つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

要らないハムサンド

2012-09-26 14:13:04 | 日記
ずっと何年もアイシャドウを欠かさずに塗ってきた。
色が好きだから、緑やらピンクやらゴールドやらイエローやら、各色揃えていて毎日なんとなくの気分で瞼を塗っていた。
アイシャドウを塗らないと化粧をした気分にならなかった。

何がきっかけだったのか覚えていないが、私はアイシャドウを塗らなくなった。
ここ何か月かは友人の結婚式の2回だけだ。
ここ何日かは上がり過ぎたまつげパーマのせいで、アイラインすらも引いていない。
チークは元から持っていないし、1年ほど前に買ったシャネルの口紅もつけたのは3回くらいだろうか。

元から化粧直しの道具を持ち歩かない私だが、別に化粧に興味がないわけでも、会社にすっぴんで行くこともない。
ただ、あまり明確な記憶はないがたぶん、マニキュアを頻繁にするようになったり派手な色の服やバッグを持ったりするから、引き算しようと考えたのだろうと思う。
今アイシャドウを久しぶりに塗ってみると、なんだかとんでもなく化粧の濃い人のように思えてティッシュで拭って大方落とす。

まつ毛パーマくらいはするけれど、今の私にあるもので最善の状態だったらそれがいいのではないかと思う。

私は本当に自分のことを、自分的にも世間的にもまだ若いと思っているけれど、年を取ることは悪いことではないとも思っている。
老化することも、死ぬことですら悪いことではない。

確かに老化は生あるものみんなに起こる。
この世で絶対と言える数少ないことは死ぬことだ。

それに、手持ちの最善を保つことだって容易なことではない。
手持ちの最善が自分にとっての最善であるならば、それ以上の最善など存在しない。

足枷を外したい。
でもそれは他人が外してくれるものではない。
他人が好意で外すのを手伝ってくれたとしてもたぶん外れない。
無理やり引きちぎれそうなものでもない。
鍵もなければ強力なチェーンソーもない。
自分で外し方を見つけるか、それが錆びて朽ちて脆くなるまで待つか、どっちかでしかない。
もしかしたら、頑強な金属の足枷が気化して消えてしまうくらいの消滅の仕方でしかないのかもしれない。

帰り道、寒いので少しだけ自転車で徘徊して家に着いて、それまでも結構な音量で聴いているくせにもっと音量を上げてブルーハーツを聴く。
聴く、というよりは、頭を埋める、というようなそんな感じ。
ギターやらピアノやらドラムやらベースやら、あとヒロトとマーシーの声、時々河ちゃんの声。
頭の中だけでなく体中が彼らの創る音で満ちて、振動する。

イヤホンのまま床にへたり込んで、たぶんすごく漏れている音をふさぐように耳を覆う。
なにやら心配な状況のように一瞬思えるけれど、そんなことはどうでもよくなる。

ゆるさが欲しくて、朝はWeezerを流してみたり。



一番元気な幹の裏

2012-09-24 21:15:34 | 日記
雨が止むのを待って、外に出る。
七分袖の服とショートパンツでは寒すぎたけれど、もう戻るのも面倒だから吹きすさぶ風と小雨に打たれながら近所に出かける。

私が花や植物を家に頻繁に連れ帰るようになってから一番の驚き。
冬仕様のむくむくとした、青梗菜が白い産毛を纏ったようなそんな様相の葉っぱ。
花屋さんのその場で触れてみると、思わず声を上げてしまいそうなほどのびっくりな柔らかさ。
そして、もっとびっくり、ふんわりと温かい。
仔猫の頭蓋骨を撫でているような、柔らかなハラコのバッグに触れているような、ベルベットの布に包まれているような。

水滴がついたような薄い塩味のアイスプラントを初めて見たとき、初めて食べたときも衝撃的だった。
でも葉っぱの温度や水分を湛えた感じは、ちゃんと植物だった。
でもこれは到底葉っぱとは思えない質感で、温度がある。
産毛に覆われているだけで中の芯の葉っぱはちゃんと葉っぱなのかと思ったけれど、産毛と葉っぱの境目がわからないくらいに布みたいに柔らかい。

