つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

スペシャルサンクス!

2013-04-30 23:28:55 | 日記
直島。
俗にアートの島と呼ばれているだろうか。
いつか行ってみたいね、で留まれない私たちはまた弾丸の旅の企画をして、岡山駅で落ち合った。

5月、休日、青空、新緑。
季節と天気が、その良さをとっても盛り上げてくれたけれど、それを差し引いてもとても気持ちの良い場所だった。

今は京都に住んでいる彼女と旅行に行くときは、旅先で会うことが多い。
いつも早朝、始発の電車に乗って、飛行機やら新幹線やらでひとりで目的地に向かう。
もちろん帰りの道中も同じようにひとりだ。
ときに、ひとりは都合で帰り、ひとりはもう1泊そこに残る、なんてこともある。

東京と京都で離れてしまって以来、私たちは会うや否やものすごいスピードで喋り出す。
高速フル回転のマシンガントークである。
まあ彼女が東京にいるときからそれはさして変わりはないか。
夜、お酒を飲んで、しばらくして眠くなるまでそれはずっと続く。

彼女は生粋の京都弁なので、私も若干ながらそれに引きずられて、口調をおかしなことにさせながら喋り続ける。
たわいもないことを喋っていることもあるのだけど、私たちは割と重要そうなことを延々とマシンガンで喋り続ける。
その相手の高速な喋りを聞き流しているということもなくて、また、笑い転げているというようなこともない。
そのレスポンスはあまりにも的確で、結局のところ自分の考えをお互いでまとめ上げているような作業に近い。

最近の話、家族の話、仕事の話、アートの話、趣味の話、友達の話。
全部を知ってもらいたい、と強く願ったわけではないけれど、結果的にお互いの結構な範囲の話を話しているし知っている。
彼女は私のことを会って一目見れば、たぶん私の精神状態がどのようであるかある程度の深さまでおよそわかるのではと思う。

ちなみに彼女はとても合理的な人なので、彼女といるときに私はあまり頓珍漢なことは起こさない。
足を滑らせるくらいのことはするけれど。

直島はとても便の悪い場所だった。
島内を走っているバスは1時間に1本程度、島と島を行き来している船は2時間に1本程度、一日の最後の船は15:55、タクシーは各島に1台、そんな具合である。
観光協会の人も、4月に変わったらしいタイムテーブルを把握しておらず、タクシー会社も今日は日曜日だから休みかもしれんねえ、と呑気に言う。
レンタサイクルもレンタカーも、繁忙期の観光客数には全然追いつかず、移動手段を逃してしまった人には本当に身動きが取れなくなる。

実際に私たちも、豊島からのアクセスをきちんと確認しなかったために、バスを逃しレンタサイクルもタクシーもレンタカーもだめとなり、豊島まで来たはいいものの、まるまる2時間何もすることがない状況に陥った。
豊島美術館はそれを見ずして、豊島に来たとは言えない、というくらいの目玉の観光地だから私たちは途方に暮れた。
他に見るものが特別にはない、ということもある。

仕方がないので、のどか過ぎる島の風景を見ながら散歩をしていると、レンタカー屋のおじさんから折り返しの電話がかかってきて、12時までなら大丈夫と言う。
しかし、一緒に行った彼女は前日に財布をすられていて免許証を持っていなかった。
私は免許証は持っているけど、運転ができない。
大急ぎで準備してくれた書類を記入しながら、私はおじさんを見上げて、「できれば、美術館まで送っていただいて、12時にまた美術館まで迎えに来ていただくことはできませんか・・?お金、お支払いしますので・・・」と申し出た。
だって私は、何の誇張もなく、車を発進させることすら危ういのだ。
免許を持っている私が、レンタカー屋からおじさんたちが見えなくなるところまで運転しなければならないだろうから、それは本当に無理なのだ。

おじさんは、「そうか、その手があったわ」と言って快諾してくれて、軽自動車で細く曲がりくねった丘道を疾走して私たちを美術館まで届けてくれた。
ついでにと言って、おじさんは島の名所をいくつか疾走中に通って説明してくれたけれど、それが何だったのかが方言がきつくてよく覚えていない。

