つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

依存的部活

2014-11-30 01:55:55 | 日記
2時間しか寝ていなくてふらふらで倒れそうになりながら用を済ませると、雨が降っていた。
私は家から自転車で20分ほどの距離の駅を最寄駅のように頻繁に使っていて、その駅に自転車を置き去りにするのは憚られるので、天気予報で雨がそのうちあがるのを確認してどこかに行くことにする。

眠い眠いとぼーっとする頭で、いつか機会があれば行こうと思っていた「相田みつを展」。
彼のポエムは「人間だもの」と非常に有名であるが、その他に広告ポスターになっている「一生感動、一生青春」という言葉以外、全然詩を見たことはない。
「人間だもの」というところで興味をそそられるわけではないのだけれど、書家の作品としても見てみたいなという気はあった。

当然といえば当然だけれど、私はどんな書作にも、やはり人と比べて興味は断然に高い。
おそらく音楽そのものを愛している人にとってはジャンルを問わず、一通り音楽作品は皆好きなのではないだろうか。

大人800円の有料の展覧会だけあって、会場は広くとてもたくさんの作品があった。

中には相田みつをの写真もあって、私は彼を初めて見た。
誠にまことに勝手ながら、髭がボーボーで、わりと恰幅の良いじいさんをイメージしていたのだけれど、かなりすらっとした人であった。

そして本当に私は彼の「人間だもの」の言葉以外にほとんど何も知らず、彼が元々書について造詣が深かったことも知らなかった。
完全オリジナルであの作風を成しているのかと、簡単に考えていた。

おそらく書体としても多くはなかったであろう当時に、ひとつの作風を生み出すのはとてつもなく偉大なことである。
当然基礎となるものが必要で、元々とても書に長けた人であったらしい。

中国古典「鄭文公碑臨書」の臨書作品も展示があったが、確かに上手い。
相当筆に慣れていて、それでこそのあの作風であるということは、考えてみれば至極納得である。
それに「相田みつを風」という書風、章法は、本人に立脚した誰にも似ない“味”があるという意味で素晴らしい。

まあでも、オリジナルの作風と詩を掛け合わせたあとの、書としての進化はほぼ見られないとは思うけれど。
あと、全部がぜんぶ、一字一字、もっと言うと一画一画が完全に独立していて、連綿と続いていかないので「気脈」がないのは、せっかく筆なのに、とも思う。
もっと書は面白くなるのに、とか、別に私が言うことでもないけれど、思ったりする。

しかしこれは批判でもなくて、本人の重きが詩に置かれたと思えば自然なことなのかもしれない。
あと誰でも「読める字」を目指していたというようなことが説明にあったので、確かにそうならばそうなる。

それにしても、しかしながら、全くと言っていいほど、その詩、言葉たちが私に響いてこない。
眠すぎたからではない。

言っていることが私にとって概念的に新しくないからだろうか。
詩に重きを置いたとはいえ、その詩に本人の“ヤバさ”のようなものを感じられないからだろうか。

彼の言っていることは「リーガルハイ」で言うところの羽生くんのような感じだ。
「民意」という範囲の中の言葉であるように思う。
そういう意味において、民意の代弁者というのは確かに、流行る、売れる。

個展を出て自転車の場所まで戻るが、まだ雨が降っている。
ならばと久しぶりにタイカレーでも食べようと、お店に入る。
寝不足に久しぶりの香辛料が滲みた。

お店を出たら、雨は止んでいた。
昼寝は布団に入ってすることはほとんどないけれど、睡眠という睡眠を取りたかったので布団に入る。
眠たくて、眠たくて、ベッドに吸い込まれていくように寝るのは、とても気持ちが良い。

目を覚ますと、3時間くらいが経っていて、真っ暗だった。


音もなく羽二重餅から秋の雪





追われた

2014-11-27 16:11:38 | 日記
とても久しぶりにコンビニでからあげを買って食べたら、なんて脂っこいのだろうと思った。
1個食べてそれに気づいたのだけれど、まさかこんなにと思ってもう1個食べてもとても脂っこい。
気持ち悪いなと思いながら、3個買ってしまっていたので3個目を食べた。

元々そうなのだろうか。
それとも私の体調が悪いのか、年を取ったからなのか。

「食べるのは楽しみ」のひとつであることは間違いないけれど、自分で決められるそのことに苦しめられるのはやめたい。
食べ物を残すとか捨てる罪悪感は、一般的に私たちに非常に屈強なものとして植えつけられている観念であるけれど、それほどまでに重要なこととは思えない。
残すも捨てるもなんとなくできずにお腹に収めてしまうのはただの思考ストップである。


