つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

見かねた強がり

2012-11-30 14:22:34 | 日記
タートルネックのヒートテックを引っ張り出す。
すると冬の終わり頃に使っていた柔軟剤の香りがして、その頃のことを思い出す。

11月が終わる。
今年もあと1か月だ。
これまでの人生で一番、色濃かった1年であった。
上にも下にも、大いに幅を広げた1年であった。

振り返りたくなってしまうが、あと1か月あるのでもう少しあとにしよう。
とはいえ、毎年ブログで1年を振り返ることにしているが、今年は年末にその状況にない。
クリスマスくらいには振り返ろうかと思う。

ブルーハーツの持っていなかったアルバムをレンタルする。
「パンクロック」と「街」が欲しかった。
なんだかとても疲れている最近の私に、朝のコーヒーみたいに、喉元を熱く通り抜けて身体に染み渡る。

あぁ、やさしいから好きなんだ
私も、やさしいから好きなんだ、と思う。

普段走るほど急がないから、やむを得ずそのような状況に追われると私は本当に顔から余裕が消える。
八つ当たりなんて、そんなことがしたくなるようなここ最近なものだから、余計に沁みるのだと思う。

頭の中、脳の全部を、音で埋めたくてかなり音量を上げたイヤホンの上から耳を手で覆う。
唐突にある曲が、といってもいつも5,6曲のうちのどれかだが、ものすごく聴きたくなって急いでイヤホンを耳にすることが時々ある。
もう少しも待てなくて、震えてしまうくらいに、求めることが時々ある。

とにかく、今、あの曲に埋められたい。
度は違うけれど、薬物中毒の人が、薬が切れてそれを求める行為に近いものなのかもしれないと思う。

こんな体験をこれまでしたことがなかった。
「あの曲が聴きたい」と強く思うことなんて一度もなかった。
大変な身体になってしまったものだ。

でも、それで期待通りに、落ち着いたり上げられたり震わされたりしてある種の快感を得られるのだから、やはり愛すべき私の身体である。
禁断症状、みたいなことは、今は特に起きてはいない。
どちらかというと、静寂も静寂で前より欲するようになった。
言うなれば、極端になったのだとは思う。

NO Music, No Life.
とよく言われることを全然腹落ちしないと思っていたのだが、文字通りに体感している自分がいる。

そうしていたら、イヤホンが片方が聞こえなくなった。
もう、一体なんだと言うのだ。

本当に笑えなくなったら、今していることの全てに意味はなくなる。
笑えなくなるまで、していていいことはないと思っている。

不可抗力で、笑えないときだって必ず来る。
だから、どんな笑いであっても、笑えるときは笑っていたいと思う。

少しの機嫌、は別にしてもらって。



ひとときの安住

2012-11-28 22:20:09 | 日記
糸井さんは本当にうまいこと言うなあと思う。
それは彼が長らくテレビの仕事をしてきたからだといつかに彼自身が言っていた。
多くの人に、なるべくわかりやすい言葉で、限られた中で伝える、という術を得てきたのだと。

自分の言葉で話す。
自分の思いを伝える。

言葉はボキャブラリーが多ければいいということでもない。
言葉は自分に落ちてこそ、相手に伝わってこそ、意味を成す。
それを使う技術というのは、たぶん世の有名な小説家や言語学者ですら不都合を感じていることと思う。

それに、そもそも発信したい思いがある程度まとまっていることは、言葉を駆使する以前の問題である。
糸井さんは言葉の扱い方もものすごく洗練されているけれど、私は彼の言っていることや思いが好きなのだと思う。

iPhone5にして、モバイルスイカが使えなくなった。
それが嫌でiPhoneにするのを躊躇っていたこともあるのだが、予想通り不便である。
Suicaカードを何年かぶりに買ってみたものの、通勤に電車を使わない私はそれを家に置き忘れてしまうし、懐かしくも切符を買ってみると乗っている最中にそれをどこに持っていればいいのかわからない。
また、携帯がSuicaだった癖でiPhoneを改札機にかざして止められてしまうし、これまでチャージするのに切符売り場にもいく必要がなかったのだからそれにも気を配らないといけない。
携帯で物が買えなくなったのも、なくなってみると不便極まりない。

それだけ便利だったのだと思う、モバイルスイカ。

私は何をそんなに苛立っているのだろう。
そんなに大したことではないことは、全部笑顔でやり過ごしたいと思っているが、全然それができない。
余裕とはけ口が、足りていない。

月の波や、自分で立てている波や、避けたいのに有無を言わせず襲ってくる波が同時に来ている。
こういうとき、私は私を案じるけれど、今回については自分で立てている波を乗り切らないとどうにもしようがない。

