つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ソウキショウカン

2014-07-30 14:04:58 | 日記
夏になった日々が、ぬぅっと過ぎていく。
姪は全身から蒸気を上げるみたいに汗をかいていたし、夜風はパワーをくれるように生暖かいけれど。

なんだか筆を取る気になれなくて、というか下敷きを敷いて書き始めたら書くのだと思うけれど、ブログに載せる書も枯渇状態である。
「ノーゲーム・ノーライフ」を6巻まで読み終えて貸してくれた人に返して、ついでにアニメの動画もスマートフォンで全部観る。
「孤独のグルメ」もスマートフォンで追いかける。

素麺を茹でてミョウガとショウガを刻んで納豆とオリーブオイルで和える。
真っ赤な果肉のソルダムを頬張る。
ピノの抹茶味を舌の上で溶かす。
ナスときのこでトマトカレーを煮る。
賞味期限が少しだけ切れた大豆の水煮を醤油とお酒とみりんで味を含ませる。
えのきだけとしめじとしいたけを刻んで保存袋に入れ冷凍する。
けいこに買ってもらったウェイパーでネギチャーハンを作る。
瓶に入れていたお茶っ葉がなくなったので詰め替える。
2杯分だけのお味噌汁をこしらえる。

ごはんに関することは、相当簡単なことしかしないけれど、割とまともにやっている。
和え素麺がとても美味しくて、具を少しずつ変えながら3日に2回くらいは食べている。
もやしのナムルはようやく飽きて、トマト缶はやはりあまり好きではないということはカレーにしても同じだった。
ピノの抹茶味は通常のものよりも好きなのだけれど、どうやら私はすごく抹茶が好きなようだ。


ちょっとした優しさみたいなものを、私は自ら逃してしまった気がした。
ちょっとだけ後悔したから、家に帰って反省した。
飽きずに言い続けてくれるのはきっと、私を買い被っているのだろうし、ギャグみたいな罠にハメたいのだろうし、私に対する少しの信頼などもあるだろう。

全部がぜんぶ、自分の問題だ。
しかしその自分の問題に他人が介入すること、それが人間関係であり、コミュニケーションである。
その他人はまた、「自分を正しく受け入れてください。自分の考えていること、良くない?そう思わない?」と言ってきているに過ぎない。
全力で傲慢であるのは、今の私にはとても清々しいこと以外の何物でもない。


アコースティックギターのせいで指がとても痛い。
今までほぼピックで弾いていたけれど、指で弾く方のも楽しい。
テニスよりも卓球よりも、バレーボールの方が球との距離や力の具合を掴みやすい、のようなことだ。


それにしても、昔からそうだけれど、心配していることや、無駄な期待をしていることが夢に出てきやすい。





太陽色のカーネーション

2014-07-25 00:00:09 | 日記
梅雨明けして暑い夏がやってきたので、電圧が違って費用のかかる業務用エアコンのブレーカーをやむなくオンにする。
とは言え、一日中エアコンを付けているのも嫌なので、どこか近くの場所で仕事ができるところはないだろうかと、区立の図書館に行ってみる。

家から程近くの区立図書館は、住宅の中に隠れるようにしてあって、2mは優に超える向日葵が花壇に咲いて、窓にはグリーンカーテンが繁茂していた。
新書を扱う本屋とも古本屋とも大学の図書館とも違う、人の手垢が染み込んだような古い紙の匂いが立ち込める街の図書館の匂い。
特殊なフィルムか何かでコーティングされて、手で持つときゅっとおさまりやすく、一つひとつにきっちりバーコードタグが付けられた本たちは、どれも時の空気を吸って黄ばんでいる。

あいにく、勉強室のようなところはなく、本や新聞、雑誌を閲覧するだけのスペースしかなかった。

しかし、レンタルCDコーナーというのがあって、なんと無料でCDが1回10枚まで借りられる。
確かに私の好きそうなロックミュージックの品揃えは決して良いとは言えないけれど、それでも何百枚もの中から選ぶことができる。

いつも利用しているネットレンタルになかったレニー・クラヴィッツや、自分ではおそらくお金を出して借りはしないblur、興味深いジョン・レノン、とても好きなバンドであるイーグルスの持っていないアルバム、ある人を思い出して手に取ったカイリー・ミノーグ、ある人と何か話せるようになるかなと思って借りたクラシックのオムニバスなどを借りた。
ツタヤのように、何か貸し出し袋にでも入れてくれるのかなと思っていたけれど、バーコードを読み込んでそのまま渡された。
薄いショルダーバッグが8枚のCDによっていびつに膨らんだ。

