湯島天神で行われていた菊まつり。
とうとう私は花を見にそんなところにまで足を運ぶようになった。
どうやら学問の神様がいらっしゃるようで、中学受験を控えた小学生とその親たちで賑わっていた。
また、この菊まつりは菊を出品できるらしく、その展覧会でもある。
「優秀賞」やら「文部大臣賞」やら立派な賞の名が菊に掲げられているが、私には生憎写真の邪魔になるだけだった。
しかしいかに立派に、いかに堂々と魅せるようにと、たぶん自然のままでは頭が重すぎて折れてしまうほどの菊の花がワイヤーで支えられていた。
大きな作品では花を咲かせる場所へ花を誘導するようにワイヤーや紐で括られている。
そのままでは垂れてしまうほど花びらが柔らかいのか、病気の犬がつけるような、メガホンのようなもので覆われているものもあった。
しかし、自然の状態ではない、見ていて不愉快だ、とは思わない。
確かにどうにも見栄えが悪いものもありそれは宜しくないが、それは私の美意識の問題である。
東さんがいつかに言っていたが、「植物を殺して、生かす(活かす)」
見る者は人間であり、殺すのも人間であり、生かすのも人間である。
人間の表現欲求の一手段として使われるときの花は、決して人間そのものだけでは成し得ない、花そのものの美しさや生感、おどろおどろしさみたいなものが顕著に表れる。
だから自然の姿もそれはそれで良いが、作品としての花も私は好きだ。
人の頭ほどの大きさもある巨大な菊の花は、何枚もの花びらがぎゅっと密集して重なり、黄色や白、黄色に赤の絵具をさっと塗ったようなもの、外が白で中が真紅のものなどさまざま。
同じ白でも様々な白があって、あるものは白以上の白をしている。
白はとても派手な色だ。
コントに出てきそうな外人のカツラに見えるふざけた感じの花や、大胆に秋波を送ってくるかのような妖艶な姿の花。
全体像も表情もそれぞれ違う。
艶つやと水分を湛えていて、齧ったらジューシーな果物みたいに果汁が滴るかもしれない。
小ぶりのガーベラのような菊や花びらが線のように細く放射状に広がっている見たことのない種類のものもあった。
最終日ともあり枯れ朽ちているものもあった。
その足で『ステキな金縛り』を観に行く。
もう私は完全に三谷幸喜の喜劇が観られる。
どたばた進んでいく物語と仕組まれた笑い、最後に心に響くストーリー。
王道なプロットにも関わらず私は映画館で涙を流した。
それは紛れもなく私の中にまだ消化しきれない父への思いがあるからだ。
私が生きているこの父のいない世の中には、父のことを思い出して私を泣かせる引き金となるものがたくさんある。
そしてたぶん、私にはまだ少し時間がかかるだろうと思う。
これまで臨場感のある映画しか映画館で観る価値はないと思っていたのだが、喜劇も映画館で観るべきだと思った。
笑いのシーンで会場がどっと沸いたり、ほろりとするシーンで観客が釘付けになったり、シーンごとにシアター自体が動くような観客の反応を想像して作っているのだろうとさえ思う。
ついでに『阪急電車 片道15分の奇跡』を借りる。
最後には本当に「悪くないよね、この世界も」と思わせてくれるきれいな映画だった。
奇跡的な出来事と奇跡的な会話、奇跡的な関わり合い。
息を吹きかけられている氷のような心持ち。