つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

惜しむべからず

2013-07-31 23:57:49 | 日記
ゴミが自由にいつでも出せないのが酷く不便である。
宅配ボックスがなく荷物の受け取りにスケジュールを合わせないといけないのが酷く不便である。

あと、IHクッキングヒーターの扱いがいまいちよく分からない。
あと、窓シートを買ったまままだ貼っていないので窓が自由に開けられない。
あと、事務所のような玄関のガラス扉も目隠しシートが貼ってあるとは言え、こちらも窓シートを買ってあるが、光が透けるのでなんとなく落ち着かない。

そうしたいときにそうできない、時間を持って行かれるというのは嫌だ。
といっても引き換えに得た広さにはとても満足しているし、会社は遠くなったのだけれどやっぱりこの街の特段何もない住宅街を自転車で走るのは、いいなあ、という思いでいっぱいなのである。

でき得る限りの改善をして、住みやすくしたい。

charのライブのギターセッションを見ていて思うのは彼らの“男子感”への憧れと、ギターを、音を、自在に操れて羨ましいということだった。
もちろん本人たちからしてみれば自在なんかではないと言うのかもしれないが、とりあえず一通りが自在にできるということは実に羨ましい。
別にギターでなくてもピアノでもPCでも筆でもそうなのだけれど、とりあえず一通りが自在、という状態はそれなりに気持ちの良いものだと思う。

ギター、私はとりあえず一通り自在の状態になれることが想像がつかなくて憧ればかりが募る。
憧ればかりで全然手が動かない。

物の見方、理解の術。
何かの本質を知りたいと思うとき、それを知るためのあらゆる方法を持っていた方が良い。
いずれにしても結果的に、「良いものは良い」となる。
ただ「よくわからないもの」に対して、それをわかろうとする術を持たないことは何かとても大切なことを逃してしまう可能性も多分にある。
そのままで感じられないものが全て不必要かというと、たぶんそうではないだろうから。
術を持った上で、身体が教えてくれることはそれをそれとして受け入れたり跳ね返したりすればいい。


近所の八百屋で買ったオクラを茹でて、納豆とミニトマトと卵を混ぜる。
これはご飯が要るだろうという感じなのだけれど、ご飯は炊いていなかったのでそのまま食べる。
全卵を入れてゆるいので、スプーンで。
面倒がってオクラの下処理をきちんとしなかったことで青々しくがりがりした感じが際立ってしまった。
明日また同じものを作ってリベンジをしよう。
できればご飯を炊きたい。

自分で作る食べ物に興味が持てるようになりたい。



放棄しますかそれとも

2013-07-30 21:50:27 | 日記
2回目のフェス、Fuji ROCK '13。
最近の私の頓珍漢ぶりは自分でも危惧しているので、準備中は音楽をかけず、チケットや鍵や路線は何度も確認し、特にそういったこと大事なく何も失くさずに帰ってこられた。

友人の振り返りレポートのブログを読んだら、私がこれ以上備忘録を残すことはほとんどないように思った。
あまりにも私と似たようなことを感じてそれを書いてくれているので、書きたい欲求が削がれたということでもあるし、代わりにログとして正しく残してくれたことで自分でそうしたのではないにも関わらず一息ついてしまったのだった。

もちろん私たちは別の育ちの人間であるし、職業も置かれた環境も全然違う。
それでも似通った部分があって、私は彼女といると私の結構多くの部分を預けることができる。

寝る、起きる、食べる、酒を飲む、踊る、歌う、泣く、喋る、笑う。
彼女といると、限りなく自由にこういうことができる。
彼女はよく写真を撮るので、自分でも見たことがないような表情をキャッチして収めてくれる。
そんな彼女が私と友人をやってくれていることは、私にとっての誇りである。

景色を見たりして楽しむはずのドラゴンドラの中で大半寝ていたり、突然寄り目を強いてきたり、雨がザーザー降っているのに傘をスーツケースの中にしまってしまったり、ビール一杯でぱあっとなってものすごい勢いである事に噛み付いていたり。
撮った写真を見返して自分たちにヒロトとマーシーのような雰囲気が出ていると、げらげら笑ったり。
変人変人と、charが変人呼ばわりしていた鈴木賢司というギタリストに、私のパーマと髪型の具合が似ていたので真似して遊んだり、タバコを吸ってみたいとストローを加えて写真を撮ったり。

真剣に遊ぶ、真剣に笑う。
でも、無理はしない。
この感じ、私が最近重視したい“男子感”の要素が多分に含まれている。
楽しいこと、バカなこと、アホなこと、お茶目なこと。
何やっていたの?と誰かに問われても、そんなこと分からない。
だって別に何の意味もないから。
何て言うか、楽しいから。

