つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

謎のスナック

2014-02-28 17:06:36 | 日記
くるりのライブを見に行く。
正確には、ストレイテナーというバンドとくるりのライブ。
私は当日まで、ストレイテナーというバンドのことを知らなくて、新設のライブハウスだったからライブハウスのサブネームのようなものかと思い込んでいた。
そもそも「サブネーム」が何なのか、自分でもよく分からないけれど。

くるりの存在を今までずっと知らなかったわけではないけれど、ふと岸田さんの詞について最近になって思うところがあってよく聴いている。
私は音だけで音楽を判断できないというか、そういう感覚の持ち主ではないようだから、音楽は歌詞もライブパフォーマンスも、歌い手の発言までも見てしまう。
そして気になる人については、現在存命中でミュージシャンを存続してくれているのならば、やはり生を見ておきたい。

西麻布の新設ライブハウスは、とても音が良かった。
さっき音だけでは音楽が分からないと言ったばかりだが、そんな私でも十分に音が良いことを認識できた。
一つ一つの音が鮮明でクリア。
しかし私の場合、一般的な「音の良さ」は少々耳触りとして鋭すぎるようにも思った。
少し粗雑で荒々しい方が好きらしい。

岸田さんは、私が抱いていた印象とはちょっと違った。
社会化されているというか、商業化されているというか。
別にこれはミュージシャンのあり方に対する非難ではない。
ただ、私が見たいのは“はだか”なんだなと、単純に認識するだけだ。

あと、岸田さんが描き続けている“世界”は、おそらく「さよなら言わなきゃいけないな」というところに集約されるのだなという気がした。
留まれない、留まってはいけない。

ここからは岸田さんの話ではないけれど、「いつものその言葉を手放してみよう」と人から言われて私はそれについて悩ましく考えている。
私は、生きるのに根底を覆すようなひとつの大きな価値観を手に入れて、ある意味において安住しているのは確かだ。

その人が言っているのはおそらく「本当に飽きていませんか?」ということで、その言葉だけを使って表現をしているとその言葉の支配力から逃れられなくなって、今度は逆に自由が利かなくなる、ということだ。
それはとても理解ができるし、結局のところ私はところどころで考えることを放棄していることも少々自覚がある。

しかしながら私がどう生きたいかは、別に人から言われることで決まることでは全然ない。
その人と私は、似ているところもあるだろうけれど、似ていないところの方がもちろん多いから、私に正しく適用できるとも思わない。

しかし、しかし、耳が痛い。
とても耳が痛い。

どうするにしても、本当にそれを愛しているのであれば、それは消えない。
言葉を捨ててみたところで、本当にはそれを捨てていないことが分かるだけだと思う。

影響力甚だしそうなそれっぽいことを取り入れるか否かは私次第で、私は何を選択しようかをまず考えるか行動するかしないといけない。


名刺を作ることにした。
名刺は、「自分が何者であるか」を人に最も簡易的に説明してくれる。
肩書きは、とりあえず名乗ってしまえ、と2つ入れることにする。
私が自分の名前を書で書き、友人がデザインをしてくれる。

こういうことに関して、「私なんかが個人の名刺を・・」と思ってしまうのだけれど、自由業とはそういうことである。
誰に迷惑をかけるわけでもないから、何者であるかを名乗ってしまうことには慣れていきたいと思う。

何にせよ、自分だけの名刺を持つのは初めてだからちょっとわくわくもしている。

延びていたけいこの上京が明日になったから、私の自由業についてなど諸々話そうかと思っている。
気負いなく、ざくっと話すつもりである。





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2014-02-26 03:06:23 | 日記
私は比較的「仕事ができそう」ということを他人からよく言われる方だと思う。
どういう意味で、どのくらいのレベルで、「仕事ができそう」と言っているのかは不明だけれど、自分でそう言われることが多いように自覚している。

