つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ぶ厚めのシートクッション

2014-08-31 16:51:01 | 日記
ランチに豪華な中華料理を食べたのだけれど、夜が更けていくと無性に、とてつもなくスナック菓子が食べたくなった。
手に付いたスナック菓子の匂いがお風呂に入るまで消えないような味の濃いやつ。

私は普段、ポテトチップスなどのスナック菓子はほとんど食べない。
「体に良くない」という先入観もあるし、そういうものを頻繁に食べる家庭で、と言っても全く禁じられている家庭でもなく、育たなかったので特別な興味や執着はない。

今スナック菓子を食べずにいつ食べるんだ、と思って買いに出る。
カラムーチョとカップラーメンを買って帰る。
こんな夜ご飯は、学生の時にだってしたことがない。

体に良くなさそうだけれど、欲望が満たされて美味しいもの。
口に広がる、悩殺されそうなほどに濃い化学調味料。
飲みたければそこにコーラでも追加しようと思ったけれど、その濃さに全く違う方向の濃さでケンカしてしまうと思ったので、家でジャスミンティーを淹れた。

案の定、手がとてもカラムーチョ臭くなった。
そんなことは知っていたけれど、ちょっと気持ち悪くもなった。

そのことを確認したかったような気もした。

塩分を摂り過ぎて体が浮腫んでいる。
ホルモンバランスとしてもそういう時期だから、相乗効果で浮腫んでいる。


「黒子のバスケ事件」の犯人の意見陳述を読む。
A4何十枚にもわたる超長文。
涙が出た。

彼の理解力や思考力、文章力、文章構成力に単純に脱帽だし、何より彼の言っていることが、3年前までの私よりかは少し分かるような気がした。
私は彼が言うところの「生ける屍」ではなく、どちらかというと「キズナマン」だった。
盲目の生きづらさにさえ盲目だった。

彼が抱いていた盲目の生きづらさは、自分の心の中の真実、また自分が認識する社会構造をまざまざと理解したとき、氷解したのだと思う。
氷解したことで新たに沸いてきた怒りもあっただろうが、得たのは「安心」の方が大きかったのではないだろうか。

彼の年齢である「37歳」とは、「37年間生きている」ということだが、彼は「37年間も生きてきた気がしない」とも言っている。
自分が何者であるのか、なぜこのような状況であるのか、「キズナマン」でないのであれば、まずは理解すること、あるいは自覚することから「生きる」ことは始まる。
彼が精神科医の本を読んで、自分と社会のある決定的な理解に至り、「自分の人生が再スタートしたという感じ」と述べているが、決定的な理解後のある地点というのは、彼の傍から見たら「悲惨な」小学校時代がそれほど地獄だとも思っていなかったように、それまでが「生きながら死んでいた」というようなことになるだろう。
「死にながら生きていた」か。
当然、決定的な理解の前は、その発想すら持っていないわけだから、ただただ生きづらく苦しくて、徹底的にその生きづらさを見ないように麻痺させていくしかない。
決定的な理解しても、彼の苦悩が消えることはおそらく一生ないけれど、それでも穏やかな心を持てる日が増えたのではないかと想像できるし、新たな欲望も沸いてきたのではないだろうか。

彼はこの意見陳述の中で、刑期を終えたら自殺するつもりだと明記している。
他人事ながらに、「死ぬまで生きれる」とも思うし、しかしその時点での彼の思う「勝ち」を叶えられるなら、それもいいのではと思う。
所謂愛情不足が根源なわけだけれど、彼はたぶんすでに、「キズナマン」からの愛をどんなにたくさん受けても救われないだろうと思う。
それでも、私は「死ぬまで生きれる」と思いたい。

それと、誰かにとって、「何が価値であるのか、何が勝ちであるのか」。
まずは自分自身のそれについて知らなければならないし、他人のそれは分からない。
ただ、「価値」も「勝ち」も、当然のようにすり込まれているものを押し付けられるのは腹立たしいし、悲しいし、生きづらい。
そういう意味で、彼の言う、このような犯罪の抑止方法は至極真っ当であると思うけれど、彼を不可解な犯罪を犯す「キチガイ」だというレッテルを貼ったままではそれはずっと採用できないだろう。

まあ、ある地点の根源的な理解に至って、しかしここからは、やっぱり各々「で、どうするの?」と自分ひとりで歩き始めるしかないのだけれど。

一点分からないのが、事件の動機として「『黒子のバスケ』の作者氏によって、自分の存在を維持するための設定を壊されたから」としているが、『黒子のバスケ』の、あるいは作者氏の何に自分の存在意義を設定していたのかというところだ。
作者への単純な嫉妬心でないことは彼も言っている。
私が読み飛ばしたのかもしれないが。


