つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

草ふさふさ

2013-05-30 22:59:48 | 日記
自分の中の熱に任せて、人に意見をしてしまう。
自分の色んな一切のことを棚に上げて。

お前は安全地帯から吠えている、と返される。
そうかもしれない。

私は決して喧嘩をふっかけたいわけでもない。
それでも自分のある部分に触れられると私は尖ったナイフを振り回してしまう。
その振り回したナイフは時々自分にも当たってしまう。

私はどこに向かってナイフを振り回しているのだろう。

私が今しなければいけないのは、ナイフを振り回すことでも、誰かに相談することでも、嘆くことでも吠えることでもないはずである。
私がほしいもののために動くだけのことであるはずだ。
当該者を含めて喋りすぎるのは私の悪い癖だ。

たぶん全部に誠実だなんていうふうにはいかないんだろうなと思う。
ごめんなさい、というのも変だし、ありがとうございます、しかないけれど、あまりにも自己中心的であることの嫌気くらいは私にだってさすのである。


いきなり兄がLINEで花の写真をたくさん送ってきた。
週末2週連続で。
1週目は子どもを連れて植物園に行ったから、2週目は近所を散歩していて、というシチュエーション。

兄はよほどのことがない限り連絡をしてくるような人ではない。
それにたぶん、そもそも花の写真を撮るような人でもないと思う。

私が花が好きなことはおそらく話したことがあると思うけれど、私が自分で生花を買うことや、携帯の写真フォルダが花だらけなことは知らないと思う。
甲本ヒロトと真島昌利のことはこの前車の中で熱弁したけれど。

突然どうしたのか、と聞くと「お前が好きだと思っただわ」と言う。
何だかよくわからなかったけれど、私は何にせよ花が見られるのは嬉しいので「ありがとう、また送ってね」と返す。
ついでに0歳の甥っ子の写真も送ってもらう。
やっぱりこちらの方が兄から送ってもらう写真としてはいくつかの意味で良い。

兄の家族意識と言うのは、きっと6年前に父が死んだときに喪主となったとき、おそらく自分が家を守らなければと思ったときに少し変化してるのだろう。
そして、もっと大きくは、自分の子どもが産まれて一転したのだと思う。
社会自然的に、とても良い変化の上にあるような気がする。
掲げられた明らかな役割、「田舎の本家の長男」、という役割を兄は立派にこなしている。
果たしていない場合に立派でないということにはならないけれど、果たしている兄の姿は立派である。

甥っ子は兄と兄の奥さんのちょうど半々でできていてとてもかわいい。

送ってもらった中で、いいね、と思った兄のダリアの写真。



怖いんです

2013-05-29 00:14:07 | 日記
人はそれぞれに波打っている。
スピードもそれぞれで、一定のリズムを刻んでいることもあるだろうし、リズムが不規則になることもある。
そのうねりが大きいときもあるし小さいときもある。

2つの波だけ取ってみても、近づいたり遠ざかったりする、あるいは交差したり混ざったり、互いに加速したり減速したりする。
波は自分でコントロールできるものと、できないものがある。
完全にコントロールできないまでも、自ら波を起こして、違う波のうねりに影響を与えることはできる。

入間に向かう列車の中で、そんな話をしたことを思い出す。
確かなことは今もこの先も何もなくて、どう感じるのかもその時が来ないとわからない。
でも、私の人生が豊かになるかもしれない可能性は、やっぱり捨てきれない。

ドラマみたいだと私も引いて見るのだけど、一生懸命生きることをするとドラマみたいにしか生きられないことに気づく。
可能性がありそうだと思うことはやっぱり探っておきたい。

身近な人と身近でない人。
その人やその人が創り出すものたちから影響を受ける。
身近な人でない場合は、レスポンスがないから都合良く享受すればよく、楽である一方、関係を紡ぐことはできない。
身近な人の場合は、双方に影響を及ぼすから面倒なことも嫌なことも起きる、その一方で紡いだり膨らましたりできる。

