つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

金木犀が成せる技

2014-09-28 18:10:17 | 日記
iPodshuffleの充電が切れてしまって、音がないと物足りなすぎて自転車を走らせられないので、iPhoneにイヤホンを差し替えて聞く。
図書館で借りて1,2曲くらいしか聞いていなかったリンゴスターのアルバム。

ジョンのソロも、ポールのソロも、ジョージのソロも、一応全部ある。
気軽な気持ちで明るく聞けるジョージとリンゴのアルバムがとても好きである。
陰鬱さを陰鬱と歌うのではなくて、それでもこんな風に明るく歌うんだぜ、というその感じを持っているものが私は全般的に好きである。

少し久しぶりに部屋の掃除をする。
エルビスプレスリーとエルビスコステロを流して。

滞っていた気持ちを追い出したい願望もあったけれど、そこまではいけなかった、けれど、部屋はきれいになった。
雑巾は共用部まで拭いて真っ黒になってそのまま捨てる、この瞬間が掃除の終わりでとても気持ちが良い。

床の、手触りならぬ、足触りがつるりとなる。
今なら赤ちゃんがハイハイしても良いと思う。

冬用の布団カバーのせいもあって、お気に入りだったクッションがバーがなんとなく気分でなくなってきて、探しに出ようかと思ったけれどアロマを焚いたらその気分が失せた。
最近はもっぱら茶香炉で緑茶を焚いていたけれど、掃除を一生懸命した後はアロマを焚きたくなる。
すっきりを増長させるアロマの香り、今日は富良野のラベンダーとミントオイルを混ぜて。

観葉植物と薔薇の花に水をあげる。
植物たちにとって過酷な季節となる前に栄養剤もあげる。
みんな冬を乗り切れるといいな、と思う。

食器をまとめて洗っていたら、グラスを2つ割ってしまう。
私は最近物を対で買うことがあまりないけれど、グラスは対で持っている物が多い。
今回は種類の違うものが1つずつ割れて、対の物がなくなってしまった。

燃えないゴミの日、あまり出す機会がないので、ついでに使わない食器や花瓶も少し捨てることにする。
花瓶はとてもたくさんあるのだけれど、花の衣服なのであまり多くを捨てられない。

最近はアコースティックギターばかりを弾くのでめっきり弾いていないエレキギターとアンプを移動させる。
いまいち物の配置がしっくりきておらず、頻繁に小さな模様替えを繰り返している。

カーテンを、ロールスクリーンかシェードに替えたい。
たぶん、そうすることで部屋の印象が格段にすっきりする気がする。
しかし窓が大きいのでお金がかかるのと、一連のカーテンレールに取り付け可能なのかが分からない。

オーストラリアで買ってきたカモミールティー。
草っぽい味の中に、甜茶のような甘みが鼻に抜ける。
出過ぎたカモミールティーは渋みが際立つ。
昔、私はカモミールティーのことを好きだと言っていたような気がするのだけれど、今はよく分からない。

生のバジルを初めて買って、鶏肉のソテーに入れてみる。
バジルってこんな味なのか、ミントのようなスッとする感じもあって、独特の強い香り。
おそらく大量に入れ過ぎたことが原因であるけれど、あまりにもバジルが強い。
結局バジルをよけて鶏肉を食べた。
バジルが嫌いになりそうである。


楷書で雰囲気を出すのは難しい。





女は鰯のあとで

2014-09-26 16:35:37 | 日記
何回か通ってくださっている生徒さんに初めて行書を教える。
小さい頃の学校の授業以外は、ほとんど書道は初めてという生徒さんなので、いわゆる楷書からやっていたのだけれど、筆使いも随分と慣れて上手になってきたので、今度は書を書くときの“気分”についてを知ってもらいたかった。