いもうともあらすじを読んだらしく、家族の前でそれに触れてきた。
私は、少し狼狽えた。

私たちは双子で。
でも、私には家族の前でこの話題に触れることなどできない。
上手く反応することさえもできない。

それは、もう取り返しのつかないことなのかもしれないし、単純にまだプライドが邪魔をしているのかもしれない。
いや、私はもうそれを、今、欲しくないのかもしれない。





重労働に望む

2014-08-29 19:55:36 | 日記
8月ってこんなに涼しかっただろうか。
まだ夏の肌掛け布団だけで寝ているけれど、冷えると眠りが浅くなることがよくわかる。
覚醒してしまうほどではないけれど、快適な眠りが続かない。
寝付くときは良くても、きちんと防寒せねばと思う。

それにしても、8月に「防寒」を考えるとは。

こんなことを言って結構人から引かれていたが、去年の冬、外に出ないのであればお風呂、と言っても年中シャワーだけだけれど、に入らない日が度々あった。
真冬は週に5回くらいだったと思う。
逆に真夏は1日1回以上入っていることもよくあった。
つい1,2週間前は汗をかきながら仕事をして、気晴らしにシャワーをざっと浴びることもあったのに、もう1日くらい入らなくてもいいかという気分になっている。

だいたい朝に寝て昼に起きるというサイクルをしているが、諸々の事情でそうでない日もあって、となると所謂「ごはんの時間」も「お風呂の時間」も日によって変わってくる。
回数にしてもタイミングにしても、いよいよ決まりがなくなってきた。
例えば朝まで飲んでいたとすると、2日で3食、ということにもなったりもする。

結果、私は1年前より少し痩せたけれど、痩せてなお全く問題ない体重だし、健康レベルで言うと今のところほとんど問題はない。
何が積み重なって将来どうなるかは誰にも何も分からないけれど、固定概念上の生活リズムを取り払って生活してみると、自分が欲しているものがよく分かるようになる。

今まで悪いと思っていなかったことさえも、良くはなかったのだと知ることもある。
例えば会社にいれば、いくらランチタイムが自由だったとしても、食べたいものを選べないことも多々あるし、本当は食べたくないことに気付けないほどその時間になるとお腹が空いた気がしてしまうのだ。
そんなときの分厚いピザがいかに肉体的にも精神的にも重荷だったかに、気付けなかったのだ。

これで私が病気になろうものなら、それ見たことかと言われるかもしれないけれど、私はこの生活のせいだというふうには思わないだろう。
私自身の実感の上では、前よりもよほど体の声を聞けている気がするからだ。
納得と実感を得たのなら、私にとって常識があるべき理由はなくなる。

日常レベルの行動を壊すことは、もうほとんど抵抗がない。
まああとは走ってみるとか、外食を増やすとか、日常レベルではそういう新しいことを盛り込んでいけばいい。


明日は1か月以上遅れのけいこの誕生日パーティー。
立派な高級中華に行くのだが、お腹の具合の照準を合わせるには今日何時にどのくらい食べれば良いのだろうか。

そういうことに捕らわれて食べなければいけないのは嫌だということを書いたばかりだが、おいしいものは好きである。
合意した楽しみは、最大値で取りに行きたい。





甘え見下げて自由になる

2014-08-27 02:27:15 | 日記
ユーミンの「ひこうき雲」のコード進行の仕組みを教えてもらって、やってみる。
今まで私がやっていたような曲のコードとは少し感じが違って面白い。
メジャー7のコードは、なんとなく難しい感じがして今まで敬遠していたのだけれど、この曲はそれがないと成り立たないのできちんと理解もしてみる。

あと、オンコードの意味は一応理解していたけれど、ギターに適用するときに一番下の音が元のコードの押さえ方の近くにあればするし、なければ仕方がないものとしてすっ飛ばして弾いていた。
別でベースの人が弾けばいいから、とギターの先生は前に言っていて、私一人でやるにはベースはいないから音として厚みがなくなるだけで、悪い、ということはない。

しかし、ベース音がそうであるように、コードの一番下の音というのは支配力があって、全体の雰囲気を司る役目がある。
その曲の雰囲気や味わいの大きな要素になっていることが多い。

「ひこうき雲」におけるオンコードはとても重要であることを、実際にやってみるととてもよく分かる。
それに、コード譜そのまま弾くのではなく、要素を理解すればここをずらすだけで弾ける、ということを教わって、なるほど!と思う。
知らない、ということは不便なことである。

