つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

シュミレーションでわかったこと

2012-08-30 22:58:36 | 日記
GREEN DAYの歌っていることが気になって歌詞を見てみる。
私は英語がよくわからないので、日本語訳を探してみる。
何枚かのアルバムがそのまま日本語訳になっているサイトがあって、なんて親切な人がいるのだろうと思う。

こんなことを言っていたんだと、初めて音以外を認識する。
でも、言葉の壁とはどうにも越えられない高さで存在していて、私が母国語として認識する日本語のようには到底理解することはできない。

ブルーハーツも過去にニューヨークなどでライブを行って、観客は狂ったように頭を振っていた。
だからもちろん、音楽というのは音とパフォーマンスでも十分に伝わるものだ。
私がGREEN DAYのボーカルの声や、The (International) Noise Conspiracyの演奏に身体ごと反応してしまうのは音を楽しむ、まさに「音楽」の楽しみ方なのかもしれないが、彼らが必死に訴えていることや時に言葉遊びをしていることがわからないのは非常に残念である。

Lady GaGaなんかは特に、あのパフォーマンスを観るのは歌詞を理解しているのとしていないのでは雲泥の差があると思う。
そしてその乖離に何かあるのではと思ってしまうほどだ。

歌詞はときに音を超えて人に届いてしまうときがあり、作り手としては望ましくないこともあるのかもしれない。
ほとんど意味のない歌詞も当然存在するだろう。
だた、そういうことを全部含めて、何を音に乗せているのかを知りたくなる。

今まで、海外で思うように英語が使えなくて困ったことは何度でもあるけど、特にできるように勉強しようとは思わなかった。
幼いころは英語が好きで、スピーチコンテストなどにも出ていたくらいで、それがいつしか興味の範囲外になってしまった。
しかし、このためであれば勉強しようかとも思う。
おそらくまずは単語や言い回しの日本語訳がインプットされるくらいだろうとは思うが。

11月にサンボマスターのライブに行くことができるかもしれない。
去年の11月に菊地成孔や斉藤和義のライブに行って、音楽って、ジャズって、ロックって、ブルーハーツって、とものすごい勢いで傾倒してまだ1年経っていないことに自分で驚く。
ブルーハーツなんて、たぶんぶち抜かれたあの時から半年くらいなものだ。
でも決してにわかファンなどなくて、私の一生を変えるようなそんな出会いであったと今の私は全く疑っていない。

『バタフライ・エフェクト』
ある方のすすめで観てみる。
映画で時間軸をずらされるのがものすごく苦手な私であって、今回も途中勘違いをしていた箇所とわからなかったところもあったが、とてもいい映画であった。
これは映画館で観る方が良いだろう。
サスペンスもスリラーも未だそれほど好きではないが、だいぶそれを観るのに慣れてきた。

そろそろ『カーネーション』の続きが観たいけれど。

今日もソルダムを買って帰る。
熟れ過ぎてなくて酸っぱいくらいのものが良い。
太陽をもぎって食べているような、そんな、真っ赤に滲んだ果実。



AM3:00

2012-08-29 13:55:28 | 日記
好きなことが増えるとお金がなくなる。
それにかけるお金が惜しくないし、その上私自身、書道の世界につま先くらいを突っ込んでいるため、ひとつのニッチ文化を継続させるためにはいかにお金がかかるかは身をもって知っているつもりだ。
だから、感動させてくれたアーティストにはアーティストにお金が届くような購買をしないといけないと思うようになった。
彼らが活動を継続できるようにお金で感謝を支払う。
だから音楽はレンタルやダウンロードではなくてCDを買った方が良いのだけれど、いつもいつもそんなわけにもいかないから、結局レンタルする。

まさに、「あれも欲しいこれも欲しいもっと欲しいもっともっと欲しい」状態で、身の丈を測りながら物欲を調整する。
確かにお金で買えないものもある。
価格と価値が比例しないと後悔する買い物もあるだろう。
ただそれは買い手側の判断でしかないし、価値は買い手が見出すものだ。
お金で買える感動もある。

「Encyclopedia of Flowers」という東さんと椎木さんの作品および植物図鑑を眺める。
これを買うとき、3,360円だなんて私は格安だと思った。
5,980円でも買ったなあと思う。
分厚さからして10,500円と言われたら迷って買ったかもしれないなと思う。

ある友人が大好きな小説家の本を、読む用に文庫本、コレクション用に単行本を買っている。
その作家は100冊を超える本を出版している。
彼女の家の天井までびっちりと詰まった本棚を見て、私はなぜ内容を読むための小説が2冊も要るのだろうと唖然としたものだ。

だが、今ならわかる。
小説と写真集というのは観る者と読み物という違いはあれど、どれだけ観て読んでしわしわになったり汚れたりしてもいいように、ぴかぴかのものをもう一冊持っておきたいと思う。
私はそういう小説に出会ったことはまだないけれど、彼女は自分の本棚を眺めるのが幸せなんだなあとやっとわかった気がする。


