つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

それ用

2015-03-30 12:18:12 | 日記
目が腫れてコンタクトが付けられず眼鏡で過ごす私に、いもうとは「眼鏡を石けんで丸洗いするといいよ、拭くのとは全然違うから」と言ってきた。
洗顔石けんを泡立てて眼鏡を洗う。
ティッシュで水気を拭き取ると、レンズだけではなくてメガネまでピカピカになっている感じがした。

早速かけてみると、とてもクリア。
これは良いことを聞いた。


3カ月ぶりくらいにスタジオに行った。
あろうことか朝9時から仕事で、途中の空き時間に私はドトールで一眠りした。

To be with you  Mr.Big
ひこうき雲  荒井由実
青春  ザ・ハイロウズ

3曲に絞って、一応歌詞とコードは覚えていった。
いやしかし、本当に準備不足であった。
一緒にやってくれる人に迷惑極まりないではないか。

「To be with you」のギターソロは私としてはかなり練習していったし、実際まあまあ弾けるようにもなっていた。
しかし人とやるのは緊張するし、合わせるとなるとさっぱり思い通りに手が動かない、音が鳴らない。

音楽が難しいのは、少しでも間違えてしまうと不協和音が鳴った挙げ句、音楽に置いていかれ、どうしようもなく取り残されるところにある。
それも技術があれば、不協和音を何となく流し、すぐに音楽に追いつくことができるのだろうけど。

それに、歌だって全然まともに歌えないわけで。
私は元々声が大きいのだけど、歌うとなると全然ダメで。

足りないものがあり過ぎて、大き過ぎて、私はまあまあ打ちのめされてしまった。
私は自分でやる音楽のようなものについて少しも自由を得られないでいる。

それでもなぜか、やっぱりそんなようなことはやりたくて、そしてそれをするには誰かと一緒にやる方が断然分かることが多いし、おそらく上達も早いだろうと思う。
もっと練習して、懲りずにまた一緒にやってくださいとお願いしてみようと思う。
お願いすることに酷く恐縮しないくらい、練習した方が良い。

ところでエレキギターを久しぶりにスタジオで弾いて、再びエレキギターっていいなと思い始めた。
最近はもっぱらアコギを弾いていて、私がギターを始めるときに友人からもらったエレキギターはもうしばらく弾いていない。
弦も錆びついてしまっている。

なんだか急に新しいエレキギターが欲しくなってしまった。
一度欲しいと思い始めると、その思いは途端に加熱される。

レスポールもストラトキャスターも、ギターが欲しいなら当然知っているような単語も、私は未だ何ら説明ができないのだけれど。


そんな前日に書いた「青春」
出だしに抜き出した箇所を、私は丸ごとすっ飛ばして歌ってしまった。


ふんわりと祖母がいた日の春の風




感激屋さん

2015-03-29 02:17:14 | 日記
大根半分を1.5cmの幅に切る。
皮を剥いて、2つに切る。
鍋に入れて、火にかけて、茹でこぼす。

大根の入った鍋に、もう一度水を入れて沸かす。

凍っていた生姜をスライスする。
大きな1かけだったけれど全部スライスする。
鍋に入れる。

凍っていたえのきだけとしめじを取り出す。
鍋に入れる。

凍っていた牛の挽肉を取り出す。
鍋に入れる。

ニラと豆腐を切る。
鍋に入れないで置いておく。

私は何を作っているのだろうか、この時点ではまだ全然決まっていない。
大根と牛肉と生姜の煮立った匂いは、「牛骨テールスープ」という詳しくは説明ができない料理名へと結びついた。

ちなみにもし、帰り道にカレーライスの匂いがどこかの家からしたならば、ここにカレールウを投入したかもしれない。

唐辛子を2本、酒、塩、昆布茶、ほんだしを鍋に入れる。
沸いてきたら灰汁を取る。

「牛骨テールスープ」にはラー油かと思い、なぜだか残りわずかのラー油を全部入れる。
味見をして、コクと甘味が足りないとみりんを少々。
「醤油で香りづけ」と言ったりするのを聞く気がしたから、醤油も鍋肌からひと回し。

ぐつぐつとしばらく煮て、豆腐とニラを入れて、さらにひと煮立ち。
「冷めるときに味が入る」と言ったりするのを聞く気がしたから、火を止めて冷ます。

当日はここにうどんを入れて、翌日はここに焼きそばの麺を入れて食べた。

たいだい、肉の力を借りて不味いものはできないと思うけれど、我ながら言いようのない美味しいスープであった。
言いようのない、というのは「この上なく美味しい」という意味ではなくて、「私好みの私に優しい美味しさ」のことを言う。

