つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

遠投

2013-06-28 00:37:35 | 日記
私の中で決定的な何かが変わり始めてから、自分の表出にコントロールが利きづらくなった。
それは本当の自分というものが解放されたということかとは思うけれど、社会で生きている以上、そんなにコントロールできなくてどうする、とさすがに思う。
面白くないことに面白いとか、楽しくないことに楽しいとか、良くなさそうなことに良いとか、好きでないものに好きとか、すごくないことにすごいとか、昔からそんなに言える方ではないけれど、本当にそういうことが全然言えなくなってしまった。
そう思うことは昔よりもパワーの強い全力で言えるのだけれども。

自分にとって、“良いもの”がほしい。
それが“良い”か“良くないか”、あるいは“その可能性のあるものか”の判断がつき過ぎてしまって、外への対応が上手くいなかい。

自由になることをとても望んでいるしそうありたいけれど、世間に対しての折り合いとは一体どういうふうにつけたらいいのだろうか。
自由になりたくて自由になって、少し自由になれたと思って自由に縛られる。
なんだろう、この自己嫌悪感と疲弊感は。

人はあらゆるときに悩むものだと思うけれど、でも、悩むことを基盤に置いてはいけないなあと思う。
放っておいたって悩まなければならないし、悲しまなければならない。
太い中枢をぶちっと断ち切って生きていくこともできないし、したくない。

楽しむこと、目の前のことを楽しめること、感じ惜しまないこと。
楽しみを自分で最大化できること。
まず、自分の中に楽しみがあること。


書作展が会期を迎えている。
2回も土日を迎えると言うのに私は休日に予定がどん詰まりで行けないので、新居の契約の予定と併せて今日行くことにした。

いつもの立派なりっぱな、立派過ぎる会場の一角に「情熱の薔薇」はあった。
それは甲本ヒロトの言葉で、確かに私の一部が乗っかった何かであった。
嬉し恥ずかし、というような心持ちと、甲本ヒロトへの尊敬と自分の中の青い部分がごちゃ混ぜになる。

俯瞰して見ると、あそこをもっとああすれば良かったとかは直視できないくらいに感じる。

今年出したのは90×240の作品で、私の部屋スペースを埋め尽くすものであったのだけれど、会場には最大でその10倍くらいの作品があって、単純に大きいと言うことはすごい迫力だなと気圧される。
大きさによって出品料が決められているから、あの出品料とはどのくらいなのだろう。
大きい作品が賞を取りやすい、というのは、迫力という面もあるだろうしお金という面もあるだろうと思う。

90×240の作品は随分と小さく見えた。
去年は準同人で、今年は同人、いまいちよく仕組みがわからないけれど。
確か、準同人枠と同人枠は審査が分かれているようだ。

先生の作品やら、目に留まった作品や今後やってみたい作風を写真に撮る。
いやはや、やっぱり私が好きな先生の作品はほんとにすごい。
やり過ぎくらいの緩急と、荒々しさが顕著な作品。
今回の作品は、字と字の連綿がほとんどなく一字一字が独立していて、且つ全体の一貫性もある。
線を捨てずに払い切っているのは初めて見た気がする。

大きくて広い会場を二周くらいして、大きい作品に少しの眩暈を覚えながら、やっぱりもう少しここに突っ込みたいなと思った。
そう思えることで、最近感じている対外的な不具合の自己嫌悪感が和らぐなんて、本当にどうしようもない。

振り切りたいとか、振り切れないとか、そんなの振り切っていると言わないとか、振り切りたくないかもしれないとか、振り切りたくなくなるかもしれないとか。
ああもうそんなことどっちでもいいのだけれど。
人を寄せ付けない強さなど、全然全く要らないのだけど。

今年は流れで東京書作展という公募展にも出品することになった。
お金と労力を出そうと思えば展覧会などいくらでもあるのである。
しかし、9月の頭に出品となるのだけど、果たして私は作品作りの時間が取れるのだろうか。



熱狂と好物

2013-06-26 21:50:08 | 日記
今月から生花の定期便を注文し始めた。
月に2回、季節の旬のお花を自宅まで届けてくれる。
そのことを全くもって忘れていて、私はつい先日スーパーで花束を買ったばかりなのだけれど、ものすごく立派なボリューム感のある百合の花が届いた。
白い花びらが波打っているこれは「マルコポーロ」
私の手持ちの花瓶では、一番大きなものでも倒れてしまいそうである。