あのあたりには島がいくつか点在していて、直島、豊島、犬島の各場所にベネッセが建てた美術館がある。
安藤忠雄が設計した近代的な打ちっぱなしコンクリートの美しい建物である。
私は中にあった美術作品については、さほど好きではなかったのだけど、その建物と周りの環境は素晴らしかった。

まさに「異空間」という感じの建物の中は、「どこだろう、ここは」と単純に感嘆の声をあげてしまうような、これぞ「非日常」という空間だった。
新しいことはとりあえず何でも、貴いものだなあと思う。
遠いところは疲れるけれど、新しいことに触れに遠くに行くのは、何か自分を知ることができるかもしれないことだ。

以前私は、所謂絵画などのアート作品を観ても、好き嫌いをはっきり言うことはなかった。
よくわからなかったからだ。

でも最近は顕著にそういうことが自分でわかることが多い。
作者が自分自信を露わにした作品が、作者がそれを本当に言いたくてやりたくてそうしている作品が好きなのだ。
小手先だけの理解でもなくて、センスや技術だけでもなくて、とてつもない壮大なことをやり抜いたということだけでもなくて、自分という人間が、それがそれでしかあり得ない様相で溢れ出てきてしまう、そんな作品。

そういったことは、ここの美術館には私は感じられなかった。
ただ、国吉康雄さんの説明で、本人の話した言葉として、「アーティストは制作にあたり多くの壁にぶつかる。私は暗いものの中の暗いものを描くことに興味があった。それが自分にとってなんであるかが分かるまでに数年を要した。それが分かることは一時の満足が得られた。しかしそれは私の人生の重要な一点であったに過ぎない」というようなことが書かれていて、これには感銘を受けた。

この島々は、少し前にベネッセが大規模な資本を投下して、大がかりな建造物を建てなければ過疎化が激しい閑散とした島なのだと思う。
アートの島としていきなり名前を付けられたこの島は、文化に染められた人たちがたくさん訪れるようになって異色な雰囲気を漂わせている。

それでも、沖縄のように本州の人が移住してきて、民宿をやっているようなこともほとんどなさそうで、夜の人けのなさやフェリー乗り場にどこからともなく集まってくるおじいちゃんたちは昔のままのような感じがした。
浸食されているというふうに感じないものかと思ったりもしたが、それほどの開発もおもてなしも進んでいないようで、観光産業は島の内部を脅かしているようなものではなさそうだった。
便が悪いから良いところ、そう言えなくもなさそうだった。

たくさん深呼吸をして、たくさん喋った。
島に1件の深夜営業のバーが満席で入れなくて、12時間くらい寝た。

彼女を島に残して、一足先に私は岡山空港へと向かった。
私が家に着く頃、「今いるお店で、さんたらーらー、が流れてるよ」とLINEをくれた。
「さんたらーらー」とは「日曜日よりの使者」のことだったらしい。
そういえば彼女はまた、自然の気が強いところで、「気の動きが見えへん?」と私に言っていた。
「見えない。でもね、見えると言っているのは信じてるよ」

誰と一緒に過ごすかは、あるいは過ごさないかは、人生を決めると言ってもいい、と言ったのは誰だっただろうか。

南国特有の強い色の花がところどころに咲いていた。

青空が背景だったら、何だってきれいに撮れる。
青空が背景だったら、何だって絵になる。



5割増し

2013-04-29 19:34:25 | 日記
友人のブログに載っていたハイロウズの「キャサディキャサディ」
私もYouTubeで聴いてみる。

マーシーの叫びで始まるこの曲。
マーシーが叫んでいるただそれだけで、その序盤の10秒間くらいで、私はまた心を引っ掴まれて、泣いた。

マーシーはよく叫ぶし、そんなことは知っているし、今までも何度も見ているはずだった。
それでもなぜか、あのマーシーが、こんなふうに叫んでいる、と思ったのだった。
ぎゅうっとなって気づくと息が止まって涙が溢れていた。
初めて見たそのライブ映像に、私は久しぶりに「リンダリンダ」のときのような衝撃を受けた。

