つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

愛は気になるの

2015-02-28 22:38:15 | 日記
何度も冬を越して、抜群の安定感のあったポトスが死んでしまった。
根腐れから救出して、水差しにしていたけれど、復活は見込めなかった。
暖かくなるまでもたなかった。

めきめきと元気な植物を見ているのはいいけれど、芯を失って血の気のない植物をみているのは悲しい。
まあこれは植物に限らずとも、か。

代わりにミントは春を待たずにぐんぐんと伸びてきた。
水差しにしているグラスの中でちりちりとした根もいっぱい出ている。

春は花粉が飛ぶから憂鬱だけれども、植物たちのあの活気が見られるのは、私にとってとてもとても良いことである。
それに、花粉は外に出るときに面倒がらずにがっちりマスクをすれば、まあまあ防げるということも分かった。
夜でも雨でも、息苦しくても、マスクはするに越したことはない。


最近、がんばっているな、と自分で思う。
私がそうしたくて、一人で勝手にがんばっているだけで、特段褒められたことでもないけれど。

それに、大事なことにはがんばれていないくせに、現状だけはがんばっていると言いたくなるような状況で。
この状況が他人に揺るがされることは考えづらく、明らかなひとつのことだけが私を追いやる。
今がんばっていることが私にとっては、その明らかなひとつのことからの逃げ道になっている。

そんなことは、分かっている。
と誰に言っているのか。

最後と思われるしいたけを原木からもぎ、しめじとえのきを足して、ミルク粥を作る。
胡椒を引くと、途端にリゾットという名前を与えたくなる。


遭わずして薫り立つ風蓬餅




とモよちゃん

2015-02-25 19:41:09 | 日記
花粉を防ぐメガネではなくて、花粉が見えるメガネがあればいいのに、と思う。
そうすれば全力で避けるし防ぐし、家の中に花粉を持ち帰らずにも済むだろう。
症状が出るまでにタイムラグがあるので、その時にものすごく飛散していたとしても、見えなければ全力で防ぐことが疎かになってしまうのだ。
そして、夜に後悔する。

しかしそう言えば、私は中学生の頃に花粉症を発症したが、山の中腹にある中学校には花粉が「ものすごく飛散して」いた。
CMのような花粉の飛散量は、あまりの量で黄色い粉塵が見えていた。
そんな中で、眼のかゆみで夜中に飛び起きるほどの花粉症を発症した。
しかしながらあの頃、あまり花粉症を激烈に発症している同級生が少なかったように思うのだが、なぜなのだろうか。

都会の方がアスファルトで花粉の行き場がないので花粉症は酷くなる、というような説があるけれど、まず飛散量の問題なので、私は東京にいる方が全くもって症状が軽い。

ということで、今年も花粉症が始まった。
粘膜全体がやられている感じがするので、眼や鼻だけではなく喉もかゆいし、顔全体がかゆい。
肌が荒れるし、体がだるい。

今のところヒノキ花粉には反応をしていないので、ここから1か月強と言ったところだろうか。
暖かくなるのはとてもありがたいけれど、初夏にジャンプしたい。


料理、というのも表現の世界だ。
私は料理を表現と思って作ったことはないけれど、料理人からしたら、とてもとても自分が滲むものであると思う。

ある領域までいくと、「何を書いても私の字になってしまう」「何を弾いても私の音になってしまう」とかいったことが起こるように、おそらく料理にも「何を作っても私の味になってしまう」ということが起こるだろうと思う。
素材や調味料やキッチン設備が異なっても、だ。

久しぶりに、あるお方の料理を食べて、しみじみとした気分になった。
割と込み入ったというか、底のない話をしながら食べていたけれど、それでも変わらないその人の人柄の味は十分に感じることができた。
野菜料理も、肉料理も、デザートまでも。

一言で言うのもどうかと思うけれど、一言でいうと、「やさしい」。

ただ何もかもが渾然一体となったふんわりとしたやさしさではない。
食べるとやさしくなれる気がする、といったやさしさでもない。

あくまで素材に寄り添った大きなやさしさ。
食べている人にも寄り添って、会話を少しだけ遮るくらいの「おいしいね」があるやさしさ。

化学調味料を使っているかどうかはしらないし、使っていても全く問題はないけれど、化学調味料特有の「THE 旨味!」といった感じを思い出さずに済むのに、ちゃんとじんわりとした旨味がある。

豚肉が豚肉で、鶏肉が鶏肉で、かぼちゃがかぼちゃ、白アスパラが白アスパラ、ゴボウがゴボウ。
ごく当たり前な感じで、きちんと素材が正座しているような。
その上、上質なおいしさを染み込ませ、纏い、寄り添う調味。


友人とは、普段あまりしない類の話をお互いに探りさぐりした。
共通していたのは、それぞれに、何か言葉にしがたい「納得」「腑に落ちた」という体験をしたということ。
それによって、ある少しの平和さを心に得たこと。

