つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

してはいけないこと

2014-04-29 19:29:01 | 日記
母の日はいつも、いもうとと連盟で花をあげることにしている。
それは、今までけいこにあげたいくつかの贈り物で花しか喜んでいる様子がないからだ。

カップが好きだからとロイヤルコペンハーゲンのマグカップをあげても戸棚の中にしまい込んでしまうし、剥げた箸を使っているので高級そうな箸をあげても未だ使っているのを見たことはない。
食べ物も、それがたとえ桐箱に入った霜降り和牛肉であろうと、洗練されたハイソな包装のバームクーヘンであろうと、宝石みたいにきらびやかでお行儀の良く並んだ佐藤錦であろうと、全然欲しくなさそうなのは容易に想像がつく。
アクセサリーやバッグは、さっぱり趣味がわからないのであげる気にもならない。

しかし花というか植物ならなんでも喜ぶ。
事実、何年も前にあげたアジサイやブルーベリーの鉢植えは未だ健在だし、どこかに出かけるときには「アジサイが心配だから長く家は空けられない」などとも言う。

花を飾るのは、好きでなければ面倒以外の何物でもない行為だ。
しかしけいこの家には季節の花が小さな仏壇にも、トイレにも飾ってある。
ただし乱雑に。

私の花好き、植物好きはけいこから来ている。

今年はなんの花にしようかといもうとと話していたら、彼女はミニ盆栽を育てているのでそれがいいのではと言う。
花が咲いて、実がなって、葉っぱが紅葉して、落葉して、芽吹く、その過程を一年を通して見られるからとてもかわいいらしい。
ちなみにいもうとは私よりも花や植物が好きではないが、そのミニ盆栽が海外旅行中に枯れてしまうといけないからとわざわざ宅急便で私に送りつけてきて、水やりを頼むと言われたことがある。

気に入るものがあったら私も買おうかとインターネットを見ていたけれど、盆栽は基本的に日光を好むらしいので、直射日光はあまり当たらない私の部屋は適さないようだ。
ついでに今家にあるパキラがどうにも元気がなく、編まれている5本の木のうち1本以外は枯れているように思ったので色々と調べてみる。

やはり復活は厳しいほどに枯れていると思われたので思い切って編まれている木をほどくように解体していく。
幹もぐらぐらしているので、土から引っこ抜くと小さな虫が動いているのが見えた。
幸い、私の嫌いなうようよ動くものではなく、羽アリのような虫が何匹もいた。
とは言えそういう虫も別に好きなわけではないので、ビニール手袋をして鉢ごとビニール袋に入れて、粗大ごみの予約を入れる。
すると土ごと粗大ごみにはできないらしいので、虫入りの土を分けなければいけないのだが、恐ろしくてまだやっていない。

生きている木の上部だけは挿し木しようと、その方法も調べてとりあえず花瓶に水を入れて避難させる。
新芽が芽吹いている苗木、根付いてくれるといい。

そのパキラが置いてあった場所が空いて、ぽかんと空間ができた。
ついでにその辺りにあった布団乾燥機をしまって、冬用の敷き毛布を洗って、水が溜まった除湿剤を捨てて。
そうしていたら、模様替えがしたくなった。

今のところに引っ越して9か月。
最初に作ったインテリアの感じに飽きてきて、布団カバーやカーテンを変えたかったりもしている。
しかし今の収入では余分なものを買っている余裕はあまりない。
フジロックの費用にプラスしてもう少し稼ごうかなと思う。

ついでついでと色んなことをやっていたら母の日の贈り物を選べずにいる。




触れない明確で透明な膜

2014-04-28 16:29:52 | 日記
少し久しぶりに筆を取る。
毎月の課題もこなしつつ、私にとっての書道はやはり修行のようなものだなと思う。
思い切ってやっても思い切れていないこととか、最終的に怖がって尻すぼみになったりとか、意図せずお行儀よくなってしまったりとか。
そんな自分が滲み出てくる。

