つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

二軍ザクラ

2013-03-31 12:41:24 | 日記
先週末、家には全然いなかったから掃除をする暇がなかった。
といっても1時間も掃除するほどの広さは全くないので、暇がなかったというのは少々違うわけだが、私はいつも週末にまとめて掃除をする習慣があって、平日に掃除する気があまり起こらない。
ちなみに、洗濯は平日でも割とこまめにする。

2週間分の汚れを溜めてしまって、何だか部屋が荒れている。
何となく荒れていると、さらに荒らしてしまおうという気が働くので、その日にしていたストールやら、宅配された段ボールやら、コンビニの袋やらが散乱することになる。
使ったコップが流しにあっても、洗濯物が干しっぱなしでも、とりあえずそのままでいいか、という風に雑然が積み重なっていく。
これもいつも週末にするマニキュアも剥げてしまって、でも剥げたマニキュアも、がんばって塗り直そうという気が起こらない。

歯止めをと朝から、いつもの一連の掃除をする。
洗えるものを洗濯機に入るだけ洗う、物を所定位置に戻し、床をドライシートで一通り、要らないタオルを切って水に濡らし拭けるところを拭き、そのタオルで床を水拭き、そのタオルを洗って精油を垂らしてもう一度床を水拭き、そのまま玄関とベランダを拭けるだけ拭いてそれを捨てる、トイレをブラッシングして拭いて、お風呂の排水溝の髪の毛を取って、気が向けば風呂場の床や壁を洗い、シンクを磨く。

綺麗でいることは、やっぱり気持ちの良いことなのだ。
ラベンダーの香りが薄く漂って、これでやっと一息。

とは言え、私は普段から部屋はそれなりに綺麗にしていて、本物の片づけられない人が私の部屋の荒れている状態をみてもさして荒れているとは思わないと思う。
片づけられないけいこの下で育った私は、片づけ上手なのである。
物のしまう場所もたいていの物は所定位置を持っているし、全てを片付けたあとには、一定の景色ができるようになっている。

先々週に買ったフリージアは萎んでくたんとうな垂れているものが増えた。
散らすでもなく、朽ちるでもなく、水分を失って枯れるタイプの花びら。
枯れてなお色を保っているので、もう少しこのまま見ておくことにする。

手作りの押し花のiPhoneカバーを友人から勧められて、やってみようかと思っている。
iPhoneは裸派だけれども、そんなこだわり、花の前ではあえなく散り去るだろう。

「深夜食堂」
ある方から勧められて、観たいと思いつつ数ヶ月も経過してやっと借りて観ている。
なんだか凪状態の今の私に、ちょうどよいテンポの味わい深いドラマである。
食い入るように観るというわけではないけれど、一つひとつの所作や表情、台詞の言い回し、それぞれのキャラクターの作りがとても丁寧で、片手間でもストーリーは追えるけれどこれは絶対に腰を据えて観るべきドラマである。

一話ずつある登場人物の人生の大事な一幕が描かれるわけだが、あくまでこの深夜食堂を軸にしているので話を突き詰めるほどのところまでは描かれない。
エッセンスを軽やかに、これまたとても丁寧な料理と一緒に映し出す。

このドラマのフードコーディネーターをしている飯島奈美さんは、私はほぼ日を通して知っていた。
ほぼ日のサイトで読んで、私はトーストの焼き方が変わった。
そういえば、「かもめ食堂」の料理も彼女の監修だと思うが、彼女の“面倒なところをきちんとする”料理はどれも画面から湯気と一緒に匂いまで伝わってきそうなほどの鮮やかな臨場感がある。

そう思っても、自分のための食事に手間をかけられない私ではあるけれど。

展覧会の作品は、やはり「情熱の薔薇」に決まった。
先生は、「これよ、絶対これね」と4枚書いていったのを一瞥して5秒ほどで決めた。
まあ私もそう思っていたからよかった。
書いていて思うけれど、やはり自分に入ってくるものを書くのはそうでないものを書くのと全然違う。