こういう場合、「仕事ができそうな顔」をしている、というのもどうやらあるらしい。
私みたいな顔の人が「仕事ができそうな顔」とすると、いもうともそう言われるのだろうか。
「しっかりしてそうな」「ちゃきちゃきしている」という印象もあるらしいから、それは私の喋り方にもよると思う。
早口だし声が大きいし、曖昧さは嫌うけれど、言い切れないことを言い切ったりもしない。

私は「仕事ができそう」と言われて、心外だとはもちろん思わないけれど、すごく正直なところそんなに嬉しくはない。
できそう、というただ推測だから特に否定も謙遜もしないけれど、「目が鋭いからですかね」と少し自分でも訳のわからないことを言うようにしている。

そして、実際に「仕事ができる」かどうかは、ある面においてはそうかもしれないし、ある面においてはそうでないかもしれない。
それはみんなそうだ。

しかしなんにせよ、「仕事の声がかかる」ということは当然ながらお金を生むという価値があることで、その仕事をやるやらないは置いておいても、ありがたい話である。
自由業になってなお、そういう話があるのはとてもとてもありがたい話である。

その受ける受けないを私が自分で選ばなければならない。
私の能力でそれができるのか、私は本当にそれをやりたいのか、総合的にお金はどうなのか。
この3つを軸に考えなければならない。

ある仕事の話をいただいて、それは私が自由業でやりたかったこととは全然違う。
全然違う、というよりは、ジャンルはそうだけれど質が違う。
まさに「仕事ができそう」という顔とか雰囲気を見られてのことなのだろうとは思う。

今私は非常に複雑な気持ちでいる。

そのジャンルに携わりたい気持ちはあるけれど、私はそのポジションに就きたいわけではない。
しかし、そういうポジションの仕事を、私はたぶんものすごく頑張れば何とかかんとかできるのかもしれない。
つまり適性がないわけではなさそうということは自分でもわかる。

そして自由業になったことに、今の私はいろんな意味において満足しているけれど、不安がないわけでは当然ない。

私は自分で選んで会社を辞めて、自分が社会において何者であるかを非常に説明しづらい立場にいることに面倒と少しの不安を感じている。
周りに、「自分が何者であるか」を明確に言えた方が楽というのは間違いないことだ。

私はその仕事を断るだろうことは、自分で分かっている。
しかし今の私にとって重要なのは、それなのになぜ複雑な気持ちになったのか、というところだ。

リリーフランキーのように、「ライター、エッセイスト、小説家、絵本作家、アートディレクター、デザイナー、ミュージシャン、作詞家、作曲家、構成作家、演出家、ラジオナビゲーター、フォトグラファー、俳優」という肩書きを見て、しかし別に私が安心できる点は何もない。
リリーフランキーがリリーフランキーであることはすごいことなのだ。

ただ定めないのは良くないことなのか。
定めないことで心配になるのは周りではないのか。
定めないことで自分も心配になるのか。

やるだけだ、具現化するだけだ、とりあえず、何はどうあれ。
進め、小心者。

という現時点の思考。


はだかの血管には、冬の間にもずっと血が通っていた。
血流が漲って、ふくふくと蕾が膨らんで空に昇る。




まだ知らない

2014-02-23 18:09:48 | 日記
マーシーのアルバムとDVDも、三宅伸治の詩集とアルバムも一斉に届いて、小さな鍵のない郵便受けは半開きになっていた。
早速全部に目を通す、耳を通す。

ハイロウズの「死人」という曲のイントロにそっくりな感じの曲があって、それを「うな重~~」と歌い出すものだから吹き出してしまう。
ふと調べてみると、キンクスのレイ・デイヴィスの「I Need You」という曲の替え歌らしい。
そしてやっぱり「死人」もマーシーの作った曲でこの曲をモチーフとしているらしかった。
マーシーは、ダジャレと本気の間の、本気寄りの位置にいる、そんなイメージ。

ひとりでもまさにマーシーしていて、これはどちらにも失礼な話だけど、ヒロトの姿が微塵も感じられない。
マーシーはひとりでいても切なさや孤独さが先に立たない。
だからこそのマーシー感なのだと思うけれど、しかしヒロトといるときはそれはそれで嬉しそうなマーシーもいるわけで。

