つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

メーテルさん

2014-01-31 00:52:32 | 日記
初めて句会なるものに参加させていただく。
俳句は小中学校の頃に勉強として習ったくらいで、ド素人である。
短歌は書道で書いたりするけれど、そういえば私はあまり意味を捉えずに書いている。

参加メンバーは、句集も出している俳人の方や大学教授、大学の助手さん、フリーライターの方などで、こんなド素人がいきなりすみません、といったメンバーだ。
しかし言葉遊びは好きなので、大学の先生にお誘いいただいて参加させていただくことにした。

それにしても、句会、だなんて高尚で雅やかな遊びである。

句会の前に3句作って主催者に送り、それを当日誰の句かを無記名の状態で読んで、好きな句に天・地・人とランクを付ける。
そしてなぜそれを選んだのか、どんな風に思ったかなどについて意見を言い合う。

私は俳句の技巧的な面や文学的な面はあまり良くわからないけれど、私が今思うに俳句は、いかにその情景を広く豊かに、質感や空気感までを含めて想像させられるか、いかにその気持ちの芯を突けるか、によって「上手さ」が出るのではと思う。
これは、私が単に絵画的に情景が浮かぶ以外の俳句の見方ができないということかもしれないけれど。

五七五という短く限られた言葉の中で、もっともふさわしい言葉を選ばなければならない。
そして、やはりある程度人に正しく伝わってこそ、というところもある。
だから奇抜な言葉の組み合わせより、相性の良い言葉の組み合わせの方がスマートで伝わりやすい句になる。
しかしスマートになりすぎると、今度は無難であるということになって面白味に欠けることにもなりかねない。

俳句は、それのみでは解釈の自由度が高すぎるものでもある。
「解釈したいように解釈すれば良い」というのは何かしらの表現物すべてに言えることかもしれないけれど、やはり作り手の“正解”は独立して存在する。
俳句にはやはり説明があった方がより味わえるし、句会はその“正解”が事細かに知れるので、表現物について何かを根ほり葉ほり聞くことは野暮だと言われることもある中で、堂々とそれができて面白い。
表現物というのは、その人の目線だったり頭の中だったりするわけなので。

ちなみに、今回私が作ったのは以下の3句。

寒空(さむぞら)割る はだかの血管 落葉樹
寒々と 暖簾くぐりて 生ビール
凍空(いてぞら)に 喉もと過ぎる 肉まんかな

最近書を書くのに、歌詞を書くのが長過ぎてそこまで体力がないときのネタがないので、追ってこの俳句でも書こうかと思う。

句会が終わってみんなで食事をする。
それまであまり喋っていなかった方が、ロックと音楽の話になったときにろうそくの火を灯したようにあかあかと喋り出したのが印象的だった。

その後いつもの先生と一緒に、句会をやったカフェにまた戻ってお茶を飲む。

私は自分の話したいことを夢中で喋ってしまうと、すごく物質的にお腹がいっぱいになったような感じになる。
それを少し和らげたくて、あるいは体の一所にあるそれを体全体に充満させたくて、セックスピストルズやジャムやオアシスを聴きながらゆっくりと家路を歩く。
今日は出掛けに雨が降っていたから自転車ではない。
しかし家の前まで来てなお、まだお腹がいっぱいだったので、傘だけ入り口に立てかけて自転車で出発する。

この寒いのにランニングをしている人が多いのに驚く。
家の前は大通りで、確かに広く走りやすい道ではあるけれど、真冬の夜にも走っている人がこんなにもいるものなのか。
ランニングしている人は私の自転車のスピードとさほど変わらない感じで走っている。
追い越すことも追い抜かれることもなく、真っ直ぐの道をランナーと並走して走って行く。

「Tonight I'm a rock 'n' roll star」なんてデビューアルバムの1曲目で切ないまでに歌い上げているのを聴くと、ノエル・ギャラガーのものすごい決意を感じる。
こういうことを歌うことで、野次られることも、卑下されることも、たぶん分かっていたというか受け入れた上でのこれだったのだと思う。

この「Rock 'N' Roll Star」は、ある意味「リンダリンダ」よりも真面目で実直、もっと言うと愚直という気がする。
これらが人前に出たとき、「リンダリンダ」は挑発や攻撃性は一切なく、不可解な要素を含んだアート性があるという意味で、ちょっとした逃げ道がある。
しかし「Rock 'N' Roll Star」は、詞のみにおいて挑発的でもあるし解釈の幅は狭い。
ノエルはこの歌で「俺が書きたいことは全て、この曲に書いた」と言っているらしいけれど、ものすごい覚悟だったのだろうなと思う。
だから少しの逃げ道としての、「It's just rock n roll」なのかなと思うけれど。

