つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ななな50円

2013-11-29 02:11:59 | 日記
最近本当によく自炊をしている。
普段やむを得ない場合以外にひとりで外でごはんを食べる習慣がない私は、家にいれば家でごはんを作って食べる。
あとはフリーターになって給料が減ったので、自戒のためにもそうするようにしているという面もあるが、それよりも出るのが面倒なのでそうなってしまう面の方が大きい。

そんなことを2週間続けていても、今のところ外食が恋しくなったりもしない。
むしろ時々出社しておしゃれなイタリアンや、刺激的な刀削麺などに行ったりすると、これまでの焼肉のようにすごく体が疲れてしまうようになった。
これはただの年齢的なものだろうか。

今日も明日も明後日も、家にいることがわかっていると、食材もある程度まとめて買ってくることができる。
また、ある程度まとめて作ってしまうこともできる。
料理は、続けてやっていれば手際や味付けがこなれてくる。
元々何ひとつ、いやお米以外、計ったりしない私だけれど、薄かったり濃かったりがだんだんなくなってくる。
いまいち仲良くなりきれないIHクッキングヒーターの性格も、歩み寄れているように思う。

私は、どちらかというと、毎日同じものを食べていてもさほど苦ではなく、食べられれば何でもいいやというタイプの人間だと思うけれど、そんな私にしてはわりにまともに料理を作っている。
前日に作ったものが残っていたりすれば、意図せず一汁三菜になったりして、自分で感心する。

長い間、というか、ずっと、私は自分が何を食べたいのか、何が好きなのか、何をおいしいと思うのか、よく分かっていなかったと思う。
あまり味覚について自分に問うことをしたことがなかった。
かと言って、今も実際何が今食べたいのか簡単に知れるようになったわけでもないし、毎食を食べたいものを問うことを自分に強いているわけでもない。
自分で作ったものが脳天突っ切るほどおいしいとか、絶対的に一番ほっとできる味だとかも全然思わない。
また、おいしいを最優先して毎食炊きたてのごはんを食べるわけでもなく、冷凍ごはんは味が落ちると思いながら食べる。

しかし、五感のひとつとしての味覚には、「良い」とか「ものすごく良い」と感じられて自分を大いに喜ばせる可能性があるわけであって、それは限りなく自分だけのもので、そしてこんなにも身近にある。
それを日々少しずつ問っていければ、エネルギー源としての食事を超えるのはもちろんのこと、ものすごい感動みたいなものにふと出会えることがあるのではないかと思うのである。
そのために、自分が作るもので、これはおいしいと思っているのかということを自覚する練習をしていると言ってもいい。

そう思い始めたのはたぶん数か月前くらいだと思うけれど、自分の味覚についてのことも最近ブログによく書いている気がする。
まあ自分の感心事しか書いていないのだから当然だけれども、私のそういう傾向というのは、実によくブログに表れるなと自分で思う。

今日は、白菜とひき肉の旨煮、ほうれん草の煮びたし、納豆、ごはん。
健康的な感じがし過ぎて、少し可笑しい。

白菜とひき肉の旨煮は、合いびき肉を使ったがこれはたぶん豚肉のみの方が合うだろう。
他の具材として冷蔵庫にあったしめじを入れたけれど、たぶんシイタケのようなもっとうま味の強いものを入れた方がよかっただろう。
ただ肉の力を借りれば、よほどのことがない限り、まあまあにはなる。
卵でも魚でもだしの素でもなく、肉の力というのは強靭である。
全体に及ぼす影響力たるや、支配力といってもいいほどである。
そしてこれは明日の方がおいしい。

ほうれん草の煮びたしは、若干醤油を入れ過ぎて、だし味にしたかったのが醤油味になってしまった。
また、ほうれん草が醤油に染まるのはあまりきれいではないのだなと思った。
煮びたしはよく水菜で作るのだけれど、この味付けでは水菜の方が合っている。

最近作ったものの中では、ミルクうどんがとてもおいしかった。
ありあわせの野菜とウインナーをオリーブオイルで炒めて、コンソメで味付け、すこし水を入れて煮立ったらうどんを入れて、牛乳を注ぎ入れる。
昆布茶と白味噌を少しずつ入れて味を調え、とろけるチーズを適量、黒胡椒を挽く。
黒胡椒は、カルボナーラみたいな感じがしたから、なんとなく。
ウインナーではなく、豚肉か鶏肉の方がもっとおいしいだろうと思う。