本はいくら無料と言っても、期限までに読まねばという圧迫が生じてしまうのであまり借りたくないが、CDであれば取り込んでしまえばいつでも聴ける。
生まれてこの方、学術的な文献以外であまり図書館を利用したことがないのだれど、こういう利用の仕方もあるのだなと思った。
CDが置いてあるのは普通のことなのだろうか。

久しぶりに家で缶チューハイを1本だけ開けて、酔っぱらってしまったので、勢いでもなければ敷居を跨げなさそうなクラシックを聴いてみる。
クラシックの素養は何にも、何一つないと言っていいけれど、そして「音楽の聞き方」なんて言うのも変だけれど、「音楽の聞き方」が少し分かってきたような気がするので、クラシックも何だか楽しむことができた。

モーツァルトの「ピアノソナタK.545」は小学生だったか、中学生だったかのときのピアノの発表会で弾いた曲だ。
今はまったく指が動かないけれど、出だしくらいは何となく弾ける。

今改めてプロがピアノで弾いているこの曲を聴いてみて、小さな驚愕を覚えた。
「こんな曲だったのか」と思った。
曲の流れも、強弱も、明るさも、軽快さも、快活さも、演奏の上手さに乗っかって一つひとつのピアノの音の鮮明さが、私の耳にありありと届いてきた。

幼い頃ピアノを習っていたけれど、ピアノ的にも音楽的にもあまり身になっていない。
ゆっくり五線譜の楽譜が読めるくらいはできるけれど、それならば義務教育の音楽の授業でもできるようにはなっていただろう。
思えば私はあの頃、音楽について、それがもたらす気持ちについて、その表現に対する工夫についてなど、本当に一切の発想を持っていなかった。
まだ子供だから、そんな小難しいことは考えられなかったとしても、「こんな風に弾きたい」とかはあっても良さそうなのだけれど、何にも、何にも、考えてはいなかった。
ただ指が早く動くことは大切だ、と思ってハノンは憑りつかれたようにやっていたこともあったけれど、それも1週間くらいなものだった。

音楽について小さな興味もなかったし、しかしよくもまあそんな状態で拙くとも何曲か弾くことができたものである。
私がギターを何となく音が鳴らせるのは、楽器の仕組みの大枠を理解したからだ。
それもせずに、音と楽譜だけで私はピアノを一応弾いていたのは今思うと逆にすごい。

バッハ、シューベルト、ベートーベン、ショパン、ドビュッシー、一通りオムニバスアルバムを通して聴く。
作り手の意識無意識に関わらず、音は緻密な理論の上に成り立っていて、作り手の意志や気持ちがどのように反映されているかは分からないけれど、そこには確かに意志や気持ちがある作り手が存在する。

先日買った超初心者のための音楽理論の本も読んでみる。
理論と言うと「理論武装」のような、楽しみ方や感じ方から遠ざかるように思えていたけれど、理論を知るのはとても面白い。
理論だけでも非常に面白いし、それが実際の音として現実に鳴ったとき、音楽の楽しみ方や感じ方から遠ざかるばかりか、より豊かにそうすることができるようになると思う。

私には音楽よりも大事に思っていることがあるけれど、音楽って面白いね、と思う。
音楽が好きです、と人に名言するほど私は音楽そのもののことが分からないけれど、音楽って面白いね、と思う。





形によって決まること

2014-07-24 20:39:01 | 日記
指が痛い。
でもいい音が鳴る。

アコースティックギターを買った。

こればかりはネットで買うわけにはいかないと、昼間の用事のついでに、御茶ノ水の楽器屋さんに行って買う。
数か月前から欲しくて、しかし、一度地元のリサイクルショップを見に行っただけだった。

フリーランスになり美術館などの土日に混み合う場所に平日に行けるのだけれど、私の今の起床時間、だいたい12時から13時の間、からすると、17時で締まってしまうところはなかなか行くのが難しい。
さすがに仕事もあるわけで、一旦外に出てしまうと帰ってから疲れて仕事ができなくなってしまうので、ひと仕事終えてから外に出たい。
そうすると、21時くらいまでやっている楽器屋さんもぎりぎり、もしくはゆっくり見れないから今日はやめるか、となってしまう。

御茶ノ水の一画は、ギター屋さんが林立していて、ここも隣りもそのまた隣りもその向かいもギター屋さんである。
どこも同じようなものかなと、3~4件値段の相場を確かめるために入ってみる。