どんなに自分を愛そうとも、一人ではできないことがたくさんある。
欲しい関係というのは自分でアプローチしたい。

私は友人のことを「親友」という言い方はしない。
何となくおこがましい気がしてしまうからだ。
でも気づくと、「親友」しかいない、というふうになっていて、それは私は自分を褒めてあげられるようなすごいことだと思うようになった。


白い芍薬。
白、という贅沢。
白、という孤高。
白、という孤独。

意図せずふとした瞬間にその花びらに触れる。
あまりに柔らかくて、あまりに繊細で、驚いて手をさっと引っ込める。
これまでにも何度も同じことをしていて、何度も初めての経験かのように驚いている。

「US vs. UK Punk」というUSとUKのパンクバンドを集めたオムニバスのアルバムがとても良い。
音的にはパンクに反応してしまうから、アルバムまるごと私の身体が反応する。
思いがけずトム・ロビンソンが入っていて、嬉しくなる。

アルバムに入っているパンクバンドをレンタルしようと思ったのにそのほとんどがレンタルサービスになかった。
私はそのバンドが世間的に有名かどうかをいつもウィキペディアの記載量を基準にして見る。
ウィキペディアを見るに、皆それぞれに有名なようなのだが。



心配らしい

2013-05-27 01:16:29 | 日記
部屋探しに奔走している。
東京にいるのなら都心にしか住まわない、と豪語してきた私である。
今も山手線のど真ん中に住んでいる。

JRか東京メトロが最寄駅で、できれば山手線内が良い。
今回も最初は都心を基準に探していて、またそれと同じくらい「広さ、心地よさ」を重要視している。

「広さ」については、書道が少し自由な感じでやりたい、という理由なので、今よりも少し広い程度ではだめで、そうすると今よりも10平米程度大きな部屋でないとならない。
家賃は今よりも1万5千円まで上げようかと思っている。

「心地よさ」については、窓からの眺めが広く抜けている"解放感"とまで行かなくても、風が通り抜ける"抜け感"がほしい。
空気がこもらなくて、明るい感じ。

広さが最も価値が高い東京では、この条件を入れると都心で1万5千円程度の家賃アップでそれを叶えることが非常に難しい。
当たり前と言えば当たり前だけれど、更新月でもない今の状況で限界まで良さを求めたいと思っているので妥協点を付けられずにいる。

他にも、自転車置き場、マンション専用ゴミ捨て場、バス・トイレ別などの比較的優先順位の高いことはあるのだけど、これらは最終判断まで見ないようにするしかなくなっている。
また、築年数についても私は妥協しようと思っていたのだけど、結局何件か内覧をしてみて、古いというか汚いことが我慢ならないということもわかった。
内装がきれいにリフォームされていても、外観がどうしようもなく古びているのも、私にとっては大きなマイナスであるようだった。
それに、デザイナーズ物件だとか、私には似合わないと思っていたのだけど、作り手の頑固さが見えるようなデザイナーズ物件に惹かれてしまうこともわかった。

結局のところ、内覧して「ここがいい」と、そう思ってしまう、あるいは思えることがどんな条件すらも吹き飛ばす決定打になる。

山手線内、という条件を取っ払って不動産屋さんと一緒に物件を見てみる。
別に池袋も全然好きではないけれど、渋谷が拠点よりは池袋が拠点になった方が断然良い。

私の元々の引っ越したいエリアの物件を1件、今まで住みたいともその検討をしたこともない私鉄の駅のデザイナーズ物件を2件、内覧に行く。
この3件は今まで見た中で一番良かった。
それぞれ、広い、かっこいい、風が抜ける、想定家賃内のどれかがある。
キレイさ、広さはどれもクリア。

ならば引っ越したいエリアの物件が良いのだけれど、4階でエレベーターがない。
風通しはぎりぎりでクリア、そんなに明るくはなく、オートロックも、自転車置き場も、専用ゴミ捨て場もない。
しかし共用部階段の暗さは海外のアパートのような雰囲気がして私は好感を持てた。
部屋内の設備も申し分なくて、広い。