書作として、技法を駆使するのもそれはそれで面白い。
紙の上で実験したり遊んだりもできる。
しかし、思いが強いものを書くのは、思いの方に気が行ってしまうので、「私」が強く表れてしまう。
明らかな技量不足や「私」の域を出ない作品というのは、書作として面白みに欠ける、というか「私」過ぎて少し気持ち悪い。
「私」過ぎて良いのだ、と思っていたのだが、それだけではダメなのだなあと思い、行き詰まるのである。



タウンページを持って帰ろう

2013-03-27 14:22:20 | 日記
感動を呼ぶ椅子に初めて座ったのは2年くらい前だったろうか。
箱根の彫刻の森美術館の展示物としてそれはあった。
その座り心地が、なんとも衝撃だった。
椅子が芸術品であることをこのとき初めて知った。
なのに名前も何も見ずに、座り心地の余韻だけを体に携えて彫刻の森美術館を出てしまったのだった。

箱根から帰路のロマンスカーで、あれが何という椅子でどこで売っているのかを知りたくて検索を始めたけれど、キーワードが少なくて検索は難航した。
無事にたどり着いた先で、ハンスJウェグナーさんがデザインした3-Legged Shellchairであるということを知る。
見つけた嬉しさと一緒に、その値段に驚愕する。
軽く家賃の3倍以上。

1か月ほど、その椅子に恋焦がれて私はこれを本気で買おうかと思ってその方法を模索した。
しかしながら、重厚なソファではないものの大きな一人掛けの椅子なので部屋の広さを考えると、どの見方をしても分不相応なことが明らか過ぎて、そうこうしているうちにあの座り心地の余韻は身体から少しずつ抜けて行った。

そしてまた2年ぶりに彫刻の森美術館に訪れて、私はその椅子のことを思い出した。
同じ場所にはやっぱりなくて、それはピカソ館の休憩の椅子になっていた。
先にそれに座っている人の後ろで、どいてとばかりに私は待って、またあの座り心地を自分の身体に感じることができた。
蘇った座り心地は、やっぱり、衝撃だった。

座面と背もたれだけ張ってある革はたくさん使われた屑んだ色をしていて鞣されていた。
身体の曲線に椅子が馴染んで、深く全部を包んでくれる、そんな感じ。
座るだけで安心、座るだけで癒される、そのくらいの感じ。
抱き締められているわけでも、マッサージをされているわけでもないのに。

これほど長く私が何か物のことを想っているのは、アスティエドヴィラットのカップ&ソーサーとこの椅子くらいである。

そういえば、箱根の旅館の敷布団に低反発のマットレスが重ねられていて、非常に寝心地が良かった。
生活の質を上げる、ということはこういうことなのだろうと思う。
これも、自分を喜ばせる、自分に感動を食わせる、ということの一環。

一生ものの何かを、そうでない様々を切り落として手に入れたい。
と果たして言い切れるだろうか。
言い切れないんだろう、と他人に言われた反発心と、とは言えバランスを保っていたいホメオスタシスと怠惰心、しかしながら言い切りたいというロックな欲求。
まずは一生ものの何かが何なのかを、そんなものは簡単には分からなくとも予測が付くところまでは知らねばならない。

覚悟するのが嫌です、できません、というか何に覚悟したらいいのかわかりません、とまあ今はそんなところ。
手を伸ばし過ぎて筋を痛めてしまうくらい、手を伸ばさないといけない時期のようだ。
楽しかったり、気が重かったり。

そうすると、収入基盤まで揺るがしたくなるのは、私の悪い癖なのだろうか。
確かに今のところただの飽き性となんら変わりはない。
私の場合、それは他人が大きな理由になっているからということに他ならなくて、いよいよそれが理由にならなくなっていることは自明である。
自分以外に責任が持てないのである。

いよいよ、引っ越したい。



ピンクチョコレートドーナツ

2013-03-25 17:51:27 | 日記
おばあちゃんが、死んだ。
もう10年くらい前に認知症を患って、もう5年以上は施設に入っていた。
おばあちゃんが次第に孫の私のことも、母の兄弟である子どもたちのことも、夫であるおじいちゃんのことも、そして自分のこともわからなくなってから随分経つ。
最後に会ったのは、それはそれは美しい海が見える丘の上の介護施設だったと思う。
静かで、穏やかで、時間の流れが異様で、初夏がよく似合う場所だった。