百合は蕾の状態からの動きが、私の知っているなかでは一番大きくて顕著なので、その開く様を見るために自分でも時々買う。
しかし百合の湿った艶めかしい匂いは私はあまり好きではない。
それに百合はサフランのような花粉を落とす、それに触れるとその色はとても落ちづらい。
でもやっぱり、どくどくと血が通ってめきめきと花びらを広げるその様は芍薬と並んで圧巻で、家に帰る楽しみになる。

花だらけの部屋でそれぞれを撮る。
いつも、興ざめなものが写ってしまうのを避けたいがためにアングルは限られてくる。
それも引越せばまた色々と試せるようになるだろう。
実際にプリントしたことはないのだけれど、一度抜粋した花の写真で、一枚いちまいに一言を入れた写真集を作りたい。


マニキュアが酷く剥げている。
土日に出かけていることが多いので塗り直す暇がない。
マニキュアは落とすのも塗るのもある程度時間を要するし、乾かすのがもっと時間がかかる。
トイレはマニキュア前に済ませておかなければならない。

私は美容室もエステなども、身のない世間話をするのが苦手なのでネイルサロンなどもってのほかで行ったことがない。
ジェルネイルなども自分でやることができるのは知っているけれど、基本的にいつも普通のマニキュアを塗る。
ラメも使っていたけれどラメを付けると落とすのが困難なので、最近はネイルシールをよく使っている。

マニキュアをする習慣は本当にここ最近のことで、ただし始めるとそれなしでは物足りなくなってしまって、可能であれば週に1回せっせと塗り替えている。
爪は色を乗せられて、きちんとその通りに発色する唯一の場所だと言っていい。
髪は元が黒いので染めるにしても、ショッキングピンクの色そのものを出すのは難しい。
色好きな私にとって、マニキュアは、着る以外に色を纏える重要な場所になっている。
ただ、原色を塗ってしまうことが多いので、服とぶつかってしまうことも多々ある。
仕方がない。

ギターを弾くから、もう半年くらい、左手の人差し指から小指までの4本は爪が短い。
私はやはりある程度爪は長い方が好きなのだけど、ギターを弾くのだから仕方がない。
半年前、去年の年末に初めてギター教室に行って、ギターが爪が長いと弾けないことを始めて知った。
あれから1ミリでも伸びると、切らねばならなくなった。
ギターを止めたらまた爪が伸ばせるのか、と思うけれど、弾けないなりにそれなりに弾けるようになったので、まだまだ左手の爪は伸ばせないなあと思う。



エーフラットディミニッシュ

2013-06-25 00:00:59 | 日記
七尾旅人はキャンドルが焚かれたような幻想的な暗いところで聴くのならば違うのかもしれないのだけれど、今の私の鼓動のスピードや強さには合わないなあと思って、奥田民生が思いがけずとてもしっくりはまっている。
ユニコーンは2か月前くらいに何枚か借りて、正直なところ、よくわからなかった。
ユニコーンの歌を聴いて、私は本物の男子だったらなあと思って聴いていた。
奥田民生の歌も、男子でないと分からないような心情というのはたくさん出てくるしそれが題材にされているようにも思うけれど、それでもユニコーンの奥田民生よりも、「男子としての奥田民生」というよりは「人間としての奥田民生」という感じがする。
だからなんとなく、私にも入ってくるのかもしれない。

私は女として感じられる何か、をおそらく男性よりも感じることができるけれども、どうしてもこういう作り手側の「男子感」みたいなところを私は永遠に正しく感じられないことをやはりとても残念に思う。
男性、女性、のカテゴライズは、「人間」という一括りを前提に、やっぱりものすごく意味があって価値があるものだと思うから、私が好きなロックの形についても女であるがゆえに理解の深度が男よりも深度が浅くなってしまうかもしれないのは本当に嘆かわしいと思うのである。
どれだけそれについて私が嘆いたところで、それぞれの性を満喫する以外にはないけれど。
そして現実的に、男よりも女が所謂意味で「得をする」ことを私は享受することを止めないし。

