つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

赤に黒

2015-07-29 14:52:08 | 日記
「先生の字は、なんていうか、さわやかで凛としていて潔くて、それでいて優しいですよね。」

そんなことをペン字を教えているときに生徒さんから言われた。

爽やかで凛としていて潔くて優しい。

どれだけの素敵な言葉を私に向けて並べてくれるのだろうか。
でも、私は自分が書くペン字に自信がないわけでもなくて、素直に照れながら「ありがとうございます」と言った。

非常に真剣に書けば、とにかくこの字は誰のものよりきれいだ、この字とタイはあったとしても、くらいに思えるときがある。
これは私自身の自慢話でもあるし、曲がりなりにも講師をしている立場からして当然とも言える。
もちろんそんな風にすべてがバッチリ決まることも少なく、それは私の技量不足を責めなければならない。

一応、私は色んな字が書ける。
どれが一番“自分らしい字”なのかは定かではない。
言ってしまえばどれも“自分らしい”。

しかし私は自分が見る用のメモなどの走り書きは、驚くほどに無茶苦茶である。
力など入れずにフラフラの状態で滑らせて書くし、バランスも気にしない。
これが字についての講師の字か、と罵られても文句は言えまい。

が、別に問題はない。


ヒロトの「II(ひと)」という曲
詩集だけに載っていてどこにも音源がない曲。
「ヒロト」がカタカナであるのは、ここに理由があるのだろうと、私は信じてやまない。


夕凪に煙の行く先ひとり旅




スタンス

2015-07-22 19:32:19 | 日記
iPhone6のカバーを買った。
初めてのブックカバー形式。
真っ赤な色の。

私はよく、バッグから取り出す際や操作中にiPhoneが手から滑って落としてしまう。
だから生身のiPhoneはとても危険で、またいつ壊れてもおかしくない。
そんなわけで長らく、事あるごとにカバーを探していたのだけれど、あまりに日常的に手にするものだから多少のこだわりはあって然るべきと思い、しかしなかなか良品に出会えず、買うことができずにいた。

今回はなんとなく、ブックカバー形式のものを買おうと思っていた。
分厚く、重たくなるだろうという想像は容易についたけれど、それにスイカを入れられるのがメリットのひとつだとしてもそれはブックカバー形式に限定されたことではなく、しかし、なんとなく、ブックカバー形式のものが使ってみたかったのだ。

使った感想は、カバーの分だけ重たく、やはり画面を開くまでのアクションが増えた分だけ面倒くさい、ということだ。
あとは、メッセージなどが届いてもカバーを開かないと画面が見られないので返答が遅れてしまう。
本を片手で持つように持つので、手から滑り落ちる心配は減った。
そしてiPhone自体は、かなり守られている感じがする。

良くも悪くもそんな事実だけを今のところは感じている。


大都会、東京・渋谷。
歩道橋に、ハイウェイに、食い入るように乱立するビルディング。
幾重にも重なったそれらは、私を眠たくさせた。

真夏の空気が暮れていく。


枝豆をつるり並べて父の膝




隠れて

2015-07-14 14:19:43 | 日記
7月11日は、父の命日だった。
命日だから喪に服するとか、命日だから祈りを捧げるとか、そんなつもりはないけれど、命日だから回想したりはする。

もう、私の中では、誰かに聞いてもらわないとおさまらない思いではない。
でも誰かが聞いてくれるのなら話したい事柄ではある。

大好き、ではなかった父への思いが、最近になってようやく、感謝、に変わろうとしている気がする。

私は自分の中で腑に落ちない何か象徴的な言葉を口に出すのは、意識的に避けている。
おそらく無意識的にも避けているだろうと思う。

回りまわった言葉をたくさん積み重ねて、なんとなくだけれど、感謝、という言葉がまっすぐに、ただそのものとして言えるかもしれない。
しかしながら、美化するつもりは毛頭ない。


夏だから、ナスとトマトとズッキーニを買った。
ガーリックオイルで炒めて、コンソメやら唐辛子やら塩胡椒やらを入れてそのまま適当に煮る。
これは色んな過程を省いた、適当なラタトゥイユ、だろうか。

本当に毎度まいど思うけれど、自分の料理は“絶妙に微妙な”味がする。
それは、繊細、ということとも少し違う。

ぼやけているそのゾーンの中のどこか一部分、といったようなそんな塩梅。
今の私はこれが好きなんです、以上、といったそんな塩梅。
でももっと良いものはきっとたくさんあるでしょう、それも欲しいです、とも言っておきたいそんな塩梅。

生のトマトを使った煮物はおいしいということが今回よく分かった。
私は、トマト缶の上手な扱い方が未だ分からなくて好きではない。

相変わらず私の思う面倒が取れないので、料理において見た目に美しいものはできない。
飾り切り、といった類のことはもしかすると一生やらないかもしれない。

基本、私が作るものはほとんど、ごった煮、である。
でもまあ、そのときの気分でしか作れない、ごった煮、は私の「ピタリ」を射抜けることが多い。
最近はその打率が高まってきた感じもある。
しかしながら打率が高まれば高まるほど、前と同じ、ということになって、その「ピタリ」では満足行かなくなってくる場合もある。