生姜と唐辛子のおかげで、体がぽかぽかとして、うっすら汗をかきそうだった。
こういう食べ物は冬に限らず、一年中食べると気持ちの良いものだと思う。


句会仲間のたかじさんと明子さんに俳句の書を渡しに、大学まで出向く。
たかじさんは「やぁ」、明子さんは「おや」、と普段あまり聞かない言葉を使う。
言語の世界は人それぞれ違うものだけれど、こういったあまり聞かない言葉を自分の言葉として話す人が私は好きである。

先日の私のブログで、「正義と真実のばか」というCDジャケットの3枚を載せたけれど、あれについてたかじさんが「字についてバイリンガルのようなものだ」と仰ったのは少し意外で、嬉しかった。

“きれいな字”というのがさなそうでありそうなこの世界で、私は一般的な“きれいな字”を教える仕事をしている。
たとえば「あ」という一文字さえも、隣に“きれいな「あ」”を置いてさえも同じようにはなかなか書けないものだ。
そして、なぜその「あ」がこの「あ」と違ってしまっているのかを多くの人は見つけることができない。

私はこういう仕事をする前から、もっと言うと大人になって本格的に書道を始める前から、本質的な良し悪しを置いておいて、“きれいな「あ」”が分かっていた。
今でも人の字を見れば何が最も“きれいな字”と乖離している原因なのかをざっと挙げることができる。
これができないと、人に教えることは困難である。
もしくは自分の字を丸写しにしろという強制しかできないことになる。

もちろん、“きれいな字”についても、創作において私はいろんな技術や理論を頭と体に入れているわけで、全くの天性なんてことは毛頭あり得ない。
ほぼ後天的な努力で成し得たと言っていいと思うけれど、何か原始的な、先天的な字に対する何か傾向が私にあるのだろうか。

私の杜撰な管理のせいで、書いてお持ちした半紙に皺が寄ってしまった。
台無し、とはいかないまでもやはり細心の注意を払わなければならなかった。
と言っても、初めてのことではないことを繰り返す私を見たたかじさんは大きめのクリアケースをくださった。

眼鏡にマスクで、ぼやぼやの視界の中、自転車で家に帰る。

展覧会への出品が近い。
やはり、苦労している。

しかしどうしても、向井秀徳「自問自答」を書きたい。

展覧会用の作品を書くのにあたり、また色んな歌詞を書に起こすようになった。


とっておきとっておけない花飾り





ハイソなガール

2015-03-25 11:33:15 | 日記
マスクで鼻や口から取り入れる花粉は大方防げるものの、目だけは防ぎようがない。
眼球が腫れてしまっている感じがしていよいよコンタクトを入れていられなくなったので、眼鏡で過ごす。

眼鏡は世界との隔絶感があるので、思考がうまくいかず、会話がうまくできない。
自分が喋っている言葉が浮いて聞こえるし、自分の脳も浮いている感じがする。
生徒さんに「三歩下がって三歩下がらないでくださいね」とまったくもって後進し続ける言葉をかけてしまったではないか。

眼鏡をかけてマスクをすると、眼鏡が曇る。
しかしマスクも外せないのでぼやけた視界で街を歩く。
夜、街頭や信号や月の光がひどく滲んで、幻想的な街が浮かび上がった。

こんなにぼやけていては世界は歩きづらいけれど。
たまのことなら、そんな世界も楽しい。


自分のことを好きだと言ってもらえるのは、嬉しい。
私が思う自分のことと乖離少なく言ってもらえたら、尚嬉しい。

どんなにその人にとって些細なことであったとしても、ふと口について出るくらいには好きでいてもらえること。
心の一点が薄ピンクにふわっと染まる感じがして。

私が集団を好まないのはおそらく本当だけれど、人との関係はとても望んでいるし、孤独主義者でも何でもない。


昨年、CDのジャケットを揮毫させていただいたもの。
初めてのご依頼だったのでパターンをいくつかお持ちしたら、印刷をご自分でやるとのことですべてを採用してくださった。
このCDを買われた方から、ジャケットに対する感想を聞くこともできた。

とてもありがたいお話だったなと思う。


膨らんだラッパフリージアが歌う




優しいハイボール

2015-03-23 12:20:32 | 日記
過去作品を自分でもまとめて眺めたいときがあって、裏打ちに出そうかとも思っていたのだが、書いたもの全部をとっているわけでもないし、ちょうどブログに写真をまとめる機能があったので使ってみる。
もう少し、ブルーハーツ関連、俳句など、場合分けしたものにしたいが、とりあえず一枚一枚にタイトルを付けてまとめてみた。

