ランチに豪華な中華料理を食べたのだけれど、夜が更けていくと無性に、とてつもなくスナック菓子が食べたくなった。
手に付いたスナック菓子の匂いがお風呂に入るまで消えないような味の濃いやつ。
私は普段、ポテトチップスなどのスナック菓子はほとんど食べない。
「体に良くない」という先入観もあるし、そういうものを頻繁に食べる家庭で、と言っても全く禁じられている家庭でもなく、育たなかったので特別な興味や執着はない。
今スナック菓子を食べずにいつ食べるんだ、と思って買いに出る。
カラムーチョとカップラーメンを買って帰る。
こんな夜ご飯は、学生の時にだってしたことがない。
体に良くなさそうだけれど、欲望が満たされて美味しいもの。
口に広がる、悩殺されそうなほどに濃い化学調味料。
飲みたければそこにコーラでも追加しようと思ったけれど、その濃さに全く違う方向の濃さでケンカしてしまうと思ったので、家でジャスミンティーを淹れた。
案の定、手がとてもカラムーチョ臭くなった。
そんなことは知っていたけれど、ちょっと気持ち悪くもなった。
そのことを確認したかったような気もした。
塩分を摂り過ぎて体が浮腫んでいる。
ホルモンバランスとしてもそういう時期だから、相乗効果で浮腫んでいる。
「黒子のバスケ事件」の犯人の意見陳述を読む。
A4何十枚にもわたる超長文。
涙が出た。
彼の理解力や思考力、文章力、文章構成力に単純に脱帽だし、何より彼の言っていることが、3年前までの私よりかは少し分かるような気がした。
私は彼が言うところの「生ける屍」ではなく、どちらかというと「キズナマン」だった。
盲目の生きづらさにさえ盲目だった。
彼が抱いていた盲目の生きづらさは、自分の心の中の真実、また自分が認識する社会構造をまざまざと理解したとき、氷解したのだと思う。
氷解したことで新たに沸いてきた怒りもあっただろうが、得たのは「安心」の方が大きかったのではないだろうか。
彼の年齢である「37歳」とは、「37年間生きている」ということだが、彼は「37年間も生きてきた気がしない」とも言っている。
自分が何者であるのか、なぜこのような状況であるのか、「キズナマン」でないのであれば、まずは理解すること、あるいは自覚することから「生きる」ことは始まる。
彼が精神科医の本を読んで、自分と社会のある決定的な理解に至り、「自分の人生が再スタートしたという感じ」と述べているが、決定的な理解後のある地点というのは、彼の傍から見たら「悲惨な」小学校時代がそれほど地獄だとも思っていなかったように、それまでが「生きながら死んでいた」というようなことになるだろう。
「死にながら生きていた」か。
当然、決定的な理解の前は、その発想すら持っていないわけだから、ただただ生きづらく苦しくて、徹底的にその生きづらさを見ないように麻痺させていくしかない。
決定的な理解しても、彼の苦悩が消えることはおそらく一生ないけれど、それでも穏やかな心を持てる日が増えたのではないかと想像できるし、新たな欲望も沸いてきたのではないだろうか。
彼はこの意見陳述の中で、刑期を終えたら自殺するつもりだと明記している。
他人事ながらに、「死ぬまで生きれる」とも思うし、しかしその時点での彼の思う「勝ち」を叶えられるなら、それもいいのではと思う。
所謂愛情不足が根源なわけだけれど、彼はたぶんすでに、「キズナマン」からの愛をどんなにたくさん受けても救われないだろうと思う。
それでも、私は「死ぬまで生きれる」と思いたい。
それと、誰かにとって、「何が価値であるのか、何が勝ちであるのか」。
まずは自分自身のそれについて知らなければならないし、他人のそれは分からない。
ただ、「価値」も「勝ち」も、当然のようにすり込まれているものを押し付けられるのは腹立たしいし、悲しいし、生きづらい。
そういう意味で、彼の言う、このような犯罪の抑止方法は至極真っ当であると思うけれど、彼を不可解な犯罪を犯す「キチガイ」だというレッテルを貼ったままではそれはずっと採用できないだろう。
まあ、ある地点の根源的な理解に至って、しかしここからは、やっぱり各々「で、どうするの?」と自分ひとりで歩き始めるしかないのだけれど。
一点分からないのが、事件の動機として「『黒子のバスケ』の作者氏によって、自分の存在を維持するための設定を壊されたから」としているが、『黒子のバスケ』の、あるいは作者氏の何に自分の存在意義を設定していたのかというところだ。
作者への単純な嫉妬心でないことは彼も言っている。
私が読み飛ばしたのかもしれないが。
いもうともあらすじを読んだらしく、家族の前でそれに触れてきた。
私は、少し狼狽えた。
私たちは双子で。
でも、私には家族の前でこの話題に触れることなどできない。
上手く反応することさえもできない。
それは、もう取り返しのつかないことなのかもしれないし、単純にまだプライドが邪魔をしているのかもしれない。