私はおばあちゃんが息を引き取ったとき友人と箱根にいて、例によって、いもうとからのメールでその知らせを受けた。
何を思えば良いのか、全然、わからなかった。
具合が悪いとも聞いていなかった。
だから私には急な知らせだった。

人はいつか、死ぬ。
絶対に、死ぬ。
その知らせが、おばあちゃんであるということは、一番現実的で予定調和。
そう、確かにそれはそうなのである。

すぐに焦げてしまうほど砂糖が入った甘い卵焼き。
3時になるとおじいちゃんの盆栽小屋に持って行くものすごく濃い緑茶と和菓子のおやつ。
盆栽小屋で点ててくれたお抹茶といちご大福。
あと、10年程前に死んでしまったゴロちゃんという犬。

同居していなかった母方のおばあちゃんだから、思い出はそんなに多くはない。
認知症が始まった頃、同じ事柄を10分置きくらいに繰り返すものだから、私はその度に簡単な回答を繰り返していた。
私は一緒に暮らしていなかったから煩わしいとは思わなかったが、認知症が進んで徘徊などをするようになったおばあちゃんの世話はたぶんとても大変だったろうと思う。

父が死んでから、身内が死ぬのは初めてだ。
私は父が死んでから、人の死に過敏になってしまった。
全然整理できていない父への感情や父の死への思いのあれこれを綯い交ぜにして、人の死を悼む前に自分の感情が吹き出してしまって仕方がない。

ちょうど一週間ほど前、知り合いのお祖母様が亡くなったとふとしたきっかけでメールでお聞きした。
私はその方に何か言おうと思って、だけど何を言えばいいのか本当にわからなくて携帯電話を手にしたまま、何で私が泣くんだと思いながら涙をこぼし、ご冥福をお祈りします、とだけ返した。
その方はお祖母様のことが好きだったと聞いていたから、もっと気の利いたことが言えたのではと思うけれど、私が発するどの言葉も私が自信を持って言えないがために、私は言葉を外に出すことができなかった。
ここで私が自分の感情を適用することもないのだけど、そんなのは全然優しくないのだけど、私は常套句以外の何かを発することができなかった。

生死や、家族というものは、きれいに大きく覆ってしまう言葉や観念はたくさんある。
でも、ある人と生死の関係や、ある人と家族の関係は、本当に個人的で、ある人のもの以外の何者でもない。
慮ることさえも、差し出がましいと感じてしまったとしたら、どうすることが一番相手のためになるだろうと、私はまだそれがわからずにいる。
「見守ってくれてるよ」とそのくらい何の気負いもなく言えたらいいのだけど。

愛知県の中でも忘れ去られたかのようなおばあちゃんの家のある地域。
色んなものの色がそのまま錆び付いてしまったみたいに褪せていて、風景が止まって見える。
1時間に2本の真っ赤な電車だけは淡々と走っていて、所々白木蓮が咲いているのを見つけると、この世界も動いていることが認識できる。
相変わらず私の耳にはハイロウズが流れていて、いつでもヒロトの声は動いていて血が通っていて、瑞々しい。

久しぶりに会った親戚がたくさんいた。
こうして血が繋がっていることを否応無く知らしめる冠婚葬祭の場が私は好きではない。
絶対的な関係であって、選べない関係。
お互いによく知りもしないのに、血縁と幼い頃を知っているからという理由だけで、人間性を決めつけられていたりする。
私が愛について何か言うとしたら、愛は“敬愛”であると思っている、という意味で愛していない親戚だっている。

おばあちゃんの遺体は、少し痛ましかった。

苦しかったんだろうね。
すべてはこの世に残った人が思い発することしかないけれど、死ぬのは悪いことではないよね、きっと。
この世ではないどこかが、温かくてふわふわで気持ちの良い場所だといいなと思うよ。

やっぱり私は人が死ぬのが酷く苦手で。
昔、「一番感情が大きく動くときってどんなとき?」とある人に問われたことがある。
私はほんの少しだけ考えて「人が死ぬとき」と答えた。
全てはこの世に生きているから起こることだから。
悲しいことも、嬉しいことも、全部この世のもの。
そして、その全部、私が感じること。

