つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

その術とその手腕

2012-02-29 00:35:17 | 日記
雪が降るかもと。
何月のつもりだろうか。

ジャズに行くかもと。
どうぞ言ってらっしゃいって。

クロマニヨンズは、それだけはどうしようもない時の流れを重ねて、なお、彼らの思うロックのあり方を貫いている。
若さゆえの声による青さや拙さがもたらすむき出しの強さは弱まった。
その精神は変わっていないのか、もう変わることを許されないのか、どちらにせよロックンロールを伝え続けること選んでいるのだと思う。
時々、無邪気に遊んでいるようにも見えるけど。

心の揺さぶり度で言えば、ブルーハーツにもハイロウズにも到底及ばないのだけど、ひとつの人生をロックで歩むヒロトとマーシーはやっぱり、絶対見ておきたい。
ある種の最も大きな幸せのひとつを私にくれたヒロトとマーシーに。
「でも一人だって生きていけるんだぜっていうさ」なんて、大げさに大げさに言えば私言葉で昇天するかもしれない。
ありがとうなんて言わせてもらえないと思うけど、生身の彼らに会いたい。

ということで3月には死ぬ気でチケットを取ろうと思う。
と言いながら先行発売も先行抽選もあったのに気付かず、それは今日の11時に締め切られていた。


ほんとのことか、見せかけのものか。
その対象のことと同じようなことを知っている人であれば、たぶんそれを感じ取ることができる。
見せかけが見せるのは、排他的な危うい強さであってその強さは違和感を発する。

私はある人物によってそれを突破されかかっている。
それを突破するには、それが見せかけと本人が気づいていなかったことが一番の壁であったろうと思う。
それをぶち破ろうと、そしてのちにぶち破られようとしたのは、素直が一番だということを感じたお互いの経験なのかもしれない。
またぶち破ろうとした人物が私に抱いていたのは、たぶん私に対する敬愛であると思う。
でなければそんな労力、誰が他人にかけてくれようか。

今現時点で自分で気づけていない見せかけがあるとしたら、それはぶち破られてもいいものだということだけは心に置いておきたい。



鋲付きポニー

2012-02-27 23:06:19 | 日記
なにか物事への傾倒具合が最近激しいので、借りたものや聞いたことがなんだか溜まってしまっている。
20数年間はまったことが2つ3つしかなかった皺寄せの今。
手当たり次第、ということでもないのだけど、それに近い状態に陥りつつある。
CDをネットレンタルしてPCに落とすだけ落として借りたことすら忘れているものがもしかするとあるかもしれない。

あれもこれも聴きたいし観たい。
けれども、聴くのも観るのもそれなりに時間を要することで、そして今手にしている安心感のあるお気に入りだって聴きたいし観たい。

幸い音楽はお化粧しながらでも聴けるから、朝の「はなまるマーケット」の時間をこの時間に充てようかと思う。
映画よりも小説よりも全然、比べ物にならないほど取り込むのは容易い。
朝テレビを見ない、というのは小さくない変化かもしれない。
とりあえず、濫聴。

サマソニってライブなんだよね?
フジロックって富士山でやるの?
と今さら人に聞けないような質問よりも口に出せないくらいの質問を、それでも知りたくて口にする。
インターネットは優しく教えてくれるし、無知を開き直って人に聞くくらいの度胸くらいはある。

数か月前にヒロトのライブ映像をYouTubeで見たときにドキドキして固まってしまったあの状況と同じようなものか、もしくはまた種類の違う揺さぶられ方か、どちらでもいいからもう少し音に求めてみたいと思う。
そうしていると、たぶんとてつもなく大きな憂い、のようなものにもぶち当たる気もする。
赤剥けの皮膚は触ると痛いんだろうと想像できるけれど、もしそれを誰かと共有するのであれば、思いやりと優しさをもって素直でありたいと思う。