私はギターにおけるコード理論が好きみたいで、それを読み解けるのは嬉しい。
音楽に対して、「何をやっているのかわからない」という点が、私がそれを扱えない一つの理由であるから。


随分と涼しくなっている。
夏が大好きな私も、いつからか必要以上に夏の終わりを憂うことはなくなった。
むしろ、夏が大好きかどうかさえもよく分からない。
夜の冷房は好きなので、もう付けなくても良いのかと思うと淋しいけれど。

結局のところ、どんな季節も自分の気分次第でジャンプできる。
もちろん季節感に塗られる感情は多分にあるけれど、そのもはや前提のような共通認識から飛び出てジャンプできたとしたら。
私はそういうものが欲しいなと思う。

強めの風がカーテンをはためかせている。
銀杏の木は、このまま季節が進むと黄色くなって葉を散らすだろう。
乾燥した風は唇を荒らすかもしれない。

しかし確かに、今のこの切なげな気分は、まさに夏の終わりの空気に塗り込められているようにも思う。
今私は「本物の陰鬱さ」のようなものを抱えていて、それを季節が増長させているとも言える。
しかしやはり、例えば明日の真っ昼間に真夏のかんかん照りの猛暑になっても、「本物の陰鬱さ」は消えないだろう。
いや、それもやっぱりどうかは分からない。





揺らげ!

2014-08-23 20:22:29 | 日記
とある用があって、そのための場所としてルノアールを最寄駅で探していた。
ルノアールはとてもたくさんの場所にあるから、あの一旦書いた文字を縦に縮めたような「喫茶室」というロゴと、マジックで書いたような太い「ルノアール」のロゴは思い浮かぶけれど、それがどこのものだったのか判然としない。

私がいろいろな場所を覚えられず方向音痴なのは、場所そのものの映像はなんとなく記憶するのだけれど、付近の道はおろか、他に何があったのかをさっぱり記憶していないことにも原因がある。
再訪でも辿り着かないことが多々あるのだけれど、店や建物の雰囲気やイメージがないわけではない。
しかし、そのイメージは再訪にはまったく役立たない。

iPhoneでgoogleマップを広げて、場所を確かめる。
相当に駅近なはずだし、ストリートビューもしてみると既知の光景なのだけれど、見つからない。
もしやなくなったのか、と一度家まで帰ってPCで情報を確かめてみる。
そのような気配はない。

まあたぶん、ただ単に道が間違っていて見つけられなかっただけのことだとは思う。
このような類のことは私にはよくあって、人に話すとはたと理解不能と言われる。

方向音痴、地図が読めないことを一種のアイデンティティの一部のように持っている側面もあるのだけれど、いい加減自分が面倒になるので、このあたりの能力は訓練できるものなのであれば訓練したい、とは思っている。


夜な夜なかぼちゃを煮る。
野菜や果物を食べていないわけではないと思うけれど、緑黄色野菜不足だなとは思っていたので。

一旦冷まして味を含ませた方が良さそうな煮物は、最近は深夜に作ることが多い。
その場では味見をせずに、翌日の朝ごはん、というか昼ごはん、というか、昼下がりごはんの楽しみにする。

かぼちゃの煮物は今までにも何度も作ったことがあるけれど、劇的に美味しいと思ったことがない。
というか、どこで食べても劇的に美味しいかぼちゃの煮物にはあったことがない。

かぼちゃ本体が十分に甘味があるし、多少醤油が多くても、砂糖が多くても、あまり重要な感じで作用はしない。
別にいつもそれなりに美味しいけれど、お味噌汁みたいにしみじみ美味しいと言うこともない。
それは顆粒の和風だしを入れても、だ。
かぼちゃはそのままで他の影響を受けにくいほど強いのだ。
そして、もしかすると私はかぼちゃがそんなに好きではないのかもしれない。

劇的に美味しくするには、おそらく大学芋、あれはサツマイモだけれど、のようにするか、肉の力を借りるかしかない。
私の言う、劇的に美味しい、とは、油であり砂糖であり肉である、ということになる。
前提として、この、劇的に美味しい、という状態を受け入れられる私の余裕も必要である。

ついでに砂肝とマッシュルームの醤油煮も作る。
脂肪分が少ない砂肝とは言え、肉はやっぱり肉である。


今度の書作展は、正式に中原中也の「憔悴」にすることに決めた。
どうにもこうにも文字数が多いので、非常に疲れる。

「それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!」というのは実に印象的だし、すごく我がことのように身に沁みる。
その前の文は「ぼくは美の核心を知ってゐると思ふのですが」。

