つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

よかったね

2011-12-30 21:26:55 | 日記
始まったばかりで大して納めることのない仕事を納めて、2011年の勤務が終わった。
丈の短い毛皮のジャケットでは身体に堪える寒さだったけれど、私はいつものように自転車に乗ってレディーガガを流してぐるりと大きく回って家まで帰った。

12月30日。
センチメンタルな気分に浸れるほど今の私は落ち着いてはいないが、今年1年を振り返っておく。

今年の私の漢字は間違いなく「縁」であったと思う。
2011年の後半は不思議なほどに私のもとに縁深い出来事が集まってきていた。

人との縁というのは、そうあるべくしてそうある、としか説明がつかないくらい不思議なものだ。
人はそれぞれに曲線を持っていて、大きく小さく揺らぎながら線を描いている。
そのそれぞれの揺らぎの波形や大きさやスピードが、時に限りなくシンクロしたり真逆に離れたりする。
誰かと時を過ごせるというのは、少なくともその時点では波の在り方が似通っているということだ。

7月に携帯を変えて8月に7年ぶりに高校時代の友人に再会。
7月くらいに転職を決めて、9月末で前職を退職、10月に転職した。
7月にブログ「勿忘草」を止めて、9月に「つぼみな日々」を再開。
11月には東さんを追って行ったジャズライブで音楽に酔い、生の音を浴びる気持ちよさを知った。
同じく11月には斉藤和義のライブに行き、ロックに心が震えるようになる。
12月、友人はパワーを得にインドに行き、私のもとにスペシャルなクリスマスプレゼントが舞い込んできた。

かなり簡略化し淡々と文字にするとこんな感じだが、これらは私にとって小さな革命的出来事だった。
これらは私にとってとても心地のよいことで、心荒ぶられながらも、私にしっくりと当てはまりすとんと収まった。

そして、今まで開いてきたつもりだった自分をもう一度開き直した年でもあった。
私の周りにはいつも大好きな人がいてくれて、開いていくその過程が興味深いと、少々破天荒になってしまった私の話に耳を傾けてくれた。
どんな自分が自分で好きなのか、私は改めて問い直したし、自分を好きでいられることが周りへのいい影響も与え、そして良いことを引き寄せるのだということも体感した。
飾らない私は、たぶん飾らない笑顔が増えていたと思う。
そう、感情は伝染する。

大事なことは自分の心のままに、ということだが、心を無視することも邪険に扱うことも、実際に一時的にはそれができてしまう。
しかし心を置き去りにすることは、ヘドロを溜めこむようなもので、下手をすると身体を蝕まれかねない。

誰かを、何かを、「好き」であることと「気持ちがいい」ということを自分の中心に置く。
「好き」や「気持ちがいい」ということはそれ以外を受け付けなくなることに近く、ともすれば幅を狭めてしまうこともある。
しかしラッキーなことに、私は溢れてしまうその自分の「好き」や「気持ちがいい」が叶えられた1年であった。


本年も残り1日。
大晦日は大好きな友人と、今年の気持ちよさを締めくくりにジャズのライブに行く。

2011年お世話になりました皆々さま、本当にどうもありがとうございました。
2012年も引き続き、どうぞよろしくお願い致します。


来年は、今年お世話になった方々を少しでも私が主体的に幸せにできたらいい。
今年考えてきた自分自身の幸せを、誰かのためにも使えるといい。

愉しくありたい、笑っていたい、花を咲かせたい。
「あなたと出会えてよかったよ」って伝えたい。



おおっぴらに

2011-12-27 21:51:57 | 日記
谷川俊太郎さんは御年80歳だ。
80歳とはおじいちゃんだが、80歳とは思えない言葉を紡ぐ。
今私の手元にある詩集は数年前に出版されてそのときに過去のものも集められている。
それにしても、おじいちゃん、になってからの作品も多いだろう。

詩からはおじいちゃん、とは決して思えないのだが、言葉や思想発想の厚みは確かに半世紀以上生きた人のものだとも思う。
人の心を荒ぶる言葉で、類稀な発想力で、みずみずしくて生々しくて毒々しくて艶やかで洗練されている。
全体的に湿り気たっぷりでしっとりしている、という感じだ。

モノやコトに魂を吹き込む。
するとそのモノやコトは感情を抱いていたずらを始める。
人の心の中に入り込んで、芯をつついたりくすぐったりする。
私はそのいたずらに少しびっくりしながらいじられることを楽しむ。

「明日」という爽やかで解放感のある同氏の詩を書道で書いたが、とろとろとした湿った感じの詩も書いてみたい。

感情が言う。
そう、心のままに、と。



ひとつまみの塩    谷川俊太郎(『夜のミッキー・マウス』より)

買っておけばよかったと思うものは多くはない
もっと話したかったと思う人は五本の指に足らない
味わい損ねたんじゃないかと思うものはひとつだけ
それは美食に渇きつつ気おくれするこのぼく自身の人生

アイスド・スフレのように呑み下したあの恋は
本当はブイヤベースだったのではないのか
クネルのように噛みしめるべきだったあの裏切りを
ぼくはリンツァー・トルテのように消化してしまったのか

気づかずに他のいのちを貪るぼくのいのち
魂はその罪深さにすら涎を垂らす
とれたての果実を喜ぶ下は腐りかけた内臓を拒まない
甘さにも苦さにも殺さぬほどの毒がひそんでいる。