今私の部屋にはスピーカーが数年前に買ったノートPCしかない。
音の良し悪しなんて私にはわからない、と思っていたのだが、そうでもないことにちょっとだけ不満を覚え始めてしまっている。
しかしどれを、どのレベルを買っていいのかが全くもってわからない。
これは値段と大きさとレベルと、様々すぎてインターネットは優しく教えてくれない。

とりあえず仕方がないからiPodをイヤホンにつないで流す。
今日はブルーハーツでもハイロウズでもクロマニヨンズでもエレカシでもなく。
青さや強さや熱でなく、憂いたっぷりなPVの映像とリンクして音が消せない。
どうしても、消せない。
音だけを先に聞いていたとしたら私はもしかすると立ち止まることがなかったかもしれない音楽。
私にもたらしている感覚が何かも説明ができないし消化もできない。
してやられているとしても、笑えない。


書道もお花も言葉も色も映画も音楽も、揺さぶられたい私がかき集めるもの。
一通りのかき集めた感が持てたら、やってみたいことがある。

毎日ひとつ以上、桃が花開いていく。
おめでたそうな、自己顕示欲が強そうな、暗闇でもそれがピンクだとわかりそうな、そんなピンク色。
木に通っている血はピンク色かもしれない。

思いがけず、というか花屋さんでこの花はどう散るかということを想像していない、はらはらと花びら散るものだから、花瓶から大きく扇状に伸びた枝々に少しでも触れると、床に花びらが散らばってしまう。

今年はスギ花粉が飛ぶのが随分遅い。
このまま冬の寒さが続いて、面を裏返したように夏が来るのであれば、この寒さもありかなと思う。



忠実な犬

2012-02-26 23:33:20 | 日記
桃の枝と雪柳と菜の花の入った縦長のビニール袋を持って、友人とレストランに向かう。
桃の枝はたくさんのはじけそうな蕾をつけている。

ロックに心揺さぶられっぱなしの私たちは、こじゃれたレストランで、会話の8割を「ヒロトとマーシー」の話に費やした。
こじゃれたレストランの店員は、料理の説明をする隙を与えず二人の世界に行ってしまっているおかしなテーブルに困惑していた。
ブルーハーツのアルバムを貸してくれた彼女。
私はその後ハイロウズに進んで、彼女にハイロウズを猛烈に勧めた。

はっきり言って、ほとんど何を食べたのか記憶にない。
一緒にいた彼女が飲んでいたのはノンアルコールビールだったのに、私たちは傍から見ればひどく酩酊状態だったろうと思う。

ヒロトは私が一人のときも十分に楽しませてくれるけれど、同じように共鳴している誰かとそれを共有するのはハイレベルなエクスタシーだ。
「幸せを幸せだとそのときに認識して味わうことができる」ことは、あのときは幸せだったと振り返ってそう思うよりもずっと幸せだと思う。
自分のことは自分で負う、だから、興奮したい、笑いたい。

お酒のせいでもなく、体は発熱していて、熱い体のままカラオケにまで行ってしまう。
そこには成長した高校生の彼女がいた。

これはもう生のヒロトを見ておかなければならないと思って、私はクロマニヨンズに進んだ。
5月のライブのチケットが3月に販売開始する。
ライブチケットの取りづらさが想像できないが、とにもかくにも手に入れたい。

彼女は私に「死ぬ気でチケット取ってね」という。
人に「死ぬ気で」と頼んでいるところが面白い。

いつもずっと上から見下ろしているもう一人の私が、最近見当たらない。
いや、見当たらないわけでもないけれど、頻繁には見かけなくなった。
上から見下ろしている私は、感情が大きく振れているときによく見かける。
感情が大きく振れていることが少なくなった、ということではなくてむしろそれは逆。

冷めていて嘲笑するのが得意な、上から見下ろしているもう一人の私。
ちなみに上から見下ろしているだけあって客観的思考は地に足ついている私よりも優れている。

どちらが本当、ということはない。
どちらも本当。

たぶん上から見下ろしていた私が、私の肉体の中に降りてきて重なりつつある、ということのような気がする。
そして失いつつあるのは感情が振れたときの客観的思考。
そして、それを危惧してくれてセーフティネットを買って出てくれる優しい友人。