一つひとつ。
一つひとつ。
一つひとつ。

自分に言い聞かせる。
恥をかこうと思う。


かわいい写真が取れた。
実家の片隅に咲いていた、植えられたでもない、キュートなピンクの花。
真ん中の黄色は電気が点いているみたいで。

外の空気がきゅっとなるほど冷たいのを知りながら咲く。
隣りに真っ赤な野バラが蕾を今に開きそうにしていた。
冬でも、冬だから、ほころぶ花もある。

そう、私は花が好きだ。



残酷なテーゼ

2012-11-25 23:43:51 | 日記
涙が出そうなくらいにしんどいことかもしれないと想像して、辛いだけではないストレスに本当に涙が出そうになる。
重たく考えすぎだと人は言うかもしれない。
でも私がそう思うのだからそうに違いない。
少なくとも今は。

立ち向かう推進力を、やってのける打破力を、やってのけた完遂力を。

色んなことを思う。
このことを考えているとなぜか、本当になぜだか、胸が熱くなって泣きそうになる。

まあいい。
負けてもいい。
負けてもいいけど、負けないように。

3連休、出かけ過ぎて、喋り過ぎて、少し疲弊している。

紅葉はあまり好きではない。
冬を乗り越えるため、本体の幹を存続させるために、葉を紅く染めて、葉を落とす。
血が止まっているように見えて、少し苦しくなる。
別に私が苦しくなるようなことではない、普通のことなのだろうけど。
でも青空に映える真っ赤は、色としてはやっぱりとても魅力的で、私も私でそんなことを言う資格もない。

特に紅葉の見どころに行くでもなく、お寺に参拝に行くでもなく、友人に会いに東海道を下って京都に行く。
紅葉シーズンで、いつもに増して混んでいる行楽日和を承知しつつ、「なるべく人の少ないところ」と私がリクエストすると友人は青蓮院に連れて行ってくれた。
河原町通りは、お祭りのように、渋谷のスクランブル交差点みたいに、混んでいたけれど、青蓮院は人も少なくて穏やかな時間が流れていた。
ふすまにはモダンな花の絵が描かれていて、生の花以外はあまり撮影しないのだけど何枚かふすまの絵も撮った。

お寺や神社や、京都という土地自体にはあまり興味はないけれど、お寺に咲いている花や庭園、飾ってある書作品には興味がある。
それに、会いたい人がいれば、京都であろうと鹿児島であろうと、私は出向く。

高島屋で、お土産にと千寿せんべいを買って新幹線に乗る。
眠くて、眠くて、読もうと思っていた雑誌を開くこともなく2時間半、頭のやり場がなくて不快な思いをしながらも眠り続ける。

家に着いて、掃除をしようと思っていたけれど体も動かず頭も回らず、ホットカーペットに張り付いて、張り付いていないところが寒いのに起きられなくて、張り付く面を変えながら3時間くらい眠る。
姪を抱いていたせいか、腕と首筋が筋肉痛だ。

思いはできれば叶えられた方がいいけれど、そうもいかないこともある。
人に対する真意や本意は全部、出した方がいいのかすらもわからない。
ただ、相手を思っての優しさなんて、本当にはないと思う。
自分のための優しさを、自分のための納得を、引っかかる何かに向き合いながら、ほどいてほぐして進めたらいい。
例えばその手助けが必要な人がいたら、気負いなく手助けを求められる人になりたいと思う。



やさしいぶんしょう

2012-11-21 21:46:55 | 日記
随分と髪が伸びたなあと椅子に髪が挟まる度に思う。
スーパーロングだった髪を3年前に60cmくらい切って、その後また何回か切って、今またスーパーロングに戻ろうとしている。
私は髪が伸びるのが異様に早い。

3年前のその前の10年間ほどもスーパーロングだったのだから、たぶん色んなことを踏まえてロングが性に合っているのだと思う。
切ってみて私は見た目に髪が短いのがしっくりこないのだとわかったし、髪が短いのが長いよりもはるかに面倒であることもわかった。
だから早く戻りたかった。
さほど気にかけることもなく、あっという間に戻ってきた。

2,3か月ぶりに会う人たちの第一声は皆「髪伸びたね」だ。

長い髪を乾かすのが面倒でないかとよく聞かれるが、確かにショートヘアの人よりももしかすると10倍くらいのドライヤー時間なのかもしれないがそれでも、トータルすると長い方が断然楽だ。
私の髪の毛は量はあるが、細く猫っ毛なので短くすると思うようにセットできない。
普段出かけるのに、コテを使うのもヘアワックスを付けるのも面倒なのだ。
またショートヘアはその微妙な長さが重要だと思うから、伸びてしまうと頻繁に美容院に行かなければならない。

