いつも読んでいる先生のブログに、Mさんが亡くなった、とあった。
Mさんとはたぶん、私も知っているMちゃんのこと。
大学3年生の頃の演習が一緒だったMちゃんだ。
小さくて、線が細くて、ケラケラ明るくよく喋る子だった。
私は、未だ知り合いの死がうまく受け止められない。
特に親しかったわけではないけれど、確かに顔見知りで、お葬式に呼ばれることもなければお線香をあげに行くこともないだろう。
しかしながら、Mちゃんが苦しかっただろうことも、この世からいなくなってしまったことも、私が悲しんでいいんだろうかと思うくらいに涙がこぼれたりする。
でもそれは、私の人の死に対するただのスイッチのようなものかもしれなくて、私はどう思えばいいのだろうと思ったりもする。
2年ほど前、新卒で勤めた会社の同期が亡くなったという知らせを受けたときもそうだった。
仕事中にその連絡を受けて一人狼狽えて、会社を出て、私は同期の一人に電話をかけて泣いていた。
その亡くなった同期と仲良しだった何人かは京都までお通夜やお葬式に出席していたけれど、私は行かなかった。
私は亡くなった彼らに対する愛情で泣いているわけではないことは、自分が一番よく知っている。
それが私の父親が死んでいることに深く関わっていることも分かっている。
間もなくMちゃんのことを考えることを忘れて、テレビを見て笑ったりすることも知っている。
私が自分の言葉で、人の死について何らかの理解ができるようになるまで、私は何も言えない。
「その人の分まで生きる」なんてことも、「もっとこうしてあげれば良かった」なんてことも、「心の中で生き続ける」なんてことも。
私が死について分かっているのは、「人は全員死ぬ」「死んだら絶対に戻らない」ということだけだ。
時間が経つと人の気持ちは変わっていく。
そういう意味ではどんな気持ちも信頼性がなくて疑わしい。
しかし、どんな地点の気持ちからも逃げてはいけなくて、その時の自分の気持ちは尊重してあげなければならない。
私はきっと、Mちゃんのことも自分のために泣いているのだと思うけれど、痛かったりしんどかったりしたMちゃんの体が全くの無痛で穏やかな場所にあるといいなと、それだけはクリアに願いたい。
どうか、やすらかに。

Mさんとはたぶん、私も知っているMちゃんのこと。
大学3年生の頃の演習が一緒だったMちゃんだ。
小さくて、線が細くて、ケラケラ明るくよく喋る子だった。
私は、未だ知り合いの死がうまく受け止められない。
特に親しかったわけではないけれど、確かに顔見知りで、お葬式に呼ばれることもなければお線香をあげに行くこともないだろう。
しかしながら、Mちゃんが苦しかっただろうことも、この世からいなくなってしまったことも、私が悲しんでいいんだろうかと思うくらいに涙がこぼれたりする。
でもそれは、私の人の死に対するただのスイッチのようなものかもしれなくて、私はどう思えばいいのだろうと思ったりもする。
2年ほど前、新卒で勤めた会社の同期が亡くなったという知らせを受けたときもそうだった。
仕事中にその連絡を受けて一人狼狽えて、会社を出て、私は同期の一人に電話をかけて泣いていた。
その亡くなった同期と仲良しだった何人かは京都までお通夜やお葬式に出席していたけれど、私は行かなかった。
私は亡くなった彼らに対する愛情で泣いているわけではないことは、自分が一番よく知っている。
それが私の父親が死んでいることに深く関わっていることも分かっている。
間もなくMちゃんのことを考えることを忘れて、テレビを見て笑ったりすることも知っている。
私が自分の言葉で、人の死について何らかの理解ができるようになるまで、私は何も言えない。
「その人の分まで生きる」なんてことも、「もっとこうしてあげれば良かった」なんてことも、「心の中で生き続ける」なんてことも。
私が死について分かっているのは、「人は全員死ぬ」「死んだら絶対に戻らない」ということだけだ。
時間が経つと人の気持ちは変わっていく。
そういう意味ではどんな気持ちも信頼性がなくて疑わしい。
しかし、どんな地点の気持ちからも逃げてはいけなくて、その時の自分の気持ちは尊重してあげなければならない。
私はきっと、Mちゃんのことも自分のために泣いているのだと思うけれど、痛かったりしんどかったりしたMちゃんの体が全くの無痛で穏やかな場所にあるといいなと、それだけはクリアに願いたい。
どうか、やすらかに。