これまでの人生で2回目、10年ぶりくらいにふくらはぎをつった。
寝ているときに。
ちなみに、金縛りはこれまでに3回。

足の指をつることは時々あるのだが、傷みが比べ物にならない。
声も出せないし、動けないし、息もできないくらいに痛い。
しかも睡眠中の意識のあまりない時に起こるものだから、不意の突かれ方が半端なものではない。
日常の身近なところにある痛みの中で、ふくらはぎをつる痛みというのは結構上位にくるのではないかと思う。

少々脂汗をかくくらいの痛みがすぅっと去っていくと、痛くないということはどんなに幸せなことなんだろうと寝ぼけ眼で思ったりする。
痛みのあとの抜けた感は、脱力した言い知れぬ心地よさすらある。
水分が足りていないとか、血の巡りが悪いとか、カリウム不足とか、そんなことを聞くけれど、あんな痛みはいったいどうなって起こるのだろう。

しばらくつった方のふくらはぎが筋肉痛のように強ばっていて、もう一度それを起こさないように意識と無意識の境目でかばいながら寝返りをうつ。

朝になってカーテンを開けると、私の部屋から見える狭い空に印象的な雲がたくさんわいている。
グリーン・デイのボーカルの声が、とても好きだということに今さら気が付く。



70年なら一瞬の夢

2012-08-27 14:14:07 | 日記
東さんと椎木さんの写真展「2012 Flowers」があった。
フジフイルムの協賛で同時に1日だけワークショップも開かれるということで、行ってみるとお花が好きな人だけではなくカメラが好きな人がたくさん集まっていた。

実際に生で東さんがオアシスに花を挿していき、椎木さんがライトの具合の細かい調整までを説明してくれる。
今や世界的に活躍する彼らのこんな姿を見るのはとても貴重なことだ。

ただ、花の茎を短く切ってもしくは手で折り要らない葉っぱをもいでオアシスに生けていくのだが、目の前で見ていると、その茎が折れるぶちっという音が耳について仕方なかった。
植物を大事にしていない、とかそんなこと言うつもりは毛頭ない。
鋏を入れることも、余分な花びらを間引くことも、彼らのアート作品を作り上げるためでありそれは必要なことだ。
「殺して生かす」「朽ちたところまで想像できるような生け花を作りたい」ということは以前東さんが言っていたことだし、そもそも殺生全般、初めから人間側の力によって成り立つものだ。
そして、肉を食べ、野菜を食べる者にどうこういう資格は一切ない。

しかし私は人が殴られる音が嫌いで、銃の連射や医療シーンは平気なのに、なぐり合う映像を見ることがとても苦手だ。
茎が鈍い音を立ててちぎれるのはそれを連想させた。

できあがった作品は、いつもの東さんの作品で私はいつものようにどきどきした。

生きること、食べること、美しいこと、残酷なこと。
定義や意味は人間が付与するもので考え出すと巡りめぐってしまうものだけど、ときに自分のやっていることを棚に上げて不意に心を突かれるときがある。

エキゾチックで怖いほどに艶々した植物たちがたくさんあって、私は携帯のカメラをたくさん向ける。
私は、花たちが息づいていて彼らが出す色を吸い込んで、ありがとうと思うことだけに徹しようとする。

家にも新しい花を迎え入れた。
艶やかでハッピー色のカーネーションと、大きな百合と、名前を忘れたドライに近い夏の花。
やっぱり生花は部屋に潤いを与えてくれる。
だからやっぱり、花たちにありがとうと思うことで私は何度でも花を買う。

生ける器によって印象はとても異なる。
人が着る服のように、髪型や色合いや質感や、しっくりくるものがそれぞれ違う。
ぴったりなものは、器も同時に映える。
透明なガラスの花器は比較的なんでも合わせやすいけれど、少し遊んでみたくなる。

カメラがほしいなあと思いつつ、あらゆる電子機器と相性の悪い私が、携帯のカメラの域を超えるカメラの機能を使いこなせるか、またそれ以上のものが撮れるのかが不安で踏み切れずにいる。

『それでも恋するバルセロナ』の2回目。
ウッディアレンの映画はこれまでにたくさん観たけれど、結構出口がないものが多いし訴えかけるものが冷徹なことも多い。
スカーレット・ヨハンソンがペネロペ・クルスに食われていたなあと前回も同じことを思った。

新しいことは貴いと感じながら、滞っているものがある。
人からそれを指摘されると、マンガの一説のように「わかってるよ」とか「私の気持ちなんてわからないでしょ」とか青いことを言いそうになる。
ただ指摘している人が言うことの方が正しいことを、冷静な私は知っているから反論はしない。

過ぎたことを手放したいと願う一方で、要らない懐古の情ばかりを携えている。
アンテナは引っ込み気味で、たぶんこういうときこそインでなくてごく単純なアウトの行動を取るべきなんだろうとは思う。



花びらに散ったフリスビー

2012-08-22 13:44:51 | 日記
20年前、子供の頃は、夏にこんなに暑かっただろうかと思うほど空気が熱い。
それもそうと、「20年前」というと7歳だから物心ついているし記憶もある。
「20年前」というフレーズは今まで馴染みのない言葉だったのだが、そろそろ使えるようになる年頃だ。
確かに20年前、34℃とか35℃とか聞き慣れなかった。