歌詞もよくわからない。
ヒロトの姿もない。

彼らの曲は全部好きだし、すごくすごく私の中に入ってくるけれど、それはいつも歌詞を含めたパフォーマンスだ。
でもこのマーシーから受けた衝撃は、たぶんそのあり方そのものの何かを受け取ったからなのだと思う。
どろどろでもぐちゃぐちゃでも、伝えたいことがあるんだという思いの力が、猛烈に私を突いたのだと思う。
これいいな、というレベル感でない突き刺され様。

今回に限っては、曲調でも歌詞でもない。
マーシーそのものなのだと思う。

ハイロウズは一時すごく迷っているように見える。
彼らがブルーハーツを終えて、そうなってしまったように見えたのは、人の目があったからだと思う。
ブルーハーツを崇めるような人たちがたくさんいて、でもブルーハーツだって自分たちが正しいと思ってやって来たことで。

それでも時間の流れとともに色んな経験を経て、自分も変わっていく。
変わっていくことは至極当然なのに、変わらないことを求められて。
変わらなければならないということも、変わってはいけないということも、本当はなくて、ただ変わっていくものなのに。
もしくは、変わりたい、と願ったときに自分で変わっていくものなのに。

経験と年を重ねた彼らがしたのは「成長」ということとも少しニュアンスが違うように思う。
「成長」していない、という意味ではなくて。
ひたすらに自分がやりたいことを、変わっていく中でも、求め続ける姿勢を彼らは持っていたのだと思う。

そんなようなものと戦っているハイロウズの歌は、攻撃的で抗っていて、物事を射抜いていることが多い。
お茶目で青臭くて切ないものもたくさんあるけれど。

「笑ってあげる」「アネモネ男爵」「ダセー」
最近とてもよく聞くマーシー作詞の曲たち。


裸になって滝に打たれても
結局何にもわかりゃしないだろ
日々の煩悩と欲望の中に
しっかり確かな手応えがあるぜ
キミは笑われたことがないんだろ
笑ってあげる
眉間に皺を寄せてるキミを笑ってあげる





屈強強靭堅牢頑強なタイプ

2013-04-25 23:14:02 | 日記
身体のままにすると、私は8時間くらい寝たい。
でも平日はどうしても8時間は寝られない。
起床が8時だから、普通のサラリーマンに比べれば遅い方だと思うけれど、12時に寝るとしたら11時半にはシャワーを浴びて、となるから難しい。
でもだいたい、1時半から2時くらいには寝るようにしている。

慢性的に眠いのだけど、まとめ寝ができるタイプでもなくて、休みの日に昏々と眠ることはできない。
と言っても12時間くらいは眠れるけれど。

寝るのが4時でも5時でも次の日遅刻をしたりは滅多にしないけれど、まあまあのパフォーマンスをするには最悪3時と思っているし、2時を過ぎた頃には著しく思考能力は低下する。
3時を過ぎるとその場で寝ないにしても返答がとても適当になる。
こうなると言っていることも聞いていることも、咀嚼できない状態なので、何かを閃いたりも腹に落としたりも難しくなる。

私はお酒の種類もカクテルの名前も全然わからないし覚える気も全然ないけれど、マティーニが飲んでみたかった。
第一、お酒の味は私にはよく分からない。
どこかのバーで飲んだ、「そんなに甘くなくて、柑橘だけど棘がない感じの・・」と頼んで出てきた酸っぱめの梨のカクテルと、いもうとが買ってきたレーズンをそのまま溶かしてワインにしたような10年物のポートワインがとても美味しかった記憶があるけれど、それ以外で味が記憶に残っているお酒はない。