メーカーも、音の質も、形も色も、さほどこだわりはない。
新品でも中古でもなんでもいい。
店員さんが親身になってくれた4件目のお店で色々と弾かせてもらうことにした。

ほとんど初めて、アコースティックギターを持ってみた感想、ボディが分厚くて右手が弦まで遠い、弦が見えない。
女性はやはり薄めのボディがお勧めですと言われ、色々と持たせてもらってもやはり一般サイズの厚みのものは腕が痛くやめた方が良さそうだった。

1~3万円で買えるものを、店員さんに弾いてもらったり、弾かせてもらったり。
指で弾くこともできないので、ピックを借りて慣れないアコギでいくつかのコードを鳴らしてみた。
ボディのフィット具合や、ネックの持ち心地、弦高と押さえやすさ、あとは音、響き。
3万円までのボディが薄めのタイプでは、選択肢は3つくらいしかなかったけれど、その中でヤマハのものが一番良い気がした。

私のイメージのアコースティックギターの音。
それはすなわち奥田民生がアコギ一本で歌っているときのギターの音。

ヤマハのものに決めて、ギターを背負って家に帰る。

エレキギターとは違う、ギターそのものが鳴り響いて体に伝わる振動。
弦が太い分、セーハしたままコードチェンジすると金属が擦れている音がする。

しかし、エレキギターとは違ってかなり厳密に弦を押さえないと正しく音が出ない。
いかにエレキで適当に軽い力で押さえているかを思い知る。

Cのコードでさえもきれいに鳴らない。
Bのコードなんて3弦も1弦も鳴っていない。
Fのコードなんて気を抜いているとほとんどの弦の音が鳴っていない。

プロもアコギでカポをよく使っているのを見るけれど、そういうことかと思った。
押さえようと思ったら押さえられるが、解放弦を使った方が断然疲れない。

しかし、指が痛い。
でもいい音が鳴る。





レガシィをミシガンまで

2014-07-21 15:04:51 | 日記
おそらく初めて福井県に行く。
何も特別な用はなかった。
友人がおばあちゃんの喉仏のある場所にお参りに行きたいというものだから、なんとなくついて行った。

東京から行くと福井県は遠いけれど、愛知県から行くと3時間半くらいである。
途中、私が車の中で寝ている間にものすごいスピードで走っていたようだけれど。

曹洞宗の総本山である永平寺。
私はお寺にも友人のおばあちゃんにも思い入れがないので、雨上がりの寺院の中を散歩していた。
ミスとサウナのような湿度がある山中は、小さな滝があったりして、気持ちが良かった。

しかしながら奥まで行くと「毒蛇注意」の看板があって、私はその看板を見ただけで足がすくんで、鳥肌の立つ足をさすりながらそこから即引き返した。
視野を取らなければと舗装されたアスファルトの真ん中を選んで歩く。
今回は遭遇せずに済んだけれど、嫌いなものほど目が合ってしまうものである。

まだ時間があったので、雨に濡れた花々をたくさん撮影していた。
立派な蓮の葉脈に見とれて、上からも下からも何枚も撮った。

日本の地方都市の風景は、どこもよく似ている。
青々とした田園が広がって、大きな看板がところどころにあって、高速道路のインター近くにはたくさんのラブホテルがある。
自転車に乗る運動着の高校生がいて、農作業着のおじちゃんがいて。

私は車の中で時折寝てしまい、目を覚ますと自分のおばあちゃんの家の近くにいるような錯覚を覚えた。
しいて言うなら、福井県の道は舗装状態が良くとてもきれいだった。

所謂感じの温泉旅館に宿泊して、所謂感じの上げ膳据え膳の旅館料理を食べ、露天風呂に浸かり浴衣に着替え、予め買っておいたビールを飲む。
年甲斐もなく枕投げをして遊び、しりとりもした。
翌朝、所謂感じの旅館朝食を食べ、旅館を出て自殺の名所東尋坊に行き、ヒールの高いウェッジソールを履いていた私は少し足を挫いて、家族連れで混雑した恐竜博物館に行き、羽二重餅を買って帰ってくる。

なぜだか非日常感が少なくて、何かを考えているということもなかった。
畳の感触が苦手だな、レガシィはやっぱり乗り心地がいいな、ドライブは楽しいな、ごはんが決まっているのは辛いな、と思った。

帰宅すると、ちょうど花火大会が始まって、けいこのマンションに兄家族も来て花火を見ていた。
もうすぐ2歳の甥は花火のものすごい窓が割れそうな爆発音に怖がることもなく、「きらきら~~」と言ってはしゃいでいた。

