つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

今年は、きらきらしていました。

2012-12-25 01:22:36 | 日記
27日の早朝にはロンドンに向けて出発するので、あと数日を残して今年を振り返ろうと思う。

去年が「縁」の年であったとしたら、今年は「開」の年であったように思う。

以前友人が大学時代に「それまでの自分がバリンバリンになって壊れて、それをまた再構築したようなそんな感じ」という経験を話してくれた。
私はこの話を聞いたとき、「そんなことも本当にあるものなんだなあ」と思うと同時に、自分は何か大きな転機が訪れたとしても、自分がバリンバリンになるような経験はしないだろう、と思ったことをよく覚えている。
それはいつも俯瞰で見ているもう一人の私が理性をもって露出される私を調整することから逃れられないと思っていたからだ。
別にこれは善し悪しではなくて、自分という人間の性質であると思っていた。

今年私は、それまでの自分が、まさにバリンバリンに割れた、壊れた。
それは割と今年の初めの方で、丸一年をかけてなお、今も私はそれを新しいものとして再構築し続けている。
予兆がなかったわけではない、それはたぶん2、3年前から準備期間として始まっていたのだろうと思う。
人との出会いや関わりの変化もそのようになっていた。
それが今年、いよいよという感じで、見事なまでに音を立ててバリンバリンになった。
ヒビが入ったとしても割れないだろうと思っていたものが、弾けるように割れた。

このブログでは何度か「脱皮期」という言葉を使った。
「ほんとうの自分」という言葉が嫌いだった私が、「ほんとうの自分」に出会ったような気がした。
それまで守っていた殻や皮を脱いで、中にあったものが出てきた。

そのきっかけの一つは間違いなくYouTubeで偶然見つけたブルーハーツの「リンダリンダ」だった。
でも、たぶん一番最初に見て、その時に雷を落とされたような衝撃を受けたのではなかったと、今思い出すに記憶している。
何度目かのYouTubeサーフィンの夜、様々なことが重なって、私はヒロトが歌うその姿にどうしようもなく心が震えてしまって、スマートフォンの画面を見ながらひどく泣いた。
かつてキチガイだと思って遠ざけていた彼らのメッセージが、ヒロトのパフォーマンスを通じて私の中に入ってきた。
彼らに私の考えを変えられた、ということではない、彼らが思っていることと似たような思いが私の心の中にあったということだ。
「魂がおおよろこび」という言葉さえも使えないくらいの、全然笑い事ではない、私にとって真面目なまじめな瞬間だった。

彼らを追い続けて、知れば知るほど、彼らは私の中に入ってきた。
甲本ヒロトと真島昌利という人間が、ロッカーとして現存する今に、私は本当に感謝している。
ただ、どんな言葉を尽くしても、このことを人に適切に伝えることが難しい。
私は嬉しいから伝えようとしてしまうけれど、それが人にとってちんぷんかんぷんな場合があることも知った。

しかし、とても幸いなことに、私には彼らのことが私と同じくらいに好きな友人がいる。
歌詞で会話ができるくらいの私たちは、人から見たらそれこそキチガイなのだろうけれど、共感は爆発だ、ということを一緒に体現してくれる彼女の存在は本当にありがたい。
もちろん、ヒロトとマーシーだけのつながりでもなくて私は彼女の人間性そのものがすごくすごく好きだけれど。

去年からジャズなどで音楽っていいね、と少しずつ幅を広げていたが、今年に関して言えば本当によくロックを漁った。
好きな音楽や、好きなバンドは、自分の体が教えてくれた。
不思議と、音が全て、正とか負とかいう指標を持って聞こえた。

フジロックに行って、座間市まで初めてのクロマニヨンズでヒロトとマーシーを生で見て、ZEPP東京ではあと5mくらいのところにヒロトとマーシーがいた。
他のライブにもたくさん行った。
誰かが一緒に行ってくれるときはラッキーだけれど、一人でもたくさん行った。
色濃い夏を引きずって、しまいにはエレキギターまで手にしてしまった。

総じて言うと、感情のベクトルが格段に広がった、と言ってもいい。
それは、正にも負にも。

子供みたいな嬉しいや楽しいの感情を大っぴらに出すことが苦手で、反対に、怒ったり泣いたりということを大っぴらに人にぶつけることもしてこなかった。
一見クールであることが私を私たらしめていた。

しかし嬉しいや楽しいの感情に関しては、もう制御できない。
怒ったり泣いたりについては、それなりに場所は選べるけれど。
感情の扉がオープンになったら、ものすごく間抜けなことも増えてしまって、信号待ちの横断歩道で転んだり、言い間違いが頻発したり、バッグの中でお茶がこぼれたりと厄介なことがとても増えた。