例によって、あんなに有名なユニコーンも、こんなに立派なアーティストの奥田民生も、私はほとんど全く聴いたことがなかったので、今彼を知ってここにも面白い人がいるなあとまたありがたく思うわけである。
奥田民生と言えば、PUFFYもさほど知らないけれど、PUFFYや井上陽水と一緒に浮かんでしまうくらいなものだったし、どちらかと言えばすごくアーティスティックで分からない解せないタイプの人間だという認識があった。
「はっきりしなくて、空気感だけで生きている人」と位置付けていて、それはたぶん間違いなのだけれど、私はずっとそういうものや人を間違った認識のまま遠ざけてきたなあと思う。

ギター一本で、大きな口を開けて歌っているソロライブの映像をYouTubeでよく見るけれど、彼が醸し出している、もしくは演出している"ゆるさ"みたいなものの中に、芯として一生懸命があるのだなあと思う。
それに、歌詞や歌い方や曲調全体には"ゆるさ"が漂っているように思うけれど、彼の創るギターソロは決してゆるくはなくて、むしろ、とても鋭くて繊細で荒々しくて嘆いているような切ない感じがする。
叫んでいる、という感じだろうか。

真面目で、お茶目で、繊細で、ゆるい。
全部が全部じゃなくて、そんな要素が独立してくっついているいうようなイメージ。


ここから引っ越しまでの土日に予定がぎっちりなので、少しずつ引っ越し準備をすることにする。
にしても段ボールを組み立てて置いておく場所もままならないので、捨てるものを早々に捨てておくことくらい。

3年前くらいにパリで一目惚れしたクロエの重たいバッグに、おばあちゃんからもらったグッチのバッグを売った、引っ越し代にもならなかったけれど。
かつて活躍していたポータブルDVDプレーヤーも、書道の展覧会の賞品の立派な額も、デザインは気に入っているけど着心地の悪い服も捨てることにする。
NUMEROのバックナンバーも、トピックの面白くないものは捨てようか。

私は何に嵩張られているいるかと言うと、服と書道用品と食器と花器。
収納は今の倍以上の大きさになるけれど、かと言って物を増やすのには抵抗がある。
好きなものに囲まれることに折り合いをつけながら、大好きなものに囲まれるべく、なるべくスリムにして、新居に住まいたい。



女子力58万

2013-06-24 01:39:02 | 日記
「開塾指導講座」が無事に終了した。
やり直しで1日で書きなおした宿題は、点数が付いて戻ってきた。
「あんな短い時間でよくやったね」と先生に言われて、それはでも私の適当さの問題以外の何物でもないのだけれど、とりあえず上位何人かに入る点数がもらえたので私はとても単純に嬉しかった。
創作よりも断然、ルールが決まっていて、誰の目線でも上手か否かを判断できるような子ども用の楷書の提出物だったから、その評価がとても嬉しかった。

手で仰ぐと空中にその軌跡が残りそうなほど空気は蒸していたけれど、太陽が覗くくらいの晴れ間はあって、私は駅の階段を小走りで駆け上がった。
「ねえねえ見て見て!」と今の私も昔の私も、それを伝える人はいなくて、幼き私はそれを伝えたかったのかもしれないけれど今となってはもう自分自身の嬉しいで完結することができるのでどちらでも良い。
「褒めて」というよりかは、「私、嬉しかったんだ」ということは、伝える人がいれば伝えたいとは思う。
いずれにしても、喜びは減らない。

ただ、不意に褒められることは嬉しい。
「ブログに掲載している写真の腕が上がりましたね」と言われて、やっぱり嬉しい。

「嬉しい」ってうれしい。


人に対する愛情や関係の仕方とは、本当に難しい。
タイミングとか縁とか相性とか衝動とか。
それが双方にあるものだから、捩れてしまうことも拗れてしまうこともある。
だから重要なのは、双方の独立心とそれに対する尊敬の念ということだ。

ただ、私は本当に一緒にいる人は大事であるし、大事にしたいと思っている。
ひとりではできないことも、お喋りな私にとってのお喋りも、単純に吐き出すということも、また相手にそれをしてもらうことも、当然に誰でも良いわけではなくて、相手との信頼性の上でそういうことができるものである。