名前を4度も5度も見て覚えてきたはずなのに思い出せなくて、調べてみるとそんなに珍しいものではないらしい、ラムズイヤー、という。
なるほど、「子羊の耳」という意味の名前。

ここにもあった、うそみたいなほんと。
うそみたいなほんと、は面白くて、どきどきする。
現実的ファンタジー感。

子羊の耳には温かそうな赤とオレンジの脳、ではなくてケイトウを合わせて。
早すぎる冬仕様の花瓶。


グレイズ・アナトミー シーズン7
出ていることを知らなかった。
そしてレンタル事情が悪いわるいと言い続けて、家の近くにレンタルDVDのお店が出来ていることも知らなかった。
さほど安くもないので常連になるかはわからないが、暇つぶしとしてこの近さは本当にありがたい。

いつ観ても秀逸なドラマだなあと思う。
私は2時間の映画の最中に寝てしまって、また途中から観るということが3回に1回くらいはあるのだが、このドラマを観ていて途中で寝てしまったことはない。
寧ろ、次の回を観てしまって寝るのがとても遅くなってしまったことはある。
しばらくはおそらくブルーハーツとハイロウズのDVDは少し置いておいてこちらになるだろう。

“変化”こそ不変のものである。

素直なことは全部が全部いいことではない。
ありのままであることも飾らないことも、自分が本当らしいと思える自分でいることも、とても大事なことだけれど。
それがもし、表出されるのが愚痴や不平不満が8割を占めているのなら、そんなのが本当らしい自分であるはずはない。
甘えや弱さは、あって然るべきものだけれど、それの表出だけでは解決されない。

“自分史”は顔に出る、身体に出る。
対自分だってとても難しい、対他人だともっと難しい。

時々、全部を隅に追いやって思う。

いろんなことが思い通りになったらいいのになあ



雫ちゃん

2012-09-20 14:20:40 | 日記
もう涼しくなってくれてもいいやと、夏の終わりを嘆くのはやめようと、まだまだ暑いときに思っていたけれど、実際に涼しくなってしまうと途端に悲しくなる。
ソルダムももうスーパーを3軒はしごしても見当たらない。
やっぱりどんなに想像していたって構えていたって、その“今”の感情や生理現象にはかなわない。

花屋さんの前を通る。
花屋さんは独特な匂いがする。
花の香りというよりは、断ち切られた茎から発せられているような湿った植物の匂い。
スーパーの青果コーナーも似た種類の匂いがする。

アジサイがまた出てきているけれど、アジサイはこの季節にもまた花の季節があるのだろうか。
すぐ会社に戻らなければならないというのに、立ち止まって眺めて、手に取って。
持って帰ってもすぐに水に生けてあげることはできない、買ってはだめだ。

週末の楽しみにしようとなんとか思いとどまる。

『人生はビギナーズ』
『トレインスポッティング』

いつものようにDMMから、予約してあるリストのうち、貸出可能なものから送られてくるわけだけれど、全くもってリストに追加した記憶がない。
この二つの映画の共通点はユアン・マクレガー主演だということなのだが、もはやこれを借りた経緯が何一つ思い出せない。
ユアン・マクレガーが好きなわけでも特にない。
2作それぞれの監督が好きなわけでも別にない。
いつ予約したのかも覚えてないが、何を思っていたのだろう。


耐えるか、逃げるか。
逃げてもいい、逃げたらたぶん、良くも悪くも新しさというものが目くらましをしてくれる。
でも、逃げたところで、本質的に逃れられるかはわからない。
では耐えるかというと、それはそれで抜けたときは本当に抜けたということを意味する。

耐えるか、逃げるか。
なんとなく耐えると思っているうちは、逃げたくないということに同じだ。
それが意味するところは、限りなく他力本願なことだ。

その前のショック療法、みたいなものだろうか。



否定できないカナリア

2012-09-19 21:07:37 | 日記
幼い頃、稲妻を窓から見るのが好きだった。
稲妻が空を割って、遠くで轟き響いた音が分厚い曇り空を波打って伝っていく。
次第に近づいてきた雷は、光ると同時に巨大な何かが一瞬で弾けるように、爆発的な音を立てた。