もう、おめでとう、と言いたくなる。

DVDにはマーシーの、筆圧は低いけれど斜めで読みやすい直筆でこう書かれていた。
因みにPCフォントの斜めとは逆方向の斜め。

1991年 僕は奇妙な夏をすごした
バンドを従え、スポットライトを浴びて
ステージのまんなかに立って、歌ったのだ
それは見知らぬ夏だった
そしてそれは実にエキサイティングな体験だった
不安と期待にガタガタふるえる僕を
爆笑させながらも、しっかりと支えてくれた
素晴らしい友達であり音楽仲間の山川君、
篠原君、古川君、大槻君、白井さん(中略)・・・
またやろうぜ


そしてこのライブDVDのタイトルも「真島昌利 LIVE Another Summer」
マーシーもそんなふうに不安と期待でガタガタふるえるのだと、私は初めて想像した気がする。
ヒロトに対してはそういう想像をしてしまうのだけれど。

先日の私の緊張と比べるには比較できないほど大きな話だけれど、自分の気持ちが乗った何かを表出するときの緊張というのは、「いかに自分の思いの通りにできるか」という点への不安と期待だと思う。
それには一緒に演奏するメンバーのプレイもそうだし、観客がいる場合は観客の反応もあるだろうけれど、結局は自分がイメージ通りにできるかどうか。
自分が「こんなもんじゃない」と思ってしまったら失敗になってしまう。

そのイメージまで行けて、観客がついてこない場合にはそれはたぶんもうどうしようもない。
いや、そのイメージまで行けて観客がついてこないという事態が起こり得るのか分からないけれど。
そのイメージとは自己満足の達成、愉悦の到達とでも言おうか、ということなのでそこまで行けているのなら、本人的な悔いは何もないだろう。

言うまでもなく、そこに至るまでの研鑽がどれほどのものであるかは、ここでは置いておく。
また、「ライブは心拍数だ」と語った人がいたけれど、人間の身体的肉体的な仕組みを利用して最大の興奮を具現化するステージング力にも多分に後押しされ得ることも、ここでは置いておく。

たとえ自信と経験があっても、自分の中の最高のイメージにその時間その場所で近づきたいと思うことは、緊張を呼ぶのだろうと思う。
もしイメージまで近づけなかったということではなく、単純なミスとしての失敗が起こったとしたら、それはイメージまでの研鑽不足、もしくはイメージ自体が揺らいでいたイメージ不足、あるいは経験不足。

いずれにしても、その時間その場所で完成させなければならないライブは生もの感に溢れている。

しかし一方で、そんな場面でも緊張しないというタイプの人もいるから、それは理系と文系の人の思考回路くらい別物ということにしておこう。


三宅伸治の詩集をぱらぱらと読んで、コーヒーを淹れてフレンチトーストを作って、久しぶりに掃除を始める。
水拭きを2回通りしながら、いつも掃除機があるとどれほど楽だろうと想像するけれど、今私はお金の面で掃除機による大きな楽さよりも、筆とか紙とか音楽とかアコースティックギターとか、欲しい物がたくさんあることを考えると買えない。
あと、私は普段運動といえる運動を全くしないので、水拭きくらいは自分に強いたい。

つるりときれいになった部屋で、今度は緑茶を淹れて三宅伸治の詩集を全部読む。
出かける前に一つ仕事を片付けようと思っていたけれど、時間が無くなってしまった。


湯島天神の梅シャワー。

7分まで咲いていたのはこの木だけで、まだまだ2分咲きといったところだった。
雪が残る空気の中で、まだ咲かなくてもいいよ、と梅を見ると毎年そう言いたくなる。






信念×夢×目標

2014-02-22 04:32:54 | 日記
会社勤めをしていたときは、オリンピックなど本当に何も見なかった。
元々私は自分がやっていたバレーボールくらいしかスポーツに興味がなく、ワールドカップのサッカーも野球も、もしリアルタイムでテレビの前にいても見ないくらいだ。
サッカーの楽しみ方は幾人かのサッカーファンの人に教えてもらって、その場は楽しむけれどいざ一人で見たことは一度もない。