放っておくと慣れた方へ慣れた方へと流れてしまう。
なんとなく気持ちの良いところはもう知っているからそこに自然に向かってしまう。
留まって滞ってしまう古い自分が出てくる。
すると何とも面白くない物が出来上がって、最近はそのことに落ち込むようになった。

“破壊”には意志が要る。
いや破壊に意志は必要でない人もいるのだろうけれど、私は意志の下そうすることを良しとしているし、自覚的でありたいと思っている。
だから明確でないまでもある程度方向性の見える意志がない限りは破壊など起こせない。

ゲームで言うところの2面になったのか3面になったのか、私はそこをクリアする武器のようなものを得られずにいる。
波風を立てることは好まない、と断言してやってきたことは今や悪癖なのかもしれない。
バイオリズムが崩れることを酷く嫌っているし、できるだけ落ちないように傷つかないようにもしている。
ついでに、自分が暗くなることも、それを見せることも嫌だ。
しかし、その方法が本意ならばいいけれど、まだまだ見て見ぬふりをしている自分の存在を背後に感じているし、それを放置し続けることができないことも分かる。

何億年も昔、何かが星になって、こんなにインターネットが発達した情報社会でも、検索しても検索しても、検索しても見つからないもの。
“大事なことは言葉になんかできない”というのは、本当なのかもしれない。
それでも私はそういうことに近しいことを言っている言葉が大好きだし、まだそういうことを考えるだけで涙が出そうになる。
怖くて、切なくて、でもそれだけで満ちていて、美しいもの。

「銀河鉄道999」
良い詞だ。





グロサリオ、燃える

2014-04-25 15:15:37 | 日記
私はずっと、自分の名前に違和感があった。

私の名前は、小学生くらいでも簡単な漢字が読めれば読みを間違えることはまずない。
その由来は母の名前の一字を取ったもので、あとは双子なのでセットになるような名前であれば良かったらしく、特段思考を練られたものではない。
ごく普通で、その平坦さゆえなのか何なのか、昔から自分自身と名前との乖離感があった。

自分の名前を名乗るのがどことなく気恥ずかしいように思え、自分のものではない気がしていた。
自分の名前が載っているものを直視できなかった。
自己紹介などをするときも、名前のところはなるべくさらっと何事もなかったかのように流すようにしていたと思う。
これは特に嫌悪というほどのものから来るわけでもなく、かと言って少しの愛着もなく、意識的無意識的に“見て見ぬふり”をしていた、ということが正しいかもしれない。

友人が昔、「私は○○(友人の名)ブランドと言えるような人生を送りたい」と言っていた。
またある友人は自分のことを今でも名前で呼ぶ。
またある友人は自分の名前をアレンジしたサインなのか記号なのかを作っていた。

私は、私にはそんなことできない、と思って見ていた。

また他の名前への憧れもあって、中学生や高校生の頃、友達間の手紙には偽名、といってもギャグのようにだけれど、を名乗っていた。
その時に使っていた名前は「美咲」。
そんなに深い意味はなくて、ただ美しくて女らしい名前だなと思っていたくらいだ。
思えばこの頃から「咲」という字が好きだったことになる。

あるとき、私の名前と同じくらいありふれた名前を持つ人と出会った。
その時には分からなかったけれど、私は自分の名前に抱く感じと似ていたからか、その人のことを長らく名前で呼ぶことができなかった。
しかしその人は、自分の名前や苗字をインターネットで検索するなどというものだから、とても驚いた。
その人の名前に私が抱く違和感の原因に気付いたとき、私は自分の名前に向き合わなければならないと思ったし、少し何かが氷解したような感じがした。
その少し後、それ自体は他人からすればあまりにも些細なことなので、ばれないように思い切ってその人のことを名前で呼んでみた。

名前を持ってから30年経とうとしている今、ようやくその乖離が埋まろうとしている。
良し悪しでも、好き嫌いでもなくて、ただ自分がそれであるという事実を認めようとしている。
自分を自分の名前で名乗ること、ただそれだけのことがようやく今になって腹落ちしてきたのだ。