苦しかった身体は、焼かれて真っ白な骨になった。

おばあちゃん。
ありがとう。おつかれさま。
どうか安らかに。



大丈夫じゃなくてもいい

2013-03-21 23:56:14 | 日記
もう本当に今やらずしていつやるのだというタイミングまで追い込まれて、展覧会の作品の大枠を作る。
下書きを綿密に縮小サイズで普通の紙に作る人もいるのだけれど、私は面倒なのでそれをしない。
一発目は大きくて高価な紙も捨てるつもりで書く。
おそよの大きさとかも行き当たりばったりなものだから、たいてい最初に書くものは最後まで入らないことが多い。

今の私の部屋は90×240の紙を1枚広げるのが本当にぎりぎりである。
ベッドが大きすぎる、というのは一つ大きな原因であるのだが、ベッド下も収納として使っているのだから仕方がない。
1枚広げられたからいいというものではなく、書いたものの墨が乾くまでそれをどこかに置いておきたいのにそれができない。
しかたなく、カーテンや布団に墨がつかないように細心の注意を払いながらベランダに出す。
洗濯物を干すようにして、上から吊るす。

程なくして雨が降ってくる。
紙も墨も雨はまずい。
と思って急いで部屋に引き入れたら、自分のTシャツに墨がついてしまった。

「月の爆撃機」「日曜日よりの使者」「不死身の花」「情熱の薔薇」
詞だけで決められなくて結局4つすべてを書いてみる。
先生にも相談するのだが、「不死身の花」か「情熱の薔薇」になりそうである。

ブルーハーツとハイロウズをシャッフルして流しながら書く。
それだけでもう入ってしまって、ぎゅうっとなりながら、深呼吸しながら、書く。

今回は最も自分が恥ずかしい感じを採ろうかと思っている。
どうせやるのであれば、嘘になってしまいそうなほどの恥ずかしさを採るべきなのだと思う。
となるとたぶん、「情熱の薔薇」になる。
あの下書き、先生はなんて言うだろう。

そういえば、先日私の誕生日に私がブル―ハーツが大好きなことを知っているので、「情熱の真っ赤な薔薇で花を咲かせてくださいな」とメッセージを下さった方がいた。
私は「情熱の真っ赤な薔薇で花束を作ります」と返信をした。
笑ってしまうけれど、そうできたらいい。

幼い頃、恥をかけずにお手本のない何かを作ることが本当に苦手だった。
泣きたいくらいに、逃げたいくらいに、嫌いだった。

だから書道を習うことは、字や言葉を書くことが好きであることが一番の理由であるけれど、私の通う教室で創作を根気強く強いてくれたことは本当に幸いであったと思う。
まっさらな大きな紙に自分の好きなように書いていいよ、という私の最も苦手なことを、好きなことでやる、という止められない修行のような感じだ。

ただ趣味に圧迫されないと決めている私は、創作について怠慢極まりなく今までを過ごしてきたわけだけれど、今こうして自分で創るということをすると、それが書道を続ける一番の理由に取って代わるかもしれないと思うほどの大きさを確かに感じている。
私は詩は書かないけれど、いずれ自作の詩を書いているようなことがあったらそれはそれで微笑ましい。

本当に自分がそう思っていることの表現というのは、ある恥ずかしさも全部込みでのものなのだと思う。
それに、恥ずかしさを突っ切ったら、それは恥ずかしいを超えてしまうものであるのだろう。
恥ずかしいことなんて恥ずかしくないんだと、誰に向けてでなくて自分に向けて言う。
「怖くない怖くない怖くない怖くない」と声を発しながら暗闇を行くようなそんなことにも少し似ている。
開き直り、とも言う。

私自身によって押し込められ続けてきたかわいそうな私の感情を、私が自分の手で愛でたいと思う。

裏のマンションの駐車場に生えている紫ピンクの木蓮が、それに気づいた昨日、すでに満開。
通勤路の白木蓮は、寒そうな裸の枝の時期から見守っていて、ふくふくと動物みたいな毛の生えた蕾が芽生え膨れて、少しずつ清廉な白が見え始めて、こちらも今満開。
来週には白を減らして緑が芽吹くだろうか。