家の隣の隣が中部電力で、避雷針が立っているから家の傍には落ちない、と祖父から教わっていた。
どんなに大きな音が鳴ろうとも、わくわくするだけで怖くはなかった。
そのうちに土砂降りになるのを見るのも好きだった。
夕立のあとの雨上がり、しっとりと涼しくなった庭に出るのも好きだった。

今の東京の狭い部屋のカーテンが光る。
窓の外は建物で、見上げる空はしゃがんでも両手に収まるくらいの大きさくらいしかなくて。
遠くから音は伝ってきたけれど、空を裂く稲妻は見えなかった。

あるところから回りまわって、ブルーハーツについて日本社会や宗教といったことに視点を置いて論じられた本を読んだ。
社会学・心理学・民俗学・宗教学などの学問をかじったジャーナリストが書いている。
私はこの本にブルーハーツのことが書かれていると知らずに買った。
メインテーマはJ-POPについてであり、ブルーハーツというかほぼ甲本ヒロトに焦点を当て、それはその一節としてある。
他には「サザンオールスターズ」や「スピッツ」「浜崎あゆみ」「B'z」といった80~90年代に流行った歌手やバンドが取り上げられていた。

ブルーハーツのメンバー、川ちゃんが幸福の科学の信者であることや梶くんが熱心な阿含宗であることは割と有名なことのようだし、音楽やアートへの猛烈な傾倒は一種の宗教的意味を持つことを認めるが、本当にいい気がしなかった。
反論しようと思えば突っ込みどころもなくはないが大方まあそうだろうといった内容にも関わらず、なんだかものすごい嫌悪感を抱いた。
物事を分析的に論じるとき、温度を抜いて、多少の小難しさを入れるのは別に普通のことだけれど。

かつて社会学を専攻し、様々な物事をカテゴライズして論じていたわけだけれど、その中でも私の興味は元々個にあった。
だから誰かの人生に興味があってライフコース論を取ったのだが、社会学で個に落としっぱなしの分析など意味を成さないから、それぞれの人生の物語を集約して社会風潮などと照らし合わせることもした。

今でも自分の人生の話や、だれかの人生の話はとても面白く興味深いと思う。
それと社会の関わり、在り様などもそうだ。

しかし私が感じた衝撃というのは、もっと感情的な響きであり、意図しない心のずっと奥の方のことだった。
便宜上一括りにして、ありがちな言葉で表現されたりすると、その大事な心のずっと奥の方を軽んじられているような気になってしまう。
個人的な体験というのは本人の中にしか真実がないから、その一番柔らかくて硬い部分についてはカテゴライズすべきではなくそれ単体として見るべきである。

だからブルーハーツが社会に与えたインパクトや社会現象を論じるのはいいけれど、ヒロト本人やそれが響いた誰か個人にフォーカスして社会や宗教と結び付けて論じるのは意味がない。

私もヒロトやマーシーのことを、たぶんこんな人間だろうと想像したり語ったりする。
でもそれをでき得る限り唯一のものとして見たいと思うし、一人のおそらく繊細な人間のことを尊敬して見たいと思う。

宗教的な意味での「救済」と酷似しているような現象がそこにあったとしても。

それにしても最近自分の中の猛獣がますます元気で、ちょっとだけ俯瞰視している私を出動させたりする。
そう、何度も思うが、たぶん放出が必要なんだと思う。



適当ということ

2012-09-18 14:02:54 | 日記
1週間に1度書道の教室に通っているわけだから、その近くのツタヤで7泊8日でDVDをレンタルするのはありではないかと、そんな至極当然のことを今さら発見したように思いついて上野のツタヤに意気揚揚と向かう。
旧作はいつでも7泊8日100円だし、準新作が5枚セット7泊8日で1,000円という安さ。
Huluなどが台頭してきている今、そうでもしないとわざわざ店頭に来てまたそれを返しに来ないといけない手間を取ってもらえないのだろう。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
「ツリーオブライフ」
「BIUTIFUL」
「マネーボール」
「モテキ」

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」以外はその場で適当に決めた。
洋画ばかりは疲れるからと、邦画ラブコメも入れてみる。

家に着いて、9月22日が祝日で書道の教室が休みだということと更には朝から予定があったことに気が付いて、平日に返しに行くのは億劫だしと、実質1日半で5本を観なければならなくなった。
やってみると意外に行けるもので、途中何度か寝ながら実際にはさらに短縮して24時間で5本を観きった。

