つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

白シャツの笑顔

2014-03-30 22:10:48 | 日記
いつも読んでいる先生のブログに、Mさんが亡くなった、とあった。
Mさんとはたぶん、私も知っているMちゃんのこと。
大学3年生の頃の演習が一緒だったMちゃんだ。
小さくて、線が細くて、ケラケラ明るくよく喋る子だった。

私は、未だ知り合いの死がうまく受け止められない。
特に親しかったわけではないけれど、確かに顔見知りで、お葬式に呼ばれることもなければお線香をあげに行くこともないだろう。
しかしながら、Mちゃんが苦しかっただろうことも、この世からいなくなってしまったことも、私が悲しんでいいんだろうかと思うくらいに涙がこぼれたりする。
でもそれは、私の人の死に対するただのスイッチのようなものかもしれなくて、私はどう思えばいいのだろうと思ったりもする。

2年ほど前、新卒で勤めた会社の同期が亡くなったという知らせを受けたときもそうだった。
仕事中にその連絡を受けて一人狼狽えて、会社を出て、私は同期の一人に電話をかけて泣いていた。
その亡くなった同期と仲良しだった何人かは京都までお通夜やお葬式に出席していたけれど、私は行かなかった。

私は亡くなった彼らに対する愛情で泣いているわけではないことは、自分が一番よく知っている。
それが私の父親が死んでいることに深く関わっていることも分かっている。
間もなくMちゃんのことを考えることを忘れて、テレビを見て笑ったりすることも知っている。

私が自分の言葉で、人の死について何らかの理解ができるようになるまで、私は何も言えない。
「その人の分まで生きる」なんてことも、「もっとこうしてあげれば良かった」なんてことも、「心の中で生き続ける」なんてことも。
私が死について分かっているのは、「人は全員死ぬ」「死んだら絶対に戻らない」ということだけだ。

時間が経つと人の気持ちは変わっていく。
そういう意味ではどんな気持ちも信頼性がなくて疑わしい。
しかし、どんな地点の気持ちからも逃げてはいけなくて、その時の自分の気持ちは尊重してあげなければならない。

私はきっと、Mちゃんのことも自分のために泣いているのだと思うけれど、痛かったりしんどかったりしたMちゃんの体が全くの無痛で穏やかな場所にあるといいなと、それだけはクリアに願いたい。

どうか、やすらかに。





どうしてくれんだ

2014-03-29 16:07:24 | 日記
スタジオに行ったのは4回目だろうか。
と言っても、一回目は一つのコードを押さえるのさえもままならなくて、ギターを投げ捨て途中でそこにあったトランポリンみたいなものでヒロトの真似をしていたり、iPodをスピーカーに繋げて単純に爆音で音楽を聴くということをしていたけれど。

今回はドラムの友人は全くの初心者で、私はコードを何とか押さえることができるレベル、ベースの友人だけがまともに演奏できるというありさまのバンド風な集まり。
途中でギターも弾けるベースの友人にギターを譲って、“ロック風なギター”を適当にやってもらう。
私はそれだけで「きゃー」となる。

できる人に下手な人を付き合わせるのは悪いのだけれど、そういう人がいないと下手な人だけではどうやっても曲にならない。
アドバイスもくれ、曲の舵取りしてくれる人が必要なのだ。

よれよれのギターとドラムを支えてくれるベース。
前回はよれよれのギター2人を支えるドラムだった。

レンタルしたレスポールのギターは弦が張りが柔らかくて、いつもの私のものよりも弾くのが楽な感じがした。
でもやっぱり自分のギターでやらないと感じが出ないな、とか思ってみる。

ベースの友人はほぼ「適当に弾いている」と言っていた。
音楽的なセンスがある人というのは、ある程度の基礎知識もあるだろうが、それができる。
一方私はそういうものが一切ないので、理解から入らないと手も足も出せない。
もちろん頭の理解と体の運動は別物だから、それをくっつけるには練習するしかない。
まあいくら音楽的センスがある人でも練習あってこそだろうけれど。

私も一応簡単なコード理論やペンタトニックスケールについては学んだから、それの範囲内でやっていることは想像できる。
しかし「適当に弾いている」という感覚は、私にはたぶん一生味わえない。
私の目標到達点は、あるレベルにおいての“自在”を体得して“思い通り”にそれを表出できること、だ。

そういえばけいこは「適当に弾く」ということができる人だ。
ぜひその能力を私に与えてほしかった。
しかし、理論から入る側にはその理論が「分かった!」という理解到達点の喜びも味わえるので良しとしよう。