「セックスアンドザシティ」でキャリーがいつも飲んでいるあの扇形の小さなカクテルグラスとちょこんとシルバーの爪楊枝のようなものに刺さったオリーブが印象的だった。
でもその場にいるとマティーニを飲みたかったことを忘れてしまうので、それを観てからもう随分と何年も経つのだけど今までその機会はなかった。
何が入っているカクテルなのかも全然知らなかったり、知ろうとしたこともなかった。

マティーニは、「セックスアンドザシティ」のそのままの感じで出てきた。
扇形のカクテルグラスを持って少し傾けると小さく揺れて、口が外側に開いているグラスなものだから少しこぼれてしまった。
少し口にすると、酷く強いお酒であるとわかった。
そうか、だからキャリーはこのお酒を3杯飲んで酔っぱらったと言っていたのか。

調べてみると、ジンとベルモット、度数は35度。
味はなんとも言えない、ジンが強くてほんのり苦みがあって。
私はそれまでにもビールと日本酒を飲んでいて酔っぱらっていたので、大人の味、とまとめてしまうことにする。


なんだか、うまくいかないことが色々とある。
納得がいかないのは自分のせいだけれど、突き詰めても納得し切れることなんておそらくなくて。
それでも切り離せないことがわかっているから、ボディーブローのようなダメージとして体に残る。

仕事において、事務的とか杓子定規とか、そういう対応が正しいと思ってきた。
言った言わないとか聞き間違いがあってはいけないから、メールでできる限り簡潔に用件だけを伝えることが正しいと思ってきた。
昔やっていた仕事の種類が、そういうことが大事な業務内容であったのは事実で、それが染み付いてしまっている感もある。
それに、確かに、引いてみたり、周ってみたり、一本電話を入れたりが苦手で、人から自分を防御している面もあるはある。
といっても、言うほどの仕事経験は私にはないのだけれど。

これまで過去に、私は間の間の間に挟まった仕事をしてきていて、身を切ってお金を出す側の相手が近いところにいたことがなかった。
それに相手にリスクを負わせるような仕事の内容をしたこともあまりない。
私に与えられた仕事がそういう内容であったということと、それだけ守られた立場で仕事をしてきたのだと思う。

自社のリスクならまだ良いけれど、ある側面で賭け事のように人生の大きなものをこちらに預けている場合もあって、そういう方々と直接的で近い立場で仕事をすると私のやり方は結構機械的で唐突らしい。
それに加えて最近は特に単純な抜け漏れもあって、それはそれで大問題であるが。

ビジネスの肝となっているところは抜かりなく、その他のところは人間らしく。
そういうことだろうか。
でもあまり過剰に対応しているわけにもいかない。
要は相手の気持ちを汲んで対応しなさいということだと思うけれど、加減も分からなければ、自分のやり方も分からない。

情けないなあと思うのと、私が明後日の方を向いているのもまた現状は問題すぎる。
明後日も明後日で、まだ見通せない明後日。



黒いジャケットを着た背の高い

2013-04-23 23:59:14 | 日記
「住む世界が違う」ということはよく聞くセリフだが、そういうことは色んなジャンルにおいて存在する事実だと思う。
お金をたくさん持っているか、そうでないかによってよく使われる皮肉でもあると思うけれど、それ以外にも、皆が皆それぞれの世界を生きている、という意味において。

最近私はよく、何か表現物を創る人とそうでない人についての住む世界のことをよく考える。
そうやって括ると、私にとってその2つは、明確に住む世界が違う、と言える。
良いも悪いもないけれど、「住む世界が一緒」ということは物事や思いが共有しやすいということはたくさんあると思う。

自分だけで探して飛び込んで未知を切り拓くのも世界を広げることだけれど、あくまでそれは自分の世界の輪郭を自分で押し伸ばしているようなものだ。
でも他人がそれに介入することによって、自分の世界にヒビが入ることがある。
まあたとえヒビが入ってもその世界の外に出たようでも、もうずっと、自分の世界は自分だけのもので、一生自分の世界から出ることはできないとも言える。

