つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

しゃびしゃびの日々

2014-05-28 20:57:04 | 日記
お味噌汁は少量では美味しく作れない、となぜかよく聞く気がする。
これはどういう理由でなのか、あまり深く考えることもなく、いつもたっぷり5杯くらいは飲める量のお味噌汁をこしらえていた。
3日間でなくなれば、十分に大丈夫だった、これまでの季節は。

しかし季節が進むにつれて、食べ物が「腐る」不安が出てきている。
現に3日くらい前に買った豚肉の使いかけ半分は悪臭がしてダメになってしまった。
えのきも水分が出てぐったりとし、茶色くなっている。
これは大変、と冷蔵庫の強度を2.5から4.5に上げてみたけれど効果があるのだろうか。
お味噌汁も2日間家を開けて腐らせた経験があるから、注意して毎日火を入れて、挙げ句冷蔵保存することにした。

しかし冷蔵庫に食べ物があるのは安心であると引き換えに、縛られることにもなる。
お腹があまり空いていないのに、冷蔵庫の物を消費するためにご飯を食べようと思ってしまったり、蕎麦が食べたいと思って茹でて、付け合わせがお味噌汁になったりする。
しかも当然、冷蔵保存されたお味噌汁は作りたてのお味噌汁よりも4割減くらいで味が落ちている。

「まだ食べられる食べ物を捨てる」「分かっていながら腐らせる」というのは結構ハードルが高くて、さほど面白くない海外ドラマを最後まで見続けてしまうことに少し似ている。
あるなら食べる、あるなら観る。
その最中には、そんなに美味しくないなとか、そんなに面白くないなとか、自覚しながら。

「食べ物を粗末にしてはいけない」ということも本当かもしれないけれど、「美味しくない食べ物を無理して食べなくてもいい」というのも本当だ。
「あぁもう美味しくない」と思いながら食べることが、「食べ物を何とか捨てずに済んでよかった」と思うことに勝ってしまうのなら、いっそ捨ててしまう勇気を持ちたい。
“もったいない”という精神で損をするのは、他でもない私自身である。

お味噌汁は好きだけれど、好きなものに縛られるのは嫌だ。

お味噌汁は少量では美味しく作れない、は本当なのか、いずれにしてもお味噌汁を腐らせる不安に縛られたくないし、毎回出来立てのお味噌汁が飲みたいので次からは1、2杯分だけを作ることにしようと思う。
お味噌汁は少量では美味しく作れない、が本当なら、これから夏が来て夏が終わって終わって涼しくなるまでお味噌汁を作らないかもしれない。
大量に作って1、2杯飲んで捨てる、という選択肢はちょっと選び難い。


羽毛布団を片付けて、夏用の肌掛け布団を出す。
ついでにシーツやカバー諸々を洗濯。
掃除までしないとスッキリできないのは分かっているけれど、掃除をする気分ではない。

「頭がちょっと良過ぎるのかもしれないよ」と言われて、深呼吸しても吐ききれない。
ある面での頭の良さがあったとしても、私が生きていくための頭の良さがでなければほぼ意味がない。
最も核心的で中枢を成すあのことを、私は誰かに正しく分かってもらいたいと心から願うけれど、その最も核心的で中枢を成すあのことに正しくない感じで理解を示されるのは好まない。

話をするなら、誰かが主語の話ではなくて、自分が主語の話をしたいし、相手が主語の話を聞きたい。
人から必要とされる話ではなくて、自分が勝手にやった何かの話をしたいし聞きたい。
私が喜んだ出来事を、あなたが悲しんだ出来事を、私が悲しんだ出来事を、あなたが喜んだ出来事を。
濁りないそういう話ができるなら、そこに意見はあっても否定は発生しないだろう。

相手の話は、自分の経験と照らし合わせて想像しかできないし、それを元に何か言葉を発するのだけれど、それは自分の話にすり替えることとは違う。
個人の体験は個人で独立しているはずだし、互いに平行の状態で聞くものだと思う。


