お味噌汁は少量では美味しく作れない、となぜかよく聞く気がする。
これはどういう理由でなのか、あまり深く考えることもなく、いつもたっぷり5杯くらいは飲める量のお味噌汁をこしらえていた。
3日間でなくなれば、十分に大丈夫だった、これまでの季節は。
しかし季節が進むにつれて、食べ物が「腐る」不安が出てきている。
現に3日くらい前に買った豚肉の使いかけ半分は悪臭がしてダメになってしまった。
えのきも水分が出てぐったりとし、茶色くなっている。
これは大変、と冷蔵庫の強度を2.5から4.5に上げてみたけれど効果があるのだろうか。
お味噌汁も2日間家を開けて腐らせた経験があるから、注意して毎日火を入れて、挙げ句冷蔵保存することにした。
しかし冷蔵庫に食べ物があるのは安心であると引き換えに、縛られることにもなる。
お腹があまり空いていないのに、冷蔵庫の物を消費するためにご飯を食べようと思ってしまったり、蕎麦が食べたいと思って茹でて、付け合わせがお味噌汁になったりする。
しかも当然、冷蔵保存されたお味噌汁は作りたてのお味噌汁よりも4割減くらいで味が落ちている。
「まだ食べられる食べ物を捨てる」「分かっていながら腐らせる」というのは結構ハードルが高くて、さほど面白くない海外ドラマを最後まで見続けてしまうことに少し似ている。
あるなら食べる、あるなら観る。
その最中には、そんなに美味しくないなとか、そんなに面白くないなとか、自覚しながら。
「食べ物を粗末にしてはいけない」ということも本当かもしれないけれど、「美味しくない食べ物を無理して食べなくてもいい」というのも本当だ。
「あぁもう美味しくない」と思いながら食べることが、「食べ物を何とか捨てずに済んでよかった」と思うことに勝ってしまうのなら、いっそ捨ててしまう勇気を持ちたい。
“もったいない”という精神で損をするのは、他でもない私自身である。
お味噌汁は好きだけれど、好きなものに縛られるのは嫌だ。
お味噌汁は少量では美味しく作れない、は本当なのか、いずれにしてもお味噌汁を腐らせる不安に縛られたくないし、毎回出来立てのお味噌汁が飲みたいので次からは1、2杯分だけを作ることにしようと思う。
お味噌汁は少量では美味しく作れない、が本当なら、これから夏が来て夏が終わって終わって涼しくなるまでお味噌汁を作らないかもしれない。
大量に作って1、2杯飲んで捨てる、という選択肢はちょっと選び難い。
羽毛布団を片付けて、夏用の肌掛け布団を出す。
ついでにシーツやカバー諸々を洗濯。
掃除までしないとスッキリできないのは分かっているけれど、掃除をする気分ではない。
「頭がちょっと良過ぎるのかもしれないよ」と言われて、深呼吸しても吐ききれない。
ある面での頭の良さがあったとしても、私が生きていくための頭の良さがでなければほぼ意味がない。
最も核心的で中枢を成すあのことを、私は誰かに正しく分かってもらいたいと心から願うけれど、その最も核心的で中枢を成すあのことに正しくない感じで理解を示されるのは好まない。
話をするなら、誰かが主語の話ではなくて、自分が主語の話をしたいし、相手が主語の話を聞きたい。
人から必要とされる話ではなくて、自分が勝手にやった何かの話をしたいし聞きたい。
私が喜んだ出来事を、あなたが悲しんだ出来事を、私が悲しんだ出来事を、あなたが喜んだ出来事を。
濁りないそういう話ができるなら、そこに意見はあっても否定は発生しないだろう。
相手の話は、自分の経験と照らし合わせて想像しかできないし、それを元に何か言葉を発するのだけれど、それは自分の話にすり替えることとは違う。
個人の体験は個人で独立しているはずだし、互いに平行の状態で聞くものだと思う。
「一番大事なことは言葉にできない」ということを少し前に自分の中に入れて、少し安心したような気がしていた。
その安心は、とても浅いところで、伝えたり追求したりすることを諦める、ということに近かったのかもしれない。