嬉しい思いは、27年間で一番たくさんした。
ヒロトとマーシーにまつわることは沢山たくさん嬉しい思いをしたし、人と一緒にいて嬉しい思いもした。
初めてだった、私は、生まれてきてよかった、と心からそう思った。
他にも数え切れないくらい、いろんなものに心を引っ掴まれて、ぎゅうっとなった。

悲しい思いも、27年間で一番たくさんした。
正の反対側のベクトルも伸びてしまっているものだから、すごく悲しかった。
吹く風に、咲いた花に、夜明けの光に、ただそれだけに泣かされたりもした。
自分の中に、どうにもしようがない父への思いがあることもはっきりと知ってしまった。

浮き沈みの激しい、大変な年であったけれど、それでもこんなふうでいいかと思える。
別に悲しい思いをしたいわけではなくて、自分以外のことが思い通りにならないことを深く知りながら、今ある大事なものに敬意と優しさをもって接していきたい。
自分は、思い通りになると思われることはすべて、努力や勇気で思い通りにすればよい。


私が先日から何度も言っている、今年中にやりたいこと、は取り掛かり始めたもののなかなかうまく進まずに全然完成していない。
続きは来年に持ち越すとする。
時間がかかっても私はこれをやり遂げたいと思う。

私は私が感じることをいつも信じてあげたい。
そうして、自分の行動を自分で選んで行きたい。
愛すべき自分を、愛するに値する自分でいられるように。
また、今年の私は私で精一杯だったから、少しでも余裕を持って人に接することができるといい。

私の部屋で、たくさんの花が咲いた。
たくさんの花が枯れた、朽ちた。
動く花たちとともに一年があった。

「開」の翌年、来年はどんな年だろう。
恐れず、媚びず、柔らかく動いていきたい。
開く、咲く、瞬く、煌めく、そんなことがたくさんあることを願う。
笑えるときには、いつも笑って。


このブログを読んで下さっている方々、お知り合いの方もそうでない方も、「つぼみな日々」にお付き合いいただきありがとうございます。
まさに「つぼみな日々」の私ではありますが、来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。



ムートン

2012-12-24 23:27:12 | 日記
仕事関係の年賀状を筆で書いていたら、私はこういうことに未だ慣れないし、もちろんアイディアも豊富ではなく、その上それなりのものをと思うものだから莫大な時間を費やしてしまった。
そしてほとんど個人的な趣味の世界で書いていて選びようのないハガキ30枚ほどを明日、会社で選んでもらおうと思っている。
それにしても来年の干支のことを考えると、1年間憂鬱だ。

普段は年賀状も年賀メールも習慣のない私だが、余ったハガキに、けいこと祖父母の名前を書いて送ることにした。
1月1日には日本にいないので、良い挨拶になるといい。

みかんを食べて、蓮茶を淹れて、ハイロウズのDVDを観ながら敷物を洗って、マニキュアを塗り替えて、旅行の支度をする。
炊飯器を出すのが面倒だったので一人用の土鍋でごはんを炊いて、卵をといて鶏ひき肉とネギとチーズと塩コショウを混ぜてオムレツを作り、巨大な紅東を少し切って少しだけ三温糖を入れて煮る、ネギをトースターで焼いてコンソメスープもこしらえる。
ここ何日か、フライパンひとつの料理から脱却していて、料理も色があるなあと思いながら卵をかき混ぜていると、なんだか楽しい。
塩加減などが決まらなかったものについては、翌日にリベンジして同じ料理を作っていたりする。

また、持っているブルーハーツとハイロウズのDVDを片っ端から全部観る。
1985年結成当初の頃の映像を観ると、どうしても私はどんな作業も止まって、固まってしまう。

重さと自分の出来なさで早々に断念しかけていたギターも何とかいくつかのコードを覚えて、友人が作成した楽譜を見ながら何曲か、たどたどしく、それはそれはもうゆっくり、メロディを追う。
「いつでもまっすぐ歩けるか 湖にドボンかもしれないぜ」という箇所だけiTunesから流して一緒に弾く。
先日買った安いアンプから出る音で隣人から苦情が来ないだろうかとヒヤヒヤしているのだが、いつも流している音楽の方が大きいくらいの音量なので大丈夫であってほしい。

世間はクリスマスイブであるのだけど、こんなにひとりのクリスマスイブが楽しいのは初めてだ。

去年の今頃のことを思い出しながら、それでも前に進んでいると、そう思いたいし、そうだと思う。

木曜日には長い休みに入るから、花を買うことだけは我慢した。
2週間前に買ったカーネーションがまだ色を持たせている。
チョコレート色のカラーもしなやかさを保っている。