ロンドンオリンピックのときには、それが開催されているともの知らないくらいに丸ごと何も見ずに、ハイライトすらも気に留めることなく過ぎ去ったように思う。
どうしてだか、昔からほとんどスポーツ観戦をする習慣がない。
プレイしている人の生い立ちや思いを知れば多少は興味も出るかと思うのだが、「情熱大陸」などでスポーツ選手が出ていてそれが良い話でもその後そのスポーツを見るようになったということは一度もない。

戦いごとに興味がないのだろうか。

一つ言うなれば、オリンピックであればやはり私も日本選手を応援する傾向にあって、自国の応援に留まらず、微かにも他国の選手やチームに対して失敗を念じてしまったりする自分が好きではないということはある。
競技そのものや、勝敗がつくことに対しては全くいけないとも思わないし、寧ろそれは清々しい。
しかし、オリンピックに関しては特に「お国のため」という感じが拭えたものではないから、報道を含めても自分の見方にフラットさが欠いてしまうように思えてあまり見る気にならない。

私が楽しみ方を知らないだけ、というのも大いにある。
熱狂、の類なら結構何でも欲しい私にとってはそういう楽しみ事が増えることはとてもとても好ましいことだけれど、どうやって楽しめばいいのかが今のところ分からない。

今回のソチオリンピックもほとんど見ていないけれど、ちょうど私の起きている時間にやっていたので女子フィギュアだけ見ていた。
ショートとフリーの2日間、いろんなことをしながら見ていた。

真央ちゃんがフリーで素晴らしい演技をして、最後に感極まった表情になったのはとても印象的だった。
自己満足で終われない世界にいて、到底想像し得ないほどの巨大すぎるプレッシャーとの戦いだっただろう。
擦り切れて、疲弊して、それでも頑張って、頑張らなくてはいけなくて。

すごくすごく勝手な見方だけれど、真央ちゃんの顔つきは数年前に比べてここ2,3年かなり強張っていたように思う。
それは大人になってあどけなさが抜けた、という意味ではなく。

トップアスリートに限らず、何でもトップの世界は「自分のため」にそれをすることができなくなってしまうのかもしれない。
「自分のため」とも思いつつも、「誰か、しかも時にとてつもなく大勢の誰かのため」にやらなければならなくなってしまうのだろう。

至極勝手なことを思うのであれば、真央ちゃんはスケートが大好きで大好きで滑っていた自分にもう一度出会えるといいなと思う。
本当は、そういう世界では甘すぎるのだろうけれど、「恩返し」をするために踊ったり滑ったりするものではないと思うから。


アンプの電源を入れたままにしておくと、スマートフォンが電波を受発信するたびに傷が疼くような音を出す。
エレキギターの電気信号を拾ってアンプから音が出ているのだからそういうものなのだろうと思うけれど、見えないはずの電波が見えるようになったような変な感覚になる。
疼くような音がするとまもなく、スマートフォンはメッセージを受信したりする。

私たちの身体の周りは、実際見えない電波だらけなのだろう。


アンパンマンマーチ。
最初、表紙くらいのおおきさの大きさの文字で、紙芝居風のものを作ろうと思っていたのだけれど、どうにもイメージ通りにいかずやむなくこの形になった。
他のこともやっていたためおかげで今日は半紙を何枚消費したのか知れない。

これは机で書いているが、普段私はあまり机で書を書くことはなく、そういえば机で書くのはとても楽だと思い出した。
まあ半紙以上の大きさを机で書くことはできないのだけれど。

