どうも体が動かなくて、剥げ剥げになったマニキュアを塗りかえる気にもならないし、洗濯した枕カバーを付けることさえも放ってある。
それでも部屋が大きく荒れているのは嫌で、体が不意に少しだけ動き出した瞬間を感知して、シンクに山盛りになっていた食器類を洗って、部屋干しの洗濯物をハンガーから外してたたむ。
こんなときにお腹いっぱい食べたり、お酒を飲むとさらに動けなくなる。
その上に煙草を吸うと、重力にずんずんと引っ張られて自分が重石になったような気分になる。
借りている『銀と金』と、スマートフォンで『ザ・シェフ』『ねじの人々』を読む。
やはり『カイジ』の方が面白いけれど、「オレはただオレなんだ、それだけ。名前は森田鉄雄。背景はない・・・!」とか言われると私は、わーい、となる。
漫画を読むことは、長い時間ををかけて板に付いてきた。
絵が細かすぎることと、設定に現実味がなくて読み止し、もうかなり長期間寝かせてある『ジョジョの奇妙な冒険第7部』もそろそろ読むことができるだろうか。
漫画は、小説よりも字数が少ない分だけ断然に頁を速く捲っていける。
しかし、自分が読んで積み上がった漫画の塔を見て、「こんなにたくさん本を読んだ」と堂々と言う人はいないだろう。
言ったとしたら「(笑)」が伴ってしまう。
しかしながらそこには、小説に比べて膨大な作業量があるだろうし、映画に比べて恐ろしく孤独も付きまとっているだろうと思う。
漫画はそれこそ紙と筆記具があれば描けるわけだけれど、読み手の消費スピードと書き手の創作スピードには大変な乖離が生じてはしまわないのだろうか。
一コマの絵にこだわろうと思えばどれだけだってこだわれるだろうし、後から物語を少しいじりたいとなった場合にはそれはもう大変なのではなかろうか。
まあでも発行冊数が小説に比べて多大になるから、売れれば金銭的に潤い、その分アシスタントなどを雇うことでカバーもできるだろうが、そんなことで解決可能なのだろうか。
創作の労力だけが敬意の在り処であるわけではないけれど、漫画初心者の私としては毎度そのことを思ってしまう。
無論、他の表現物が労力を要さない、と言っているわけでは全くない。
単純に、漫画家ってすごいな、と思っているだけである。
漫画は、表現物として、読み手側の想像の余地が非常に狭く支配力がある。
よく、「漫画ばかり読んでてはいけません!」とお母さんが子供に言う一つの台詞があると思うが、それはおそらく漫画について一般的に社会が与えている位置づけや、この支配力ゆえの影響力を鮮明にでなくてもなんとなくそのお母さんたちが分かっているからなのではないかと思う。
私は小説などを読むとき、物語に入り込むことが非常に苦手なのだけれど、その理由は言葉の端々や情景描写を単独で拾って、思考を派生させてしまうことにある。
だから漫画くらいに絵と言葉でイメージを支配してくれた方が、単純に物語を楽しめる。
私は文章を書くことが好きだし言葉が好きだけれど、ただそれだけではなく、全体感としての“それ”が好きなわけだ。
音楽だってそうだ。
インストゥルメンタルの曲であろうと、歌詞のある曲であろうと、そこにあるのは表現者の、匂い立ってくる何か、なわけだ。
と、最初私は「歌詞しか分からない」と豪語していたものだけれども。
では「歌詞の意が分かっているのか」と問われれば、今思うによくもそんなことを豪語していたなと思う。
書は言葉を扱ってしまうから、記号としての支配力が強いわけだけれど、しかしだったら活字を拡大印刷したっていいわけで。
字一字ではない、“そんな感じ”ということしかきっとやることはないのだろうと思う。
初めて、ミントの花が咲いた。
先っぽに、白くて小さなつんつんした花。
さよならのこぼれた訳は流れ星
それでも部屋が大きく荒れているのは嫌で、体が不意に少しだけ動き出した瞬間を感知して、シンクに山盛りになっていた食器類を洗って、部屋干しの洗濯物をハンガーから外してたたむ。
こんなときにお腹いっぱい食べたり、お酒を飲むとさらに動けなくなる。
その上に煙草を吸うと、重力にずんずんと引っ張られて自分が重石になったような気分になる。
借りている『銀と金』と、スマートフォンで『ザ・シェフ』『ねじの人々』を読む。
やはり『カイジ』の方が面白いけれど、「オレはただオレなんだ、それだけ。名前は森田鉄雄。背景はない・・・!」とか言われると私は、わーい、となる。
漫画を読むことは、長い時間ををかけて板に付いてきた。
絵が細かすぎることと、設定に現実味がなくて読み止し、もうかなり長期間寝かせてある『ジョジョの奇妙な冒険第7部』もそろそろ読むことができるだろうか。
漫画は、小説よりも字数が少ない分だけ断然に頁を速く捲っていける。
しかし、自分が読んで積み上がった漫画の塔を見て、「こんなにたくさん本を読んだ」と堂々と言う人はいないだろう。
言ったとしたら「(笑)」が伴ってしまう。
しかしながらそこには、小説に比べて膨大な作業量があるだろうし、映画に比べて恐ろしく孤独も付きまとっているだろうと思う。
漫画はそれこそ紙と筆記具があれば描けるわけだけれど、読み手の消費スピードと書き手の創作スピードには大変な乖離が生じてはしまわないのだろうか。
一コマの絵にこだわろうと思えばどれだけだってこだわれるだろうし、後から物語を少しいじりたいとなった場合にはそれはもう大変なのではなかろうか。
まあでも発行冊数が小説に比べて多大になるから、売れれば金銭的に潤い、その分アシスタントなどを雇うことでカバーもできるだろうが、そんなことで解決可能なのだろうか。
創作の労力だけが敬意の在り処であるわけではないけれど、漫画初心者の私としては毎度そのことを思ってしまう。
無論、他の表現物が労力を要さない、と言っているわけでは全くない。
単純に、漫画家ってすごいな、と思っているだけである。
漫画は、表現物として、読み手側の想像の余地が非常に狭く支配力がある。
よく、「漫画ばかり読んでてはいけません!」とお母さんが子供に言う一つの台詞があると思うが、それはおそらく漫画について一般的に社会が与えている位置づけや、この支配力ゆえの影響力を鮮明にでなくてもなんとなくそのお母さんたちが分かっているからなのではないかと思う。
私は小説などを読むとき、物語に入り込むことが非常に苦手なのだけれど、その理由は言葉の端々や情景描写を単独で拾って、思考を派生させてしまうことにある。
だから漫画くらいに絵と言葉でイメージを支配してくれた方が、単純に物語を楽しめる。
私は文章を書くことが好きだし言葉が好きだけれど、ただそれだけではなく、全体感としての“それ”が好きなわけだ。
音楽だってそうだ。
インストゥルメンタルの曲であろうと、歌詞のある曲であろうと、そこにあるのは表現者の、匂い立ってくる何か、なわけだ。
と、最初私は「歌詞しか分からない」と豪語していたものだけれども。
では「歌詞の意が分かっているのか」と問われれば、今思うによくもそんなことを豪語していたなと思う。
書は言葉を扱ってしまうから、記号としての支配力が強いわけだけれど、しかしだったら活字を拡大印刷したっていいわけで。
字一字ではない、“そんな感じ”ということしかきっとやることはないのだろうと思う。
初めて、ミントの花が咲いた。
先っぽに、白くて小さなつんつんした花。
さよならのこぼれた訳は流れ星