要するに、今まで私は自分自身のことを背負えていなかったのだと思う。
“見て見ぬふり”をすることは、何か見たくない元凶への責任をどこかになすりつけていることでもある。
そうしてきた認識すら今はある。

もうすぐ結婚する友人が、姓が変わってしまうことに少しの不安を感じている。
語感や字面が変わるわけだから、それまでの姓で確立されてきたアイデンティティにも関わるだろうし、それは当然のことのように思う。
しかし私からしてみれば、そんなに自分の名前に愛着があってすごいなあという感覚なので、あまり的確に何かを言ってあげることはできない。
「私はあなたの中身を信じているから、姓が変わるくらい何だというのだ」と言うくらいなのだけれど、確かに影響範囲の大きなことだろうと思う。

そんなことを考えている矢先、ちょうど借りたGODIEGOのアルバムの「ビューティフル・ネーム」という曲を聴いた。
温かで、爽やかで、まっすぐで、強い歌。
ついでに「GODIEGO」のバンド名の意味を見てまた心を打たれる。
詞はメンバーでない人が書いているようだけれど、とても素晴らしい。

普遍的な真実のようなことは耳障りにはあまりに普通で心地よく、聞き流してしまいそうになるけれど、そのことへの深い理解と覚悟がないとできないよなあと思う。





千鳥足の友人

2014-04-23 15:04:36 | 日記
グループ魂とクロマニヨンズの対バンライブ。
グループ魂の音楽ジャンルは「パンクコントバンド」らしい。
宮藤官九郎や阿部サダヲをが織り成すほぼ下ネタのコントとパンクミュージックは、愉快でありとてもかっこよかった。
彼らの芸が低俗であるのか高尚であるのか、グループ魂やそのメンバーの他の作品を思うと舌を巻く以外にはなく、高度な技術を持っている大人が遊んでいるのはとても面白い。

今回、クロマニヨンズのライブは私にとって少し記念すべきものになった。

最前列に行きたいと突っ込むこともなく、私はとても穏やかで優しい気持ちで見ていた。
さほどリズムに乗ることもせず、彼らを凝視していたのはいつもと変わらないけれど、いつもと違う明らかな気持ちの変化があった。

そうだ、私は少し、飽きている。

いつかそういう日が来るだろうと、私をそのことをとてもとても恐ろしく思っていた節があって、そうなったら私は何を糧に生きていくのだろうと想像するだけで絶望に近い気持ちがしていた。
しかし実際に昨日、生ライブの彼らを見て、私はすごく優しい気持ちでそれを迎えた。

確かにそれはここ数週間感じていたことでもあった。
お酒を飲んでヘロヘロの状態で朝7時の帰途、私の耳にはブルーハーツが流れていて、どんな曲も子守唄みたいに優しく聴こえてきた。
今までぎゅうっとさせられていた気持ちが、体に同化したような感じがしていた。

私はこれまで、彼らに自分の中のある問題について慰められていたのかもしれない。
考えたくて考えたくない私の中のある問題は、彼らの音楽と言葉を借りることによって徐々にさらけ出された。
その問題を解体していく作業は、紛れもなく“自分と向き合う”ということであって、私は彼らの作品をそのツールとして使い切ったのかもしれない。

問題が解決されたわけではない、完全に解決される類のものでもない。
問題そのものを知る深度が進んだだけだ。

変わらない彼らのパフォーマンスは、本当の意味で尊敬に変わったのかもしれない。
ある価値観が、私の中の土壌として固まって、それについては安定したのかもしれない。
ある価値観が“殿堂入り”したと言ってもいい。
しかし一方で、その価値観の存在そのものはいつだって不安定で不確かだ。

なりふり構わず彼らのことを追ってきたのは、何と比較もできない格別な喜びであり興奮だった。
ロックンロールへの入り口としては申し分ないことで、私は自分のことがなんて幸せな人間だろうと思う。
誰かにする感謝ということを、身を持って知ることができた気がする。