「一番大事なことは言葉にできない」ということを少し前に自分の中に入れて、少し安心したような気がしていた。
その安心は、とても浅いところで、伝えたり追求したりすることを諦める、ということに近かったのかもしれない。
しかしながら、どうやら折れられもしなければ諦めきれないようだ。





鼻高々

2014-05-26 14:03:19 | 日記
結婚式でいただいた花盛りを小分けにして生ける。
かわいい花がいっぱいになった。

「スローバラード」をギターでコードを追っていたら、「夜霧が窓をつつんで」となっていた。
本当の歌詞は、「夜霧」ではなく「夜露」。

コード表はどこかのサイトからキャプチャをして取ってくるから、私が間違えているわけではない。
友人の結婚祝いに書いた「スローバラード」も「夜霧」になっていて、それを友人は披露宴の席のメッセージカードで伝えてくれた。
私の頭の中の音は間違いなく「夜露」で、そんなはずないではないかと、再び自分の書を見るとやはり「夜霧」になっていた。
忌野清志郎にも、結婚する二人にも申し訳ないと思って謝ったけれど、「夜霧」は確かに私の脳の中に字面としてインプットされていたのだった。

まあとは言え、言い訳の域を出ないけれど。


フジロックに行くからと今月来月と少々仕事を請けすぎて疲弊している。
といっても会社勤めをしている頃から比べたら、全然なんてことはないのだけれど。
もう所謂意味での「勤労」ということはできないかもしれないと思う。


池田晶子さんの著書「14歳の君へ」を読了。
とても難しいことを、もしかすると簡単なのに見えなくなっているようなことを、比較的くどい感じの文章で紐解きながら説明してくれている。
これは、私はロックンロールに出会う前だったら屁理屈と捉えていたと思う。
今でも明確に言葉で説明することなんてできないけれど、少なくともロックンロール以前の私よりかは、断然理解度は深いと思う。

何が書いてあるのか、大枠をまとめると「自分は宇宙だ」ということだったと思う。
でも論理的に捉えようとすればするほど、空を切ってしまうような、考えていたらさっきの場所の戻ってしまったというような、そんなもどかしさのある哲学入門書だ。

考えること、言葉を紡ぐこと。
大変だけれど、美しいこと。

それはそうと、今は文章を書くことがあまり気乗りしない。




青みで頬張る焼うどん

2014-05-22 16:24:50 | 日記
撮った花を加工しない、というのことを自分でも不可解なポリシーの下に今までやってきた。
不可解なポリシーというのは、浅い上での「生がいい」「自然に手を加えてはだめだ」ということ。

しかし、そもそもカメラのデフォルト設定や癖、光の調節などを撮る前にしているわけだし、写真というのは撮り手の目線なわけだからすでに被写体そのものであるわけでは全然ない。
それに被写体そのものを切ったり整えたりしているわけであって、手はもう加えられまくっている。

まあでも撮ってからの加工はまた別もので、それをやり始めたらきりがないので、撮る時点でなるべく良いショットを納めたい、ということはある。

今はアイフォンのカメラアプリで手軽に様々なことがワンタッチでできる。
モノクロ写真専用のカメラアプリなんてものもあるらしい。
今のアプリを見ていたら、ふとその機能が手に止まってモノクロにしてみたり霞がかったようにモードを変えてみる。

彩度を変えると、「おお」という少しの感動が生まれた。
コントラストが強くなって、本物以上に可愛くなったり、不気味になったり、インパクトが出たりする。
私は元々コントラストの強さに惹かれる傾向がある。

実物は実物で十分に可愛くて瑞々しいのだから良いとして、写真は写真で良い方がいい。
書道でもそうだけれど、“自分が好きなそんな感じ”にすることが最も重要である。
二度書きしてようが、わざと汚そうが、完成品の見た目が良い方が良い。
生に勝るものはない、わけではない。