住む世界というのは、ただ単純な意味でもそうでない意味でも、ひとり暮らしの部屋というのは、その世界観がとてもよく表れる。
ひとり暮らしの部屋は、何を大事にしていて、どういうことにこだわっているのかが詰め込まれる。
インテリアにこだわっているとかいないとか、掃除が行き届いているとかいないとか、それも世界感の一つの要素だけれど、それだけでない住人の心の在り処が否応なく表れてしまう。

だから、私は私のことを知ってもらうために人を部屋に招くことがある、ものすごく時々。
それでも事前に来客用に見た目を取り繕ったり何かを隠したりをするわけだけれど、部屋を見れば紛れもない私の何か側面を説明するのに手っ取り早いような気がして。
好きな人には、自分を知ってもらいたいというのは何とも身勝手な欲求だけれど、そういうものなのだと思う。

私はこう見えて、人に左右されやすいところがある。
というか、単純なコミュニケーションにおいて、同調する癖がある。
少なからず皆そうかもしれないが、顕著にそういうふうになることを自分で感じることがよくある。

相手が静かな態度で来れば、あたかも初めから私もその温度であったかのように接するし、すごくテンションの高い人に接するときは、あたかも初めから私もそのテンションであったかのように接する。
高圧的な人には高圧的になるし、ものすごく丁寧な人にはでき得る限りの丁寧さを努力するし、声の小さい人には意図的に私のボリュームを絞る。

おそらく、ある壁を超えられるのを拒む防御策なのだと思う。
当たり障りない感じして、文句を言われないように、相手を怒らせないように、自分の本当のところに踏み込まれないように、自分の恥をさらさないように、無意識のうちに体得してきたコミュニケーションの術なのだと思う。
人に合わせ、人に引っ張られる。

これを読んで、私の方の機嫌に引っ張られると文句を言いたい人もいるだろうと思う。
声の大きさなんて全然小さくなってないではないか、と突っ込みたい人もいるだろうと思う。
ただ、そういうふうになっているのは、私はあなたに心を許しているのだとご理解いただきたい。
それは私があなたのことが好きで、甘えているのだとご理解いただきたい。

親密度を推し量りながら、どのくらい出して良いものか、つまり印象管理をしている。
あるときは大事なことかもしれないけれど、あるときはとてもくだらない自己ブランディングに徹しているなあと思ったりする。


ひとりでは決して足を踏み入れない場所、ひとりでは絶対に触ることができなかったもの、ひとりでは発想することすらも及ばなかった体験。
それは自分以外の誰かの世界を垣間見ることから始まる。

BREEZEというジャズの男女2人ずつのコーラスグループを聞きに連れて行ってもらう。
そのハーモニーは、とても細かい粒子のミストのような、柔らかくて、角がない。
空気の中で生まれて、空気に溶けて、空気の中で生まれて、空気に溶けた。
楽器を弾くこともそうだけれど、自分という楽器だけを使って出す声というのは、ものすごい「芸」だなあと思う。

ここは地下の穴ぐらだろうかというほどのアンダーグラウンド感のあるバー。
時代も国も飛び越えてしまったような、くぐもったその場所は、どうにも“今”感に乏しい。

映画の中に飛び入りで入ったように、それは私には映像としてしか認識をされない。
刺激的で新しくて楽しいけれど、心の底を揺さぶりかけてきはしない。
刺激的で新しくて楽しいだけのことは、単発で取り入れたいけれど、それで長い間継続して自分を負い尽くしてはいけない。

似た者同士は世界を劇的に広げたりしない。
けれどやっぱり、似た者同士しか高度な共鳴は成せないのではとも思う。



秋葉原でお待ちしてます

2013-04-22 00:09:44 | 日記
玉ねぎが2個、先週買ったものが余っていた。
さあ、あめ色玉ねぎでも作ろう。
と、なぜかまた、あめ色玉ねぎを作り始めた。
また、あめ色玉ねぎを使って、何を作ろうとも考えずに。

今回は中くらいの玉ねぎ2個分を適当に刻んで、オリーブオイルを垂らして電子レンジにかける。
合計7分ほど加熱して、器も割れそうなほどに熱々になった。
熱々でくたっとなった玉ねぎをフライパンに移す。