ただ、関係はなるべくお互いの自然さに任せたいと思うものの、もちろんのこと個々の独立心に敬意を払った上で関係を続ける、または築くべくアプローチをする努力も必要となる。
しかしその努力に無理が生じてしまうこともある。
干渉も浸食も、ときに悪いものではないかもしれないけれど、それはお互いの心地よさが築けなければ崩壊になってしまう。

かつて私がある相手にしてしまったことは、それよりも前に私がされてとてもとても嫌な思いをしたことと同義であることに言われて気が付いた。
その時の私にはそれに対する確固たる核はなかったけれど、そういうことで済まされる問題でもない。
でも、その同じ重さをもってしてでしか付き合えないのだとしたら、私はまた同じことをしてしまうかもしれない。

真剣さには真剣さで向き合いたいと思う。
自分のことだけだったら、何度でも、何度でも、いつでもやり直せばいいと思う。
しかし、人が関係していることは、やり直しがきくこともあればそうでないこともあるし、場合によっては取り返しのつかないことも本当にあるものだ。

何の断りか、これは恋人関係について言ってはいない。


私は人が殴られている音に酷い嫌悪感と恐怖を感じるので、そういう感じの映画などが観られない。
なぜかそういう夢を見てしまって、朝目覚ましの1時間前に目が覚めてしまった。
誰が出てきたわけでもないけれど。

スーパーで小さな花束を買った。
花屋さんで選んでしまうと、どうしても大ぶりの花ばかりが目を奪われてそれを買ってしまう。
それもそれでもちろんひとつ楽しみなのだけれど、スーパーの花束は少しずつ控えめな花が束になっているので最近たまにそれを買う。

家に帰ってその小さな花束をさらに小分けにして、瓶に生ける。
キレートレモンの緑の瓶が、ピンクのカーネーションによく似合う。



同じ窓

2013-06-21 22:11:53 | 日記
「明日死んでしまうかもしれない」というのは生きている皆にとって本当のことで、それをお酒の場で話のネタになることはよくあることだ。
その誰もにとって本当のことを口にした上で、人に伝えたいことや、物申したいことを言う。
回り道をせずに、できるだけ率直で鋭い言葉を選ぶとき、相手との関係や相手の普段の素行によってその言葉の持つ力は大きく違ってくる。

普段から色んな修飾語やエクスキューズをそぎ落として単刀直入な言葉を選ぶことをよしとしている人が、いつもの通りに率直で鋭い言葉をこちらに向けてくるとき、その厚みはかえって減ってしまうことがある。
普段から単刀直入な言葉を使う人は、単純に何かを伝えるその方法やボキャブラリーに乏しい場合もある。
率直で鋭い言葉は、脳天を突き刺すこともあるけれど、多用してしまうと何とも陳腐になりがちだ。

言葉と言うのは、皆が使う記号であるけれど、たとえ日本語だけの世界においてもそれを的確に思い通りに使うのは非常に困難なことである。
使えば使うほど不自由なものである。
相手に伝わる意味、ということを一旦取り払って自分の言いたいことを言うだけでも、今の自分の拙さばかりを思い知る。
それでも、私は何か伝えたいことがあるのであれば、自分の言葉で、できるだけ自分が正しいと思える言葉で伝えたいといつも思っている。

そのための術としても、私はブログを書いている面もある。
思うこと、考えること、言葉にすること、の鍛錬のような。
言葉でなく伝わるものがあると思いつつも、私は言葉の力を大きく信じている。

しかしながら、そのときに伝えたいその想いを面と向かって口にするということ自体は、力の要ることだなあと思う。

様々に人が関わっていく中で、人の肩を借りたり、分かち合ったりすることは素晴らしいことである。
また、人から必要とされることも、人から褒められることも、それはそれは嬉しいことだし場合によっては何かを続ける意味になり得るけれど、でも、私の本当の満足にはならないような気がする。
少なくとも今は。
それが私がこの2年ほどで1枚の脱皮を終えて、変化した最大のことのように思う。

ロックは自分の中にあるものだと思う。
ロックは自分の中にしかないものだと思う。

6:14なんて、久しぶりに見た。
やはり、良し悪しを置いておいて、影響力はあるようである。
やはり、慄いている方なのだけれど。

The xxは、私にはわからない。
聞いているのを、全くスルーしてしまうくらい留まらない、留まれない。