句会仲間から借りた「あかぼし俳句帖」
俳句には少し慣れた感もあるけれど、当たり前だけれど、全然何にも分かってなかったのだ、ということがよく分かった。
書道でも音楽でもなんでもそうだけれど、やはりそれにどれだけの敬意を払えるかによって、創り方も味わい方も歴然の差が生じてくる。
それは初心者やそれをやらない人には分かりようもない、愉しみ、と言えるもの。
やっている人にしかわからない、突っ込んでいる人にしかわからない、そんな領域が間違いなく存在することを教えてくれた。
もちろん、初心者が何か文化的なことをやってはいけないなんてこともなければ、敷居が高いからそれなりの覚悟で踏み入るべきだなどと言うつもりはない。
そもそも、全員が初心者から始まる。
当然、小難しいことは抜きにして「創りたいように創ればいい」「感じたように味わえばいい」、それも分かるしそれも本当だ。
しかしその道を志す者は、ただ楽しむということに終わらず、道が果てしないことに打ちのめされ、何度も自分はダメだと思い知ることになる。
それでも、飽くなき探求心と愛情をもって進んでいく。
その上で、「創りたいものを創る」「感じたように味わう」。
俳句そのものの成り立ち、歴史、季語の意味、季語があるということ、俳句的技法、語彙の量、言葉の選択と組み合わせ、それらの圧倒的な土台があってこそ格調高い良い句を創れる可能性を高めることができる。
知り過ぎて囚われ狭まる、という領域もあるだろうが、そうなれたらかなり俳句道を行っていることを誇ってもいいように思う。
俳句は、五七五の極めて少ない言葉の世界だから、多くを知っていることは真っ当な読み手になり得るということでもある。
句会に出ていても知らない言葉がたくさんあって、家に帰って意味を調べて読み返すと、なんて良い句だ、なんてこともあるわけであって。
そんなときには俳句に謝りたい気分にもなるものである。
その道にいるとその道にいない大勢に理解は得難い。
その奥に秘められた“良さ”は、大勢の軟弱な土台ゆえに置き去りにされたまま葬られてしまうのである。
しかし一方で、本当に“良いもの”というのは何が何でも伝わるのかもしれない、とも思う。
これはおそらく、そうである、そう信じたい。
となれば、作り手の技量及ばず、ということも言える。
いやしかし、やはりその道にいることというのは尊く、そんな創作物にはいつだって頭が下がると、この漫画を読んで思い知った。
ほとんどの人は、「あの線のかすれが泣かせる」とか「あそこであの音とは何て示唆に富んでいるのだ」などとは思わない。
別に全然思う必要もない。
でも少し、その奥行きのような何かだけでも感じて、作り手本人というよりかは、その文化に少しでも敬意を払う心が芽生えたのならそれでも十分だと思う。
「ニッチな文化の展示会には“チャーハン”を置け」ということをいつかどこかで見たけれど、確かに多くの人に理解を求めたかったり、一緒にそれをする仲間が欲しかったりする場合には“チャーハン”的何かが必要なのだと思う。
これは私がもっと俳句に突っ込みたいという話ではなくて、多くのことに通ずるなという話である。
あと俳句に対して、ごめんなさい、という気分になったという話でもある。
ついでに書道についても、ごめんなさい、という気分でもある。
そして終わりなく、まだまだ、なのである。
天窓にすき間ちょうどの望月かな
俳句には少し慣れた感もあるけれど、当たり前だけれど、全然何にも分かってなかったのだ、ということがよく分かった。
書道でも音楽でもなんでもそうだけれど、やはりそれにどれだけの敬意を払えるかによって、創り方も味わい方も歴然の差が生じてくる。
それは初心者やそれをやらない人には分かりようもない、愉しみ、と言えるもの。
やっている人にしかわからない、突っ込んでいる人にしかわからない、そんな領域が間違いなく存在することを教えてくれた。
もちろん、初心者が何か文化的なことをやってはいけないなんてこともなければ、敷居が高いからそれなりの覚悟で踏み入るべきだなどと言うつもりはない。
そもそも、全員が初心者から始まる。
当然、小難しいことは抜きにして「創りたいように創ればいい」「感じたように味わえばいい」、それも分かるしそれも本当だ。
しかしその道を志す者は、ただ楽しむということに終わらず、道が果てしないことに打ちのめされ、何度も自分はダメだと思い知ることになる。
それでも、飽くなき探求心と愛情をもって進んでいく。
その上で、「創りたいものを創る」「感じたように味わう」。
俳句そのものの成り立ち、歴史、季語の意味、季語があるということ、俳句的技法、語彙の量、言葉の選択と組み合わせ、それらの圧倒的な土台があってこそ格調高い良い句を創れる可能性を高めることができる。
知り過ぎて囚われ狭まる、という領域もあるだろうが、そうなれたらかなり俳句道を行っていることを誇ってもいいように思う。
俳句は、五七五の極めて少ない言葉の世界だから、多くを知っていることは真っ当な読み手になり得るということでもある。
句会に出ていても知らない言葉がたくさんあって、家に帰って意味を調べて読み返すと、なんて良い句だ、なんてこともあるわけであって。
そんなときには俳句に謝りたい気分にもなるものである。
その道にいるとその道にいない大勢に理解は得難い。
その奥に秘められた“良さ”は、大勢の軟弱な土台ゆえに置き去りにされたまま葬られてしまうのである。
しかし一方で、本当に“良いもの”というのは何が何でも伝わるのかもしれない、とも思う。
これはおそらく、そうである、そう信じたい。
となれば、作り手の技量及ばず、ということも言える。
いやしかし、やはりその道にいることというのは尊く、そんな創作物にはいつだって頭が下がると、この漫画を読んで思い知った。
ほとんどの人は、「あの線のかすれが泣かせる」とか「あそこであの音とは何て示唆に富んでいるのだ」などとは思わない。
別に全然思う必要もない。
でも少し、その奥行きのような何かだけでも感じて、作り手本人というよりかは、その文化に少しでも敬意を払う心が芽生えたのならそれでも十分だと思う。
「ニッチな文化の展示会には“チャーハン”を置け」ということをいつかどこかで見たけれど、確かに多くの人に理解を求めたかったり、一緒にそれをする仲間が欲しかったりする場合には“チャーハン”的何かが必要なのだと思う。
これは私がもっと俳句に突っ込みたいという話ではなくて、多くのことに通ずるなという話である。
あと俳句に対して、ごめんなさい、という気分になったという話でもある。
ついでに書道についても、ごめんなさい、という気分でもある。
そして終わりなく、まだまだ、なのである。
天窓にすき間ちょうどの望月かな