこないことを知っているから叫べるのだと思う。
撒き散らすことによって、「戦った」とか「わかっている」という感を持つのは間違いだ。
そして、撒き散らしっぱなしは卑怯だ。
何が嫌なのかを自分に問うことは苦しいけれど、それを問うことなしに楽だから周りのせいにするのはその鬱憤の中に留まることと同じである。
嫌の原因やうまくいかない要因の一つが間違いなく社会にあるとしても、社会が何者かを明確にできないのだから。

ただ、アーティストがする風刺はまた別だけれど。

しかしいったい私は何に対して怒っているのだろう。


兄の子供も無事に産まれたそうだ。
おばさんはまたおばさんになった。
いっぱい笑って育ってね。



ジャパニーズチェリー

2012-07-23 14:10:51 | 日記
私はずっとここに来たかった。
どんなにハイシーズンでも。
どんなに忙しくても。

夏の富良野・美瑛、パッチワークの丘。
土日1泊。
花まみれの旅。

さほど心配してもいなかったお天気は、曇りのち晴れ。
日差しがあればじりじりと肌の水分を奪うような陽の鋭さはある。
ただし日陰に入ってしまえば、心地よい東京の五月晴れくらいの爽快さ。

広くなだらかな丘陵地帯のこの地域。
お花畑のあるファームは点在していて、蕎麦畑や小麦畑や水田が大半を占めている。

蕎麦の小さな白い花が満開のところは、黄緑と白の水玉の丘。
小麦の穂が揺れるところは、夕日を浴びて黄金の丘。
稲が元気にまっすぐ育っているところは、風に波打つ青々の丘。

ファームの花畑はパッチワークみたいにさまざまな色の花の絨毯が敷かれている。
広大な色の絨毯、地の色は空の青。

まるい丘の下から、私はしゃがんで、まるい丘を見上げる。
この一帯はどういうわけか、空はきれいなのに空が低くて。
まるい丘のもう本当にすぐ上が空。
天地が歩み寄って近づき合って。
お花畑の中の空にいるような。

空間の広さは、人の心を広くする。
というか、人の心を狭くできない。

「人工物は人の思いを跳ね返すけど、自然のものは人の思いを吸ってくれるんだろうね」

私は東京は大好きで、東京にずっといてもいいと思っていたけれど、なんだかそれが少しだけ揺らいだ気がした。
住み処としての東京を離れることは本当に嫌だし、それは変わらないだろうと思っていた。
ただ、それは狭いのかもしれない、とふと思った。
とはいえ、東京は大好きだし東京にいるけれど、その発想が生まれたことは心に留めておきたい。

たぶん、いろんなことは大丈夫だから、だからちゃんと自分に忠実にやっていこうと思う。
あからさまにもがいたことがなかった私は、今もがくことを知って、もがきながらも脱皮できることは素敵なことだと思う。
脱皮したら、皮膚は薄くて柔らかくて脆くて赤向け状態だけど、脱げずに腐っていくよりもよっぽどいい。
もし脱皮する必要があるとして、脱皮なんて何歳になってもできるけれど、やっぱり年を取れば取るほど殻は固くなるし、下の皮膚に密着しすぎて脱ぐのが難しくなる。
幸いにも誰かがそれを手伝ってくれたとしても、脱ぐ労力も脱いだ後の労力も、若さが成す突破力や修復力には到底かなわない。
ただ、やっぱり、いつになったって、脱ぐべきものは己の力で脱ぐことができる。

私は今後また脱皮することがあるかもしれないけど、今は今で、あと少し、なんだと思う。
脱皮したら、自分が強くなれるだろうか、人に優しくできるだろうか。
青くて青くて恥ずかしいけれど、強くなりたいし優しくなりたい。

ラベンダー、薔薇、マリーゴールド、ケイトウ、金魚草、サルビア、カスミソウ。
名前は全部覚えられないけど、数えきれないほどのお花を見た。
美しく咲く花のように、時期を逃さず勢いよく豪快に色を咲かせられたらいい。


いくつかのファームを廻って、さすがにハイシーズンで人も多かったけれど、本当に行ってよかった。
どこか旅行へ行こう、となったとき、また同じ場所に近いうちに行くのは、なんだかもったいない気がしてなかなかできない。
でも、私はもう一度、ここに来たいと思う。

私は友人に運転を任せっきりで、地図も読めない私は助手席に座る資格すらも危ういことは重々承知で、多少怒らせてしまいながらも長時間の運転をありがとうと言いたい。
本当は、こんなに解放されたのは一緒にいた彼女のおかげも大きくて、私は彼女に何かをしてあげることができるような、そんな大きくて優しくて強い人間になりたい。

あんなに音を欲していた最近だったのに、千歳空港で友人と待ち合わせた後から帰りの空港まで、全く音を欲しなかった。
ただ、羽田に降りて、私はまた音を欲してiPodをつなぐ。

私は写真を撮るとき、携帯のカメラの四角の中に、向きを全く気にせずに切り取る。
色の割合とか、余計なものをなるべく入れないとか、ここを映したいとか、そういうことが優先でしかない。
自分で見るときは画像を自分で画像を回す。
だから何かにアップロードするときに意図せず天地がおかしなことになることがある。
と、私自身は全くもって気にしたこともなかったので、人から指摘されて初めてそのことに気付いた。
あまり直す気はないのだけど。