これは良さの比較ではなくて。

30分ほど夜道をふらふらとして部屋に入ると、なんと暖かい。
今日の昼に私は確か暖房をつけなかった。
ということは、出かけるときに電気を全部消す癖で、ついでについていない暖房のスイッチをオンにして出て行ってしまったものを思われる。

なんたることか。

「リンゴばたけに」という詩。
「リンゴばたけに雨降りて銀のみどりのけむる時
リンゴたわわに枝おもく沈々として紅きかな」
高村光太郎




まるで生麺

2014-01-30 13:35:17 | 日記
私は水曜の夜に決まって少し暴食する。
お酒を飲むではなく、暴食する。

甘いものも肉も食べたくなる。
それは生理前よりも酷かったりする。

私が暴食するのは、ものすごく普通のレベルの、ごく当たり前な制約の、とても身近で簡単な蹴散らし方なのだと思う。
その制約はすべて私が自ら頼んで負わせていただいているものなので、誰か人がどうとかいうことでは一切ない。

暴飲するのは未だ自分に見たことはないけれど、暴食するのはたまに見る。
おそらくそんなに酷いものではないと思われるが。

暴飲暴食に限らず、私はどちらかというとたぶんそういう嫌いのある人間なのだろう。
いや、本来は人間皆そうなような気もする。


「SPEC」からまた「ケイゾク」をスマートフォンで見始めて、結局止められずに全話見てしまった。
少し早く寝ようと深夜2時にベッドに入ったのに、最後4話ほどは大詰めになるので結局5時になってしまう。

「真実なんてものはないんだよ。誰かの頭の中に記憶としてあって、だからその誰かを消せば真実も消える。」
と満身創痍の真山が柴田に言うところが、1度目に見たときにウッとなっていたなと思い出す。
この他にもいくつかポイントはあって、私が数年前にこのドラマにはまったときとその箇所と変わっていなかった。
だから、新しいことはなかった。

ただストーリーはだいぶ忘れていて、途中まで真犯人の真犯人すら忘れて見ていて、あんなに大好きと言いつつ自分の記憶の悪さに驚いた。
結局私はミステリーが好きなわけではないのである。


そろそろ私のテレビを捨ててほしい。
しかし、捨ててくださいと頼むようなことではないよなあと思う。

斎藤茂吉。
「寒ざむとゆふぐれて来る山のみち歩めば路は濡れてゐるかな」





アイドル状態

2014-01-28 03:31:47 | 日記
武田双雲さんの弟である武田双龍さんの開く教室の個展を見に行く。
最近輪をかけてそうなのだけれど、何かを見たり聞いたりして、「あれも違う、これも違う」というふうになってしまう。
もちろん、物には様々な見方があって見方次第で楽しめるのだけれど、私はどうやらすべてにロックンロールを求めているようで、それが感じられないと「あれも違う、これも違う」というふうになってしまう。
個展を見てまた、「違う」となってしまった。

何かの作品に対して敬意がないわけではない。
そういうあらゆるものには労力や何かしらの思いが詰め込まれているものが多いから、それはひとつとして素晴らしいことだ。
しかし、それが私にとってどうであるのか、が問題で、最近グワシと心を引っ掴まれることが少ない。

「ケイゾク」もDVDを借りる前に動画を探したらあったのでスマートフォンでいくつか観るが、2,3年前にすごく興奮していたセリフやシナリオは、恐ろしいまでの「それならばもう知っている」という既視感があった。
いや、一度観ているのだから既視感は当たり前なのだけれど、やっぱり何度見ても最高、とはならずに何だか拍子抜けを食らった。
何度見ても最高、となるはずだった、そうなりたかった。
まあしかし、私は真山と柴田という点においては相変わらず大好きだけれど。

これが俗に言う、というかある人が言う、「心の燃費が悪くなる」ということなのか。
だから何かを探すことを止められないわけで、しかし、機関車のように燃やし走り続けるけれど、私には怠慢という不燃物もたくさん積まれているのでそこそこな感じで石炭をくべて走っている。

新しく私を興奮させてくれるものは、そうさせてくれるのであれば本当に何でも良い。
そしてそれが例えば物質的な何かであったとしても、おそらく、私はそれから得られる自分の生きるための何か概念のようなものを探しているのだと思う。