「天使のわけまえ」を一気に観て、物語は私にはさっぱりだったけれど、「良い料理」が出てくるドラマはストーリーを置いておけるほど興味深い。



明日行こうね

2013-11-26 18:12:05 | 日記
会社を辞めたらやろうと思っていたひとつのこと。
「コピー書道」。

ここ2週間、時間はたくさんあったはずなのに、私はどんなに好きなことでもやり始める腰がものすごく重い。
人と約束していたりすれば逆にスピード上げてできることも、ひとりでいると怠慢に負ける。
それは、どんなにどんなに好きで好きでたまらないことでも。
私の本性だ、無精であることは。

ただ一旦やり始めれば、疲れるまではとても楽しんでやる。
だから人からは“根っからのどうしようもない無精”だとか、“究極の面倒くさがり”だとはいう印象はおそらく持たれていないと思う。
誰が頼まれてもいないブログをしこしこ頻繁に書く人のことを“究極の面倒くさがり”などと言うだろうか。
しかしある一面においての私のその性質は、ひとりになるとまずいほどにむくむくと大きくなるのである。
それは好きなことや楽しみでさえもむしゃむしゃと食ってしまうような化け物だ。
そして、その化け物は、紛れもない、私だ。

書道教室の提出期限まで全然書かせてくれないかわいい化け物から、ひとり掛けソファで寝たら体が痛くて寒いのにベッドまで移動させてくれない恐ろしく強靭な化け物まで、生活のあらゆるところに化け物は潜んでいる。

これを自分で書いていて、自分はバカなのかと思うけれど、化け物のせいなのだ。
その正体である私が、その化け物と今は少なくとも全力で戦おうなどと思っていない化け物に憑りつかれているのである。

今のところ、家でやる私の勝手な楽しみは、ブログ、音楽鑑賞、ギター、映画、書道、読書、の順に腰が重くなる。
これについては、以前からの習慣だけでも、取りかかる障壁の高さだけでも語ることはできない。
ギターは始めて1年も経っていないし、読書は取りかかる障壁は最も低いはずである。
ただ、書道については、道具をいちいち出すのが非常に面倒だということは確かにある。
あと、単純に最も体力を使う。

では「好き」順かと考えるけれど、書道について私は本当に好きなのかをよく考えたりもするのだけど、やり始めるとしみじみ好きだなあと思うし、映画についてはその内容の影響も多分にあるけれどたぶんそれほどのめり込むといったことはない。
「アウトプット」か「インプット」かということに焦点を当てると、創作の観点は除くとして、アウト、イン、アウト、イン、アウト、イン、となりアウトプットやインプットの傾向でもない。

私はブログについては、結構いつでもどこでも書きたくなる。
今は基本的にはPCで書くが、出先であればスマートフォンでも書く。
すぐに風化してしまう儚き思考の足跡を、とりあえず書き留めたい欲求だけは強い。
ただ、ブログでは核心に触れるような域のことはしづらいとも思う。

そうだ、私はまだ核から逃げている。


甲本ヒロトと真島昌利が書いた詞を、書道で書く。
展覧会でも誰かにあげるでもなく。
まずは「映画」と「ラブレター」

初めて「情熱を薔薇」を書いたとき、私は「こんなふうなやり方でも彼らが考えていたことにまた触れられるのか」とぎゅうっとなった。
次作「リンダリンダ」はもう何度書いてもぎゅうっとなった。
自分のどうしようもない一番核の部分に触れるような気がして。
そこまでの状態に行かずとも、彼らがこんなことを考えていたのだなと想像しながら紙に起こすのは楽しいことである。

やっているのはただ楽しいのだけど、期限もルールもない中で、何かを作ることは極めて難しいと改めて思う。
できるだけ詞から浮かんだ書のイメージを再現したいと思うのだけれど、紙のサイズや色や素材、筆や墨の種類、字の大きさや配置、表装まで、あらゆることが自由なわけでそれを自分流に新しく形にするのは至難だ。
墨なのか、筆なのか、という元も子もない問いは置いておくにしても、書作品として“それっぽく”したいと思うと、書道教室で習った手法を借りることになる。
しかしながら、今度は習った手法を真似ているうちに、逆に消せない自分が現れてきたりしてそれも上手くいかないというジレンマに陥る。

あれ、私は書の世界で新しい風合いの書作品を生むことがそもそもの目的だったろうか。

「これが私です」という他の侵入を微塵も許さないものができたとしたら、それはおそろしく素晴らしいアートの世界であると思うけれど、私が目指しているのは全然そこではない。
いや、「これが私です」というもとを創りたいというのは確かだけれど、それが世の中的な記号として新しいかどうかなどはさっぱり興味がない。
そこに乗せる思いに、どれだけ自分で触れられるか、ということだ。