帰り際になってその話を始めたものだから詳細は聞けなかった。
お互いに、あまりに個人的な話なものだからいささか恐縮していた。

それを知ったところで、何か変わることはお互いにない。
でも、とても個人的なその事情を、お互いに諦めずに伝えようとすることが、ひとつの大事な人間関係の築き方であると、私は思っている。


窓を開け昼が美味しいふきのとう




小さい夜と、美しい夜

2015-02-23 03:28:28 | 日記
姪はボキャブラリーを格段に増やし、一段とお喋りになっていた。
私たちが幼い頃、「あんたら双子は口から生まれてきた」と言われていたのを継いでか、超お喋りである。
そして、これも継いだか、声が大きい。

電気のリモコンで電話遊びをしようとしていたので、「もしもし?」と私が子供だましな感じでやると、「違う」と制され、「うん、うん、はい、分かりました、明日9時ですね」と大人のようにひとりで喋りはじめた。
どうやらお父さんの電話の口調を真似しているようだ。
細かいところをよく見ているし、芸達者である。

お風呂のときの服は全部ひとりで脱げるし、ボタンもとめられるようになった。
いち、に、さん、よん、ご、が全部指でできる。
ついでに、じゃんけんは全部出せるようになった。
洗濯物はおにぎりみたいに握ってたたむのではなく、くるくるとたためるようになった。

今まで私のことを「おばさん」と呼んでいたけれど「えみこおばさん」になっていた。
これはいもうとが教えたらしい。

道で私を見つけるや否や、「えみこおばさーーーーーーん」と両手を広げて走って抱きついてくる。
私が何かを食べていれば、すりすりと甘える猫のようにまとわりついて「ちょっと食べてみる」とにっこにこして言う。
えみこおばさんとしては、眼に入れても痛くない、という思いでは見てはいないけれど、そんなのは可愛いに決まっている。

おそらく、姪は今年の夏にお姉さんになる。
きっと、今までにない顔を見せるだろうなと思う。
きっと、切ない顔をたくさんするのだろうなと思う。

そのときの代わりは、いくら双子でも私では利かない。
でもせめて、「お姉ちゃんだから待ってて」とか「お姉ちゃんなんだからわがまま言っちゃだめ」という言い方だけはしないようにしようと思う。


マウスを新しくした。
持ち運ぶバッグの中でUSBコネクタが何かの拍子にひしゃげてしまったから。
クッション性のあるPC用バッグに入れているのに。

私はこの世の道具に盲目的な信頼を置いているところがあって、たとえば、ポケットはものが落ちないように緻密に計算されて作られているだろうから私がどういう姿勢を取ろうと落ちない、とか。
ペーパーナイフは紙を切るものなのでどうやっても指は切れない、とか。
PC用バッグに入れていれば中のものは必ず守られる、とか。

一方で、そんなはずはないではないか、とも思っている。
それに、この世のものがそんなに精密緻密に作られているものばかりではないことは、私がいくつかの会社に勤めたことにより容易に想像できる。
事実、ポケットからものが落ちたことも、ペーパーナイフで指を切ったこともある。
そして、PC用バッグの中のUSBコネクタはひしゃげた。

しかし、なぜか再び信じてしまう。
というより、信じたくなってしまう。

しかし私はPC用バッグを自分が踏んづけたとか、重いものを乗せたなどといったことがないのに、なぜUSBコネクタは潰れてしまったのだろう。
と、思い返すに、そう言えば電車の中で立ち上がる時にバッグごと落としたことを思い出す。
あれだ。

ワイヤレスのものはすぐに電池が切れるからと、ずっと優先を好んで来たけれど、ワイヤレスの良さを目の前で熱弁してくれた人がいたので今回はワイヤレスのものにした。
マットな質感の白のマウス。


これも欲しいと言ってくれた別の生徒さんがいて差し上げた。
「やさしさに包まれたなら」

ガラスペンは紙とペン先が触れる感触はとても心地よく、インクの風合いも良いのだけれど、如何せん手が疲れる。
ガラスなのでクッション性がまるでなく、一般的なペンよりも細くて持ちづらいのだ。


香水をくぐり抜けたら入学式




赤シー

2015-02-21 13:20:54 | 日記
とあるところで出会った方に、イラストレーター・造形作家の方がいらっしゃって、神保町で個展を開くというのでお伺いする。
子供向け、というとどうなのかは分からないが、主にポップでキュートなたべものやどうぶつをお作りになっている。

小さな画廊は、とにかく、たべものやどうぶつたちの笑顔に満ち溢れていた。

イラスト、粘土、フェルト、毛糸、タオル、綿など、実にさまざまな素材を駆使して作られていて、色合いや配置などが絶妙。
全てがばっちりなバランスで決まっている。
このようなものを私は作ったことがないけれど、誰が見てもこの仕事が恐ろしく緻密であることが分かると思う。

ハムに顔を付けるときは、右側に目と口をつけると左に進んでいるように見えるのか、とか、ベーコンをフェルトで作るときは脂身の幅を不均等にするとそれっぽいのか、とか、絵心がさっぱりない私はそんなところにもいちいち感心してしまう。