彼女が私に話しかけて私のレスポンスがないことがままあるということを言っていたが、それは身を預けてしまっているということでぜひ許してほしい。
私は結構人の声が聞こえてしまう方だと思っているけれど、最近そのようなことがある事実を他人から聞かされるのでそろそろ自分自身の認識について改めたいと思う。

今回のフジロックは2回目ともあって、地理的にも慣れているし、何といっても宿が歩いて行ける距離だし、諸々安定感を持って楽しむことができた。
今年はなんといっても金曜日の一発目の「Route17 Rock'n Roll ORCHESTRA」にヒロトが出る。
まだ苗場の空気に慣れ始めたその一発目のステージは、トータス松本から始まり、次が甲本ヒロトだった。

「ヤングマン」と「情熱の嵐」
ヒロトはいつものように、あんなに何かに取りつかれたようにパフォーマンスをするけれど、その表面に出された圧倒的な強さと切なさを見てしまって、「ヤングマン」で私は泣いてしまう。

ヤングマン さあ両手あげて
ヤングマン 足をふみならして
ヤングマン 今思うことをやっていこう


トータス松本、甲本ヒロト、char、仲井戸“Chabo”麗市、鈴木賢司、奥田民生、大江慎也、SOIL&"PIMP"SESSIONS、CHARA、bjork、FERMIN MUGURUZA KONTRAKANTXA、Tahiti80、七尾旅人。

奥田民生の「さすらい」が生で聴けて、良かった。
私が奥田民生に感じているぎゅうっとなる熱い何かというのは、まだ少し私の中の理解にも遠いような気がしている。
それは私が耳にすることができる制作物ではなくて、別のところにあるのだろうというような気がしている。

願わくは、そういう人が自分の快感を世の中に出てくる何か、それは一つの慈善事業のようなもの、とは別に追い求めていてほしい。
全くの私の個人的な願望として。
ヒロトに対しても、マーシーに対しても。

また七尾旅人は確かにロックな人なのだと思うけれど、少し宗教的要素を感じずにはいられなかった。
そして非常に興味深かったし、ライブはとても面白かった。
「音楽で起こったことは、現実に起こったことと同じ」これは彼の思うところで伝えたいところなのだろう。
「音楽だけで会話できるようになればいいと、俺は本気でそう思っている」と言うけれど、私は本当にそうなったら困る。
異次元は異次元で存在してもいいし、ファンタジーを生身でもって現実に体験できることは言い知れない快感かもしれない。
しかしそれがユートピアだったとしても、それでは私の精神は結果的に満たされないし、私の思うロックとは自分の中に元々存在しているものがその皮が剥けて表出してくるようなもの、というイメージなので全くもって精神を超越してしまったところに持って行かれては困る。
この世で起こるすべてのことは、宇宙に比べたらちっぽけなことで、という世界には私はずっとはいられない。
自分で触った手触りを、自分で食べた美味しさを、自分で感じた自分の思いを、私は自分のごく近くで、というか自分の内側で感じたい。

と七尾旅人に対して、かなり偏った解釈になってしまったので、もう少し聴いてみたいと思う。

本当に私は去年までフジロックの存在すらも知らなかったような人間であるし、知らずに死んでしまうことだってあり得たわけだけれど、こんなふうに日々の動力貯金のような場所に行けて体験できて超ラッキーであると思う。
でも同時に感じることは、これは比較的容易に得られる類の楽しみにすぎない、ということであって、結局のところもっともっと私が欲しいものというのはおそらく自分の中の何かを出すことなのだということだ。
結局私がそれを自分ですること以外には、ロックンロールの絶頂は落ちるしかなくなってしまう。
ただ、この比較的容易に得られる楽しみというのもとてもとても大事なことであり、そういうことでも心豊かに笑いながら生きていきたいと思う。
だからこのような比較的容易に得られる楽しみも力を入れて取りに行きたい。
そう、ロックンロールのおまけももらいながら。


新居に移ってまだ少しも散策できていない街に自転車を走らせる。
かつて住んでいたところにあったとても質の良い八百屋さんのチェーン店が駅の近くにあった。
値段も鮮度も品揃えも抜群にいい八百屋さん。
デラウェアが4房198円で、普段特にフルーツは買わないのだけど、嬉しくなって買ってしまう。

土日にしか行けないけれど、簡単でもなるべく生のものから何かを作りたいなと思う。
コンビニの古くからある具のおにぎりが最近お気に入りだけれども。

久しぶりの出勤。
疲労感と一緒に飲みに出かけてしまったため、そのまま寝てしまって朝にシャワーを浴びる。
東京以外のところに出かけていつも共通して思うことが、水が違う、ということを髪で感じることだ。