東京に戻る今日、けいこは私に「スペシャルモーニング」を食べさせてあげると、4時に寝た私を10時頃起こして近くの喫茶店に連れだした。
「モーニング」は、コーヒー、茹で卵、サラダ、クロワッサンが付いて390円。
「スペシャルモーニング」は、コーヒー、スクランブルエッグ、サラダ、ハッシュポテト、ソーセージ、クロワッサンが付いて580円。
世界観が細部まで行き届いたかわいらしい喫茶店であった。

長い滞在期間であったが、旅行を挟んだのでいつもほど東京に帰りたくて仕方がないという風にはならなかった。
けいこは自分の要らないおはぎを私に包んで持たせた。

人生の暇をどうやって潰すのか。
濁流のような日常の中で、何か光るものを見つけたいのであって。

氷の解けたカフェオレは、美味しくないことはないけれど。





世界は変わらないの

2014-07-19 01:05:53 | 日記
けいこが自身もたまに音楽仲間として参加しているというジャズクラブに一緒に行く。
雰囲気は場末のスナックといった感じだけれど、きれいなママさんがやっていて、比較的新しくこぎれいである。

ベーシストとギタリスト、ときどきボーカル。

これがなんとも、なんとも、音楽的破綻をしているわけではないにも関わらず、聞き心地の良くないものだった。
狭い店内でさすがにそんな話をするわけにもいかないから、3ステージもある演奏を黙って聞いていたのだけれど、できれば2ステージで帰りたかった。

私は音楽のことも、ジャズのことも詳しくどころかほとんど分からない。
人が言うジャズの「良い」「悪い」も、感情的な感想を言うこと以外にはしたことがない。
あの人の演奏が好きだ、と言ったことはあっても、あの人の演奏が上手い、とは言ったことがない。

しかしながら今日の演奏は、感情的云々の問題ではなく、音楽として良くなかったと、私は初めて自分で口にできた。
何しろ、私は演奏の間中ずっと、何がこの“良くなさ”を出しているのか、について考えていた。

即興演奏をしているにも関わらず、そして2人という少人数にも関わらず、ベーシストが至極勝手な演奏をしていたこと、二人の息が合っていなかったこと。
ベーシストの弦の弾きが強すぎて別の音が出てしまって、音楽を邪魔していること。
ジャズスタンダードもあまり知らない私だけれど、曲の終わり方がほとんど似通っていたこと。
ギタリストのジャズのフレーズの手数がおそらく少ないのだろうなと想像できること。
ギタリストの演奏の音が若干一部飛んでいるような気がしたところ。
何となく、音楽全体がまとまっていないこと。
ちなみにボーカルの女性は楽そうに歌っていて、彼女の入る曲は良かった。

私は音楽に対する自分自身の感性の自信がないから、ジャズクラブを出て、けいこに恐る恐る「これって良くなかったよね・・・?」と探ってみた。
けいこは人をあからさまに悪いふうに発言することを全般的にしない人なので、しかし遠まわしに言っているときはまま見受けられるが、なおさら私は謙虚に聞いてみた。
けいこは音楽についてもジャズについても私の数倍理解があるし、自分でもピアノの演奏をする。
すると、けいこは「そうだね、私もそう思った」と言って、先日どこかで聞いたらしいベーシストがいかに素晴らしかったかを、「本当に上手い人はベースだけでも魅せられるんだから」と興奮気味に話を変えていた。

もちろん、私があのようにベースやギターを弾けと言われたら全然弾けないし、演奏者に対する一旦の敬意は払うのだけれども、セオリーから外れたり、壊したり、遊んだり、人を楽しませたり、感動させたり、驚かせたりということは、基礎の上に成り立つ。
あらゆる芸術の分野について言えることだと思うけれど、やはり基礎ありきである。
何で魅せるのか、にもよるけれど、感情の表現や、新しさへの冒険は、そこからするものだ。

まあ全てを分かった上で、ああいう表現をして伝えたい何かがあるとか、他の切り口があるという一枚上手であるのならば、今の私の音楽への理解力と物事全般の理解力では読み解くことはできない。

あの場にいたみんなが今日の演奏をどう思ったかは分からないけれど、私が普段東京で聴いていたジャズのライブはクオリティが高かったのだろうし、ギターの先生はギターが上手いんだなと思った。
それが音楽的な意味で分かることができて、私のちょっとした記念になった。