デザイナーズ物件は、都心の中心駅に背を向けて走ること15分あまり。
こんなところに住むなんて、と思っていたけれど、物件は気が引けるくらい、圧倒的にかっこいい。
オートロックも自転車置き場も専用ゴミ置き場もあって、風も抜ける、その上、新築。

メリットデメリットがあまりに五分で、「他の人に取られてしまうかもしれませんよ」という不動産屋さんの話も重々承知の上で「少し寝かす時間をください」と内覧を終えた。
私鉄のそこまでエリアを広げるのならば、もっと他の場所でもいいところはあるのではという新しい考えも生まれてしまった。

お昼ごはんも食べ損ねて、あまりに疲弊して家に着いた。
一日中歩き回って都内を移動して、しかもずっと不動産屋さんと一緒に喋っているわけだから当然疲れる。
ちなみに今回の不動産屋さんは車移動をしない。
これは、実際に駅からの感覚を知れるという点では良いし、単純に何件か回ろうと思うと時間がかかることと疲れるという点では良くない。

酷く疲れていて、酷くお腹を空かせていて、何を食べようか悩む。

幸い冷蔵庫には昨日買ったひき肉、キャベツ、卵、玉ねぎ、えのき、長芋どの食材がある。
少し思考を巡らせてこれらで作れる美味しいもの・・と考えられそうにないほど疲れていたので、とりあえず卵とひき肉以外をざく切りにして全てをフライパンに放り込み、塩コショウと醤油とお酒を適当に入れて、全体に火が入ったところで卵をかき混ぜて流し込む。

これはなんだろう、適当なオムレツ、か。

お腹が空いていたからか、先日ようやく買ったお酒を入れたからか、美味しいものになった。
冷蔵庫のものも片付いて、満足である。

物件の資料を見ながら、いただいた煎茶を淹れる。
煎茶はあまり熱い湯で淹れてはいけないということを微かに思い出しながら、ぐらぐらと沸いたお湯を注ぐ。
南部鉄器の急須も持っているのだけれど、重くて使い勝手が良くないので、私はどんなお茶を淹れるときもプレス式のティーポットを使う。
ガラスなので、お茶の濃さがどのくらい出たかわかるのも良い。

苦くて、ほんのり甘くて、お茶の香りがして。
きちんと美味しい、すごく美味しい。

本当に美味しい!と、この煎茶をくれた友人に連絡を入れる。

そして、調理の匂いを消したくて、何か粗品の古い煎茶をフライパンで煎る。
熱し過ぎて煙が上がり、香ばしい香りを通り越して焦げ臭くなる。



憶えていない

2013-05-24 23:28:46 | 日記
つい最近までカップラーメンが世界で一番美味しいと思っていた、それには飽きてしまったけれどマクドナルドのハンバーガーはめちゃくちゃ美味しい。
と言った人がいた。
ちなみにその人は、「モスよりもマックの方が断然美味しい」と言う。
また、煮物なども「素材の味がしない方が良い」と言う。

安いからとか手軽だからとか早いからとかの理由で、それらを食べることはもちろんある。
カップラーメンが美味しいと言うことも、マクドナルドのハンバーガーが美味しいと言うことも、時にあることだと思う。
そして、ある状況下で食べるそれは格別に美味しいのかもしれない。

ただ、私は食べ物にはさほど強い執着心はないけれど、マクドナルドのハンバーガーがめちゃくちゃ美味しいと思ったことは一度もない。
もっと言うと、できれば食べたくない。
カップラーメンについては確かにとても美味しいと思うこともある。

それにしても、カップラーメンやマクドナルドのハンバーガーを「世界で一番美味しい」とはなかなか言えるものではないと思う。
その人は、単なるその場の面白みの増長としてそれを言ったわけではなさそうだった。
美味しい食べ物の多くを知らないということもあり得るが、実際に他の人がカップラーメンやマクドナルドのハンバーガーよりも美味しいと思うようなものをその人が食べていることは間違いはない。
だから、その人にとって、とりあえず今のところ本当にそう思うのだ、ということらしかった。

