歌詞は書くのに長いので、良さそうな四字熟語を探す。
大きさが半端になっていた紙を片づけるべく他にもいくつか書く。
別に書きたい言葉があるときも、ないときもある。
どんな言葉を書いても良いのだけれど、自分で探すと方向性が偏りがちだ。
だから最近は生徒さんが持ってきた言葉や、目に入ったものをただ書いてみるということをすることもある。
フェイスブックに書の嗜む人の集いがあって、それに参加してみる。
いろんなたくさんの人が書道をやっていて、さまざまな形式の書が投稿されている。
外人さんなんかも結構いたりする。
フェイスブックに投稿するのは、いつもおっかなびっくりである。
そもそも友達の数も少ないし、フェイスブックにおける社交を好んでこなかったので、いまいち温度感や距離感などがよくわからない。
しかし今となってはそんなことを言っている場合でもなく、私が書でどのようにしていきたいか判然としないが、露出は高めておいた方が良いだろう。
そして、単純によろしかったら見てください、という気持ちの下、反応があってもなくても、吊るされる覚悟を持たねばならない。
と、気負い過ぎつつ投稿したわけだが、あるお方が私の師の香りがする、でも個性に昇華している、というようなコメントをくださった。
師と言っても、私はこの師、創始者には直接教わったことはない。
私がそこで書を学び始めたときには既に七回忌の遺墨展が催されていた。
もちろん今いる先生方は創始者の先生のやり方を継いでいるわけだけれど、それでも各々の感じはにじみ出る。
各々の息吹や呼吸を吸い取ろうとすればそれも可能だろうと思う。
しかし最近は特に、やはり源流、創始者のやり方や字そのものをイメージとして取り入れていたことが多い。
結局のところ何を書いたって自分にしかならないので、分厚いゴムのような自分の枠を、うおおお、と押し広げていくことを続けていくしかない。
できたものが、結果、自分らしかったとしても、どうせいずれにせよ自分らしい書になるのだから、自分らしくない書も見たいものだ。
へーこれいいね、と我がことを我がことでないように言えたらいいではないか。
最終的に破壊できない記号としての文字を紙の上でどう扱っていくか、またそれに込めたい気持なんかがあったりする場合にはそれをどう乗せるか。
たくさんの発想と、たくさんの筆遣いを手にしておきながら、時にそれを選んで出し、時にそれを選ばずして出す。
話がいささかとっちらかってしまったが、作品の全体感もさることながら、そんな創作の要素が満載の創始者の書が私は好きなのである。
私の通う書道団体の基本的な書は、割にわかりやすいというか、派手な章法をするので、言い当てられるのは当然と言えば当然なのかもしれないが、不思議な気持ちがした。
あと、単純に嬉しかった。
友人の誕生日に、一筆おめでとうと書いてその画像をLINEで送った。
翌日、私が日付を勘違いしていて、1日早く送ってしまったことに気が付いた。
「ごめんごめん、本当は今日だよね。今日が13日と思ってた」とメッセージを送ったら、「残念。17日です」と返ってきた。
失態重ねで何も言えなくなった。
友人が、一度目に画像を送ったとき、何もかもを受け流して「ありがとぉぉ」と応えてくれたことに陳謝したい。
ちなみに去年はすっかり忘れていて、大幅に遅れてメッセージを送ったのだった。
誕生日どうこうで私が人に抱く親愛度は全くもって変わらないけれども。けれども。
またプールに行けた。
本当に結構好きみたいである。
今日は歩いて行く。
自転車では急すぎる坂道や、自転車では通れないほどの迷路のような細道を縫っていくと、いきなり目的地に出た。
今日は、潜水をしているときに頭を下げるととても進みが良いことを知った。
ひとかきするごとに、水の中をぐんと進める。
潜水は、監視員の目が届かなかったり、上を泳ぐ人との接触が危険ということで、基本的にNGにしているところが多いらしい。
私はそんなことがプールのルールとしてあることさえ知らなかったけれど、結構常識的なことのようである。
しかし、プールサイドに「追い越し禁止」とは書いてあるけれど「潜水禁止」とは書いてないし、HPにもそんな注意事項は載っていない。
監視員に私は周りを見ながら泳いでいます、沈んでもいません、というようなアピールをしつつやっていれば大丈夫だろう。
それに、25m全部を潜水していくこともできない。
帰りも、ぼーっと感を味わいながら細道を適当に歩いて行くと、いきなり家のそばに出た。
また全く同じ道を通ることは難しいだろう。
買っておいた鶏手羽元と大根、えのき、しめじ、生姜を、醤油とみりんで煮る。
やっぱり、肉を入れて美味しくないものを作るのは難しい、と言えるほど、簡単で美味しいものが作りたいなら肉は必須である。