今回のテーマ曲は、ザ・ハイロウズ「日曜日よりの使者」、ウルフルズ「バンザイ」だった。
ドラム初心者の友人は、事前の段階で何度も「日曜日よりの使者」のことを「日曜日の使者」と言っていて、その度に私は違うよと言っていたのだが、挙句スタジオ帰りの電車で「日曜日の使者たち」と言っていて、どうにも可笑しくてもういいやと思った。

プールから上がったあとのような特有の脱力感を引っさげて3人で居酒屋に入る。
やっていることがまるで高校生や大学生のようで、面白い。
その上私は、高校生や大学生のようなことを本気で言う。

駅からの帰り道、また久しぶりに吐ききれない思いを蹴散らしに自転車で走る。
体からそれが少し抜けるまで今回はとても時間がかかって、結局小一時間くらい平坦な道を選んでぐるぐると走っていた。
六義園の暗くて真っ黒の巨木がざわめいて、天気の分からない闇空を見上げながら、それが全然怖くないことが不思議に思えた。

別に笑われてもいい。
そうとしか思えないことを、自分が曲げる必要はない。


百人一首の授業が始まった。





成長と舌打ち

2014-03-28 04:49:51 | 日記
さて、またこれも超今さらに「あまちゃん」をレンタルして観ている。
去年「じぇじぇじぇ」が流行っている頃、あまちゃんという朝ドラで東北弁で驚いたときに使われる言葉、というのは認識はあったけれども、初めて本物を聞いた。

ちなみに同時期に流行っていた「半沢直樹」も最終回しか観ておらず「倍返し」がどういうシーンで使われるのか知らなかった。
しかしあれは最終回だけでも十分お腹いっぱいになれた感じはした。

「あまちゃん」がなぜ流行っていたのかなど言い尽くされているだろうから特に何もないけれど、私はNHKの朝ドラでいうと「カーネーション」の方が好きだなと思う。
しかしNHKドラマは「どうしようもない家族愛」みたいなものを真っ向から描くので、途中途中で私は涙が出てしまうことがある。

それにしてもキョンキョンは、家庭に疲れて擦れたお母さん役が多い気がする。
思い当たるだけでも「空中庭園」「トウキョウソナタ」「毎日かあさん」そして「あまちゃん」
「贖罪」はちょっと内容は異なるがこれもお母さん役で出ていた。

私はキョンキョンがアイドルだった頃をほとんど知らないので良いが、その時にファンだった人はどのような気持ちで観るのだろうか。
私には彼女は、昔読んだ「小泉今日子の半径100m」のエッセイの記憶もあって、「戦いながら、自分を歩んでいる人」というふうに見えているので、どんな感じで出ていてもあまり違和感はない。


月に2回来る花の定期便で、冬は2週間では切り花は枯れないので部屋が花だらけになっていく。
いきいきした瑞々しい新しい花も、朽ちかけの花も、どちらにも愛おしさがある。

今回届いた花には薄紅色のラナンキュラスが入っていて、先日の菜の花に加えて、部屋にまた春がプラスされた。
たくさんの葉を落としていたパキラも少し元気が戻ってきた。
お米の研ぎ汁をあげて、たくさん芽吹けよと声をかける。


あることに焚きつけられて、「ミサイルマン」のイントロを耳コピしてみる。
耳コピというか、途中からまたYouTubeの誰かの演奏でフレットの位置をざっくり確認しつつ。
あんなに指は早く動かないのだけれど、ちょっとだけでもできるとぎゅうっとなるほど嬉しい。



不死身のエレキマン。

ヒロトはずっとずっとこういうことを言っている。
ガキンチョ騙すためだけにこんなことは言えないと思う。
きっと自分に向けられているから、ヒロトが歌うと切なくなる。
と、私は思っている。





PとかDとか

2014-03-25 19:18:12 | 日記
IHクッキングヒーターは電子レンジと似たような仕組みで分子を振動させる摩擦熱で物を温める、ということを聞いたことがある。
IHクッキングヒーターは鉄などの金属でないと熱が伝わらない仕組みになっているのだと思うけれど、果たして人間の皮膚には熱が伝わるのだろうか。
もしそうだとすると、血液など分子が振動して摩擦熱で人間も温まってしまう、というか原子力のように細胞が破壊されたりしないのだろうか。

と、ふと恐怖に思った。
まあ家庭用のものにそんな危険が孕んでいるわけがないと思うし、不意に電気が入っているIHクッキングヒーターに触れてしまうことだってあるわけだから、そんなものが商品化されるわけがない。