“美の核心”が己の中に存在するものであるならば、私も知っているような気がする。
というか、己の中に存在するものであるならば、もう何とでも言えるけれど。
まあそれでも己の中に存在するものであるとしか思っていないけれど。

中原中也は「怠惰を逭れるすべがない」と言いながら、こんな詩を滔々と書いている。
私もそれをとても身に沁みながら、全文を書で滔々と書いている。
中原中也がどうであったのか知らないけれど、私の場合、誰に頼まれるでもなく、お金をもらうわけでもなく。
見方を変えると、それは全然怠惰でないようにも思える。

しなしながら、ものすごい怠惰であることを私はよくよく分かっている。
私の中で、怖がりと怠惰がタッグを組んでいて、それは屈強である。





グロテスクじゃない他人丼

2014-08-21 14:11:47 | 日記
ビートルズの全詩集の分厚い本を結構前に買っていて、ぱらぱらと見ただけで本棚に入れてしまっていた。
確かそのとき、ジョンレノンもポールマッカートニーも割と陰鬱な恋愛ソングが多いなという印象だった。

私が好きな、真心ブラザーズの「拝啓、ジョンレノン」という曲の最後に、
Strawberry Fields Forever
Don't Let Me Down
I'm Only Sleeping
I Am The Walrus
I've Got A Feeling
というところがあって、ストロベリーフィールズフォーエバーがビートルズの曲名ということは知っていたけれど、あとは何を言っているのか分からなかった。
そうして調べてみると、続きもビートルズの曲名であった。

私はものすごく打ち抜かれた曲か、音楽の教科書に載っているレベルの有名曲か、誰かに1曲単品で教えてもらったものしか、どんなに有名なロックミュージックでも、洋楽は曲名を知らない。
“だいたいあんな感じの音楽”という“ビートルズな感じ”“オアシスな感じ”“イーグルスな感じ”というばっくりとした音景での捉え方をしている。

だいたい英語の曲は、和訳の信用性も疑わしいし、微細なニュアンスはたぶんずっとわからないと思っているので、私はオアシスが大好きだけれど、5,6曲くらいしか歌詞の意味を知らないし、あまりそれを掘ろうと思ったことがない。
まあそれも本質的なところの“感じ”は、ロックであっても絵画であっても書であっても、詞以外に漏れ出でてしまって感じられるものだと思っているけれど。

というわけなのだけれど、「拝啓、ジョンレノン」をきっかけに再度本棚から分厚い詩集を取り出して、曲を聴きながら詞を見てみる。
もちろん、英語とその対訳。
そういえば「Revolution 9」の訳は当然のようになかった。

まず、ビートルズの曲って音が面白いんだな、という印象。
何を今さら、という話だけれども、1曲が1曲として独立感があるのである。
もちろん“ビートルズ感”、もしくは“ジョンレっぽい”“ポールっぽい”というのはあったとしても。

言ってみれば、たとえばブルーハーツも奥田民生も、曲から描かれる音景というのはかなりの一貫性がある。
それしか描けないのかもしれないし、それが彼らのまさに表現したいことなのかもしれないし、そのブランドで食べているということなのかもしれない。
しかしビートルズの曲は、よく言われるように、音楽への探究心に満ちていて、それが曲ごとの音景に反映されている。

ということが、やっと私の中で腑に落ちた気がする。
ちなみに、「音景」という言葉はさっき知ったのだが、とてもしっくりくる言葉なので使ってみた。
おそらく一般に正しい言葉ではなく、「サウンドスケープ」と訳される造語のようだけれど。

そして、詞の感じも今ならもう少し分かるような気がした。
恋愛ソングの体をとった、個人的な憂鬱と個人的な愉悦と、体制への批判。
まあ体制への批判においては、「そんなことでもないんだ」という感じもするけれど。
あと単純な身勝手さとお茶目さについても、彼らの曲の中に見れた気がした。

今まで、ビートルズの偉大さについて、あなたが言うならそうなんでしょうね、と誰かが言ったことを興味深くだけ聞いて、私の中でいまいちピンと来ずにいた。
実際に自分で体感する、ということなしに、理解する納得する腑に落ちる、ということはないのである。

私が音楽に対して「分からない」というレッテルを貼り続けていると、音楽のことや音楽を創る人のことがもう今以上には何もわからないかもしれない。
それはなんだか、私が好きなものに対する敬意も足りないし、私自身もとても悲しい。

自然に分かるまでストックしておいてもいいけれど、分かりたいと一歩ずつでも向かっていかないとなとも思う。