ただ私はまだまだ全然、それに向かってすべきことは米粒ほどしかやっていないし、そういう意味ではこれからずっと忙しい。
同じものに対しても、新しい切り口があるかもしれないし、今理解に至れないものも、私の理解力や術や素養が足りないだけかもしれない。

「ロックンロールは出会った時が絶頂、あとは落ちるか維持するだけ」というようなことを言ったのはヒロトだけれど、それはまあそういうことなのかもしれない。
だからと言って探すのを止められない。


納豆なんてどれも大差ない、と思っていたというかあまり考えたことがなかったのだけれど、大粒タイプが好きなのだと気が付いた。

お米を炊いて、ラップに包んで冷凍保存すると当面の戦うパワーが満タンになったような気になる。

この冬、私はひとりで白菜を3株くらい食べている。

安いマニキュアなんてどれも変わらない、と思っていたけれど安いマニキュアの中にも明らかにやりやすいものがあることがわかった。

爪を赤やピンクにしてみたものの、ここ数日の気分ではないことに気付いてしまったがもう遅い。

超難しいと思っていた「夜空ノムコウ」のコードは今はわかるし何となく弾ける。

オーバードライブのエフェクターを買ったのに、シールドがもう1本必要と知らなくて音が試せない。

「テラスハウス」というテレビ番組を見ていたら「青春」が流れて、それだけで俄然プラスに転じる。



サニーオレンジ

2014-01-26 01:50:27 | 日記
少し酔っぱらっていて気が大きくなっていたついでに何だか自暴自棄になっていて、抹茶プリンと食べたみかんの皮を床に置いて、テレビも電気もエアコンもつけっぱなしで、電気ひざ掛けをかぶって寝ていた。
いつものように一人用にソファとスツールに橋渡しになって、腰も首も収まりどころのない格好で。

朝6時までそこで寝て、言い知れない疲労感に押しつぶされそうになりながらベッドに移動する。
やっぱり平らなところで寝るのはいいなあとか思いながら、激痛ではないけれど、激しい下腹部の鈍痛に苛まれてそこから1時間ほど眠れない。

仕方がないのでふらふらと起き上ってロキソニンSを飲んで、激しい鈍痛が過ぎ去るのを待つ。
たぶん、ロキソニンSが効いた30分後くらいに眠りに落ちたのだと思う。

目が覚めて尚、やり場のない負の疲労感と少しの腹痛が残っていた。
そしてさらに私を落胆させたのは、今日はごみの日で、起きたのが14時だったためにごみを出し損ねてしまったことだ。
すぐに出せるように準備してあったのに、丸ごとそれが残ってしまった。
声が出てしまうほどのため息をつく。

ひとつだけどうしても仕事でやらねばならないことがあったのでそれだけ片づけて、もう何もしない、とすべてを投げ出す。

昨日作ったかき玉汁にうどんを入れて、ラー油をかけて食べる。
かき玉汁にはショウガがたっぷり入っていて、ラー油の辛さと相乗して食べると暑くなった。

また鈍痛が私を締め付けるのでロキソニンSを飲む。
何が体で起こって効くのか知らないけれど、「痛くなくする」というのは魔法みたいだ。

借りてきた「SPEC」のDVDを見ながら寝たり起きたりして、ロックな感じがすると勧められた西原理恵子の「この世で一番大事な『カネ』の話」を読んだりしていた。
「この世で一番大事な『カネ』の話」を読みながら、内容はまあ確かにと思いつつもあまり面白くもロックな感じもしなかった。
ギターを弾くことも書道をする気にもなれない、音楽を聴く気にもなれない。
泣くほどの感情もないけれど、ただ疲れるほどに体の深層がイライラする。

何のことはない、この一連は全て生理現象というか、生理である。

何か用事でもあれば何とかかんとかやり過ごすのだけれど、用事もないのに出かける気はさらさら起こらず、何十時間にもわたって生理という倒せない怪物に真っ向から向き合ってしまった。
やっとその峠を越えて、少しのイライラを引きずって今に至る。

本当に、体にはかなわない。
心にはかなわない。


「SPEC」は「リーガルハイ」の前の私のNO.1ドラマだった「ケイゾク」の続編というか同じ脚本家の西荻弓絵と監督の堤幸彦のドラマだ。
いつか観ようとずっと思って今になってしまったが、やはり「SPEC」より断然「ケイゾク」の方が面白かった。