そうなった成り行きとして、その人のお母さんが「無添加」や「自然素材」にこだわる方で中学生頃までほとんど化学調味料が入った食べ物や、ファストフードなどを食べたことがなかったのだと言う。
その反動で高校生になった頃には、その味覚の強い刺激が麻薬的になってしまったのだと。

私は味覚は社会化されるものだと思うし、脳はそう思い込む、ということができると思う。
子どもが初めて口にしたものを吐き出してしまったのが、例えば不味かったことが理由だったとしても、その後大人が美味しいよと、美味しい顔をして食べるのを見せ続ければたいてい食べられるようになるものだと思う。
幼少期だけでなくても、この味は美味しい、健康に良い、ということは親だけではなく教育やメディアを通してあらゆるところから刷り込まれていく。

そうなると、味覚の一部分は世間的な価値観で作られているような気もする。
ハンバーガーに関して言えば、マジョリティの意見はおそらく「モスはマックよりも値段が高いけれど、高いなりに美味しい」であるだろう。
マックよりモスの方が美味しいのは、マックよりもより素材そのものに近く、素材そのものの味の方が美味しいという価値観も判断に含まれるのではないかと思う。
出汁がきいていて美味しい、素材の味が強い野菜は美味しい、スパイスがたくさん入った複雑な味が美味しい、三つ葉の風味際立っていて美味しい、それらを世間が良しとしているとき、それらの価値観は前提としてもう覆せないものとしてあるのではと思ってしまう。
もちろん、自分の舌の判断も大きく関わっているから、人によって好き嫌いは異なるのだけど。

よく大人になるとミョウガやビールが美味しいと思うようになると言うことがあるが、それは、脳が美味しいと思い込んでいる、と私は思っている。
つい先日何か小さな川魚の天ぷらを頭から食べて私は「美味しい」と言ったし、実際にそう感じだのだけれど、何の価値観もない舌でそれを食べたら、私は果たしてあの感じを「美味しい」とするのだろうか。
生ビールと発泡酒を目隠しをして飲み比べをして、明らかに違いは分かったけれど、私は「生ビールの方が美味しい」と本当に言い切れるだろうか。
今考えるに、ビールについてはどちらも特に美味しくはない、ということになってしまうが。

脳が美味しい、と思うことが結局のところ、自分の美味しい、ということに変わりはないのだから、世間的な価値観の上でそれが成り立っていたとしても別にそのことは悪いことでは全然ない。
とにもかくにも、自分の美味しい、が答えだ。
しかしながら、すべての前提の価値観を取り去ったときの自分の味覚というものも知ってみたいと思う。
もしかすると、実際に快感物質が出るような、味覚をダイレクトに刺激する化学調味料の方を選ぶのではないかと、そんな気もする。

「カップラーメンが世界で一番美味しい」も「マクドナルドのハンバーガーはめちゃくちゃ美味しい」も大事な物の見方だと、そう思う。
ただ、カップラーメンよりもマクドナルドのハンバーガーよりも美味しいものは確実に存在すると私は思っているけれど。
本当に美味しい経験、というのは私も乏しいのだとは思う。



時間は未来から流れているんだ

2013-05-23 21:36:36 | 日記
1対1で事業の現状と今後について話し合った。
喋りすぎて、それはもう酸欠になった。
夜は湿度が高くて、今年初めての蚊が耳の側で鬱陶しく飛んでいたためよく眠れなかった。

私がどうにかしてここで、という風に考えてくれるのはとてもありがたいことだし、私もこの会社の中でできることがあるだろうかと今一度考えるのだけれど、どうしてもどうしても方向性がずれていることを埋められはしなかった。
私の眼は新しくマクロには向けられないし、かと言って、私に向いている業務内容に移行してやっていこうというのも、この先の私の光を見つけられそうになかった。
仕事でもそうでなくても使うインターネットの海には素敵な出会いが確かにあって、それはある部分で魅力的ではあるのだけれど、私はそれを使って何かビジネスをしたいと思ったことがそもそも一度もない。