午前二時しじまあふれて天の川
大きさが半端になっていた紙を片づけるべく他にもいくつか書く。
別に書きたい言葉があるときも、ないときもある。
どんな言葉を書いても良いのだけれど、自分で探すと方向性が偏りがちだ。
だから最近は生徒さんが持ってきた言葉や、目に入ったものをただ書いてみるということをすることもある。
フェイスブックに書の嗜む人の集いがあって、それに参加してみる。
いろんなたくさんの人が書道をやっていて、さまざまな形式の書が投稿されている。
外人さんなんかも結構いたりする。
フェイスブックに投稿するのは、いつもおっかなびっくりである。
そもそも友達の数も少ないし、フェイスブックにおける社交を好んでこなかったので、いまいち温度感や距離感などがよくわからない。
しかし今となってはそんなことを言っている場合でもなく、私が書でどのようにしていきたいか判然としないが、露出は高めておいた方が良いだろう。
そして、単純によろしかったら見てください、という気持ちの下、反応があってもなくても、吊るされる覚悟を持たねばならない。
と、気負い過ぎつつ投稿したわけだが、あるお方が私の師の香りがする、でも個性に昇華している、というようなコメントをくださった。
師と言っても、私はこの師、創始者には直接教わったことはない。
私がそこで書を学び始めたときには既に七回忌の遺墨展が催されていた。
もちろん今いる先生方は創始者の先生のやり方を継いでいるわけだけれど、それでも各々の感じはにじみ出る。
各々の息吹や呼吸を吸い取ろうとすればそれも可能だろうと思う。
しかし最近は特に、やはり源流、創始者のやり方や字そのものをイメージとして取り入れていたことが多い。
結局のところ何を書いたって自分にしかならないので、分厚いゴムのような自分の枠を、うおおお、と押し広げていくことを続けていくしかない。
できたものが、結果、自分らしかったとしても、どうせいずれにせよ自分らしい書になるのだから、自分らしくない書も見たいものだ。
へーこれいいね、と我がことを我がことでないように言えたらいいではないか。
最終的に破壊できない記号としての文字を紙の上でどう扱っていくか、またそれに込めたい気持なんかがあったりする場合にはそれをどう乗せるか。
たくさんの発想と、たくさんの筆遣いを手にしておきながら、時にそれを選んで出し、時にそれを選ばずして出す。
話がいささかとっちらかってしまったが、作品の全体感もさることながら、そんな創作の要素が満載の創始者の書が私は好きなのである。
私の通う書道団体の基本的な書は、割にわかりやすいというか、派手な章法をするので、言い当てられるのは当然と言えば当然なのかもしれないが、不思議な気持ちがした。
あと、単純に嬉しかった。
友人の誕生日に、一筆おめでとうと書いてその画像をLINEで送った。
翌日、私が日付を勘違いしていて、1日早く送ってしまったことに気が付いた。
「ごめんごめん、本当は今日だよね。今日が13日と思ってた」とメッセージを送ったら、「残念。17日です」と返ってきた。
失態重ねで何も言えなくなった。
友人が、一度目に画像を送ったとき、何もかもを受け流して「ありがとぉぉ」と応えてくれたことに陳謝したい。
ちなみに去年はすっかり忘れていて、大幅に遅れてメッセージを送ったのだった。
誕生日どうこうで私が人に抱く親愛度は全くもって変わらないけれども。けれども。
またプールに行けた。
本当に結構好きみたいである。
今日は歩いて行く。
自転車では急すぎる坂道や、自転車では通れないほどの迷路のような細道を縫っていくと、いきなり目的地に出た。
今日は、潜水をしているときに頭を下げるととても進みが良いことを知った。
ひとかきするごとに、水の中をぐんと進める。
潜水は、監視員の目が届かなかったり、上を泳ぐ人との接触が危険ということで、基本的にNGにしているところが多いらしい。
私はそんなことがプールのルールとしてあることさえ知らなかったけれど、結構常識的なことのようである。
しかし、プールサイドに「追い越し禁止」とは書いてあるけれど「潜水禁止」とは書いてないし、HPにもそんな注意事項は載っていない。
監視員に私は周りを見ながら泳いでいます、沈んでもいません、というようなアピールをしつつやっていれば大丈夫だろう。
それに、25m全部を潜水していくこともできない。
帰りも、ぼーっと感を味わいながら細道を適当に歩いて行くと、いきなり家のそばに出た。
また全く同じ道を通ることは難しいだろう。
買っておいた鶏手羽元と大根、えのき、しめじ、生姜を、醤油とみりんで煮る。
やっぱり、肉を入れて美味しくないものを作るのは難しい、と言えるほど、簡単で美味しいものが作りたいなら肉は必須である。
午前二時しじまあふれて天の川