ミュールに足を入れると、明らかに身体が何かに乗っかった感覚を覚える。
いつも高めのヒールをはいている私が、たった4日間スニーカーで過ごしただけで起こされた違和感。
スニーカーなどほとんどはかない私はヒールの方が常なのだけれど、やっぱりスニーカーの方が当たり前にナチュラルだ。

また自転車から携帯を落とす。
iPhoneにヒビが入ってしまった。
私のような人間がカバーを付けていないのはおかしなことである。

今年も咲いていたドラゴンドラの行く先の百合。
黄桃みたいな、バナナみたいな。
フジロックで撮った私たちの写真みたいな。



だってほらもう、それがそうなんだって

2013-07-25 00:31:33 | 日記
残すところ大量のピアスの行き場だけが決まらない。
あとはせっかく広くなったのに、誰か人が来てもくつろいで座るところがないのと、来客用の布団もない。
来客用の布団は使用頻度を考えると全然要らないのだけれども、でもできれば来訪者とは別で寝たいのは
来訪者側もそうであると思う。


連続して同じような内容の夢を見る。
それはもう全く無意識かというとそうではないけれど、もうほとんど意識が向けられていないような事柄。

夢に深層意識が出てくるのが本当だとしたら、それについての無意識な過剰意識が私の中にあることになる。
先日の、現実に戻っても心地よい夢とは打って変わって、なんだかそれは覚醒状態の私にとっては非常に心地悪いものだ。
現実の私の悲しいことの消化・浄化具合だとすると、余計悲しい。

夢にはいつも自分の形はない。
いつも誰か人が出てきて、それは知っている人も知らない人も、私に影響を与えてくる。
と言っても私はたぶんあまり夢を覚えている方ではないのだけれど。

幼い頃はどこかから落ちる夢やぐるぐると何か巨大なものに押しつぶされそうな夢をよく見たものだけれど、大人になってからはそういうことはほとんどない。
変わりに、私の夢には必ず人が出てくるようになった。

私の持つ明るさの反面のものが、その明るさを増すほどに色濃く影を落とす。
私はその反面のものが、真実なのか虚像なのか、とても冷静に考えることがある。
というか、反面のものだけでなく明るさとの幅の大きさというか、自分のいる位置というか。
結局のところ、自分の中だけの出来事だから、真実でも虚像でもいいのだけれども、それについて語りたがりな私がそれについて語る権利を持っているのだろうかと。

別に私はそれをにっちもさっちもいかない絶望を抱いている人間ではないけれど、目がくらむほどの明るさと引き換えのそれであるならば受け入れたいとさえ思う。

そんな心持ちのまま、WhateverのノエルギャラガーのソロバージョンをYouTubeで聴いているとまた泣きそうになる。

Whatever you do
Whatever you say
Yeah I know it's alright


私の人生、誰のせいにもしないけれど、私はこんなこと言ってくれる人はいなかった。
そういうものを私に言ってくれたのが、ひとつの、はじめての、私のロックンロールだった。

それは私の根源的で絶対的な不安定さの部分が成していて、その要素を含むものがどうやら私を揺さぶっているらしいということは確からしい。



ねえねえ

2013-07-23 23:13:33 | 日記
関わりのある誰かの誕生日について、私は昔からその日を忘れるということがほとんどなかった。
友人の誕生日をうっかり忘れてしまうという人の話を聞いて、なぜ忘れるのだろう、今日は何日だろうと一日一回くらいふと考えるときがあってその日にちと誰かの誕生日は自ずと思い出されるものではないのだろうか、と思っていた。
と、そう思っていたし、実際にそうだったのだけれど、最近うっかりすっかり、それを忘れてしまうのだ。
それも1人や2人ではなく。

その日付が過ぎた翌日に思い出すのであればまだよくて、大抵はとうに過ぎ去った頃に本人と会って思い出したりする。
たぶん、自分のことについて考えている時間が圧倒的に増えたのだと思う。
大事な人の誕生日は、自分の誕生日よりも意味深い、と思ってはいるものの。

仕事がどんなに忙しくても、私は結構暇をしていることが多かった。
「忙しい、忙しい」と口癖のように言う人を見て、そんなに忙しくないでしょう、と半ば蔑視すらしていたかもしれない。
アフター6があった頃、映画を見に行ったりDVDを観たり、お酒を飲んだりと自由に過ごしていはいたけれど、見たくもないテレビ番組を見たりそのまま寝てしまったりという時間の使い方をしていた。
もっと昔、学生の頃など、そういう暇な時間に私はほとんど身になる思考もせず腐っていたことが多々あった。
本当に、多々、あった。

ある程度暇であることは良しと正当化していたし、物質的に合理的な生活をしていた。
今思い出して寒気がするくらい、私は砂を噛んでいた。
食べ物でもない砂を、力いっぱい噛むことに必死だった。

