私の中で決定的な何かが変わり始めてから、自分の表出にコントロールが利きづらくなった。
それは本当の自分というものが解放されたということかとは思うけれど、社会で生きている以上、そんなにコントロールできなくてどうする、とさすがに思う。
面白くないことに面白いとか、楽しくないことに楽しいとか、良くなさそうなことに良いとか、好きでないものに好きとか、すごくないことにすごいとか、昔からそんなに言える方ではないけれど、本当にそういうことが全然言えなくなってしまった。
そう思うことは昔よりもパワーの強い全力で言えるのだけれども。
自分にとって、“良いもの”がほしい。
それが“良い”か“良くないか”、あるいは“その可能性のあるものか”の判断がつき過ぎてしまって、外への対応が上手くいなかい。
自由になることをとても望んでいるしそうありたいけれど、世間に対しての折り合いとは一体どういうふうにつけたらいいのだろうか。
自由になりたくて自由になって、少し自由になれたと思って自由に縛られる。
なんだろう、この自己嫌悪感と疲弊感は。
人はあらゆるときに悩むものだと思うけれど、でも、悩むことを基盤に置いてはいけないなあと思う。
放っておいたって悩まなければならないし、悲しまなければならない。
太い中枢をぶちっと断ち切って生きていくこともできないし、したくない。
楽しむこと、目の前のことを楽しめること、感じ惜しまないこと。
楽しみを自分で最大化できること。
まず、自分の中に楽しみがあること。
書作展が会期を迎えている。
2回も土日を迎えると言うのに私は休日に予定がどん詰まりで行けないので、新居の契約の予定と併せて今日行くことにした。
いつもの立派なりっぱな、立派過ぎる会場の一角に「情熱の薔薇」はあった。
それは甲本ヒロトの言葉で、確かに私の一部が乗っかった何かであった。
嬉し恥ずかし、というような心持ちと、甲本ヒロトへの尊敬と自分の中の青い部分がごちゃ混ぜになる。
俯瞰して見ると、あそこをもっとああすれば良かったとかは直視できないくらいに感じる。
今年出したのは90×240の作品で、私の部屋スペースを埋め尽くすものであったのだけれど、会場には最大でその10倍くらいの作品があって、単純に大きいと言うことはすごい迫力だなと気圧される。
大きさによって出品料が決められているから、あの出品料とはどのくらいなのだろう。
大きい作品が賞を取りやすい、というのは、迫力という面もあるだろうしお金という面もあるだろうと思う。
90×240の作品は随分と小さく見えた。
去年は準同人で、今年は同人、いまいちよく仕組みがわからないけれど。
確か、準同人枠と同人枠は審査が分かれているようだ。
先生の作品やら、目に留まった作品や今後やってみたい作風を写真に撮る。
いやはや、やっぱり私が好きな先生の作品はほんとにすごい。
やり過ぎくらいの緩急と、荒々しさが顕著な作品。
今回の作品は、字と字の連綿がほとんどなく一字一字が独立していて、且つ全体の一貫性もある。
線を捨てずに払い切っているのは初めて見た気がする。
大きくて広い会場を二周くらいして、大きい作品に少しの眩暈を覚えながら、やっぱりもう少しここに突っ込みたいなと思った。
そう思えることで、最近感じている対外的な不具合の自己嫌悪感が和らぐなんて、本当にどうしようもない。
振り切りたいとか、振り切れないとか、そんなの振り切っていると言わないとか、振り切りたくないかもしれないとか、振り切りたくなくなるかもしれないとか。
ああもうそんなことどっちでもいいのだけれど。
人を寄せ付けない強さなど、全然全く要らないのだけど。
今年は流れで東京書作展という公募展にも出品することになった。
お金と労力を出そうと思えば展覧会などいくらでもあるのである。
しかし、9月の頭に出品となるのだけど、果たして私は作品作りの時間が取れるのだろうか。
それは本当の自分というものが解放されたということかとは思うけれど、社会で生きている以上、そんなにコントロールできなくてどうする、とさすがに思う。
面白くないことに面白いとか、楽しくないことに楽しいとか、良くなさそうなことに良いとか、好きでないものに好きとか、すごくないことにすごいとか、昔からそんなに言える方ではないけれど、本当にそういうことが全然言えなくなってしまった。
そう思うことは昔よりもパワーの強い全力で言えるのだけれども。
自分にとって、“良いもの”がほしい。
それが“良い”か“良くないか”、あるいは“その可能性のあるものか”の判断がつき過ぎてしまって、外への対応が上手くいなかい。
自由になることをとても望んでいるしそうありたいけれど、世間に対しての折り合いとは一体どういうふうにつけたらいいのだろうか。
自由になりたくて自由になって、少し自由になれたと思って自由に縛られる。
なんだろう、この自己嫌悪感と疲弊感は。
人はあらゆるときに悩むものだと思うけれど、でも、悩むことを基盤に置いてはいけないなあと思う。
放っておいたって悩まなければならないし、悲しまなければならない。
太い中枢をぶちっと断ち切って生きていくこともできないし、したくない。
楽しむこと、目の前のことを楽しめること、感じ惜しまないこと。
楽しみを自分で最大化できること。
まず、自分の中に楽しみがあること。
書作展が会期を迎えている。
2回も土日を迎えると言うのに私は休日に予定がどん詰まりで行けないので、新居の契約の予定と併せて今日行くことにした。
いつもの立派なりっぱな、立派過ぎる会場の一角に「情熱の薔薇」はあった。
それは甲本ヒロトの言葉で、確かに私の一部が乗っかった何かであった。
嬉し恥ずかし、というような心持ちと、甲本ヒロトへの尊敬と自分の中の青い部分がごちゃ混ぜになる。
俯瞰して見ると、あそこをもっとああすれば良かったとかは直視できないくらいに感じる。
今年出したのは90×240の作品で、私の部屋スペースを埋め尽くすものであったのだけれど、会場には最大でその10倍くらいの作品があって、単純に大きいと言うことはすごい迫力だなと気圧される。
大きさによって出品料が決められているから、あの出品料とはどのくらいなのだろう。
大きい作品が賞を取りやすい、というのは、迫力という面もあるだろうしお金という面もあるだろうと思う。
90×240の作品は随分と小さく見えた。
去年は準同人で、今年は同人、いまいちよく仕組みがわからないけれど。
確か、準同人枠と同人枠は審査が分かれているようだ。
先生の作品やら、目に留まった作品や今後やってみたい作風を写真に撮る。
いやはや、やっぱり私が好きな先生の作品はほんとにすごい。
やり過ぎくらいの緩急と、荒々しさが顕著な作品。
今回の作品は、字と字の連綿がほとんどなく一字一字が独立していて、且つ全体の一貫性もある。
線を捨てずに払い切っているのは初めて見た気がする。
大きくて広い会場を二周くらいして、大きい作品に少しの眩暈を覚えながら、やっぱりもう少しここに突っ込みたいなと思った。
そう思えることで、最近感じている対外的な不具合の自己嫌悪感が和らぐなんて、本当にどうしようもない。
振り切りたいとか、振り切れないとか、そんなの振り切っていると言わないとか、振り切りたくないかもしれないとか、振り切りたくなくなるかもしれないとか。
ああもうそんなことどっちでもいいのだけれど。
人を寄せ付けない強さなど、全然全く要らないのだけど。
今年は流れで東京書作展という公募展にも出品することになった。
お金と労力を出そうと思えば展覧会などいくらでもあるのである。
しかし、9月の頭に出品となるのだけど、果たして私は作品作りの時間が取れるのだろうか。