いや、私はもうそれを、今、欲しくないのかもしれない。
手に付いたスナック菓子の匂いがお風呂に入るまで消えないような味の濃いやつ。
私は普段、ポテトチップスなどのスナック菓子はほとんど食べない。
「体に良くない」という先入観もあるし、そういうものを頻繁に食べる家庭で、と言っても全く禁じられている家庭でもなく、育たなかったので特別な興味や執着はない。
今スナック菓子を食べずにいつ食べるんだ、と思って買いに出る。
カラムーチョとカップラーメンを買って帰る。
こんな夜ご飯は、学生の時にだってしたことがない。
体に良くなさそうだけれど、欲望が満たされて美味しいもの。
口に広がる、悩殺されそうなほどに濃い化学調味料。
飲みたければそこにコーラでも追加しようと思ったけれど、その濃さに全く違う方向の濃さでケンカしてしまうと思ったので、家でジャスミンティーを淹れた。
案の定、手がとてもカラムーチョ臭くなった。
そんなことは知っていたけれど、ちょっと気持ち悪くもなった。
そのことを確認したかったような気もした。
塩分を摂り過ぎて体が浮腫んでいる。
ホルモンバランスとしてもそういう時期だから、相乗効果で浮腫んでいる。
「黒子のバスケ事件」の犯人の意見陳述を読む。
A4何十枚にもわたる超長文。
涙が出た。
彼の理解力や思考力、文章力、文章構成力に単純に脱帽だし、何より彼の言っていることが、3年前までの私よりかは少し分かるような気がした。
私は彼が言うところの「生ける屍」ではなく、どちらかというと「キズナマン」だった。
盲目の生きづらさにさえ盲目だった。
彼が抱いていた盲目の生きづらさは、自分の心の中の真実、また自分が認識する社会構造をまざまざと理解したとき、氷解したのだと思う。
氷解したことで新たに沸いてきた怒りもあっただろうが、得たのは「安心」の方が大きかったのではないだろうか。
彼の年齢である「37歳」とは、「37年間生きている」ということだが、彼は「37年間も生きてきた気がしない」とも言っている。
自分が何者であるのか、なぜこのような状況であるのか、「キズナマン」でないのであれば、まずは理解すること、あるいは自覚することから「生きる」ことは始まる。
彼が精神科医の本を読んで、自分と社会のある決定的な理解に至り、「自分の人生が再スタートしたという感じ」と述べているが、決定的な理解後のある地点というのは、彼の傍から見たら「悲惨な」小学校時代がそれほど地獄だとも思っていなかったように、それまでが「生きながら死んでいた」というようなことになるだろう。
「死にながら生きていた」か。
当然、決定的な理解の前は、その発想すら持っていないわけだから、ただただ生きづらく苦しくて、徹底的にその生きづらさを見ないように麻痺させていくしかない。
決定的な理解しても、彼の苦悩が消えることはおそらく一生ないけれど、それでも穏やかな心を持てる日が増えたのではないかと想像できるし、新たな欲望も沸いてきたのではないだろうか。
彼はこの意見陳述の中で、刑期を終えたら自殺するつもりだと明記している。
他人事ながらに、「死ぬまで生きれる」とも思うし、しかしその時点での彼の思う「勝ち」を叶えられるなら、それもいいのではと思う。
所謂愛情不足が根源なわけだけれど、彼はたぶんすでに、「キズナマン」からの愛をどんなにたくさん受けても救われないだろうと思う。
それでも、私は「死ぬまで生きれる」と思いたい。
それと、誰かにとって、「何が価値であるのか、何が勝ちであるのか」。
まずは自分自身のそれについて知らなければならないし、他人のそれは分からない。
ただ、「価値」も「勝ち」も、当然のようにすり込まれているものを押し付けられるのは腹立たしいし、悲しいし、生きづらい。
そういう意味で、彼の言う、このような犯罪の抑止方法は至極真っ当であると思うけれど、彼を不可解な犯罪を犯す「キチガイ」だというレッテルを貼ったままではそれはずっと採用できないだろう。
まあ、ある地点の根源的な理解に至って、しかしここからは、やっぱり各々「で、どうするの?」と自分ひとりで歩き始めるしかないのだけれど。
一点分からないのが、事件の動機として「『黒子のバスケ』の作者氏によって、自分の存在を維持するための設定を壊されたから」としているが、『黒子のバスケ』の、あるいは作者氏の何に自分の存在意義を設定していたのかというところだ。
作者への単純な嫉妬心でないことは彼も言っている。
私が読み飛ばしたのかもしれないが。
いもうともあらすじを読んだらしく、家族の前でそれに触れてきた。
私は、少し狼狽えた。
私たちは双子で。
でも、私には家族の前でこの話題に触れることなどできない。
上手く反応することさえもできない。
それは、もう取り返しのつかないことなのかもしれないし、単純にまだプライドが邪魔をしているのかもしれない。
いや、私はもうそれを、今、欲しくないのかもしれない。