私はいつも「上手い字なんてない」と序盤に伝えることにしている。
まして「級」だの「段」だの、過去の栄光はまったく必要ない。
もちろんあって悪いというものではないけれど、それで何か、何でもいいけれど利益を生めないなら要らない。
これから学ぶにあたり、それによってモチベーションが維持できる、資格を取って人に教えたい、ということであればそれは多大な利益であるのでいいけれど、小学校の頃の「級」や「段」で今何を示せるだろうか。
と、なぜかこのことはいつになく強気だけれども、そう思っている。

それは私の持っている「師範資格」なるものも然りだ。
まあこれがあるから来てくれる人がもちろんほとんどだけれど、その後はそんなものの効力はない。

大切なのは、「自分の中の上手い字のイメージであり、それを体現することである」と思う。
体現するのは、自分の中の理想の字以外にはない。

まあとはいえそれは理想論で遠くにある話なので、それを踏まえた上で、では筆使いから、楷書からやりましょうということになる。
理想の字がない場合には、いろいろと見てもらって「この字とこの字と、どっちが好きですか」、というところから始める。
無論、そのイメージが抱けたからと言ってすぐに体現できるはずもないので、「ここからは少し細かい話と泥臭い練習になります」と続く。

生徒さんには、基本的に私の理想の字を押し付けたくはないと思っている。
私の書くお手本から学ぶのは、お手本の見方、字形の取り方や、こうするとかっこ良くなる、といった一般的で汎用性のあることにしたい。
時に自分のお手本が良くなければ吊るし上げてダメな見本にだってする。
まあこれは技術不足の言い訳でもあるが。

そんな方針の中で、少しの泥臭さの部分を超えた段階で、早めに感じてもらいたいのが書の“気分”なのだ。
最初は、でき上がった字が変でもいい、バランスが悪くてもいい、「字の流れ、気脈」というものに乗っかったという“気分”を味わってもらいたい。
「自分は書けるのだ」という謎の自信を持って、筆を走らせてもらいたい。

そうすることができたとき、本人はその瞬間が絶対に分かる。
「絶対に」なんて言い過ぎかもしれないけれど、「絶対に」分かると思う。
「あ~なるほど」と、言葉では言えないその瞬間が。
その瞬間がつかめなければ“気分”を体得したとは言えない。
その瞬間がつかめれば、字に流れが生まれ、あと少しの練習を積めば飛躍的に上手くなると思う。

これはたぶん、大人の方が感じやすいのではないかと思う。
子供はこういうことが日常におそらく数多く起こっているし、自覚的になるほどの経験と知性がない。

今日生徒さんはやっている中でそれがほんの少し体感できたようだった。
ご自分でも仰っていたし、私が書き姿を見ていてもそうだった。

もちろん技術的なことも教えるわけなのだけれど、私はそういうことのためにやっているのだなと改めて思う。
「人のことが自分のことのように嬉しい」なんて、私的に、言うのすら恥ずかしいのだけれど、私はその生徒さんのその有り様を見ていて本当に嬉しかった。
私が満足している、ということだ。
もっというと、生徒さんよりも、かもしれない。

書道の先生として幾分偏っているかもしれないけれど、私がやるとどうしてもこのようになる。
それが私の譲れないところであって、人に何かを伝えたいとしたら、それは確実に私の欲望の一つでもある。
私のいうところの、“ロックンロール”だ。

そんなこんなで、違う方の仕事が溜まりがちになっている。


たまたま「塩あめ」を食べていた、それだけのこと。





実験的に膨らむ

2014-09-24 18:14:31 | 日記
テレビを見ていたら偶然NHKで「俳句王国がゆく」という番組がやっていた。
私が俳句をやっていなかったら1秒ほどでチャンネルを変えてしまうところであるが、そのまま見てみる。

将棋や囲碁やチェスやゴルフや競馬や、そんな感じのテレビ番組は1秒でチャンネルを変えてしまう。
でもたぶん、自分でやってルールが分かるようになればそれらも見るようになるだろう。
「自分でやる」ことをすれば、それらは飛躍的に面白くなる。
面白味を知ることができれば、それらは深くも広くも面白くなる。