一方ロングなら、朝のセット時間はほぼ皆無であるし、ある一定のラインを超えてしまえば伸びたとしても全体のスタイルにあまり影響を及ぼさない。
ヘアワックスは元から嫌いだし、ヘアオイルを数滴もみ込むくらいでまあ出かけられる。
美容院も、好きではないという理由も大きな要因にありつつ、年1回でも間に合う。

最低限のケアで、なんとなく様になる。
長年のロングヘアだった頃とそれから脱却した過去も、戻った今も、私はロングヘアが好きだし合っていると思う。

化粧もそうだが、ここ最近の私は自分自身に対して簡略化している気がする。
怠っている、というよりはおそらく、最低限最適化、みたいなことかと思う。
アイシャドウもそうだし、あれほどないと落ち着かなかったピアスも最近はたまにしかしない。
マニキュアだけは最近の方がまめだけれど。

そういえば、私の友人に、上下分かれた服は面倒だからと年がら年中ワンピースを着ている人がいる。
本当に私は出会ってから、ショート丈もマキシ丈もあるけれど、彼女のワンピース以外の格好を見たことがない。
でも服は好きだから数多くのワンピースを持っている。

私と彼女は、面倒なタイプの人間であることを自覚しながら、面倒が嫌い、という点において似ている。

シンプルになる。
ナチュラルになる。

それは考えて実行する類のものではないけれど、ありのままでいいじゃないか、とそういう方向性。
した方が良い面倒はするし、時々自ら面倒を買って出る。
到底合理的と思えないこともたくさんする。

シンプルに、ナチュラルに、年を取ることはいい。
でも、老いること前提に、老けることや衰えるのがいいとは思わない。

肌に合った高機能美容液と、心の底から嬉しいという感動、どちらがよりアンチエイジングに効果的だろう。

要るもの、要らないもの。
そうであるもの、そうでないもの。
そのときの私の本物、そのときの私の偽物。
変化こそ不変、の中で、凝り固まることなく、選べていけたらいい。

鏡菊餅。



澄み渡った虚空

2012-11-20 14:15:30 | 日記
私はたぶん人から見ると無精には見えないだろうが、生来の無精は私の根底に溶けない底層としてあって、その無精なところを覆しなさいと何か強いられたりすると、ものすごい圧迫感を感じてしまう。
食べることや寝ることを犠牲にすることができないから、もちろんそれがいいこととは全然思わないけれど、そのくらいのつもりで何かを成し遂げることというのはどんなだろう。
それにはもちろん、負ける、という事実も発生するから敢えてそのリングに上がりたかったかどうかがまず疑問なのである。
それに、勝つ、という経験が例えばできたとしたらそこに多くの犠牲を払っただけの快感があるのかどうかもわからない。

腹立たしい指摘を人にされてから、私は"自分の持ち得る限りの力を発揮する"ということについて、結構支配されてしまっている。

今私が、非常に重たい、と感じていることは、無精という理由だけではないこともわかっている。
単なる苦手、自信がない、その事全体が見通せない把握できない。

こういう類のストレスを蹴散らすのは、何でもいいから何かを決める、ということだけで、決めたらそれが苦手でも自身がなくても把握していなくても、恥をかいても、それをやるしかない。
そのリングに上がりたかったかどうかさえも、それを決めた後は「上がりたかった」というしかない。
私はもう、粗を見せずに何かをスマートにやることはできないと思う。
それに関して私は知識もなければ、アイディアもなければ、先見の明もない。
だとしたら、それをカバーできるくらいの努力と行動力を持たねばならない。

大きく深呼吸する。

中学生の頃、マラソン大会が嫌で仕方なくて、緊張しすぎて眠れなくて、翌朝本当に気持ち悪くなったことがあった。
英語のスピーチコンテストの前日も不安と緊張を自分自身で爆発しそうなくらいに最大化して大いに狼狽えた。
今考えるに、何がこの巨大なストレスは、人前で上手くいかなくて恥をかくことがおそらく一番の要因であったように思う。
緊張やストレスが本当に嫌いで、さらに当時はそういう不安や緊張を軽減したりぶっ飛ばす方法を一切心得ていなかった私は、よく身体を壊さなかったものだと今は思う。
やってやるぜ、という開き直りも少しも持っていなかったのだから。

仕事においては、1日の数分が終わってしまえばそれで完了するようなことでもない。
心地よいぬるさの中で最大を目指します、というスタイルを取ってきた私にとってその変革が重荷であろうことは自明だ。

そんなことを言いながら、最終の最終責任など持ってないわけだから、私は私のために決めなければならない。
私のために、やらなければならない。
それまで、ぶつぶつ言いたい。