先週末、家には全然いなかったから掃除をする暇がなかった。
といっても1時間も掃除するほどの広さは全くないので、暇がなかったというのは少々違うわけだが、私はいつも週末にまとめて掃除をする習慣があって、平日に掃除する気があまり起こらない。
ちなみに、洗濯は平日でも割とこまめにする。
2週間分の汚れを溜めてしまって、何だか部屋が荒れている。
何となく荒れていると、さらに荒らしてしまおうという気が働くので、その日にしていたストールやら、宅配された段ボールやら、コンビニの袋やらが散乱することになる。
使ったコップが流しにあっても、洗濯物が干しっぱなしでも、とりあえずそのままでいいか、という風に雑然が積み重なっていく。
これもいつも週末にするマニキュアも剥げてしまって、でも剥げたマニキュアも、がんばって塗り直そうという気が起こらない。
歯止めをと朝から、いつもの一連の掃除をする。
洗えるものを洗濯機に入るだけ洗う、物を所定位置に戻し、床をドライシートで一通り、要らないタオルを切って水に濡らし拭けるところを拭き、そのタオルで床を水拭き、そのタオルを洗って精油を垂らしてもう一度床を水拭き、そのまま玄関とベランダを拭けるだけ拭いてそれを捨てる、トイレをブラッシングして拭いて、お風呂の排水溝の髪の毛を取って、気が向けば風呂場の床や壁を洗い、シンクを磨く。
綺麗でいることは、やっぱり気持ちの良いことなのだ。
ラベンダーの香りが薄く漂って、これでやっと一息。
とは言え、私は普段から部屋はそれなりに綺麗にしていて、本物の片づけられない人が私の部屋の荒れている状態をみてもさして荒れているとは思わないと思う。
片づけられないけいこの下で育った私は、片づけ上手なのである。
物のしまう場所もたいていの物は所定位置を持っているし、全てを片付けたあとには、一定の景色ができるようになっている。
先々週に買ったフリージアは萎んでくたんとうな垂れているものが増えた。
散らすでもなく、朽ちるでもなく、水分を失って枯れるタイプの花びら。
枯れてなお色を保っているので、もう少しこのまま見ておくことにする。
手作りの押し花のiPhoneカバーを友人から勧められて、やってみようかと思っている。
iPhoneは裸派だけれども、そんなこだわり、花の前ではあえなく散り去るだろう。
「深夜食堂」
ある方から勧められて、観たいと思いつつ数ヶ月も経過してやっと借りて観ている。
なんだか凪状態の今の私に、ちょうどよいテンポの味わい深いドラマである。
食い入るように観るというわけではないけれど、一つひとつの所作や表情、台詞の言い回し、それぞれのキャラクターの作りがとても丁寧で、片手間でもストーリーは追えるけれどこれは絶対に腰を据えて観るべきドラマである。
一話ずつある登場人物の人生の大事な一幕が描かれるわけだが、あくまでこの深夜食堂を軸にしているので話を突き詰めるほどのところまでは描かれない。
エッセンスを軽やかに、これまたとても丁寧な料理と一緒に映し出す。
このドラマのフードコーディネーターをしている飯島奈美さんは、私はほぼ日を通して知っていた。
ほぼ日のサイトで読んで、私はトーストの焼き方が変わった。
そういえば、「かもめ食堂」の料理も彼女の監修だと思うが、彼女の“面倒なところをきちんとする”料理はどれも画面から湯気と一緒に匂いまで伝わってきそうなほどの鮮やかな臨場感がある。
そう思っても、自分のための食事に手間をかけられない私ではあるけれど。
展覧会の作品は、やはり「情熱の薔薇」に決まった。
先生は、「これよ、絶対これね」と4枚書いていったのを一瞥して5秒ほどで決めた。
まあ私もそう思っていたからよかった。
書いていて思うけれど、やはり自分に入ってくるものを書くのはそうでないものを書くのと全然違う。
書作として、技法を駆使するのもそれはそれで面白い。
紙の上で実験したり遊んだりもできる。
しかし、思いが強いものを書くのは、思いの方に気が行ってしまうので、「私」が強く表れてしまう。
明らかな技量不足や「私」の域を出ない作品というのは、書作として面白みに欠ける、というか「私」過ぎて少し気持ち悪い。
「私」過ぎて良いのだ、と思っていたのだが、それだけではダメなのだなあと思い、行き詰まるのである。