両方とも、心に傷を負った信念の熱い男刑事と天才頭脳の変人女刑事が主人公である設定には変わりはないけれど、結局のところ「ケイゾク」の真山(渡部篤郎)と柴田(中谷美紀)のイカれた人間性とその雰囲気に、「SPEC」の瀬文(加瀬亮)と当麻(戸田恵梨香)が適わなかったというところが大きいように思った。
「ケイゾク」の見どころでもある真山と柴田の奇怪さや絶妙な掛け合いや少しのラブストーリーは、「SPEC」ではあまりなかったし随分とあっさりしたものだった。

その分「SPEC」では“SPEC”という人間の超能力のようなものを要素として加えることで見ごたえを保っているような感があった。
私はあまり超常現象のようなこともSF的なこともあまり好きではないけれど、演出にギャグがたくさん含まれるのでそれは面白く見ていられる。
しかし、ストーリー自体がその“SPEC”に頼りすぎている感じもした。

今こうして思い返すに、私の印象としては、「ケイゾク」の“湿った”感じがして、それが私は好きなように思う。
「SPEC」は“湿って”いなかった。
それは単純に、渡部篤郎と中谷美紀本人から出てしまっている奇人ぷりでしか成せないような気もする。
あと、「ケイゾク」の方がところどころ、考えさせられる内容も多かった。

次回は「SPEC」の特別編と、もう一度、「ケイゾク」を全て借りてこようかと思う。


「一人で大人一人で子供」
マーシーは巧いこと言うなあと思う。
これは半紙に書いているのだが、小さな紙に書くのも慣れたい。






預かれないよ

2014-01-23 20:13:24 | 日記
新しい筆をおろす。

筆は細いのから太いのまで、20本近く持っているが、メインで使っている筆の寿命が来ていた。
穂先が利かなくなり、弾力性も薄れてきた。

今使っているのは私は書道教室に通い始めたときから使っているからかれこれ6~7年は使っている。
洗い方が悪いのか、保管方法が悪いのか、筆の寿命が一般的にどのくらいなのかは知らない。

また、磨り墨よりも墨汁の方が筆を傷めるらしい。
磨り墨用の筆、墨汁用の筆、と分けて使っている人もいるらしいので、私も今後はそうしようと思う。

ちなみに、柿沼康二さんは墨汁は使わないとどこかで聞いたことがある。
私の習う教室でも「墨汁は邪道だ」と墨汁を批判する先生もいる。

私は、墨を磨るのが面倒とか、墨汁は乾きづらいとか、そういうふうには思うけれど、作品のイメージを体現できるのであればどちらでもいいのではと思っている。
磨り墨と墨汁では出せる風合いも違うし、筆使いも異なる。
それに見た目にも見る人が見れば、磨り墨か墨汁かはわりと簡単に分かるので、それを重視する人が評価する展覧会などであれば磨り墨の方が良いだろう。

まあ筆の痛みを早めてしまう、という点では磨り墨の方が良いわけだけれど、墨を磨るのは時間がかかるしそれだけで疲れてしまうのである。

やはり、結果、自分の思う作品のイメージとかけたい労力で決めるしかない。

真っ白の柔らかい毛。
それで手を撫でると触れられていないかのような、羽のようなタッチ。
一度墨に浸けてしまったらもうこの白さは戻ってこない。

最初は大事にしたいと思うので、墨を磨る。
純白の筆を硯に下ろすと、じわじわと黒く染まった。
紙に筆を下ろすと、いつもと違う感覚。

とりあえず、何でもいいから新しい筆の感触を確かめたくて意味のない言葉や漢字を書いていく。
そうだそうだ、私はただ字を書くのが好きだったと思いだす。
ついでに、イメージに近づけない字体があって、今も程遠いから少し練習をする。

今日の書は「64,928-キャサディ・キャサディ」

また展覧会の創作を始めなければならない。
今年は自由業になった記念に、今までで最も大きい作品にする予定。
まだ歌詞を書きたいのだけれど、そんなに長い歌詞がない。

「平成のブルース」や「こんなもんじゃない」など、時折マーシーはとても長い曲を作るけれど、同じフレーズが繰り返されるのは作品にしづらいところもある。
まあ彼らの詞は基本的に同じフレーズの繰り返しばかりだけれど。

いっそ、何かのアルバム一枚を全て盛り込もうかとか、そんなことも考えてみる。
そうするとたぶんとても大きな紙でもとても細かい字になるだろう。

まだあまりイメージが沸かない。