自分のための良いものをひとつ手に入れてしまってから、やりたいことが格段に増えてしまって、仕事が忙しいことでその時間が取れないというまさに「忙しい」という状態が私に起こることになった。
慢性的時間不足。
ただ、それは時間ができたところでその不足感が充足されるかと言うと、おそらく全然そんなことはなくて、結局のところ私の心を満たす何かに触れるということは単純な拘束時間だけで解決しなかったのだと、時間ができたらそう思い知ることだろう。

日々がやり過ごすためだけにあるとしたら、本当の意味で私は死んでしまう。
というようなことを言う人の話を聞いて、以前私は「実際はそんなものではないだろう、穏やかに日々を過ごしていければいいではないか、休日がのんびり楽しかったらそれでいいではないか」とまたも失礼にも蔑視すらしていたかもしれないのだけれど、今は私が本当にやり過ごすだけでは死んでしまうと思っている。
今はあの時欲しかった休日の楽しさなんて、全然欲しくもない。

過去を美化することは得意だし、過去があって今があると思っているけれど、私は過去の自分と友達になりたいと思えない。

人の誕生日を忘れてしまうことから随分と飛躍してしまった。


マスキングテープを6000円分買った。
新居の窓から中が丸見えなのでそれをマスキングするための幅の大きいテープ。
カモ井加工紙のマスキングテープの世界観が私は大好きである。

落とした財布が諸々の手続きを終えて手元に戻ってきた。
財布が入った鞄は、ずっしり重たい。



幸福な侵入者

2013-07-22 22:32:02 | 日記
ようやく、床に物が散らばっている状況に終わりが見えて、物の位置が決まってきた。
やむを得ず暫定的に置くことになってしまったものもあるから、たぶんしばらくしたらまた大幅に模様替えをしているかもしれない。
あとはピアスの置き場である。
今まではずらっと飾るようにしてあったのだけど、既に色々とごちゃごちゃしているのでこれは見せない収納にしておきたいのだけれど、となると選ぶときに容易なように収納せねばならない。
100個くらい、対であるばらばらの小物はどのようにしまうのが最適なのだろう。

すりガラスだからカーテンは要らないかと思っていた窓があるが、網戸がないため外から丸見えになってしまう。
適当な布を探しに外に出て、いくつかの中の布の柄を音楽を止めて想像力を利かせてチョイスする。
布の柄だけで選んでしまうと、私はどうしても原色に近い色のものか、エキゾチックな柄に行ってしまうので、既に7割方完成している一角の家具と、その配色、全体イメージの中から選ぶ。
いくらその色と柄が好きでも、全体でそれっぽくならなかったらだめだ。
想像力というのはずっと、どんなことにおいても、なるべく先入観なしに鍛え続けないといけない。

洗濯バサミにようになっているフックで吊るす。
天井のライトが北欧風で、その布を吊るしたら北欧感が増した。
これについての私の想像力は、なかなかだった。

住民票を取得するべく、会社の定時に間に合うように早く家を出たのに、転出届がないと転入届けを提出できないことを知り、区をまたいで朝から自転車で移動する。
本来ならば住民票は今日やらなければならないことではないのだけれど、拾われた財布を受け取るのに新居の住民票が必要で、週末はフジロックであることを考えると今日行かなければならなかった。
ついでに銀行のキャッシュカード、クレジットカードの再発行手続きにも向かう。

お役所的手続きというのは、どのように考えれば面倒が減るだろうか。

ものすごく質感のある夢を見る。
過去にも何度か、質感のある夢を見たことがある。
それは、本当であればすごく恐ろしい内容なのだけれど、なぜだか怖くなくて、とても心地よくて私はその質感によく身を委ねていた。
透明でさらさらしていて、ふんわりと温かくて、ある晴れた秋の朝のような心持ち。

それにしてもあんなに質感があったのに、まったく持って夢であったことが今も信じられないほどに身体に残っている。
残り香ならぬ残り触。

夢は夢で、現実は現実。
しかし、夢も現実の一部であって、あの質感を体感するのが夢であるならその夢を現実に見たい。
夢が起きると消えてしまうのと、現実も移ろったり無くなったりすることは何が違うのだろう。

雲みたいに掴みどころがなくて、ふわふわで芯のない心で、ただそれがそれである質感を味わう。
言葉として記号化できるものは何もなくて、味も無くてただ心地よい質感だけ。
心が動く、感情が湧き出る、そういう興奮という快感とは違う、その存在すらも危うい心地よさ。
喜びともまた違う、ぼんやりした極めて薄いピンク色のような。

それが何か、わかるようでわからないようで。
得てしまっていいのかもわからない。

夢だったのだろうか。

振り向けなかった。