出品している東京書作展が会期を迎えている。

展覧会に出品する作品は事前に写真に撮らない。
会場できれいに表装された作品に、改めて向き合った感想をフラットに持ちたいということと、あとはただ大きすぎて写真に上手く撮れないということもある。

だから、展覧会場に行くのはいつも少しどきどきする。
数か月前の自分がどんなであったのか、またその出来栄えが単純にどうなのか。
自分の作品の前に立って、まじまじとそれを見るのは、鏡で自分の裸を見るのと似た意味合いがあるかもしれない。
自分による自分のものなのだけれど、それによって自分が顔を覆いたくなったりもする。

いつも展覧会に出向いてくださる大学の先生と会場で待ち合わせをする。
作品との対面は一旦自分で済ませておきたいので、遅れた私よりも先生が遅れてくださって助かった。

今回は中原中也の「憔悴」という長い長い詩を書いた。
詩の中身も結構好きなのだが、前にも書いたが、テーマはこの展覧会における「技術力」への挑戦だった。
あと、淡墨による滔々とした作品イメージだけが頭にあったのでそれを具現化したかった。

一足早く会場に着いて自分の作品と会った感想は、正直なところ、「うーむ」という感じだった。
今回私がしたかったところのテーマ通り、という点について「うーむ」なのである。

特選という今までの最高結果であったわけで、期待した結果に今一歩及んでいないまでも、まあ良かったと思う。
あんなに長文をよく形になるように一枚の紙に収めました、という点ではまとまりのあるきれいな作品であったと思う。

だがしかし、表現の世界において、「技術」はあって然るべきものである。
そのための研鑽は当然せねばならない。
ただ、それはあくまで前提条件である。

だから、自分でしたテーマ設定にいささか誤りがあったのだなと思う。

所謂宛名書きのような楽しさをやってしまったわけだ。
無論、私は字を書いていることそのものが楽しいので、宛名書きだってそれはそれでたまらなく楽しかったりするわけなのだけど。
だが、こと“表現”という点において発したいイメージや、それが再度反射して跳ね返って得たい気持ちというのは当然別にある。

要約すると、今回の作品について、ロックじゃない、と表さざるを得ない。
テーマ設定時点でそれを目指してないのだから当然だけれど、発表する場において、私なんかが「技術力」たるものに立ち向かってはいけないのだなと、それが今回の展覧会で思ったことである。

また、初めて自分でフェイスブックにアップしてみたのだが、前作「月の爆撃機」を見ている方に、「すごいと思うけど前の方が良かった」と写真レベルで言われた。
その人もロックンロールを愛しているから、その点を見ているのであり、瞬時にバレるものなんだなと思った。
前作との明らかな作風の違いという点を除いてみても、滲んだものは異なっていただろうと思う。

そういう意味において、私はひとりの書の先生の作品を本当に毎度楽しみにしている。
先生でも、革新や拡大の明らかな意図が見える先生というのは多くはない。

今回「風神雷神」と書かれたその先生の書に、私は少し泣きそうになってしまった。
もう出し尽くしてしまっていてもいいほど書に長年向き合って尚、新しいのである。
ああもう、なんでそんなふうにできるの・・・というため息ものなのである。

毅然とした意志のきらめきに、ただただ圧倒される。
かっこいい、というのはこういうことを言うのだ。


秋の雨今宵こそはとタイトスカート





アウトソース

2014-11-24 16:38:12 | 日記
クロームキャストというものを買った。
Youtube大好きな私にとって、これは本当に感激的なものであった。

そもそも事の発端は、テレビを録画する外付けハードディスクを買おうと思って、その方面に詳しい人に相談していたら、こんなのもあるよということで紹介されたのがクロームキャストだった。
値段も4500円程度なので、外付けハードディスクを3万のものにするか、4万のものにするかという面倒な悩みより目先的に簡単だったのでつい買ってしまったのだった。

もちろん、機能は全然違うものである。
クロームキャストはYouTubeなどの動画再生をテレビ画面で行うためのもので、録画などはできない。

しかし、普段音楽映像やドラマなどまでスマートフォンで見ることが多い私にとって、テレビ画面で見られるということはなんと素晴らしいことか。
画面が大きいので格段に見やすいことに加え、テレビのスピーカーなので音量も迫力があり、そして何より、スマートフォンを手で持っていなくても良いので、手放しで動画を楽しめるのである。
ノートPCだってタブレットだって、あんなに画面は大きくないし、ノートPCでさえ腿に置いて見ることを考えると、手放しで大画面で見られるということの素晴らしさがお分かりいただけるだろうか。