バンドで音楽を作るにしても、コード進行や使う楽器などのルールというか枠組みがあるからできる。
枠組みは借り物だ。

とは言え、だ。
“それっぽく”見せるのも私にとってそんなに簡単ではない。

それもそうと、己の核にも触れなさい、と怠惰おばけにも言うのである。



天晴への疑惑

2013-11-25 03:16:25 | 日記
包丁を買った。
前々から切れ味が悪く、ジャガイモの芽を取るのが極めてやりづらい包丁に辟易としていた。
何か月か前、少し値は張っても良品を買いたいと思って調べていた。

1~2万円くらいで買えるものの中では、グローバルというブランドの包丁が良いらしい。
どこのネットショップが安いのか、と、そこまで調べておいて、先に買わねばならなかった筆のせいで、その後ほったらかしになっていた。
その間も、なんと切れ味の悪い包丁だろうと思いながら使っていた。

また自転車で近所を散策していたら、思いもよらぬところにスーパーを見つけて立ち寄ってみる。
そこで、包丁が目に留まった。
そうだ、包丁が欲しかったんだと思い出して、あれだけグローバルの包丁について調べていたにも関わらず、近所のスーパーで、しかも3000円もしない包丁を買ってしまった。

これが良品であれば包丁に1万円も2万円も出すのはそもそも分不相応だし、しかし、良品ではなかったとしたらたぶんグローバルの包丁を買うことになるだろうから、それはとんだ無駄である。
でもまあ、ジャガイモの芽は取りやすい形状をしている。

新しい包丁は、今までのものよりも軽くて、少し刃が長い。
早速、玉ねぎを切る、ピーマンを切る、ジャガイモの皮を剥く。

玉ねぎって、ピーマンって、こんなに簡単に切れるものなのか。
ジャガイモの皮はこんなにするすると剥けるものなのか。

よく料理ができる人が、包丁をトントントントントンと素早く動かして材料を切っていく図があると思うが、私はいつになったらああいうことができるようになるのかと思っていた。
皮むきは得意だけれど、切るのは苦手と思っていた。

しかし、それは包丁が切れないことが問題だったと分かった。
何を切るにも、すっと刃が入らないから、押したり引いたりして切っていた。
それではトントンとはいかない。

グローバルの包丁が、これよりもどんなに良品であるかを知ることはしばらくなさそうである。
新しい3000円の包丁に、間も無く刃こぼれや錆びなどが発生しなければ。

あとはこれも前々から思っているのだが、良いお玉と良いフライ返し、良いスプーンが欲しい。
100円ショップのぺらぺらの薄いのではなくて、ずっしりと重量のあるもの。
これでキッチン周りの欲しいものはほぼなくなる。

いや、もうひとつ一番必須で緊急、お茶を淹れる急須かポットを買わねばならない。
昨日、使っていたガラスのポットのふたを割ってしまったのだった。

よく使う日用道具は、値段を上げてでも質を求めたいというのは最近の私の生活の方向性だ。
道具が解消するストレスだってあるのだ。


「ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル」
「ザ・フー ライヴ・フロム・トロント」

先日色々な映画と一緒に借りてきたセックスピストルズとザ・フーのライブDVD。
ブルーハーツとハイロウズとクロマニヨンズのDVDは買っているけど、他のアーティストのライブDVDはあまり観たことがない。
ライブDVDのコーナーをツタヤで見つけたとき、他の映画を借りるのを全部やめてこれらに全部変更しようかと思った。
しかし映画も時間をかけて選んでいたので、また借りに来れば良いと思って2枚だけ追加でライブDVDを借りた。

私にとってロックミュージックは、聴くだけに留まれないもので、ライブパフォーマンスや彼らの顔や、ギターの演奏姿や発言までも全部ひっくるめてロックミュージックなのだ。
それに、外国人の名前は、少なくとも顔が分からないとさっぱり憶えられないのもあって、そういう意味でも映像で観たい。

「ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル」はライブDVDではなく、マネージャーのマルコム・マクラーレンを主体としたドキュメンタリー映画だった。
マルコムの考えていたことや、時代背景がメインに語られていて、ライブ映像やアニメーションなどもあり、期待していたコンサートのライブ映像ではなかったけれどとても面白かった。