古いものは写真が非常に粗い。
そして技術的な粗さもある。
しかし、力任せに書いている雰囲気は、今でさえ、1年前の方が上だったなとも思う。

最近は写真のテイスト含め、少し加工をしているので見栄え自体は上がっていると思う。
書いてすぐ撮ることにしたのが大きい。
乾いてからでは紙が歪んでしまって、裏打ちをしない限りはピンとした状態で撮ることができない。
しかしながら、特に淡墨の場合には、乾いた後の墨色が問われるのでそういう点では、書いてすぐ撮ることは望ましくないとも言える。

(ブックマークにも置いたので、そちらからもご覧いただけます。)




俳句や写真もそうだけれど、自分で何かを創ったものは一部日記的要素が含まれる。
そのときの精神状態や、そのときの風景や。
それがリアルであれフィクションであれ。
そしてひっくるめてリアルで。

今、「リンダリンダ」を私はあのように書かないような気がするし、書けない。


ある人のライブを見に行った。
「上手い」ということは重要なことだなと思うと同時に、「一生懸命」というのも重要なことだなと思った。

創作物から、何かエネルギーや元気といったものを受け取るだけでも価値があるとは思うけれど、“愛”の意味の語釈など一義的にできないものだけれど、創作者本人の極めて個人的な何かをやっぱり伝えたいのではないかと、私がそう思うことは傲慢なのかもしれない。

隠された何かを見るために、それをむき出しにしていくのは思いの外大変で、もしかするとそんなにいいものではないのかもしれないのだけれど。
いやでも、きっとそれは“安心”なのだろうと、私は思い続けている。


置き手紙の向こうで風光る君




担当

2015-03-20 17:29:38 | 日記
遅く起きて、春菊を茹でる。
同じタイミングでシンクで布巾を漂白していた。

春菊が茹だった鍋をシンクでざるに上げると、春菊の茹で汁で漂白している布巾がきれいな薄緑に染まった。
いい色、と思ったけれど水をかけると薄緑は抜けていった。

書道用紙を、自分で染色している人がいる。
何かの葉っぱを煮だして浸けて、乾かすのだそうだ。

それでしわしわにならないのかとか、墨の滲みはどうなるのかとか、色々と気になる。
そして、至極面倒な部類のことであるのだけれど、とても興味がある。
しかし、相当なきっかけがないと取り掛からないだろうなとも思う。


「四月は君の嘘」を借りたので読む。
「ジョジョの奇妙な冒険」の第七部は10巻で読み止しになっている。
私にはあのマンガは、言っていることは気になるのだけれど、いかんせん絵が難しいのである。
男子漫画どころか漫画初心者なので、あまりにファンタジックな世界や、芸術的な絵だと、入ってくる情報が多すぎてショートしてしまう。

「四月は君の嘘」は絵的にも内容的にもとても読みやすい。
中学生のバイオリニストとピアニストの話だが、音楽のこと、というか音楽を表現とすること、について知りたい私には読み進めやすい。
そして、幾度か泣かされそうになる。

音楽を表現とすることを描きつつも、本質は「自分は何者なのか」に尽きる。
「バイオリニスト」でも「ピアニスト」でも「音楽家」でも「演奏家」でもなくて、ただの「私」であるということ。
音楽は表現の一手法である。

「自分を見失う」というようなことが時々聞かれるが、私は長らく「自分を見失う」という言葉の意味が分からずにいた。
自分は自分であるのに、それを見失うというのはどういうことなのか、また、見失っていることもまた自分なのだと思っていた。
要はそれについて考えること、直視することが嫌だったのだと思う。

しかしながら、いつ何時も「自分を見失っているのかもしれない」と体で分かるようになったように思っている。
それもまた、見失っていることもまた自分なのだ、というその地点で思考を止めることももちろん可能なのだけれど、それはまあしたくなくて、よく言われるところの“本当の自分”に出会いたいのだ。

と、電車で隣に座っているおじさんが夕刊フジを読んでいて、脳科学者の中野信子さんのコラムが載っているのを目にした。
「通念を超えた奇跡」という見出しに思わず食い入っておじさんの新聞をみてしまったのだが、あいにくページをめくられてしまったので、夕刊フジを買った。

空海の話と人間性の一貫性について書かれていた。


イメージを我が物にする沈丁花