でも恐ろしいので実験はせずに調べてみると、「人間は電気抵抗が高く(ゆえに皮膚に磁石はくっつかない)、発熱することはない。しかし超微弱電流は流れ、免疫機構やホルモンバランスなどに影響をもたらすことで、がんや白血病などを引き起こす危険があるとされています。」ということらしい。
それがどの程度の信憑性かは置いておいて、だとしたら怖い。

私は子どものときに、包丁って本当に切れるのか、ということを薄暗い台所で自らの親指を使って試したことがある。
恐る恐る包丁の刃に親指をあてて少しずつ力を入れてみる。
包丁は「押しても切れない、引くと切れる」ということを、私は身を持って体験したのだった。

あのときの、キュィツという音なのか感覚なのか、次の瞬間少しの痛みと血が溢れ出てきたいう身の毛のよだつ経験は今でも鮮明に思い出せる。

このとき、IHクッキングヒーターがあって、「人間には電気は通らないからあったまらないよ」と誰かに教わっていたとしたら、それは本当なのかなと確かめたくなってしまうような気がする。


なんだか気力が萎えている。
本当のようなことを言う人は言うことは、いつも本当ではないかもしれない。

菜の花畑でも行きたい。


今日のは書道教室の毎月の課題。
このサイズを撮ろうとするとぶれずにはいられない。





ゆるやかな毒と的外れの目線

2014-03-23 18:11:46 | 日記
あのくらいのお酒の量だったら大した二日酔いにはならないのだなとほっとして、起き抜けに猛烈に掃除を始める。
私にとって部屋の掃除をするのは一種の儀式的行為で、これをすればとても高い確率で気分まですっきりできる。
いつも水拭きに使う精油のイランイランは、「掃除ですっきりした気分にさせる」という、もうある種のシグナルのような役割を成している。

掃除と洗濯はセットで行うことが多い。
一気にすっきりしたい、となるので、ベッドシーツの大物も洗濯機に放り込む。
おじいちゃんの寝巻の匂いの柔軟剤を入れて。

つい一昨日くらいに花粉症の症状があまりにも軽い、ということを書いたが、それをいいことにマスクなしで外出したら見事に発症した。
粘膜全体がやられている、皮膚もかゆい。

良い天気なのと、掃除と洗濯ですっきり度合いが高いので、マスクをして出かける。

自転車を走らせて5分、小石川植物園。

かれこれ5度目くらいだろうか。
植物は動いているので何度来ても飽きない。
私はこの都心の忘れ去られた森のような場所に来るたびに、この地に引っ越して本当に良かったと改めて何度も思う。

春を目の前に、生命力は溢れ出ていて、ぱんぱんの蕾やあどけない新緑、既に艶やかなピンク色の早咲き桜を見て写真を撮って回る。

以前真冬に写真に撮った青々とした植物が、見るも無残に朽ちた枯葉になっていてびっくりする。
いつ咲いたのかわからないアジサイが、形そのままに水分と色を完全に抜き取って化石化している。
かと思えば、今年の積雪をものともせずに常緑を保っている大木もある。

色が好き。
花が好き。
植物が好き。
空が好き。

花は以前のように狂ったように愛おしく思うことは残念ながらなくなってしまったけれど、それでも変わらない思い。
とてもたくさんの人が自然を愛しているように、私も自然をとても愛している。
そして、都会も愛している。

アクセスのしづらい場所だから大丈夫だとは思うけれど、この場所が人気にならないといいなと願ったりする。
近くにある六義園は季節が良いと行列で入れないくらいなのであのようになるのだけはやめてほしい。
しかし少しくらい人気が出たとしても、今の私は平日にも気が向けば行けてしまうわけだから、まばらな人の植物園をずっと満喫できるだろう。

帰り道、あろうことか、また迷う。

あの辺りはとても密集した住宅街で、細い路地を入っていくと行き止まりのことが多々ある。
また家に帰るにはどの道を通っても急な上り坂を上らなくてはならない。

適当に帰ろうとして、車の通れない急坂の細道を自転車で上って行くとそこから抜けられない。
3つくらいのハズレの急坂を上ってしまって、自転車で急な下り坂を下ることを楽しむために上っている人、のようになってしまった。
最終的に出た大通りは見知った場所だったけれど、随分と遠くまで来ていた。

自動販売機でポンジュースを買う。
そしたらそれは炭酸飲料で、私の求めていた濃いみかんジュースではなかった。


いつか書きたいと詞を書き出してあった「My Revolution」
昨日の居酒屋で流れていたので思い出して書いてみる。
英語が多いので横書きにしかできなかった。

とてもとても素敵な詞。

昼の明るい時間帯に書けば影を入れずに写真が撮れるのかもしれない。