サッカーもテニスもバドミントンも野球も、国民的スポーツでさえ私が観戦をしないのは、面白味が分からないからだ。
自分がやらずともまずはルールくらいは知ることが必要だ。
まあ現時点ではどれも分かろうともしていないけれど。

しかしそれよりも「自分で実際にやる」ことの理解に勝るものはない。
次のフェーズとして、それを「人に見せる」ということも、そうしてみないと理解に至れない領域がある。

世の中のあらゆることを知ることはできないし、別にそれがしたいわけではない。
しかし何かを知ろうとして掘ってみることは、ある程度他の事柄にも適用できることがあって。

例えば、あの勢いで飛んでくるボールをあの位置からジャンプしてあそこにスパイクを打つ、みたいなことがいかに一筋縄にいかないことであろうことは、他の球技をやっていればある程度想像できるだろう。
物事にはそのような汎用性があるので、一つを知ってみることは他の事柄への想像力を養うことにもなる。
その想像力とはすなわち、それやそれをする人への「敬意」につながる。

しかし実際のところ、よく知らない対象物に対するレッテルやイメージを剥がし取って、見ること、接することは、簡単そうで、簡単ではない。
物事はそんなに一義的に、一面的にできているものではない。


いもうとの旦那さんが出張らしく、泊まりがけで姪の面倒を見に行く。
もうすっかり「おばさん」と言えるようになって、ぺちゃくちゃとよく喋る。
21時には寝静まってしまう彼らの隣の部屋で、LANケーブルだけを貸してもらって仕事をする。
この時間から冴え冴えしてくる私は、カタカタと仕事を進めて、私にしてはとても早く3時にソファーで就寝。

翌日、いもうとと姪は朝7時には起きるのでばたばたとしていたのは知っているが、それでも私は寝ていた。
9時過ぎに「おばさん、おっき」と言われて目を開けると姪の顔がど真ん前にある。

主に、食べさせて寝かしつける、ということを繰り返ししているのだけど、2歳児の世話は本当に大変だなと思う。
思い通りにならないと全力で怒るし、思い通りにさせていると時間がかかってしょうがない。

買い物に出れば、帰りにヨーグルトを持って帰りたいと言って聞かず、500gのヨーグルトを抱きしめてゆっくりゆっくり進む。
途中どうやら歩くのが疲れたらしく、しゃがみこんで動かなくなった。
こんなことは日常茶飯事だろうが、ベビーカーも持ってきておらず抱っことなると、重たい食料品を持ちながら11kgの子どもを抱きかかえてたとえ数百メートルでも腰が砕けそうであろう。
今日は私がいるからいいものの、いつもこんなことをやっているのかと思うと感心する。

相変わらず姪はよく食べる。
私がガリガリ君を開けると、私にべったりとすり寄ってくる。
しばらくべったりとすり寄って、意を決して「ちょうだいな」と言う。
かわいいなあもう、といもうとに許可を取りつつ、ガリガリ君を差し出すと、大きな口を深く突っ込んで3センチくらいの氷を頬張っていった。
食い意地が相当に張っている姪である。

夜、ワイン商社に勤めるいもうとの旦那さんの高価なワインを空けて酔っぱらう。
姪は「とととと、する」と言ってコンパニオンをしてくれる。
手伝いながらだけれど、あまりにも上手に注ぐのでみんなで褒めると「もっとやるもっとやる」となって、大人はつい飲み過ぎてしまう。

いもうとは酔っぱらうと同じことを繰り返し言う癖があるのだが、「このワインが好きだ」ということをしきりに言っていたのと、もっと私に姪に関わってほしいということを言い出した。
私としては結構十分に関わっているつもりで、「もっと関わった方がいいの?」という感じであるのだが、いもうとは「書道とか教えてほしい」というのがこの話の趣旨であるようだった。
使えるものは使えばいいと思うけれど、親は子どもに対してそんなふうに思うものなのか、と思った。