レシピはとっくの昔に書かれているのだ
天国と地獄を股にかける料理人の手で
だがひとつまみの塩は今ぼくの手にあって
鍋の上でその手はためらい……そして思い切る

レシピの楽譜を演奏するのは自分しかいないのだから
理解を超えたものは味わうしかないのだから



まるごと

2011-12-26 13:06:29 | 日記
気持ちがいいとか、幸せだとか、その真っ只中にいてもそれと真正面から向き合って全身で感じ取ると2年前くらいに決めた。
物事も人生も、完全なる予定調和的にはいかない。
だから現在起きているそのことと真正面から向き合う。
意図的な精神低空飛行はもうしない。

「タイミングはいつでも自分の味方だと、信じたい。」
と、友人はブログに書いていた。
そう信じることが、そのタイミングを自分のタイミングにできることだと思う。

先週、家に帰るとかわいらしい大きめの封筒が届いていた。
地元にいる友人からで、中には紙のクリスマスツリーと小さなメッセージ。
「Merry X'mas!!あなたの年末に素敵なことがたくさん起こりますように」
こんなとき、英語で言う「You too!!」という言葉に値する日本語があればいいのに、と思う。
私もピカソの絵のポストカードに返事を書いてポストに投函する。

最近の私にはなんだか不思議なことが集まってきていて、2011年ももうあと少し、というところで駆け込むようにいろんなことが起きている。
しかもどれもちゃんと心に響く嬉しいことばかりで、私が生まれて一度も口にできなかった言葉を思わず口にしてしまったほど。
神様もお守りも私にはよくわからないけれど、友人が出雲で買ってきてくれたお守りに一礼。

人に恵まれているとはすごいことだ。
私は好きな人たちのことが好きで好きでしょうがない。




くせ毛のラム

2011-12-22 15:36:57 | 日記
けいこがみかんをまた送ってくれた。
「傷みかん、送った。変な段ボールに入れたらたくさん入っちゃった。送料高かった」
とメールで言っていた。
どうもありがとう、とハートをつけて返信する。

私が地元愛知県蒲郡市で誇れる数少ないものがみかんだ。
個人的にだが、愛媛よりも三ケ日よりも和歌山よりも、私はみかんは蒲郡だと思っている。
甘味だけでなく、酸味もちょうどよく「みかんの味!」という主張も強い。
中でも、温室でぬくぬくと育ってぴかぴかに磨かれた大ぶりのみかんよりも、山の斜面で吹きさらしになっている小ぶりで皮が薄いのがいい。
もっと言うと、どの山で、どの木で育ったというのも味に違いがあるようだ。

けいこが暇つぶしにみかん切りのお手伝いに行っているみかん農家のみかんは、蒲郡みかんの中でもまたおいしいみかんだと思う。
ただ、送ってもらっているのはあくまで商品にできない傷物のみかんだから一つひとつに味の差が大きい。
傷は外の冷たい空気と戦った勲章だ。
大きくて皮が厚く、実との間がふかふかしているものは味に締まりがない。
小さくて皮が薄く、実と皮が密着していて剥きづらいものの方が味がみかんの味が濃くておいしい。

港町生まれだから海産物も悪くはないのだが、私があまり魚介には興味がない。
そもそも今はだいぶきれいになったものの私の幼い頃は汚く臭い湾だったため私は港町出身という意識さえ持ってはいない。
他にも味噌や和菓子などで地元名産品はあるのだが、それでもやはり、みかんだ。

みかんは傷みやすい。
傷物だからさらに、というのはあるが、段ボールから取り出したら思っていたみかんの弾力ではなくて指が入ってしまうほど腐っているものがあったりする。
上に向けている面はよくても下に青白くカビが生えていたりするものもある。
放っておくと感染するから周りのみかんも含めてそっと処分する。

おいしそうなのを選りすぐっておすそ分けをする。
みかんの季節のクリスマスプレゼント。




地球になった私

2011-12-20 21:59:57 | 日記
私は活字を読むのが得意ではないし理解して自分の中に取り入れるまでに時間がかかるので、忙しいと世の中で起こっている情報にとても疎くなる。
ブックマークしているポータルサイトやら誰かのブログは数十個あって、いつも見るものはそのうち10個くらいだが、何かに追われているとそれを習慣として読んだとしても読んでいないと等しいくらいに素通りしてしまう。

何かをインプットするには単純にそれに触れる時間と、さらにそれを咀嚼する時間が要る。

会社という場所は私にとってかなり閉鎖的な場所で、情報が限りなく制限される場所であると思う。
もちろんある分野に精通することはできるようになるのかもしれない。
しかし「社会に出る」というと視野が開けいろんなものを手に入れられるように思うが、「社会に出る」ということは「会社に入る」ということとほぼ同義であって忙殺されてしまうと視野はとても狭くなる。
もちろん私の仕事のスタンスやもともとの怠慢な性格がそうさせるのだが、世の中や自分の好きなことに意識的目を向けていかなけばならないと思う。


夜寝る前に、ベッドの枠につけているクリップライトを点ける。
それから部屋の電気を消して、ベッドに上がってからクリップライトの明かりをを消す。
カチッとスイッチを切り替える。
明かりがなくなって暗くなる瞬間、舞台の緞帳が下りきるように、何かが終わるような気分になる。
悲観でもなんでもないのだが、本当に終わってもいいとそのときは思う。
カチッという音で暗転、あっけなく、幕切れ。

しかし次の瞬間、携帯の明かりを点けて、読み物を読んでyoutubeを立ち上げる。
「情熱の薔薇」を聞きながら寝てしまったようで、朝携帯にはyoutubeが立ち上がったままになっていた。
なぜ激しめの曲を聞きながらしかもどきどきしながら眠りに急降下できるのか不思議だ。