たべものの作品は、よく飲食店の店頭にある本物さながらの食品サンプルのようではなく、パッと見でそれが作り物と分かるのに、なのに、とても美味しそうだ。
アジの刺身の皮の風合いや、アジフライのサクサク感、アジの干物の水分の少ない照りの感じ。
骨は糸でステッチされているのだけれど、それっぽい。

アジの作品が気に入って、作家さんに許可を得て一枚写真に撮らせていただく。

何かひとつの完成品を作ろうと思ったとき、それぞれのパーツの「配置」が大事だ。
線の少ない、輪郭が強固できっちりしたものは特に。
そしてその上で、全体のバランスも良きところにばっちり取らねばならない。

この作家さんのバランス感というのは、アンバランスのバランス、ではなく、どちらかと言うとバランスのバランスだ。
書道でいうと、楷書よりも行書の方が“作品風”に見せるのが楽なように思うが、それはおそらくそういう点にある。
私はどちらかと言うと、何をするにもアンバランスのバランスを重んじている傾向にある。
それに、バランスのバランスは、技術と自信がないと難しい。

自分の作品に囲まれて、ちょっと恥ずかしかったりしませんか?
と私が問うと、
全然ぜんぜん、見てくれてありがとう。もっと見て~って思います。
とお答えになった。

私が書道をやっていることを知っているので、画廊の案内まで下さった。
自分の作品に壁一面囲まれているのを想像してみたけれど、私は挙動不審になってあちこちうろうろしながら、早口でわけのわからないことをぺらぺらと喋っている映像しか思い浮かばなかった。

私は絵も図工もからっきしダメだけれど、「何かを創る」という観点からして、こんなに笑顔が満ち溢れるものを作れないだろうと思う。
誰に頼まれるでもない創作物というのは面白いな、と思う。
楽しい個展だった。

◆TOMO工房
http://www.tomokobo.jp/


耳塞ぎここにはいない受験生





急がないとお八つの時間

2015-02-18 14:09:45 | 日記
「先生のブログ読みました」と生徒さんに言われ、「えっっっ」となってしまった。
まあ名刺に載っているのだから当然と言えば当然だし、一応想定の範囲内でもあるのだけれど、実際に言われたのは初めてだった。

名刺からでは、QRコードを載せているわけではないから、URLを直打ちして見るしかない。
それに私自身が名刺の細部などあまり見ないので、どうせ見られないだろうからまあいいかと思っていた。
とは言え、次回印刷時には外そうと思っているけれど。

このブログは、私の一片を見るには十分であると思う。
何かしら私は自分のことを書きたくて、こんなにも長くブログを続けているわけなのだけれど、まだ会って間もない方や、仕事関係の人が見ると少し引いてしまう要素もあるのではないかと思っている。
これを見て、来なくなった生徒さんももしかするといるのではないかと思う。

口調は柔らかくはないし、書いている内容も不可解なことも多いだろう。
書はまあ分かるとしても、花の写真やら、何の脈絡もなく俳句まで載っている。
そもそも商業的なことは書かないし、ここで生徒さん向けのメッセージも書くつもりはない。

しかしながら、これは前にも書いたように思うけれど、おそらく私が築く人間関係というのは、仕事云々関わらず、私の一片であるこのブログを読んでも、ある程度私のことが面白いとか興味深いなどという感じを抱いてもらわないと成り立たないと思う。
私自身、この仕事を始めて、今までにないとても面白い方々に出会えることを結構な楽しみとして感じているし、金銭が発生している中でも個人的な話ができたらとても嬉しく思う。

あと、メッセージでも何でもないが、私は生徒さんに対して、「より良くなってほしい」というふうには心から思っているし、その一つのお手伝いとしての「字の魅せ方」について私ができることは真摯にやりたいと思っている。
「字」という極めて個人的なものを扱うとき、その人自身がまず字に対して興味を持つこと、そして字を好きになること。
字への敬意、を持ってくれたら私は本当に嬉しい。

そういえば、昨日も、しいたけの原木をくださった方が、「先生はああいう気持ち悪いもの好きそうだから」と言っていた。
また、私が書いた「CUSTOM」のペン字の書を見て気に入ってくださったようで、「これ、できればいただいても良いですか」と言うので差し上げた。
昨年の私の展覧会も観に行ってくれていて、「先生は割り箸を使って書くようなアートな字しか書かないんだと思ってました」とも言われた。
私はそれを、きゅんとなる気持ちで聞いていた。

関係というのは、個人的である方が良い。

そのつながりを私が自分の手で起こすことができている、ということも、前を向いて誇りに思いたい。

ペン字の「CUSTOM」も一応色んなことを説明するための道具の一つとして書いていて、それをあげてしまったので、書き足す。
今度は、キリンジの「エイリアンズ」。
「アンバランスのバランスを取れるようになりましょう」という話をよくするのだけれど、一般的な感じでつらつらと書くのは簡単そうで実は難しい。


所縁なき味噌カツ豊橋鬼祭り