といっても1時間も掃除するほどの広さは全くないので、暇がなかったというのは少々違うわけだが、私はいつも週末にまとめて掃除をする習慣があって、平日に掃除する気があまり起こらない。
ちなみに、洗濯は平日でも割とこまめにする。
2週間分の汚れを溜めてしまって、何だか部屋が荒れている。
何となく荒れていると、さらに荒らしてしまおうという気が働くので、その日にしていたストールやら、宅配された段ボールやら、コンビニの袋やらが散乱することになる。
使ったコップが流しにあっても、洗濯物が干しっぱなしでも、とりあえずそのままでいいか、という風に雑然が積み重なっていく。
これもいつも週末にするマニキュアも剥げてしまって、でも剥げたマニキュアも、がんばって塗り直そうという気が起こらない。
歯止めをと朝から、いつもの一連の掃除をする。
洗えるものを洗濯機に入るだけ洗う、物を所定位置に戻し、床をドライシートで一通り、要らないタオルを切って水に濡らし拭けるところを拭き、そのタオルで床を水拭き、そのタオルを洗って精油を垂らしてもう一度床を水拭き、そのまま玄関とベランダを拭けるだけ拭いてそれを捨てる、トイレをブラッシングして拭いて、お風呂の排水溝の髪の毛を取って、気が向けば風呂場の床や壁を洗い、シンクを磨く。
綺麗でいることは、やっぱり気持ちの良いことなのだ。
ラベンダーの香りが薄く漂って、これでやっと一息。
とは言え、私は普段から部屋はそれなりに綺麗にしていて、本物の片づけられない人が私の部屋の荒れている状態をみてもさして荒れているとは思わないと思う。
片づけられないけいこの下で育った私は、片づけ上手なのである。
物のしまう場所もたいていの物は所定位置を持っているし、全てを片付けたあとには、一定の景色ができるようになっている。
先々週に買ったフリージアは萎んでくたんとうな垂れているものが増えた。
散らすでもなく、朽ちるでもなく、水分を失って枯れるタイプの花びら。
枯れてなお色を保っているので、もう少しこのまま見ておくことにする。
手作りの押し花のiPhoneカバーを友人から勧められて、やってみようかと思っている。
iPhoneは裸派だけれども、そんなこだわり、花の前ではあえなく散り去るだろう。
「深夜食堂」
ある方から勧められて、観たいと思いつつ数ヶ月も経過してやっと借りて観ている。
なんだか凪状態の今の私に、ちょうどよいテンポの味わい深いドラマである。
食い入るように観るというわけではないけれど、一つひとつの所作や表情、台詞の言い回し、それぞれのキャラクターの作りがとても丁寧で、片手間でもストーリーは追えるけれどこれは絶対に腰を据えて観るべきドラマである。
一話ずつある登場人物の人生の大事な一幕が描かれるわけだが、あくまでこの深夜食堂を軸にしているので話を突き詰めるほどのところまでは描かれない。
エッセンスを軽やかに、これまたとても丁寧な料理と一緒に映し出す。
このドラマのフードコーディネーターをしている飯島奈美さんは、私はほぼ日を通して知っていた。
ほぼ日のサイトで読んで、私はトーストの焼き方が変わった。
そういえば、「かもめ食堂」の料理も彼女の監修だと思うが、彼女の“面倒なところをきちんとする”料理はどれも画面から湯気と一緒に匂いまで伝わってきそうなほどの鮮やかな臨場感がある。
そう思っても、自分のための食事に手間をかけられない私ではあるけれど。
展覧会の作品は、やはり「情熱の薔薇」に決まった。
先生は、「これよ、絶対これね」と4枚書いていったのを一瞥して5秒ほどで決めた。
まあ私もそう思っていたからよかった。
書いていて思うけれど、やはり自分に入ってくるものを書くのはそうでないものを書くのと全然違う。
書作として、技法を駆使するのもそれはそれで面白い。
紙の上で実験したり遊んだりもできる。
しかし、思いが強いものを書くのは、思いの方に気が行ってしまうので、「私」が強く表れてしまう。
明らかな技量不足や「私」の域を出ない作品というのは、書作として面白みに欠ける、というか「私」過ぎて少し気持ち悪い。
「私」過ぎて良いのだ、と思っていたのだが、それだけではダメなのだなあと思い、行き詰まるのである。
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