あと「私は水彩画とかを描くのが好きだったの」ともしきりに言っていたけれど、あれは何を言いたかったのだろう。
私の書道に対する活動への何かなのかな、とも思ったけれど、姪が騒いだのでそこで話は途切れてしまった。
子どもに対して、広く可能性を提供したい、というのは分かるからいいけれど、その話だけではないニュアンスが含まれているような感じがしたのは気のせいだったろうか。

しかし、子どもがいると、「じっくり思いっきり話す」ということがいかに難しいかを知る。
もちろん仕方のないことだということは置いておいて、きっと多かれ少なかれ“話欲”は誰にでもあるだろうから、お母さんというのは“話欲”が満たされないと自覚的にも無自覚的にも悩んでいる人も多いのではと思う。
普段から“話欲”が強い私や、私の友人のほとんどや、いもうとのようなタイプの人間は、これは結構なフラストレーションになるだろうなと思う。

無論、話す相手が非常に大切で、誰彼かまわず話して解消されることではない。
話したいことを、ある程度自分の思い通りにレスポンスしてくれる相手に話す必要があるのである。

個人的な欲望は、子どもがいて得られる幸せで帳消しできるようなものでもないだろう。
それはそれ、これはこれ、として満たしたいと切望されるのが個人的な欲望である。


私がわざわざ遠くまでいもうと家へ出向くのは、家庭料理に与りたいという打算も多分にあれど、私は姪のことが好きで、一緒に遊びたいという思いがあるからそうしている。
それに、会いに行く回数を重ねるごとに姪は私に懐いてくれるのは、ただただ嬉しい。
それに、「子ども」という存在が今の私のキーでもありそうだから、ドライに言うと「観察対象」としてもとても面白い。

しかし、1泊2日でもう本当に疲れてしまう。
筋肉痛だし、ひとり時差ボケだし。

また会いに行くよ、近いうちに。

「天高く馬肥ゆる」





カモミールの美学

2014-09-21 00:53:46 | 日記
展覧会の出品期日ぎりぎりに、あと2枚書いておこうと決めていたのに、前日の、というか当日の午前2時に夜寝をしてしまって結局朝5時まで寝てしまう。
一応出せるものはあったので別にやらなくても良かったのだけれど、何となく根性が許さなかったので5時から書き始める。
9時までかかって2枚を書き上げる。

合計4枚のうちから1枚を選出する。
結局、前に書いたものが選出された。
今日書かなくても良かったではないか。
しかし、まあそんなものである、そんなものである。

今回205×70の1枚の紙に中原中也の「憔悴」を書いているのだが、多字数なので非常に文字が細かい。
よくもまあこんな、という感じで同じ教室に通う他の生徒さんが、手本なしの私の作品を見て少し驚いているシーンがあった。
先生は何人かいて、私があまり得意ではない先生がそこへ来て「感性の人だからね」と心無く言い放った。

何だか、涙が出そうになるくらい、悲しかった。

以前この先生にお手本を書いてもらって教わったことが少しだけあって、なんだか掴めないけれどこの先生と相性が良くなかったと私は思っている。
たぶん、先生もそう思っているというような節が感じられる。
私の拙さにより、そのときお手本の再現性も低かっただろうし、私は先生を特に崇めるような姿勢を取らないので気に食わなかったのかもしれない。
ちなみに私は、先生と生徒の関係は、技術への敬意とビジネスのバランスで成り立っていると思うので、あくまでフラットくらいでいいのではないかと思っている。

私は、「感性の人」ではない、これは断言できる。
もし私に感性やセンスがあるように見えるのであれば、それは紛れもなく私が学習と鍛錬を重ねたからに過ぎない。
章法は教室の創始者のルールに則ってやっているわけだし、その中でも自分のイメージを創ったり、お手本なしで空間を掴んだり、それはここ1年で言えばおそらく他の人よりも少し多めにやっているということだけだ。
無意識にできるほど、私には才能も器用さもない。