私は昔から料理番組が好きだ。
今でもNHKの料理番組を録画しているくらい。

塩をふって野菜に汗をかかせるように炒めます、とか、
肉の繊維をほぐすように叩きます、とか、
水で血合いを洗い流して臭みを取ります、とか、
赤唐辛子を1本入れて味を締めます、とか、
氷水で色止めして、鮮やかな緑を保ちます、とか、
冷えるときに味が染み込むので冷蔵庫でできればひと晩寝かせます、とか、

そんな料理でよく使われる言葉たちが好きで。

ただ体に合うものを見つけたくて。


「笑顔」
自分にとってこっ恥ずかしいことに立ち向かうシリーズは、字体を含め、これもやっぱりどこかくすぐったくて恥ずかしい。


夏休みの声が走る大通り





触れられないど真ん中と本意のすべて

2015-07-10 10:03:41 | 日記
久しぶりに晴れている。
雨もいいね、とはどうしても言い難くて、やっぱり晴れの方がいい。

窓を開けると、朝からカレーライスの匂いが舞い込んできた。
どことなく朝に相応しくないと思いたい気持ちがありつつも、嫌な気はしなかった。
朝からカレーライスなんて、という考えこそ、私は持ちたくない。
もちろん、朝からカレーライスなんて、ということがあっても良い。

ここぞとばかりにベッドシーツを引っ剥がして洗濯機に放り込む。
ゴミを出しに出て、部屋に戻るといささか煙草臭いので、1度目の洗濯機が終わった直後にカーテンを全部引っ剥がして、もう一度洗濯機を回す。
煙草の味も匂いも好きだけれど、日常そこにある空気としての煙草の匂いは好ましくない。
床を水拭きしたいけれど、今日はそんな時間と気力がなさそうだ。


いただきもののパティスリー・サダハル・アオキの焼き菓子をひとつ、開けてみる。
小さくて、でもずっしり重たい、しっとりしたパウンドケーキ。
生地には、くらっとするくらいの洋酒が染みていて、芳醇で、豊潤で。

ごはんの後に気軽に食べてはいけない気がした。
コーヒーとか、紅茶とか、そんなものを淹れて、そのための環境を整えないといけなかった。
水では負けてしまうし、お腹も空かせていた方がいいだろう。


今作、向井秀徳「自問自答」。
書というよりは、私自身が、きっともっと自由になれる、と思った作品だった。
お忙しいところお足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございました。


紫陽花の顔に降る雨零れ落ち




忠告

2015-07-06 12:34:52 | 日記
私は食べ物に優しくされるのが好きだ。

クレープのしっとりした皮とか、羽二重餅とか、セブンイレブンのクリーム大福とか、まい泉のカツサンドとか。
そういう感触としての絶妙なそれらは、しばしば私を魅了してきた。
唇に乗りかかってくるような柔らかい感触が好き、というのは共通するのかもしれないけれど、「これでなくてはダメ」という絶妙なラインをこれらは満たす。

とあるところで、ミルクせんべいをいただいて、感触的な意味でない、衝撃的といってもいいほどの優しさに触れた。
その優しさの正体は、甘さ、なのだけれど、とてもとてもほんのりな甘さなのだ。
軽すぎるせんべい生地全体にまんべんなく薄く染みわたっている、舌全体で味わわないと感じられないようなほのかな甘さ。
ほんの少しの砂糖の甘さ、というよりは、ミルクそのものの甘さを思わせるような。

甘さ、という点では、さっくりとしたクッキーにまぶしてある粉糖もとても優しいと感じる。
しかしそれは感触や質感の上に、ダイレクトに脳に届く甘さにおけるエンドルフィンの分泌、のようなことの意味合いが強い。

ちなみに今私が言っているそれらは全て「美味しい」けれど、でも「優しい」と「美味しい」は別物である。
私の中の、幼き少女が目をきらきらさせて「わぁ」と言っている、と言ったら余計に分かりづらいだろうか。

私が食べたのは、「さとうのミルクせんべい」だったわけだけれど、他のもそんな感じがするのだろうか。
気が向いたら試してみようと思う。


時々、人の欲深い顔を見ることがある。
そしてその顔を見ると、私は少しドキッとするというか、興奮する。

それは、所謂意味の「欲深さ」ではないかもしれない。
例えば、何かを知りたいとか、分かりたいとか、そんなものも欲の一種だとして。

自分が自分のために自分本位で、自分を満たそうとして、それが満たされかけています、というときの顔。
何の疑念なく何かを狙っていて、恍惚としているときの顔。
それは悪魔的であり、無色透明のクリスタルのような輝きも放っている。

自分が、盲目的なタイプであることだけはいつでも忘れてはならない。
バランスは難しいし、いつだって何かを決めないといけないのだけれど、まずもって決めてかかってはいけない。

自覚的であれ、当事者であれ。
というマーシーの言葉は、私は本当に長らく、事あるごとにとても大事にしている。


私は「絆」という言葉にとても違和感がある。


洗濯機の音の向こうに遠雷あり