時々のわがままを貫く。
配慮に欠けたということを十分に知りつつ。
ごめんねもうしばらくしないから、と思いながら。

良くなりたい、気持ち良くなりたいだけ。



この詩、私は感じ入ったわけではない。
書き手のどうしようもなさややるせなさが面白い。
ただ、作品にするには長いし結構場違いな気もする。
しかし漢字と平仮名のバランスがちょうどよく、かっこつけやすい漢字も多い。


五行   谷川俊太郎

遠くで海が逆光に輝いている と書けるのは
私がホテルの二十五階にいるからだ
高みにいると細部はなかなかな見えないものだが
紙は高みにいたくせいにどうやって細部に宿れたんだ
悪魔の助けをかりなかったとは言わせないぞ

老眼鏡をかけて本を読む女の顔のあたりに
うるさい蠅のように言葉が群がっている
それらは事実も真実も語りはしない
かと言って面白い法螺を吹くわけでもないのだ
ただ蛆のうごめく暗がりにまた帰って行くだけ

黒いセーターを持ち上げている乳房のふくらみ
それを恨みに思うのはそれに焦がれているからだ
そんな心の仕組みが出来上がってしまった幼年期ははるか昔
いま記憶の中に乳房は影も形もなく
ただ羊歯類が茂っている夢の湿地がひろがっている

なにかもの静かなものを思い描こうとして
台所の棚に口の欠けた急須が残っていたのを思い出した
そこからの連想で昔の恋人のことが心に浮かんだが
その人に対する責任はもう時効になったと考えている私は
この詩の中なの私で現実の私ではない

あのときは口先だけで謝っただけだったと
涙ながらに詫びる男が今回は本気だと差し出すのは数枚の紙幣
確かに紙幣は偽札でない限り嘘をつかないし
ときには言葉以上に雄弁だとも思えるが
こめられた意味は荒々しく一義的で韻律にも欠ける

生々しい感情はときに互いに殺し合うしかないが
詩へと昇華した悲しみは喜びに似て
怒りは水の中でのように声を失う
そして嫉妬があまりにたやすく愛と和解するとき
詩は人々の怨嗟さえ音楽に変えてしまう

鬱の朝九時は鬱の夜九時とさして変わらず
通販で買った朝ではないから消費できない
太陽は生殺与奪の権を握っているくせに濃い笑顔
皿の上の塩鮭よ 急流を遡ったことを覚えているか
インク香る朝刊よ 偽善を定義せよ

たったいま死んでいい という言葉が思い浮かぶ瞬間があって
そう口に出さずにいられないほどの強い感情があったとしても
その言葉通りに本当にその場で死んだ者がいるかどうか
だが喃語にまで溶けていかずに意味にどんな意味があるというのか
言葉の死が人を活かすこともある という言葉が思い浮かぶ

昨日を忘れることが今日を新しくするとしても
忘れられた昨日は記憶に刻まれた生傷
私には癒しであるものが誰かには絶えない鈍痛
だがその誰かも私に思い出させてくれない
私の犯したのがどんな罪かを

その人の悲しみをどこまで知ることが出来るのだろう
目をそらしても耳をふさいでもその人の悲しみから逃れられないが
それが自分の悲しみではないという事実からもまた逃れることが出来ない
心身の洞穴にひそむ決して馴らすことの出来ない野生の生きもの
悲しみは涙以外の言葉を拒んでうずくまり こっちを窺っている



オムライス風

2012-02-22 13:52:52 | 日記
東さんの生け花の、Anthurium andreanum,Camellia japonicaの一作を見て、そのカメリアの愛らしさといったらなくて、もちろんそれは東さんの手腕によるところが大きいのだけど、これぞ艶やか、というピンク色の花びらに朝から凝視してしまった。
真ん中の雄蕊はその性質により筒状に黄色が集まっている。
バックにアンスリウムの赤、強いものが強いもの同志で、認め合いながら引き立てあう。
造りもののコサージュみたいに、うそみたいに、均整が取れている。
思わず衝動的にFacebookの「いいね」を押したのは初めてだ。