私がこのことで言いたいのは、加工することへの言い訳を連ねることではなくて、不可解なポリシーなら捨ててしまえということだ。

今回加工に手が伸びたのは、以前よりも花を写真に収めることへの興味が薄れたからであって、なんだかつまらなくなってしまっていたことがそうさせた。
花を買うことも、撮ることも、止めてしまえばいいけれど、そこまでは飽きていない。はずだ。
最近はブログの更新に写真が足りなくなることがあるので、惰性で撮っていることもあるにはあるけれど。

自分で見返して、わぁきれい、とどきどきしたくて、それを「こんなもの撮ったよ!」と謙虚に大胆に露出する場としてブログはある。
SNSなどと比べて圧倒的に孤独性の高いブログでそうしたいのは、他人への露出ありきではなくて、自分の欲求が先に立つものでありたいからだ。

今日載せている向日葵も彩度を高めている。

もうそんな季節。
冬よ早く終われと思っていた時期から、今までにないほど、異様に時が経つのが早い、と感じている。





2014-05-20 03:00:02 | 日記
誰かに、その人自身について、物申す。
ということをもしかすると私はしたことがないかもしれない。

申す内容は、その人の人格や生き方に関わるようなとてつもなく大きな類のこと。
それは剣で心臓を突くようなことで、まともに食らった相手は、心を荒立てて怒るか眼を見開いたまま固まるどちらかになる。

私がそれを他人にしたことがないのは、小心者であることと、剣で突き刺した相手の返り血を浴びる勇気も血を流した責任も持てないことと、そもそも自分が剣の持ち主であるのか分からなかったからだ。
誰かに、「もっとこうやって生きた方がいいよ」なんて類のこと、口が裂けても言えない。

私は他人にしたことはないけれど、他人からそれをされたことが過去二度ほど、別々の人から、ある。
一人は私のことを思って、私への愛情でそうしたようだった。
もう一人は切ってみたら面白いかもしれないという好奇心でしたようだった。

一度目、私はその人の身に余る愛情を受け入れることはできなくて、というか今でもそういうふうな愛情なら欲しくない、その上荒立てられた心を納める術を知らなくて見ないフリをして遠くへ退けた。
二度目、より的確な言葉で心臓を突かれて、私は笑いながらとても怒った。
私は笑いながらでないと怒れない。

最初はその人も愛情で私にそうしているのかと思った。
「実はあなたも仲間なんでしょう?」と決めつけられているようで、その干渉を酷く嫌悪した。

怒ると同時に言われたことが気になって気になって仕方がなかった。
遠くへ葬るしか方法がなかった一度目とは違って、私は何かについて分かりかけていたようだった。

その後割と短いスパンで、私は突かれた心臓のダメージついてひとつの光を見つけた。

そしたら、その人は私への愛情で物申したのではないということがよく分かった。
その人の楽しみでやっていたのだった。
「あなたがそうであってくれたら私も少しばかり潤うし、嬉しいよ。そうでなくても剣の刺しごたえだけはありそうだ」という極めて自分本位に剣を刺してきたのだ。

剣の持ち主は、謙虚に大胆に突き刺す。

後日光が見えかけた私のことを「ドブネズミ」だと称してくれたのは、それはもしかしたら愛情だったのかもしれない。
時が経って、その人に今度は「キラキラしたクソ野郎」だとも言われて、何度思い出しても私は笑ってしまう。
瞬間的な愛情や信頼は、緻密にカットされたダイヤモンドのように、煌めきを発する。

「みんな違ってみんないい」というのは真実だと思う。
だけれども、その中にも自分を絶対基準とした、その時点での好きや嫌いはあってしかるべきで、「みんな違ってみんないい」と認め合った上で、猛烈な賛同や猛烈な批判がないと面白くない。
ただ場を穏便に行かせたい場合には、批判は理念を持たねばならないと思うけれど。
ただ「みんな違ってみんないい」ということで議論をしようとしなかったり、嫌いなものを容認したり、見たくないものを覆い隠したり、それ以上進むのを諦めたりしたくない。
「みんな違ってみんないい」という剣で向かってくる人とは戦えない。