あと、いつも思うのだが、書は写真ではその雰囲気や手触りのようなものが4割減くらいになる。
これは自分の拙さの弁解だけではなく、どんな書を写真に撮っても、だ。

花の写真は時に実物を超えた良さを出す場合があるけれど、書の場合は今のところ写真の方が良かったというものには出会ったことがない。
影とか手振れなどを除いても、撮り方だけで解決する問題ではないような気がしている。

だから、ブログに載せる書たちについて、弁解したくなる時がある。
それは、本当はもう少しは良いんです、なんて弁解になる。
どうにもしようがないけれど。

もちろんこの書のポイントは、絵心がまるでない私の、それでもアンパンマンに見えるだろうアンパンマンである。

こんなことをしたのは、マーシーのせいだ。






燃え盛るろうそくから一年

2014-02-20 15:04:31 | 日記
今日はマーシーの誕生日だと思い出して、アマゾンで「真島昌利」と検索していたらマーシーのまだ知らないソロやら、ソロのライブDVDやら、派生して三宅伸治の詩集やらがざくざくと出てきてしまって、とりあえずと思ってほしいものを全てカートに入れていたら合計金額が大変なことになってしまった。
優劣つけがたいけれど、10数個の中から気を落ち着けて4つ選んで注文する。

一枚、定価よりもかなり高いアルバムがあって、アマゾン以外にもレンタルサイトやその他のウェブショップでも探してみたけれど全然見つからない。
でも見てしまったからにはそれは欲しいのであって、どうしても聴くしかないのであって。
それがファンというものだから仕方がない。

あとマーシーのソロのライブもYouTubeでしか見たことがないからとても楽しみである。
ヒロトもマーシーも、完全に独立して色を発する人だけれど、マーシーの方が“一人でいてもマーシー”という感じがする。
バンドでなくても、何にも依存せずにマーシーの世界観でもう十分すぎるくらいに独り立ちできる。
ヒロトもソロがあるけれど、その圧倒的な孤独感のようなものが先に立ってしまう感じがあって、ソロ時代、矢沢永吉に「でも君はバンドの方がもっといいよ」と言われて再びマーシーとクロマニヨンズを結成したらしいことはとても頷ける。
ヒロトが独立したロッカーであることを前提に、ヒロトはマーシーがいるときの方が安心して自分を出せている感じがする。
その点、マーシーはどこにいても安定した“マーシー”でいられる。

これは最近気づいたことだけれど、私はヒロト作詞の曲は、ときどき自分のことに置き換えて取り入れ、ぎゅうっとなっていることがある。
しかしマーシー作詞の曲は、マーシーの世界観への多大な敬愛と憧れととらえていて、我が身のことのようには思っていない。
マーシーの世界観は私の中になかったもの、それでもものすごく分かるような気がしてしまうもの、なのだろう。
たぶん、私が展覧会の書を選ぶときにヒロトの詞を選びがちなのはこういうところに理由があるのだと思う。
今回もまだ迷っているが、ヒロトの詞を書くのとマーシーの詞を書くのとでは作り方というかイメージのあり方が異なる。

三宅伸治は、ヒロトやマーシー、憂歌団、清志郎、仲井戸"CHABO"麗市などと親交があって、私は彼らとよくコラボレーションしていることで三宅伸治を知った。
ハイロウズの「ベートーベンをぶっ飛ばせ」という曲でヒロトが「三宅伸治ーー!」と叫んでいたことが最初だっただろうか。
あのヒューストンズのメンバーでもある。
とにかく私が漁っているそのネットワーク上のギタリストとしてよく出てくる。

三宅伸治のソロというか彼主体の活動を今まで追ったことはなかったのだが、折りしも三宅伸治プロデュースのライブイベントがあってそのチケットを友人が取ってくれていた。
三宅伸治のソロアルバムも今回いくつか見つけて一つ注文した。
それに、一番気になったのは「三宅伸治詩集 月のメロディー」
どんなだろう。

アマゾンは人が欲しいものを的確に連動して表示してくるのが巧すぎる。


今日の書は先日の撮影で使った小道具のようなもののひとつ。
プロのカメラマンの方が撮影してくれている。