味塩コショウを振って、あとはひたすらにフライパンの玉ねぎをあめ色になるまでかき混ぜ続ける。
粘度を増した玉ねぎは次第にあめ色になって、あめ色玉ねぎができた。
先週の倍の量の。

その場で菜箸でつまんで、できたあめ色玉ねぎを食べてみるとびっくりするくらいに甘い。
なんだこの甘さは、というくらいに甘い。

さて、今回はひたすらに炒めている間にも何を作ろうかを考えるのを忘れていた。
もう何も炒めたり剥いたりをしたくなかったので、ごはんの上にできたあめ色玉ねぎを全部乗せてその上から生卵を乗せる。
特製卵かけごはん。

あめ色玉ねぎ、あめ色玉ねぎ。
笑ってしまうくらいに、あめ色玉ねぎ。


桜新町に行く。
調べていて、サザエサンの街であることを知った。
サザエサンには全然用はなかったけれど。

「やるよー、やっちゃうんだよー」
というマーシーのシャウトそのもので。

雨はざんざん降っていたけれど、4月とは思えぬ肌寒い一日だったけれど。
私たちの歩く道は、いつも迷路みたいな軌跡を作る。
最初の道を間違えてはいけないと、スマートフォンに頼ってみても、結局4つの岐路があったとしたら4つ目が正解という方向音痴だけでは済まされない私たちの頓珍漢ぶり。
でも、それさえも彼女といれば、エンターテイメントになる。

「今私のプレイリストはね、ハスキー、青春、夏なんだな、Too Late Too Die、スーパーソニックジェットボーイ・・・・」と20曲くらいを空で言う。
「最近はね、デトロイトモーターブギのヒロトの声がね、もう」とそれを頭の中でリフレインさせながら言う。
している会話はこんなだけれど、だってもうそれが本当に楽しいから。

一見真剣ではないと思えるかもしれないけれど、真剣じゃないことなんてひとつもなくて、もちろん互いの人生や最近についての話もするわけだけれど、それが事あるごとに彼らにリンクしてしまうのだ。

通りがかった蚤の市で、きれいな色できれいな花の絵のきれいな手触りのお皿を買う。
真っ赤でまんまるでちょっとつぼんでいるライトは、まだ全然見ぬ新居のアクセントにしようかと思ったけれど、灯してもらうとかなりの赤色の光になってしまうので買うのはやめた。
ものはその機能を成してこそ、だ。


久しぶりに前髪を切って思うことは、邪魔だ、面倒だ、ということだ。
ぐんぐん伸びる私の髪の毛は、既に目にかかっていて非常に鬱陶しい。
でもここで切ってしまってはこれの繰り返しなのでやはり放って伸ばすことにする。
とりあえず、ポンパドールでいいか、とおでこを丸出しにする。

もういよいよ佳境の「情熱の薔薇」
自分の身体は濡れても紙を濡らさぬよう、傘をさす。
教室に6時間、缶詰になって書くこと6枚。
決してアクロバティックなことをしているわけではないのに、全身が見事に筋肉痛。

夜に、年末からずっと言っている私が文章として書きたいことを再び触れ始める。
実は何回も書いているのだけど、何かが違って、書いては消し書いては消しを繰り返している。
ようやく、何を書きたかったのか、どういう形にすればいいのかが見え始めた。
同時に、書いたあとにどうなるかは分からないけれど、これを書くことは想像以上の疲弊をもたらすことも分かった。
でも、もう少しで、書けそうである。


情熱の薔薇 作詞・作曲 甲本ヒロト

永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
いつまで経っても変わらない そんなことあるだろうか

見てきたものや聞いたこと
今まで覚えた全部
でたらめだったら面白い
そんな気持ちわかるでしょう

答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方
涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方

なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せ
なるべくいっぱい集めよう
そんな気持ちわかるでしょう

答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方
涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方

情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう
花瓶に水をあげましょう
心のずっと奥の方