つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

その形のジーンズ

2012-01-30 20:57:03 | 日記
いろんなことに動揺したりするけど、ぐるりと一通りの動揺が終わったら、その動揺を引っ張ることがこの後に合理的かどうかを考えてみる。
大丈夫、それは合理的ではない。

木曜日にお花を買って帰ろう。
パーッとハッピー感溢れる色合いの小さなブーケを。
ドライフラワーの花びらが入っていた球体の花器に、パスタを鍋に一気に広げたときみたいに生けて。
翌日狭いベランダに出して、朝のクリーンな淡い青空の下、一番セクシーな角度から撮って送ろう。

自己満足に帰結する。
でも、きっと、自己満足だけにとどまらない。


ヒロトの書く歌詞ってすごい。
マーシーの書く詞もすごい。

私の理解が合っているのかあっていないのかわからないけど、すごい。
「人にやさしく」の2番。
そうなりたいかどうかはわからない、そして今の私はそうはなれない。
そしてその場でその真意を汲み取るのは難しいのかもしれない。

私が今真意といったそのことが真意かどうかも分からないけれど。

曲調は「パーティー」が好き。
「いつかいつでもいいから強い風ならば
僕をかかえて吹き飛ばしてよ
できれば南の方へ」



プランA

2012-01-28 23:59:16 | 日記
私はブルーハーツのように社会や大人に抗う思いというのは幸か不幸かほとんど持ったことがない。
世界がくそったれだと思ったこともない。
迎合、あるいは順応してきた。
社会や大人に対しての思いは今もほとんど持っていないが、でも今彼らの歌が響くのは自分の思いに逆らえないようになってしまったからなのだと思う。

いつからか、いや5年間から、生きることにひどくロマンティストになってしまった。
そのあとも私は大きな変化を遂げたと自分で思っているが、たぶん5年前を境にある意味で生きる世界が変わってしまったのだと思う。

予測できない不可抗力を知って、本当に取り返しのつかないことがあることも知って、何事も変わらないものはないことを知った。
案外淡々としたものも根底に流れていることも知ったし、「無い」ことの美しさみたいなものも垣間見た。
大半が悲観的変化かというと結構そうでもなくて、逆に楽観視できることも増えた。

今ある体温を、今ある優しさを、今ある興奮を、感じ惜しみしないことを体現できるようになったのはほんの最近だけど、冷静と引き換えに血の気の多さを持ってしまって、感じ入ってしまうことも増えた。

それが人と比較して過剰であることも認識しているつもりだから、独りよがりや押しつけということを考えたりもするものだけど、大切な誰か、に対しての敬意や感謝は持っていたいし、許されるのであればそれを伝えたい。
他人を理解するなどおこがましいが、ちょっとだけ持っているその他大勢の人よりもその誰かに理解が及んでいるのではないかという自負も持ちつつ。
まず自分の処理のあとに。


お酒でも飲もうかと思ったけれどバッドトリップするのは嫌なのでやめる。
というよりは家にお酒は置いていないので一度部屋着になってしまった姿から外に出るのは、たとえコンビニが100mの距離にあっても、寒すぎるし億劫だったという理由の方が大きい。

代わりに、何だかんだ買い込んでいた食料でごはんを作る。
人のために見栄を張らないと本当にろくな料理を作らない私だけど、玉ねぎを細かく切ってじゃがいもの皮を剥いて、卵をかき混ぜ、バターの溶けた匂いが漂うと、なんだか料理するのが楽しく思えた。

けいこがハカリを使っているのを見たことがないから、私も大匙小匙のスプーンも計量カップも持っていない。
たとえネットで人気の黄金レシピがあったとしても、材料の状態もフライパンの熱伝導率も油の質も違うし作る人も違うからあてにならない、というのは屁理屈だろうか。
調味料は味見しながら少量から、というのが鉄則だが、当然ながら手元が狂うことは、ある。

少し乗ってきたので盛り付けまで気を使ってみる。
最近買ったホーローの真っ赤で小さなカップ。
どこかでもらったHANAE MORIのモダンな四角いお皿。
パセリなんか、散らしてみたりして。

料理の一連の作業は、材料や味付け、片付けまで含めて合理性を求めるのに適している、ということしか今まであまり考えたことがなかった。

そうか、料理には色があるんだ、と今日感じた。

作ったのはコンソメスープとスパニッシュオムレツ。
先日の名もないスープと同様、なんてことはない、でも美味しいし優しい味がした。



賭け事

2012-01-26 23:45:51 | 日記
いろいろ散らかってしまって片付かない。
ちょっとずつやれるところから片付けるのだけど、思うようにきれいに片付かない。
いや、片づけるのでなく、今はどちらかというと散らかすことの方が大事だったりする。
とするとこのストレスは片付かないことになってしまう。

久しぶりにどうしても勤務中にコーヒーが飲みたくなって買いに出る。
かつては中毒かというほど一日に何杯もコーヒーを飲んでいた。
それが追われない仕事になった途端、朝以外コーヒーを飲むことがなくなった。