普通にテレビやDVDを見ることと同じであるので誰でも想像できると思うが、それがYouTubeの動画なのである。
いや、それも、そりゃそうだ、と言ってしまえばおしまいなのだけれども、とにかくこれまでの私の状況からすると超画期的であり、感動的体験であったのだ。

まあちなみに、私のテレビは32型なのでテレビで言うところの大画面でもないのだけど、ノートPCの画面が大きいものも32型のテレビには適わないだろう。

また、動画の受信自体はクロームキャストが行っているようなので、その間YouTubeを閉じて、スマートフォンで別の操作が可能である。
それに、普段なぜかiPhone端末はWiFiが不安定なことがよくあるのだけれど、クロームキャストは動画再生も安定している。
両方とも同じWiFiを使っているので、他の通信速度は遅くなるけれど。

クロームキャストの動画を見る以外の他の機能として、クロームのブラウザや、撮った写真をテレビ画面に写すこともできる。
写真はやってみたけれど、確かに大きな画面で見る写真は迫力はあれど、私の生活内で便利さを発揮することはないだろう。

あと、静止画も何もなくとも、iTunesの音楽をテレビのスピーカーから聞ければ便利なのにと思い、やり方を色々と検索していたがまだアプリが日本対応をしていないようで諸々説明が小難しそうなのでやめた。
しかしやり方がないわけではなさそうで、常々iTunesが入っているPCで音楽の再生が手間と感じているので、これも詳しそうな人に聞いてみるとしよう。

ところで、こういう電子機器は、私はハズレを引きやすい。
初期不良など何万分の1なのかと思うのだが、ハズレを引いてしまう。
それにああいう電子機器の説明書が本当に酷く苦手なので、極めて初歩的な設定ミスや入力ミスなどをしてしまって、上手く起動、作動させることができないことがよくある。
まあ、パスワードが何か思い出せずにログインできない、のような機器の問題ではない段階の問題ということもよくあるが。

しかし今回の接続は真っ当な最小ステップで上手くいった。
アップル製品は「直観的」に操作できるようにできている、とよく言われると思うが、クロームキャストにはそれがあった。
何せ、パッケージに3ステップが書いてあるだけで、取扱説明書すら入っていないのだ。

簡潔、的確。
あとは画面が誘導してくれる。

非常に満足度の高い買い物をした。
huluなども見られるようなので、この後ツタヤ通いも止めるのかもしれない。

と、動画を見続けていたら容易に日が暮れて深夜になってしまった。

書道の道具が出ていたので、諸々の課題を済ませ、俳句もいくつか書にしてみる。
「いつも同じ」じゃつまらない、けれど、いつもの自分が滲み出て、いつもの自分にすり寄っていく。
破壊できないものを扱いながら、破壊できないので拡大を目指す。

しかし、破壊するくらいの気概も、ある段階ではおそらく必要かと思う。
いやしかし、実際には天と地がひっくり返ることはあり得ない。
いやしかしそれでも、天と地がひっくり返るくらいの破壊力を持ち得たいと思ったりもする。

これはほとんど書について言っていないけれど。


と、勢いに任せて記事を書いたが、クロームキャスト、YouTubeなどの動画を家でよく見るという人にはおすすめである。


陽だまりで閉じた瞼に霧時雨




悲観的なすすむくん

2014-11-23 03:12:33 | 日記
湯島天神は通っている書道教室の程近くにあって、菊まつりのときには毎度顔を出す。
もう4年連続で行っていると思うが、そう言えば一度もお参りをしていない。
今回もしていない。

神社の神様やら絵馬やらおみくじやらに、さっぱり興味がないのだ。
好ましくないと思う人もいるかもしれないが、「そんなことをするとバチが当たる」というようなこともさっぱり関心がないし、それが直接原因のバチなど当たらないと思っている。
もっと言うと、初詣もお墓参りもひとりでいたら絶対にしない。

菊まつりは、さすがに毎年見ているので、最初のときのような感動はないし、花に対する溢れんばかりの情熱は今はさほどない。
それでもパールのような色合いの白や、油絵のような黄色と赤のマーブル模様や、天然パーマみたいな花びらの丸まりにはうっとり見とれてしまう。
ふと花に触れると、冷たいのに柔らかな、生きている質感がして、はっとする。

毎年変わらぬ厚物や糸菊が見事に咲いている。
彼らは人の鑑賞用に作られた種類で、自分自身で野生できない。
頭が大きすぎて、花びらが大きすぎて、ひとりでは立ってもいられないし咲けもしないのである。