クーラーのきいたオフィスから、夜外に出るとむっとした空気が立ち込めている。
でも、秋が隠れ忍び込んでいてどこか夏の終わりを含んだ風が吹く。

夏が好きで、冬が嫌い。
だから、夏の終わりも嫌い。
でも、寒いのが嫌いなのは仕方がないにしても、秋まで憂えるのはやめたいと思う。

土日まで誰かと会って忙しくしていると、ふとした瞬間にとても疲れていることがある。
誰かと一緒にいたいと思う反面、一人になりたいという強い願望もある。
一緒にいたい誰かというのは本当に大事な誰かであることが多い。
だから本当に大切な時間だし、私が望んで一緒にいたいと、そう思っている。
共感は爆発だ、そう思う。

これはバランスでしかないのだけど、一人でいることが本当に心地良いときがある。
とてもご機嫌に一人で買い物をするときとか、目覚ましをかけずに眠る夜とか、大好きなソルダムを買ってきて一人占めして食べるときとか、新しい映画やCDが届いて観たり聞いたりするときとか。
ブルーハーツのDVDを観るときとか。

私は4人兄弟で祖父母も一緒に住んでいたため、家に誰もいない、ということは状況的にほとんどありえなかった。
しかし、昔から皆のいる居間になんとなく集まってしまうという習慣は持ってはいなかったし、自分の部屋が好きだった。
テレビは私の部屋になかったから、居間に誰もいないときに好きなビデオを観ていて誰かが入ってくると怒れさえした。
母が人の部屋を掃除する人でなくてよかったと思う。

大学からは絶対に一人暮らしをする、と決めていた。
一人暮らしで家族が恋しくなったことが、本当に一度もない。

場合によってとんでもなくお喋りな私が、とても一人を好むことがある。
この夏私は少々モルヒネみたいな刺激を入れ過ぎたのかもしれない。
それは仕方のなかったことだけれど、麻痺の後遺症なのか使いすぎた筋肉痛なのか。

スパイラルが正であればいいだけで、いろんなことはスパイラルでいい。

ひとりが好き。
誰か好きな人といるのも好き。
どちらも本当で、どっちの方が、とも言えない。
しかし誰かといることは自分だけでは成り立たないから、より貴い。

だから東京が好きなんだなあと思う。
もう発想として固執はしないけれど。



AOI

2012-08-20 14:37:14 | 日記
西芳寺でお願い事を木の札に書いて、鈴虫寺でありがたいお説法を聞いて、詩仙堂で雨が止むまで枯山水を眺める。

苔寺とも呼ばれる西芳寺の庭は、汗なのか水滴なのかわからなくなるほど湿度が高くて、明るい黄緑の苔が美しくみっちりと生えていた。
ぽこぽこと小さな丘陵になっていて、小さなゴルフ上が広大にあるみたいだった。

京都は町全体が盆地特有の暑さに蒸されていて、終わりなきモッシュを思わせる。
詩仙堂で雷鳴が轟きはじめて、それまで一定の感覚で鳴っていたししおとしの音やみんみん蝉やつくつくぼうしの声は雨音に変わった。
大粒の雨は枯山水の砂の引っ掻き跡を消し、雨粒は砂を抱き込んで小さな泥団子みたいになって庭全体を濡らしていく。
濡れて鮮やかになった緑の葉っぱの影から湿った砂地に雨蛙が顔を出し、長い後ろ足を蹴りあげて目の前をジャンプして通り過ぎていく。

雨宿りを兼ねて一時間以上を畳に座って足を投げ出してうつらうつら過ごす。
こういう場所は考え事をしてしまうものだけど、不思議とそのシチュエーションと佇まいに考え事を吸いとられて、珍しくトランス状態でもないのに「無」を体感する。
私の場合、トランス状態よりも「無」の方がたぶん珍しい。
ここもロックが似つかわしくない場所だ。

ただ凪の「無」の状態とトランス状態というのは、雑念のない、という意味でその在り方は似ている。
時々このような状態に陥りたいのであって、それには何がそうさせるのかと、その状態に入れるまでの自分の成り行きを知らなければならない。

私はお寺も神様も宗教も特段興味はない。
ただ、鈴虫寺で聞いたお説法は、お笑いや落語の要素を含みそして真を突いていてやたらありがたかった。
笑顔でいること。
そして、感謝すること。

社会統制のため以外の宗教や信仰・悟りなどは全て各人の心の平穏を目指しているように思う。
そのために自分を律したり禁欲したりするのだろう。
心の平穏はそれだけになってしまったらつまらないと今の私なんかは思ってしまうものだけれど、とても重要なことである。
読経も、トランス状態へ入る一手法としての効果もあるんだろうと想像する。
一種のランナーズハイ。

放っておくと排他的を良しとしてしまいがちな自分を戒めながら、自分の内側に入り込む。

昨日のお昼もタイ料理を食べて、今日のお昼もタイ料理を食べた。
まとわりつくような柔らかな刺激は心地よい疲労感と眠気を連れてくる。