花としては植木のイメージが強く、芍薬のような柔らかな花びらがこんもり重なっているほうが好きな私にとってはこれまでさほど気にしたことはなかった。
それにどんなに満開に咲いていても圧倒されるような椿の集まりがあるところは見たことがない。
しかも椿、と聞けばなんとなく椿オイルを先に想像してしまうし、カメリア、というと「シャネル カメリア」が先に浮かんでしまう。

花だけを切り出して、接写するにはとても様になる花ではあると思う。
椿は、牡丹と同様に、花びらがはらはらと散る奥ゆかしさは持っておらず、「散る」のではなく花ごと「落ちる」

家にいる赤紫色のカラーがようやく枯れてきた。
花だと思っていたカラーの漏斗状に巻いた部分は葉先が変化したものらしい。
中にある雄蕊と思っていた部分が、正しくは花の部分。
どう枯れるのかと見ていたが、先に花が黒ずんで枯れ、その葉先に血が通わなくなってきたかのようにこちらも黒ずんできた。
花開いたり伸びたり、褪色したり黒ずんだり散ったり、その変遷は留まらなくて愛おしい。

切り花は不思議だ。
根っこからは切り離されていて既に死にゆくことは明確であるのに、そこでまた水を吸い上げて花まで咲かせる。
一方鉢植えで根っこを持っているものも、枯れるものは枯れる。

楽しませてくれてありがとう、と、そっと、捨てる。

移り気激しく、次は何を、と考えるエゴイスト。
次は梅か桃と決めているけれど、わからない。

私は感動を黙っていられない性質なのだと、ふとさっき気付いた。
その真っ只中から少し抜けると、どうにかして伝えたい、というよりは吐き出したい。


ちなみに写真は山茶花。


DSUM

2012-02-21 00:41:07 | 日記
例年がどうかわからないが、三寒四温というには時期がまだ早いのだろうか。
寒さの終わりが見えなくて、気づいていなかったけれど、花粉がまだ飛んでいないようだ。
日の長さだけは確かに長くなっていて、少しだけ陽光に力が増した気がする。

3月は、一面真っ黄色の、目も眩むような菜の花畑に行きたい。
5月は、いつかの天国みたいだった鳥取の花回廊にもまた行きたい。
7月は、北海道のパッチワークの花畑を実現させたい。
8月は、倒れるような猛暑の夏のひまわり畑にもまた行きたい。

そんなことを考えていると、富良野の花畑の頃にはこの世に新たに始まる2つの人生が割と身近にあることに、ただ単純に驚いてしまう。
おそらく花よりももっと心突き動かすものなのだろうと思う。
それまでの自分の感動の際限を軽々と飛び越えるようなそんな経験なのかもしれない。

思考などが及ばない、及ばなくてもいい摂理に対してのせめてもの思考。
4,5か月後の自分の姿が想像できる。

近々私はたぶん、仕事終わりの早い日に花屋さんを通るたびに見ている梅の枝を連れて帰るだろう。
一輪挿しがお似合いな主張の強いあのダリアは連れて帰りたいときにはもういないかもしれない。

ふと思ったが、書道の展覧会作品で、ブルーハーツかハイロウズの詞でも書きたいところだ。
それこそ気違い扱いされるだろうか。
でも絶対、意味のよく入ってこない漢詩を書くよりは技術の有無をさておき躍動的になるだろうと思う。


小さな石を投げるとどういう音がするだろうとかどう跳ね返ってくるだろうと観察していたけど、それには石が小さすぎたみたいで。
大きな石を投げようかと思ったけれど大きな石は重たいから。
そのうち小さな石も投げるのも面倒になってきて。
それでも投げた石が跳ね返ったわずかな反響を聞くと、私は蕾を手にしたような気になる。
蕾は咲く、咲くは笑う。