夜桜のつもりはなかったのだけど、外に出たのが夜だった。
いくつかの花がまとまって咲いている三分咲きの桜は、大きなおおきなカスミソウのよう。



みつまめのまめ

2013-03-20 10:57:03 | 日記
月に1回、病気や不順でない限り女性は怪我でもなく血を流す。
月の満ち欠けと同じようなサイクルでそれは起こるのだから、なんて神秘的なことなんだろうと思う。
使われなかった卵の、ベッドになるはずだった壁面が自分の血液と一緒に剥がれ落ちて出てくるのだ。

これを機に毎月悪い気を出して、女性は生まれ変わることができる、それは素晴らしいからだのしくみです、と何かの本で読んだことがある。
現象が神秘的なのはさておき、なんだその理論は、と思う。
ただ、女性が男性よりも占星術などの占いが好きなのは、その神秘さを短いスパンで自分の体を以てして体感しているからである、というのも何かで読んだのだが、それは確かに、と思う。

このとき血を流す以外に身体に起きることというのは本当に人それぞれだとは思うけれど、この1週間が1か月のうちで一番調子が良い、という人など聞いたことはない。
また、生まれ変わったみたい、というのは現実に落として言い過ぎだとしても、終わった後にすっきりするのが本当に心地よい、などと言っている人も実際には私は聞いたことがない。
その本が事の神秘さに乗っけて、「だから大人になって、そんなにイライラすることでもないのです、ましてやそれで人にあたったりしてはいけないんですよ」という社会的処世術のようなメッセージを伝えたかったのだとしたら・・・、と皮肉にとってしまうのは私だけなのだろうか。

やたらお腹や腰が痛くなったり、やたら眠くなったり、やたら食べたくなったり、やたらイライラしたり、やたら浮腫んだり。
これを女性の体に巣食う"悪い気"がそうさせていたとするなら、もうそれが現象として出てしまっているのだから、対外的にも迷惑な話である。
要は変化を起こしやすいタイミングを月に1回得られるのです、ということをその本は言っているのだと思うが、全然腑に落ちない。

そもそもその期間が1週間あったとしても、尻すぼみに終わっていくものだから、元々解放感を得られるほど最後の方は気にかかるものでもない。
始まる前も含めて、不快度というのはちょうど放物線を描くから、出し切って最高、なんて話には大凡なるものではないのである。

しかしながらこれというのは、哺乳類の出産、ということに密接に結び付いている現象であって、それが宇宙の中に組み込まれた壮大な摂理の下に繰り返されていると考えるとこの不快も・・・
いや、しかし、実体験の不快には宇宙の摂理もかなわないのが本当のところで、毎度なぜ月に1回もこんなことがあるのだろうと思ってしまうのである。

ただ、月に1回もこんなことになるのに、そうでない月間4分の3くらいはそのことを自然に思い出したりはしない。
なくなればいい、とは人間としてではなく動物として不謹慎だから言わない。

理性でなく、感情でなく、女性は多かれ少なかれホルモンの支配下に置かれてしまうのは、動物的とは言えなんだかいい気のしないものである。
男性がホルモンによってどのくらい支配されているかは私にはずっとわからないけれど。


友人が、ロックンロールというものについて改めて理解した、と熱を上げてメッセージを送ってきた。
最初、私は理解の落とし所がしっくりいかなくて少し反論と言うか意見をした。
何せLINEを通じての会話だったものだから、話の大枠と友人の熱を受け取るに留まったけれど、同じくらいの温度をもって、同じくらいの内容を話せるということは改めてすごいことだと思う。
フェイストゥーフェイスではない場合、最初の温度感は掴みづらいけれど。

高度な共鳴を求めて人探しをする、ということは間違っていると思うけれど、高度な共鳴というものは存在するものだと思う。
というか私は存在すると信じている。
それは自分の核ありきでないと成し得ない。
また、互いの核は必ず似て比なるものだから、酷く擦れ合う可能性も多少なりとも含んでいるものだと思う。

その共鳴はいつも同じように起こせるかというと、自分も他人も変化の可能性を多分に含んでいるから、全くもってその保証はない。
しかし、共鳴が存在した、という一点のそれだけが、ただ嬉しい、それでいいのだと思う。
マイナスの変化へのリスクヘッジで、感じ惜しみすることだけは避けたい。