しなやかさに見惚れて

2012-12-20 14:37:22 | 日記
2回目のギター教室に行く。
「AとDとF#とEのコードができようになりました」と先生に聞かせて見せる。
「でもBmで躓いたのでリンダリンダはとりあえず置いときます」
「Cが苦手なので、日曜日よりの使者もとりあえず断念しました」

すると先生は「日曜日よりの使者」私の目の前で静かに弾き始めた。
ロックやパンクのギターの音に、また、こんなにも揺さぶられる。

コードの理論を教えてもらう。
C、D、E、F、G、A、B、Cと、ドレミファソラシドは考えればわかるのだが、すぐにはリンクしなくて、その上弦が6本あってフレットが20くらいあるのでどこの何と何でこれになる、ということを考えようとすると私の思考はショートしてしまう。
コードによって弾く弦と弾かない弦があるのもわかっているがそこまで気が回らない。

先生はいとも簡単に自在に音を出す。
その前に、いとも簡単にそのコードを押さえることができる。
先生なのだから当たり前なのだろうが、私が上手く出来ないことを身をもって体感しているからそのすごさが私の中では魔法みたいに思える。
感覚でやっているようだけれど、感覚もあれど全てのコードは把握している。

「PCのキーボードを見ずにタイピングできるのと同じようなものだよ」
確かにそうだとは思う。
私もなぜ自分がこんなにも早くキーボードを自在に打てるのか自分で感心することがある。
それと一緒だとしたら、ギターも弾けるようになるとさぞかし気持ちいいのだろうなあと思う。

ただ、タイピングの場合、ミスタイプはバックスペースで戻ればよくて、それも既に加味された上で文章が奏でられていく。
しかしギターの場合はバックスペースは存在しないしもう音として響いてしまうものだから、それなりの完成物として成るにはミスタイプの不協和音は元には戻せない。

これをずらすとAmがBmになる。
コードは全部覚えなくても、理論上展開ができる。
だから、便利なものを一通り知ってしまうと楽しいと思うよ、と言われてそれは確かにその通りだと思う。
今のところ、そう思う、だけ。

こうやると、ロックっぽい、こうやると、ちょっとダサイ。
なるほど、本当にそんな感じがする。

先生の出す音たちを目の当たりにしていると、ヒロトが言うように、自分がロックの受け手であってリスナーであることの方が僕にとっては意味が大きいんだ、ということもわかる気がする。
何か大きなものがあって、自分はほんの少しだけそれを体現するために真似をさせていただいています、という気持ち。
ヒロトは、リスナーとしてではなく、多くの人にとって紛れもない偉大なロック歌手であり、与える側であるけれど。


けいこがもいだ蒲郡みかんが届いた。
小ぶりで皮が薄くて味が濃くて、傷みやすい。
爪にみかんの色が染みていると思うけれど、真っ青なマニキュアの今週にはそれはわからない。



ホッとしたこと

2012-12-18 23:33:27 | 日記
川内倫子さんの写真はすごく構図が巧い。
彼女の目線や、何が撮りたかったのかがよく分かる。
彼女の写真は何かを飾り立てて、何かを並べて、ものすごく人為的に作ったものではない。
日常のよくある風景の目線違い、と言ったところだ。

ファインダーはその人の目線でもある。
その写真に何か驚きや新しさを感じたとしたら、それが自分の目線と違うからではないかと思う。

ある瞬間を、ある角度から、ある光の下で。
ある色を、ある形を、ある質感を。
それをそれとして1枚として独立させる。

ありそうで、なさそうで、ありそうで、なさそうで、ありそうな。

何を表現したいのか、ということはもちろんカメラの世界でも感性と技術が物を言うだろう。
しかし、写真は絵などに比べて写実的なものであるので、ある程度技術を得ている人であれば、表現のあり方が他の表現物に比べてわかりやすいのではないかと思う。

とはいえ、私は携帯カメラ以外で写真を撮ることをしない私がいうことでも全然ないのだが。

私は一度、東京都写真美術館で行われていた彼女の個展に行ったことがある。
最終日で非常に混雑していたことも大きな原因であるが、さほど印象的ではなかった。
虫の死骸やスライムのようにぷるぷるの肌感のカエルの写真などは印象的ではあった。