世に出るということは、曲の作り手や演奏者だけではない様々な人の意図がある。
それは至極当然のことだ。

ザ・フーのライブDVDは、途中から洗い物をしたり片づけをしたり、ピート・タウンゼントについてインターネットで調べながら観ていた。
「マイ・ジェネレーション」やビートルズのカバーである「ツイスト・アンド・シャウト」も入っていた。
ひとつ失敗だったのは、このライブ映像は解散直前のものだったことだ。
どんなバンドもそうだけれど、やっぱりまずは初期の頃のものが観たい。

セックス・ピストルズもザ・フーもヒロトやマーシーに多大な影響を与えている。
特にヒロトのライブパフォーマンスのルーツなのではと思う。

私の中では、ザ・フーとローリング・ストーンズは、解りたいたいのに解りきれない二大巨塔のようなロックバンドだ。
いいね、とは思うし、彼らの素行や発言はとても心に響いたりもする。
しかし実際のところ震えるような何かを彼らの中に見つけられないでいる。

ローリング・ストーンズのデビューアルバムを貸してくれるという人がいるから、それにはとても期待している。


小石川植物園。
引っ越しの決め手のひとつにもなった大好きな場所。

赤 VS 緑。



どっちでもいいよ

2013-11-23 23:25:59 | 日記
先日自転車に乗ったら自転車がパンクしていた。
後輪がぺちゃんとして、タイヤのゴムがアスファルトを食い込みながら踏んづけているのが感覚として伝わってきた。
以前、その状態で無理をして家まで帰ったことがあった。
翌日自転車屋さんに持って行くと、小さな短い針のようなものが刺さっていて、刺さっただけれあれば一か所の傷で小さなテープのようなもので処置することができたのだが、そのまま体重をかけて乗ったことによって針が何か所にも刺さってしまって穴だらけだからタイヤのチューブごと交換しなくてはならない、と言われたことがあった。

なので、今回は決して乗らずに、近くの自転車屋さんに引いて持って行く。
そうしたら「たぶん空気が抜けてしまっているだけですよ」と言われた。
たった5日間くらい乗っていなかっただけなのに、パンクのように空気が抜けることがあるのかと聞くと、ねじが緩んだりすることでそういうことがあるらしい。
とりあえず空気を補充して1日大丈夫であれば、パンクではないと。

自転車もいろいろあるんだなと思った。

空気を入れた自転車で久しぶりに昼間に走ってみる。
と言っても、坂のない平坦な道をゆっくりと。

季節はもう初冬だろうか、でも、あまり寒くはない。
目の周りの皮膚が少し突っ張っている。
乾燥している。

燃えるような赤い紅葉、と言うのであれば、輝くような黄金の黄色い銀杏。

あぁ、外は気持ちがいい、あぁ、光は気持ちがいい。
生来の出不精の私は、自宅で仕事をするようになってからめっきり外出が減った。
家の中も夜更かしも気持ちいいのだけれど、私は太陽の力は信じている。

進んでいくと、すごく空気が抜けた場所に出た。
ここで言う「空気が抜ける」は、タイヤの空気が抜けるではなく、「風がよく通る」といった意。
大きな霊園だった。

そのとき、真心ブラザーズが流れていたけれど、自転車に乗っているときとしてはとても久しぶりに私は音を消したいと思って、iPodを止める。
なんだかよく分からないけれど、とても落ち着く。

お墓の群集で私は落ち着くのか、と自分を疑問に思ったのだが、しばらくして何に落ち着いているのかがわかった。

ある一方向に目をやると、遠方にも建物がなくて空がとても大きく広がっていたからだった。
空の青で視界の多くを埋めることができる。
だから、空気が抜けている感じがしたのだ。
こういう景色は東京では見られないという先入観があって、直ぐにはわからなかった。

このあたりの地形は、下を見渡すほどではないものの小高い丘みたいになっているのだろう。
そういえば、お墓は見晴らしの良い場所にあるもののような気もする。

この「空気が抜ける」とか「空気が通る」というのは、引っ越し先である今の部屋を決めたポイントでもあった。
私が今住んでいる区の多くの場所が「空気が抜ける」場所のような気がしている。
所謂東京の住宅外なのだけれど、私は住宅街で深呼吸をしてしまいたくなる場所なのだ。


出かけついでに、先日借りたDVDを返し、CDアルバム2枚無料券があったので久しぶりにツタヤでCDをレンタル。
「27クラブ」の中のひとり、ジャニス・ジョプリンのベストアルバム。
ニール・ヤングの「フリーダム」。