切り取りたいショットを探してiPhoneを向けながら見て回る。

一画に枯れた小菊の群生があって私はそれを写真に撮っていた。
岡村靖幸を聴きながらだったので、反応に遅れたが、ひとりのご婦人に話しかけられていた。
慌てて音楽を止めると、「それ枯れちゃってるけど、こっちに咲いているのあるわよ」と言っていた。
「はい、そうですね」とだけ答えて、岡村靖幸を復活させる。

岡村靖幸は「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」だけリピートして聴いていたことがあるけれど、アルバム全体を真剣に聴いたことはなかった。
なんだかちょっと久々に「音楽っていいね」という感想を持った。
ちなみに私はブルーハーツや奥田民生を聴いて「音楽っていいね」という感想はあまり持ったことがない。
というか、「音楽っていいね」という発言を、私はあまりしないようにしている節もある。

彼はきっと生きるのに自在な人ではないだろうけれど、音楽についてはある程度自在なんだろうと思う。
もちろん生みの苦しみみたいなものはあるとしても、描きたい世界観やイメージをある程度形にできるだけの技術とセンスがあるのだろうと思う。
だからたぶん、彼の音楽は「それがそれ」という雰囲気を持ち得ている。
ある人の言葉を借りると、ある構造とその人のマリアージュ、といったところか。
それはなんて好ましいことで、なんて羨ましいのだろう。

先日SMAP×SMAPに出ていたのを偶然見かけたけれど、詞もときどきとても気になることを言っている。
「愛はおしゃれじゃない」とか、勝手にワンフレーズ抜き出して独り歩きさせるものでもないとは思うし、的確な意味など分からないけれど、付箋か何かに書いてピン止めしておきたいような気持ちになる。

よく分からない何かが匂い立つ言葉を紡げるのは偉大だな、と思う。

自由であること、自在であること。
自由とは、全力疾走している状態から四方八方どこへでも瞬時に方向転換、あるいは静止ができる状態のこと。
自在とは、全てを意識化した上で、再度それを無意識化してその物事を扱える状態であること。

私はこの話が好きで、よく考える。
元は森博嗣であって、又聞きの上、私の意訳が入っているけれど。

大事なのは、イメージと意志なのだと思う。


11月夫婦電話で丸くなる





一定に長く揺れずに無くなるまで

2014-11-21 18:32:05 | 日記
擦れてしまったブーツのかかとを直しに行く。
駅の中にある靴の修理屋さんは値段が高い。
私はいつも、書道教室の近くのおじいさんがやっているお店まで持っていく。

両足のかかとを直してもらうのは600円。
ソールまで替えても確か1,000円くらいなものである。

ふたりの職人おじいさんがやっている。
いつも私はふたりのおじいさんを見ると、絵本の中に出てくるような「樵」や「刀鍛冶」を思い浮かべる。
腰が曲がったおじいさん2人、エプロンをして眼鏡をかけて、台の上でトンカチやら何やらを使ってもくもくと作業をしているその姿。

「あそこの餃子屋のおばちゃん辞めちゃったって」

時折交わされる会話は、ひどくスローペースで。
ひとりのおじいさんが話しかけた30秒後ほどに、もうひとりのおじいさんが返事をする。

「まあ無理だなあ、ひとりじゃ」

私は最初、会話の返事がないので、発せられた言葉がもうひとりのおじいさんに届いていないものと思っていた。
宙に溶けたその言葉がちょうど霧散して消えた頃、返答は私の意図しないタイミングで少しびっくりした。

その後も、風船でキャッチボールをするように会話は紡がれていった。

擦れたかかとをもぎりとり、新しいかかとを付けて、高さを合わせるために削る。
ついでに色の剥げてしまった部分に黒いニスのようなものまで塗ってくれて、仕上げに全体まで磨いてくれた。
確か4000円ほどの安いブーツだったなと思い、しかしはきやすい大切なものなので嬉しい。

特に必要ではないが、前々から作ろうと思っていた合鍵も一緒にお願いする。
こちらは500円。
これは相場的にどうなのかはよく知らないが、安めであるには違いない。


最近載せている俳句が、ストックがなく、その場しのぎである。
あぁ俳句載せるルールだったと、自分で作ったルールを思い出す。
しかし筋トレとはこういうもので、何か、比較的大きな何か、が上手くなりたいと思ったら日常的に筋トレを強いる必要がある。

全ては私が起こしていることで、全ては私の責任の下で。

言葉の世界は、ふとした楽しさが、やっぱりある。


火恋し震えるポニーテールかな