くるりのライブを見に行く。
正確には、ストレイテナーというバンドとくるりのライブ。
私は当日まで、ストレイテナーというバンドのことを知らなくて、新設のライブハウスだったからライブハウスのサブネームのようなものかと思い込んでいた。
そもそも「サブネーム」が何なのか、自分でもよく分からないけれど。
くるりの存在を今までずっと知らなかったわけではないけれど、ふと岸田さんの詞について最近になって思うところがあってよく聴いている。
私は音だけで音楽を判断できないというか、そういう感覚の持ち主ではないようだから、音楽は歌詞もライブパフォーマンスも、歌い手の発言までも見てしまう。
そして気になる人については、現在存命中でミュージシャンを存続してくれているのならば、やはり生を見ておきたい。
西麻布の新設ライブハウスは、とても音が良かった。
さっき音だけでは音楽が分からないと言ったばかりだが、そんな私でも十分に音が良いことを認識できた。
一つ一つの音が鮮明でクリア。
しかし私の場合、一般的な「音の良さ」は少々耳触りとして鋭すぎるようにも思った。
少し粗雑で荒々しい方が好きらしい。
岸田さんは、私が抱いていた印象とはちょっと違った。
社会化されているというか、商業化されているというか。
別にこれはミュージシャンのあり方に対する非難ではない。
ただ、私が見たいのは“はだか”なんだなと、単純に認識するだけだ。
あと、岸田さんが描き続けている“世界”は、おそらく「さよなら言わなきゃいけないな」というところに集約されるのだなという気がした。
留まれない、留まってはいけない。
ここからは岸田さんの話ではないけれど、「いつものその言葉を手放してみよう」と人から言われて私はそれについて悩ましく考えている。
私は、生きるのに根底を覆すようなひとつの大きな価値観を手に入れて、ある意味において安住しているのは確かだ。
その人が言っているのはおそらく「本当に飽きていませんか?」ということで、その言葉だけを使って表現をしているとその言葉の支配力から逃れられなくなって、今度は逆に自由が利かなくなる、ということだ。
それはとても理解ができるし、結局のところ私はところどころで考えることを放棄していることも少々自覚がある。
しかしながら私がどう生きたいかは、別に人から言われることで決まることでは全然ない。
その人と私は、似ているところもあるだろうけれど、似ていないところの方がもちろん多いから、私に正しく適用できるとも思わない。
しかし、しかし、耳が痛い。
とても耳が痛い。
どうするにしても、本当にそれを愛しているのであれば、それは消えない。
言葉を捨ててみたところで、本当にはそれを捨てていないことが分かるだけだと思う。
影響力甚だしそうなそれっぽいことを取り入れるか否かは私次第で、私は何を選択しようかをまず考えるか行動するかしないといけない。
名刺を作ることにした。
名刺は、「自分が何者であるか」を人に最も簡易的に説明してくれる。
肩書きは、とりあえず名乗ってしまえ、と2つ入れることにする。
私が自分の名前を書で書き、友人がデザインをしてくれる。
こういうことに関して、「私なんかが個人の名刺を・・」と思ってしまうのだけれど、自由業とはそういうことである。
誰に迷惑をかけるわけでもないから、何者であるかを名乗ってしまうことには慣れていきたいと思う。
何にせよ、自分だけの名刺を持つのは初めてだからちょっとわくわくもしている。
延びていたけいこの上京が明日になったから、私の自由業についてなど諸々話そうかと思っている。
気負いなく、ざくっと話すつもりである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/6f/d1bdb6257be5585538b0cf7699cfa99f.jpg)
正確には、ストレイテナーというバンドとくるりのライブ。
私は当日まで、ストレイテナーというバンドのことを知らなくて、新設のライブハウスだったからライブハウスのサブネームのようなものかと思い込んでいた。
そもそも「サブネーム」が何なのか、自分でもよく分からないけれど。
くるりの存在を今までずっと知らなかったわけではないけれど、ふと岸田さんの詞について最近になって思うところがあってよく聴いている。
私は音だけで音楽を判断できないというか、そういう感覚の持ち主ではないようだから、音楽は歌詞もライブパフォーマンスも、歌い手の発言までも見てしまう。
そして気になる人については、現在存命中でミュージシャンを存続してくれているのならば、やはり生を見ておきたい。
西麻布の新設ライブハウスは、とても音が良かった。
さっき音だけでは音楽が分からないと言ったばかりだが、そんな私でも十分に音が良いことを認識できた。
一つ一つの音が鮮明でクリア。
しかし私の場合、一般的な「音の良さ」は少々耳触りとして鋭すぎるようにも思った。
少し粗雑で荒々しい方が好きらしい。
岸田さんは、私が抱いていた印象とはちょっと違った。
社会化されているというか、商業化されているというか。
別にこれはミュージシャンのあり方に対する非難ではない。
ただ、私が見たいのは“はだか”なんだなと、単純に認識するだけだ。
あと、岸田さんが描き続けている“世界”は、おそらく「さよなら言わなきゃいけないな」というところに集約されるのだなという気がした。
留まれない、留まってはいけない。
ここからは岸田さんの話ではないけれど、「いつものその言葉を手放してみよう」と人から言われて私はそれについて悩ましく考えている。
私は、生きるのに根底を覆すようなひとつの大きな価値観を手に入れて、ある意味において安住しているのは確かだ。
その人が言っているのはおそらく「本当に飽きていませんか?」ということで、その言葉だけを使って表現をしているとその言葉の支配力から逃れられなくなって、今度は逆に自由が利かなくなる、ということだ。
それはとても理解ができるし、結局のところ私はところどころで考えることを放棄していることも少々自覚がある。
しかしながら私がどう生きたいかは、別に人から言われることで決まることでは全然ない。
その人と私は、似ているところもあるだろうけれど、似ていないところの方がもちろん多いから、私に正しく適用できるとも思わない。
しかし、しかし、耳が痛い。
とても耳が痛い。
どうするにしても、本当にそれを愛しているのであれば、それは消えない。
言葉を捨ててみたところで、本当にはそれを捨てていないことが分かるだけだと思う。
影響力甚だしそうなそれっぽいことを取り入れるか否かは私次第で、私は何を選択しようかをまず考えるか行動するかしないといけない。
名刺を作ることにした。
名刺は、「自分が何者であるか」を人に最も簡易的に説明してくれる。
肩書きは、とりあえず名乗ってしまえ、と2つ入れることにする。
私が自分の名前を書で書き、友人がデザインをしてくれる。
こういうことに関して、「私なんかが個人の名刺を・・」と思ってしまうのだけれど、自由業とはそういうことである。
誰に迷惑をかけるわけでもないから、何者であるかを名乗ってしまうことには慣れていきたいと思う。
何にせよ、自分だけの名刺を持つのは初めてだからちょっとわくわくもしている。
延びていたけいこの上京が明日になったから、私の自由業についてなど諸々話そうかと思っている。
気負いなく、ざくっと話すつもりである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/6f/d1bdb6257be5585538b0cf7699cfa99f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/63/f42075598f02ed2f0276f9bb422ae806.jpg)