「私のために面白い人でいてよ」というように、実際にはもっと相手を批判するやり方で、心臓を突き刺されたそのときに知れるのは、突き刺された感触はどんなか、ということだけだ。
その後、その感触の心地悪さを何度も再現して、そこには何があったのかを知る。





そう言ってもらえるととても嬉しいです

2014-05-18 20:39:19 | 日記
水に浸けておいたパキラの幹から白いぷつぷつのものが出てきたので、土に植え替える。
白いぷつぷつは根っこらしい。

私は植物は好きだけれど、あくまで切り花派で土いじりは好まない。
しかし年中部屋に緑が欲しいと思ったことがあって、買ってきた土付きのポトスを球型の花瓶に植え替えたことがあった。

そのときの土がまだ残っていたので、素焼きの鉢植えを買ってきて土を入れ、根が出始めたパキラを植える。
こんなことで本当に根を生やしてくれるのだろうか。
いささか心配だけれど、最初は水挿しの状態と同じにするためにたっぷりの水をやる、などの情報をネットで仕入れてその通りにする。
あまり日は当たらない私の部屋の最も日当たりの良い場所に移す。
隣りにはクワズイモが成長期を迎えてどんどんと葉っぱを増やしている。

鉢を買いに行ったついでに小さなテーブル用の観葉植物に目が行ってしまって、100円という安価で買えるものだからつい3つも買ってしまった。
一つはテーブルヤシ。
それ以外は名前を忘れてしまった。

トイレに飾っている何かの枝もの、これも名前が分からない、も水に浸かっている部分の枝から根を吹き出し、水に浸かっていない部分の枝からは新緑を吹き出している。
さすがに植物が成長する季節なだけある。

大きな大きな百合の花も恐ろしいまでの満開で、息苦しいほどの匂いを発している。
百合の匂いを緩和するために茶香炉を炊いてしまったりする。

犬や猫も可愛いのだろうけれど、移動もできない植物が水だけで驚くべき動きを見せる。
時にその香りで意識を支配しようとしてきたり、花粉で色を染めようとしてきたりもする。
芽吹いたり、葉を枯らしたり、音を立てて朽ち落ちたり、見えないところで根を出したりもする。
新緑は驚くほどキラキラしているし、花は驚くほど色を発する。

その動きが、その変化が、たまらなく愛おしい。

かなり昔、大学生くらいの頃までだろうか、私は花をもらって嬉しい人の気持ちが全然分からなかった。
枯れて汚くなってしまうものをくれるなんてプレゼントに相応しくないし、あげる人の気が知れないと思っていた。
現に、そういう風に思う人も少なからずいるだろう。
会社などの退職記念などを見ていると、小さな花束でも迷惑そうな人の方が多いようにも思う。

確かに、水をあげたり変えたりしなければいけないとか、ゴミになるとか、そもそも花瓶がないとか、あと生き物だから無碍にするのは若干の罪悪感を生むとか、色々と困ることがあるのは容易に想像がつく。
合理さを求めるのであれば、人は花もましてやペットも要らない。

そうか、私はかつて合理性が最も重要だったのか。

しかし、花や植物があることで空気に圧倒的な潤いが出るのはものすごく明らかなことだし、彼らの動きは普遍的真理すらも含蓄しているように思える。
その動きは、植物の“意志”なのか“自然の摂理”なのかも興味深い。
彼らからもたらされる単純な感動もさることながら、結局のところ、私は彼らの変化による自分の思考を楽しんでいる面もある。
「私を楽しませてよ」と思っている節もある。

あと一週間もすれば、百合の花はハリと白さを失って朽ち、ぼたっとその花を落とすだろう。
そのころには、パキラを引っ張っても抜けないくらいに根付いてくれるといい。


友人の結婚祝いに、「スローバラード」