休みの日に一日中家にいると決め込んで、5本くらい映画を観るというのもたまにはいい。
というか、なんだか少しの達成感と充実感があって、1か月に1度くらいはやりたい気分だ。
インプットすることが特に何にもならないことだって多いのだが、それでもしないよりはした方がいいように思えるし、というかそれより、心を揺さぶられたいのなら多少筋肉痛を起こすくらいに手を伸ばしていないと出会えるものにも出会えない。

「愛を読むひと」の監督スティーブン・ダルドリーの作品であることは後で知ったが、やはり5本の中では「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」が一番良かった。
9.11で父親を亡くした男の子と、その家族、またニューヨーク市に住む人々の話。

子どもは色んなことを知らないから、未知に立ち向かっていける。
でも子どもだって全くの怖いもの知らずなわけではなくて怖いものはストレスだし単純に怖い。
それに、あんなにパパが大好きで仕方のない子供がある日突然、しかも自分を責め続けてしまうような出来事を残して、失くしてしまったストレスとはどれほどのものだろう。
オスカーが振っていたタンバリンの音は、ものすごくうるさい自分の周囲をかき消すためのうるささであり自分を鼓舞するためのものでもある。

後に読んだレビューで、物語があれこれと都合良く出来過ぎているという批判が少々見られたが、映画の良さとはそういう点にも見出せるのではないかと思う。
完全なるファンタジーではなくあくまで現実社会に起こり得る内容で、でも現実にはそんなにうまくはいかないというプロット。
確かにそうかもしれないが、物語だから成せる、現実的ファンタジー感。

生と死、父と子、という点では「BIUTIFUL」も同じ内容であり、私がそんなものを積極的に観てしまうことも、案の定泣かされてしまうことも自分でしてやっていることだ。
泣かされることによって得られる安心感のようなものだって、なんだか少し卑怯なくらいに、あるのかもしれない。


しばらく実家にいた姪が予防注射を機にこちらに戻ってくるというので会いに行く。
丸々と大きくなった姪は、ますますその顔を私の2番目の兄の顔に似せてきた。
ゆすってあやすと、顔をほころばせて笑う。
まだこの世に降り立って3か月も経っていないけれど、この世にいることには慣れました、という感じがする。

人は人に大きな影響を与えるし、受ける。
人は人を変えられると思うけれど、「人が変わる」ということは、多岐さまざまな要因があろうが、自分の子どもによってのケースが最も多いのではないかという気さえする。
ここで言う「人が変わる」というのは、それまでの核を成していた人格が大きく変わる、細胞が入れ替わったように改心する、といった割と大げさな部類の変化だ。
もちろん、生涯を通してこのような人格再構築、みたいなことを経験しない人が多いことを前提に。
加えて、人格再構築、みたいなことの経験の有無は一概に良し悪しと言えないことも前提に。

大人が大人によって変わるとき、それは変わる側の人間の意志なくしてはあり得ない。
しかしながら、赤ちゃんや子供の無垢で明確な言葉を持たない存在によっての変化は大人が及ぼすそれよりももう少し優しくて全身に染み渡るようなものなのだと思う。

私のお腹の上で、顔をすりすりとして手足をばたばたさせる。
いもうとと私の声はとても似ているから、私をお母さんと勘違いしているかのように、安心と不思議の顔を交互にする。
1か月前と同じように、私のおっぱいに吸い付こうと口をぱくぱくさせる。

けいこはちびまる子ちゃんの踊るポンぽコリンやらサザエサンの歌やら、オーバーザレインボーのオルゴールに自作の「ピンクの豚のうた」やらを歌って初孫をあやしている。
子どもを産むことが偉い、なんて言われると私はまた卑屈になってしまいそうだけど、確実に赤ちゃんは私たち家族を柔和させた。

まだ私の心の中に蟠りみたいなものがあるとしたら、もうどうしようもなく、このあたりのことだ。
ものすごく客観的で冷静な自分の中にある芯の部分がやたらに熱を持っていて、芯のまわりがその熱で溶け出してくる。
それが驚くほどに単純で純粋で青臭くて子供らしくわがままな感情であることを知っていながら、自分が一番、それを認めてあげなければいけないとも思う。