まだ氷が随所に残っていて、ジャケットの上からキンキンの空気が素肌まで入り込んでくる。
近くのヴェローチェでブレンドコーヒーをテイクアウトをする。
別に特に入れてもらう必要はないが紙袋に入れてもらう。
コーヒーショップの紙袋が好きなのだ。

やはり普通のブレンドはタリーズかエクセルシオールがいい。
私はコーヒーに、程よい酸味、は要らない。

スカートの裾がほつれた。
お気に入りのスカートでだいぶ長い間着ている。
まだ手放せないから縫おう。

高温多湿の風に吹かれたい。



パーティー

2012-01-25 23:30:45 | 日記
雪が降った。
札幌の取引先の方に「ベタ足」で歩くといいと言われて、驚くほど少しずつゆっくり歩いて帰った。
帰り道はほとんど下り坂で、10回くらい滑って転びそうになって持ち堪えてを繰り返した。
置き去りにしてきた私の黒の愛車に雪が降り積もっているのを想像した。

iPodの音を消す。
立ち止まって空を見上げる。
粒の大きな雪がたくさんたくさん降りてくる。
雪は落ちてきているのに、私は天に吸い込まれそうになって。
凍える寒さの中にこのままうずもれてしまうか、空に吸い上げられるか。

雪が音を吸着しているように辺りは静かだった。
オレンジ色の街灯が、雪世界をオレンジ色に染めてぼんやりと空間を歪めている。
誰の足跡もない雪の小道は、絵的にはなぜだか温かみがある。
今まで気づかなかったけれど、神楽坂には雪が似合う。

私はまた目線を足元に戻してゆっくりと歩き出す。
傘に積もった雪は家に着くころにはずっしりとした確かな重みを持つほどになっていた。
雪は雪のままでいてくれなくて部屋の中で水になって私のコートを濡らした。

おとといの雪はまだ路面を凍結させていて、地面から湯気でなく冷気が立ち上って冷蔵庫の中にいるようだ。
キンキン、冷え冷え。

日曜日に買った白菜とネギと油揚げとベーコンで、洋風なのか和風なのか中華なのかわからない名もないスープを作る。
生姜をすりおろして加えて、狭いコンロの前で味見。
なんてことはなくびっくりするほどでは全然ないけれど、美味しい。

優しい味も出せるんだなとひとり関心。



そうだと嬉しい

2012-01-23 20:43:10 | 日記
久しぶりに金縛りにあった。
まっちゃんの話の大元が金縛りだったからだろうか。

脳が覚醒状態にあって身体が覚醒していない状態である、と認識してから「どうして動けないの!?」の怖いはないのだが、息が上手く吸えないという点においては怖い。
布団がとてつもなく重く感じられて呼吸が圧迫されて身動きが取れない。

横を向いて寝ていたから、誰かに後ろから押さえつけられて腕を掴まれているような感覚まであった。
そういうとき決まって私は父がいるのかと思うのだが、掴まれている感覚は父ではないことは感覚でわかるのだった。

初めて金縛りにあったのは小学生の頃で、その時の私は実家の父と母の寝室で昼寝をしていて、寒いからと敷布団の下に入って寝ていたため布団が重すぎて本当に死ぬかと思った覚えがある。
あの時は金縛りの原理を知らなくて、死ぬかと思ったついでに、金縛りが解けた後に一人怖くてうろたえたのをよく覚えている。

不思議な体験をしたあとで、何か現実世界との関わりがあるのかと意味を探してしまうけれど、それが現実とリンクしていたことは今まで一度もない。
誰かの何か、なんてコミュニケーションなしではわからないものだと思う。
コミュニケーションがあったとしても、細部までなんてわかりはしない。


後世から振り返ると一つの時代が終わったような、また、価値観そのものが大きく揺るがされるような、そんな一年になるだろうと予言している人がいる。
社会通念というのは人の一生にとっては比較的大きな波で動いていて、社会というコミュニティから離脱した仙人でもない限り、誰もが何かしらの影響を受けている。
地球のこととか、宇宙のこととかを考えると、ふと何が大事だとか、こう思われたいとか、どうありたいとか、世俗的な欲などすべて何も意味がないと思えたり一瞬だけはするものだが、結局は世俗的な社会に住んでいることから逃れられないし逃れたいとも思っていないことに気づく。
とはいえ一瞬のとてつもなく大きな投げやりさで救われた気分になることで、そのあとに世俗に戻るときに少しだけ晴れ晴れとした気分でいられるのであれば大いに意味があるとも思う。

政治や財閥や権力や宗教や、そういう大きなものを超越する何かもっと大きな地球エネルギーや宇宙生命体が・・・あってもいいしなくてもいい。
その何かも、私にとっては今痛いとか痛くないとか美味しいとか美味しくないとか、そういうことには勝てないのだ。

でももしかすると確かに、江戸幕府が倒れて明治維新が起こった時は、一般庶民たちの価値観や実際に感じることも時に適応不可能なほどに心揺るがされていたのかもしれない。
それが起こるとするのなら、大変なことだ、と思う一方想像はうまくできたものではない。

映画『宇宙ポール』を観たという方からの宇宙人の話と時代革命の話。
そして、派生した私の考え事。


ポップとキッチュの間くらいの柄のお皿が欲しい。