ただ私の中で変わらないのは、ロックンロールへの敬愛だ。
ロックンロールに飽きてしまったわけでは毛頭ない。
私の中のある問題についても、他の何かによって掘り進めていくことも変わらない。
優しい気持ちで彼らのライブを観たり、曲を聴いたりすることも変わらない。

後付けだけれど、今回展覧会に出品する「月の爆撃機」はそういう意味でとても良いテーマであった。

清々しさと、この上ない深謝と、空虚感への恐怖と。





千種類のレシピ

2014-04-21 16:48:22 | 日記
第二回の句会に参加する。
「いろは句会」という名前が付いた。

“昼下がりの大人のお喋り会”ではないところが良い。
何かについて真剣に考えることは面白い。
好きの中にも面倒は必ず含まれるけれど、面倒を取らずに面白いことなんてないのかもしれない。

今回思ったのは、俳句の世界は実に技巧的であり、その素養がないと本当には楽しめないということである。
韻を踏むこと、破調、語感、言葉の掛け合わせ、句の中のコントラスト、物事の射抜き方、書いた時の字面、さまざまな言葉の意味や文学的背景、俳句的表現。
そしてさらに、洒落やお茶目さも取り込みたい。
しかしまた、裏を返すと技巧的になりすぎるのはかえって趣がなくなってしまうこともある。

五・七・五の短い言葉の世界から、飛躍的な意味の世界が広がる。
意味の想像は各人の自由であるが、小さな句会であれば作り手の意図を確かめることができる。

芽吹き頃 姪の言の葉 あどけなし

今回、私の作った句で得点を頂いたのがこの句。
新緑の溌剌と沸き出でてくる生命力、しかしその新芽は柔らかくてあどけなさを感じる、それはまるでどんどんと言葉を吸収して喋り始める幼い姪の言葉のようである、というような意味。
「芽吹き頃」と「姪の」で韻を踏んでいること、「芽吹く葉っぱ」と「言の葉」の掛け合わせ、新芽も姪の喋り始めの言葉も稚くて可愛らしいという意を掛けて「あどけない」を使った。
批評として、前半部分に感じが多いので柔らかさを出すためには「頃」を「ごろ」とひらがなにしたら良かったのでは、ということがあった。
なるほど、私は今回作るときに字面について全く意識を向けていなかった。

狙撃手の 銃に止まれる 蝶一匹

私が最も高い得点を付けたのがこの句。
春の句だから柔らかな感じのするものが多い中で、戦場写真のような一句で、全くもって私の発想では描けない世界観である。
温かな春の草原の中、鼓動さえ聞こえてきそうな緊迫感、春の陽射しを浴びて黒光りしたライフル銃、そこへ音もなくひらひらと舞ってきた黄色い蝶。
蝶がいることによって春の空気が漂って、蝶が銃に止まって緊迫が一瞬解かれたのか、はたまた最初から緊迫の中に春の緩さがあったのか。
句として切り取られたのはその一瞬で、一時停止を解除された次の瞬間に動き出す“to be continued”感。
というのが、私が最初に読んで浮かんだこの句のイメージ。
作者は小説の編集などをやられている方で、こういった題材を扱うところから発想しているとのことだった。

私が作った後の二首は、
春の星 見上げて潤む 遠き星
眼鏡して マスクして見る 曇り桜

春の星の句は、先日Mちゃんが亡くなったことを受けて作ったもの。
歳時記を読んでいて、「春の星」という季語は春の霞がかった空気に「潤む」という意味合いが含まれるようで、それが頭を上げて涙をこらえることに通じている。
「遠き星」で死んでしまったことを表しているが、説明なしには想像しづらいかもしれない。
眼鏡しての句は、花粉の季節で眼鏡もマスクもして出かけたら自分の息で眼鏡が曇ってしまって桜が曇ってしまったよ、ついでに空も曇り空だ、という気軽な句。


いもうとから姪と花の写真が送られてきた。
「この花は何でしょう?」と言われて、私は即座に「チューリップ」と答える。
私の花歴をなめてもらっては困る。