私は彼女が書いている日記が好きだ。
と合わせて、彼女の言葉遣いも。

表参道は馴染めない。
街が、煉瓦やレゴのようなもので組み立てられているとしたら、その煉瓦やレゴの一つひとつが他の街の3倍くらいあるように感じられる。
建物も、道も、看板も、広告も、ショーウィンドウのケーキでさえも。
自分がとても巨大な仮想街に放り投げられたような気になる。
自分が謙虚になるように小さくなるのではなく、世界から何も関係がなくなったような取り残された感じを抱かせる。

青山通りに限ってだけれど。

これは自分の気持ちの状態によって捉え方は大きく変わる。
あるときは、無機質で孤独で気持ち良い。
あるときは、とてつもなく空虚で淋しい。

アドバンス、ソフィスティケイティッド、アーバン、リュクス。
私は東京が大好きだけど、そういうことで好きなわけでは全然ない。
オルネドフォイユもアスティエドビラットも、毎日見れたのでは面白くない。

いや、馴染めないのはもっと単純な理由で、通勤時間が10倍になった、というその一点が私をそう思わせていることを私が一番、知っている。



午前0時に揺さぶられて

2012-12-17 14:32:32 | 日記
久しぶりに1日予定が何もない休日。
1週間ほど前にキャンセルになった予定があったのだけれど、今回に限ってはキャンセルになって本当に良かった。
近くのスーパーにすら行きたくないほどの疲弊具合なんて私にとっては一大事だ。
今日は例えば電話が鳴ったとしても1回では出ない。

11時に起きて、コーヒーを淹れていただいたお菓子を食べてまたホットカーペットの上で横たわる。
部屋とお風呂とトイレと玄関を掃除。
大掃除の季節か、と気が付いて、ガスレンジをざっと磨いて、窓と網戸まで拭いた。

きれいになってすっきりしたので、久しぶりにラベンダーの精油をアロマポットで焚く。
大きく息を吸い込むと、最近深呼吸をしていなかったなあと気づく。

ラベンダーの香りが薫る中で、時間がなくて読めなかったNUMERO12月号を手にする。
この雑誌、私はフラワーアーティストの東さんの作品が観たくて年間購読までしているのだが、その他の記事も本当に洗練されていて大好きだ。

私はファッション誌は、マーケットインではなくてプロダクトアウトのものが好きだ。
尖っていて構わない、それが良い。
ハイブランドすぎて実際に手の出せる値段でなくとも、実際にその洋服が実用的でないデザインであっても、それが良い。

ファッション誌は、新しさや斬新さ、その中の確固たるスタイルを提案する立場であってほしい、と私は思う。
NUMEROは、服のページだけでなく他のコンテンツもエッジが利いていて、インタビュアーの質問項目にもライターの言葉遣いにも芯のある思いが乗っていて読み物としてもとても面白い。

もちろん、ほぼ広告費でできているのだから、彼らにしてみたら完全なるプロダクトアウトであるはずもないとは思うけれど、それでも売上よりも“ファッションを”と息巻いている感じが、他のファッション誌よりも強いような気がする。

そういえば、私は毎号この雑誌を観て読んで、そう思うのだったなあとホットカーペットの上で久しぶりの休息時間に浸る。

豚肉が食べたい、となぜだか思い立って、本当は家から一歩も出たくはなかったが部屋着のままダウンジャケットを羽織ってスーパーまで自転車を走らせる。
ものの10分で戻ってきて、こちらもまた久しぶりに一つのフライパンや鍋だけの料理から少し踏み出して、豚のショウガ焼きと豆腐のお味噌汁、春菊の胡麻和えを作ってみる。
思えばご飯を炊いたのも3週間ぶりくらいな気がする。

温かで馴染みのある自分の料理を食べるとなんだかまた眠くなって、そのままホットカーペットの上で4時間も寝てしまう。

さすがに疲れが抜けてきたと夜の11時からギターを弾き始める。
「リンダリンダ」を最初の曲にしようと思ったけれど、テンポについていけないしBmが難しいので、AとDとEとF#だけでできる「月の爆撃機」の最初の曲にすることにした。
とてもゆっくり、曲になっていないけれど、できるようになった。
そのままスマートフォンでアンプも買った。

私と同じくらいヒロトとマーシーが好きなあの子と、セッションリベンジをしたいから練習しようと思う。
ただ私はギターよりも前に、ヒロトとマーシーを体現したいことが先なので飛んだり跳ねたり歌ったりでも十分に楽しい。
これを体現するのは、一人でやろうと思えばできなくはないけれど、やはり一人ではできない。
ヒロトにはマーシーが必要だし、マーシーにはヒロトが必要だ。

ギター、もっとやりたいけれど、あの重さだけで私は続けることができないかもしれない、という懸念はある。

とても筋肉痛。
一日ではとても足りない休日。