「やりたくないことをやらなくてもいい、ただし、やりたいことには責任を持て」ということを重んじるのであれば私はなおさらここに居続けることが難しい。
しかしながら、手を出してしまった新規事業なわけだから、私がここを去るのであれば十分とはいかないまでもなんとかなるくらいにしていかなければならない。

ベンチャー企業が「もっともっと」と売上や規模を拡大することは当然のことだ。
常に変革や改新ができる状態で、それに柔軟かつタフに対応していく人材でないとうまく回らないだろう。
私はそんなに頑なな方でもなければ、長時間の勤務にも割と耐え得る体をしている。
だから、ベンチャー企業に向いていないわけではないと思う。

変わったのは会社ではなくて、私なのである。
どんな企業でもそうかもしれないが、特にベンチャー企業では、思考力と行動力と膨大な時間が必要になる。
それに比例する体力も必要になる。
かつてエネルギー過多だった私は、自分が尊敬する人たちと働けることを理由に、色んなものをなぎ倒しながら前進して、そうすることでエネルギーを消化してきた。

しかしながら、私がそのエネルギーを他に投下したいと思い始め、それこそが私が私である意味であるように思うようになってしまって、仕事への膨大な時間とエネルギー投下に納得がいかなくなった。
人生ではじめて、私は自分のために生きていこうと考えていて、それには時間とエネルギーが足りないことがストレスに感じているのだと思う。

ただ、そのエネルギーの投下先が私は今全然明確ではなくて、たぶん「ブルーハーツ」のようなこと、たぶん「書道」に関わること、たぶん「言葉」に関わること、というくらいで、全くもって「これがやりたいからこれをします」ということが言い切れない。
もしかすると、そんなことが今後言い切れることがあるのだろうかとも思ってしまうが。
しかもそれらにまとまりがあるかないかも微妙なところで、とりあえずの食い扶持はどうするのか、と言ったところでさして「やりたくないこと」をまたするのかもしれない。
そんなことは分からない。
それでも、私を震わす何か、により近づけるような方法を取りたい。

身勝手は承知の上である。
しかし私が私の舵を取れなかったら、誰がその場所に連れてってくれると言うのだろう。

一方で、私が言っていることを、確かに通じていそうな返答をしてくれた人もいた。
そういう人がいてもいなくても、今の私が思うことは変わらないのだけれど、やはり理解を示してくれるということは嬉しいものである。


Led Zeppelinのアルバムを3枚レンタルしたつもりが、1枚はDread Zeppelinであった。
iTunesに入れてアーティストで並べて、Led Zeppelinのところを見ると2枚しかなくて、なぜだろうとまた入れ直してもみた。
そうしたらDread Zeppelinとなっている。

違うバンドを借りてしまったのかとその時点で気づいて、調べてみると、Dread ZeppelinはLed Zeppelinをエルビス・プレスリーのコスプレのボーカルがエルビスの歌い方でレゲエ調にカバーするバンド、ということらしい。
Led Zeppelinはイギリスで、Dread Zeppelinはアメリカ。

私は、Led Zeppelinのこともつい最近知って、ウィキペディアの内容がとても充実していることから、すごく有名で歴史的にもすごいバンドなんだなと理解した。
Led Zeppelinは、自分でもよくわからないけれど、大好きな感じの音を出してくれる。
ローリングストーンズやチャックベリーよりもブルース感が少なくて、ハード。

こういうの、私は、どきどきする、ぞくぞくする。

広くを知らずに言うと、私はUKよりもUS派であると今までの傾向から思っているのだけど、別にその括りは要らないというか、あってはだめだと思う。

ついでに知ってしまったDread Zeppelinのことは深追いすることはできないけれど、たまに聞くのは良いだろうという感じだった。

ところでこのバンドをカタカナ表記すると、「レッド・ツェッペリン」なのだけれど、この表記の通りの発音をするものなのだろうか。
略称は「Zep」もしくは「Led Zep」らしいから「ゼップ」「レッド・ゼップ」なのだろうか。
それとも「ツェップ」なのだろうか。

とは言え、相も変わらず通勤時間はブルーハーツとハイロウズとグリーンデイなのだけれど。