二―ル・ヤングのアルバムは、ふと目に留まった。
「オン・ザ・ロード」のディーンのモデルになった二―ル・キャサディはただのヒッピーのバス運転者であったことは知っていたはずなのに、ニール・ヤングがどこかから割り込んできて混同して、オン・ザ・ロードのだ!と思ったか思わなかったか、とりあえず目に留まり手に取ったのだった。
マーシーの「64,928-キャサディ・キャサディ」はここから来ていることも私にとっては大きな既知の事実だったのだけれども。

しかし思いがけず、二―ル・ヤングのアルバムは良かった。

そしてもう一度ジャック・ケルアックの「路上」のウィキペディアを見てみると、ドアーズのジム・モリソンにも多大な影響を与えたとあった。
おそらくこの文章は読んだことあるけれど、そのときまだドアーズは知らなかったからあまり気に留めることはなかった。
少し前にドアーズはアルバムを借りたし、先日観た「ドアーズ」という映画でジム・モリソンのことも知った。

一つひとつ、自分でいくつものリボンを結んで、ちょっとずつ、私のロックの世界を繋げていく。
ときにまた、そのリボンをほどいて違うところに結んだり、同じところに追加して結んだりもする。

リボンでも何でもいいけれど、そういうある領域の海の中を揺蕩って、私の通り道に足跡つけながら繋いでゆく、そんなイメージ。




めんどくさい村

2013-11-21 02:41:39 | 日記
音楽の趣味が似ているということ。
またその音楽に対して思うことが似ているということ。
それにはどうにも近しい感じを抱かざるを得ない。
ここでいう「音楽」とは、「音楽」に乗せられたメッセージや精神性と言っても過言ではないようなもの。

憂歌団の話も、ローリングストーンズの話も、尾崎豊の話も、自分の仕事の話も、全ては自分に帰結するという考え方も、とてもすんなり受け入れられた、というよりかは、私の考えていることと近しかった。
もちろんそれは違う、と思うこともあって、別にそれさえも愛おしく思えたなんてことは毛頭ない。

私はついでに私の中で最も大きく巣食っていることを話してみた。
私がそれについて自分から話したり、見せたりするのは、その人に甘えている証拠でもある。
単純に、それについてどんなこと言ってくれるだろう、という試すような心があったのも確かだ。

私は勝手に話して、勝手に感極まった。
その人は、至極一般的なことを言っていた、ような気がする。
あまりにも一般的なことを言うものだから、途中から私は自分自身に感極まっていて、続きを話すのを止めた。
言われたその一般的な内容をあまり覚えていない。
でもそのあまりにも一般的なことは、その人自身の立場から言っているということはよく分かった。
それは結果的に「一般的」であったけれど、その人は自分の中で考えた自分の答えであったのだとは思う。

話した内容のことについて、私は私の中で、ある地点での、それはまだまだずっと途切れることなく死ぬまで続くけれど、答えにたどり着いているだろうと思う。
若干見て見ぬふりをしているところもある。

私はそれを誰かに正しく聞いてほしいのだと思う。
「そんなの間違ってる」とどんなに正しそうな意見を言われても、今の私はおそらく根底から覆ることはないだろう。
自分が思っているその通りに、まず話したいし、聞いてほしいし、そして受け入れて欲しいのだと思う。

決して押し付けられるもではないし、期待するものでもない。
そんなことは分かっている。

「もしかすると生まれて初めてこんなこと言ったかもしれない」
というような部類のことは、たいてい恥ずかしさを伴う。
言葉を持ってから何十年も生きてきて、今初めて口にすること。
そんな部類のことを誰かに代弁してもらうのが何かアート作品かもしれないけれど、自分が思っていることが何なのかを知って、願わくはそれを自分の言葉や何かで出せたらいい。

誤解や批判を受けても、それでも屈しない自分であるという何か。


夜電気を消してベッドに入ったら、ぱたたた、という音がした。
何かが落ちたというような唐突で勢いのある音ではなく、もっとそっとした音で、生き物の気配がした。
まさかねずみ・・・と一瞬にして凍りつく。

でも、見逃して良いことはない。
とりあえずその、ぱたたた、という音の正体を確かめねば。
と思っていると再び、ぱたた、という音がした。

携帯電話のライトを点けて恐る恐る音の方へ見に行ってみる。

あ。

ダリアの花びらが落ちた音だった。
それを見ているそのときにもまた、ぱたた、と言って花びらが散った。

確かにそれは、潔くて切ない生き物の音だった。