しかしながら、どうやら折れられもしなければ諦めきれないようだ。
これはどういう理由でなのか、あまり深く考えることもなく、いつもたっぷり5杯くらいは飲める量のお味噌汁をこしらえていた。
3日間でなくなれば、十分に大丈夫だった、これまでの季節は。
しかし季節が進むにつれて、食べ物が「腐る」不安が出てきている。
現に3日くらい前に買った豚肉の使いかけ半分は悪臭がしてダメになってしまった。
えのきも水分が出てぐったりとし、茶色くなっている。
これは大変、と冷蔵庫の強度を2.5から4.5に上げてみたけれど効果があるのだろうか。
お味噌汁も2日間家を開けて腐らせた経験があるから、注意して毎日火を入れて、挙げ句冷蔵保存することにした。
しかし冷蔵庫に食べ物があるのは安心であると引き換えに、縛られることにもなる。
お腹があまり空いていないのに、冷蔵庫の物を消費するためにご飯を食べようと思ってしまったり、蕎麦が食べたいと思って茹でて、付け合わせがお味噌汁になったりする。
しかも当然、冷蔵保存されたお味噌汁は作りたてのお味噌汁よりも4割減くらいで味が落ちている。
「まだ食べられる食べ物を捨てる」「分かっていながら腐らせる」というのは結構ハードルが高くて、さほど面白くない海外ドラマを最後まで見続けてしまうことに少し似ている。
あるなら食べる、あるなら観る。
その最中には、そんなに美味しくないなとか、そんなに面白くないなとか、自覚しながら。
「食べ物を粗末にしてはいけない」ということも本当かもしれないけれど、「美味しくない食べ物を無理して食べなくてもいい」というのも本当だ。
「あぁもう美味しくない」と思いながら食べることが、「食べ物を何とか捨てずに済んでよかった」と思うことに勝ってしまうのなら、いっそ捨ててしまう勇気を持ちたい。
“もったいない”という精神で損をするのは、他でもない私自身である。
お味噌汁は好きだけれど、好きなものに縛られるのは嫌だ。
お味噌汁は少量では美味しく作れない、は本当なのか、いずれにしてもお味噌汁を腐らせる不安に縛られたくないし、毎回出来立てのお味噌汁が飲みたいので次からは1、2杯分だけを作ることにしようと思う。
お味噌汁は少量では美味しく作れない、が本当なら、これから夏が来て夏が終わって終わって涼しくなるまでお味噌汁を作らないかもしれない。
大量に作って1、2杯飲んで捨てる、という選択肢はちょっと選び難い。
羽毛布団を片付けて、夏用の肌掛け布団を出す。
ついでにシーツやカバー諸々を洗濯。
掃除までしないとスッキリできないのは分かっているけれど、掃除をする気分ではない。
「頭がちょっと良過ぎるのかもしれないよ」と言われて、深呼吸しても吐ききれない。
ある面での頭の良さがあったとしても、私が生きていくための頭の良さがでなければほぼ意味がない。
最も核心的で中枢を成すあのことを、私は誰かに正しく分かってもらいたいと心から願うけれど、その最も核心的で中枢を成すあのことに正しくない感じで理解を示されるのは好まない。
話をするなら、誰かが主語の話ではなくて、自分が主語の話をしたいし、相手が主語の話を聞きたい。
人から必要とされる話ではなくて、自分が勝手にやった何かの話をしたいし聞きたい。
私が喜んだ出来事を、あなたが悲しんだ出来事を、私が悲しんだ出来事を、あなたが喜んだ出来事を。
濁りないそういう話ができるなら、そこに意見はあっても否定は発生しないだろう。
相手の話は、自分の経験と照らし合わせて想像しかできないし、それを元に何か言葉を発するのだけれど、それは自分の話にすり替えることとは違う。
個人の体験は個人で独立しているはずだし、互いに平行の状態で聞くものだと思う。
「一番大事なことは言葉にできない」ということを少し前に自分の中に入れて、少し安心したような気がしていた。
その安心は、とても浅いところで、伝えたり追求したりすることを諦める、ということに近かったのかもしれない。
しかしながら、どうやら折れられもしなければ諦めきれないようだ。