ただ、他の生徒さんや書道のことをよく知らない人から「感性の人」と言われたら、もしかすると私は嬉しいかもしれない。
たぶん、嬉しい。

けれど、以前の私の作品を知っている先生にそれを言われると、私の努力をまるですっ飛ばされたような気持ちになって悲しい。
先生なら一番そういうことが分かるのではないのだろうか。
感性は皆持っているものであれど、まずはそのイメージを明確化することと細分化することが必要だし、それを具現化するには勇気と練習であると、私は強く思うけれどそうではないのだろうか。

確かに私は書道が好きで100%私個人の理由でやっているけれど、そして私が芸術なんて滅相もないと今でも思っているけれど、しかしそれでも書道の世界は小心者で怖がりの私を、遅々とでも前進させてくれるとても良いツールだ。
書が好きだけれど、書そのものよりも私が私を拡大させる方法を得させてくれるそのことの方が、私にとっては価値がある。
お手本通りに書く技術もとても大切なことだけれど、創作をすることの方がよほど意義があるのである。
それに、創作はある程度技術の上にあるものだ。


私は悲しみや怒りに立ち会ったとき、なぜだろう、と考える。
感情に揺らされるとき、自分が本当に思っていることや欲していることが見えやすくなるように思う。

これを自分で書いていて思うけれど、私は貪欲だなと思う。
作品だけでなく、その過程、もっと言えば私そのものを認めてくれと言っているのだ。

そして、その先生にとって私や私の作品が当然とるにならない存在であることを思い知るのである。
そしてまた、変な話だけれど、その先生の寵愛が欲しいと思っているわけでもない。
なんにせよ、もし私が他人から私の望む何かを得たいと願うなら、努力も技術も全くもって足りないということは分かった。

自己啓発的であるが、書いていて落ち着いてきたというか、落としどころが見つかった気がする。


家に帰って足りない睡眠を貪る。
世界の手触りが遠くなるほど眠いとき、吸い込まれるように眠るのは少しの快感がある。


肉厚、野生の多肉植物の群生。

「新涼灯火」
秋になって涼しくなって、灯りの下で読書をするのにふさわしい、という意味らしい。
清々しい四字熟語だ。




一時的には間違いなく

2014-09-19 00:09:58 | 日記
夜、出かけようとしたら自転車の前輪が動かない。
タイヤを無理に動かそうとすると、前に動かすとグガガガガガガ、後ろに動かすとバリバリバリバリと音がする。

チェーンがかなり錆びついているので、そのせいかと思ったけれど前輪は後輪方面の線やチェーンとつながっておらず、なぜ前輪だけが動かないのか、まったくわからなかった。
物理的に何かが挟まっているか、何かが当たっているかしか考えられず、暗い中で結構一生懸命見たけれどその様子はなかった。

基本行動が自転車の私は、自転車がないと非常に不便だ。
電車ももう間もなく終わるという時間、仕方がないのでタクシーを捕まえて出かける。

翌日近所の自転車屋さんに電話をかけて、前輪が動かず運べないので出張サービスはありませんか、と聞いてみる。
出張はできないが、動かないタイヤを乗せて運ぶ道具ならお貸しします、ということだった。

その道具は、言わば自転車の車イス。
前輪を車イスに乗せて自転車屋さんまで運ぶと、一瞬で「これですね」と泥除けが食い込んでタイヤに当たっているところを指さされた。

結構一生懸命見た私は一体何だったのだろうか。

自転車屋さんは力ずくで曲がった泥除けを戻してくれた。
何事もなかったようにタイヤは回転した。

無料でやっていただくのは申し訳ないので、前々から変えたかったチェーンを変えようかとも思ったけれど、酷く疲れていたのでまた今度来ますとお礼を言って後にする。
もう少し、日常のトラブルに自分で対応できるようになりたい。

脈絡はないが、ついでに、今は絶対ひとりではできないギターの弦の張り替えなども、自分でできるようになりたい。

旅行に出ていたこともあり、すごく野菜が足りていない気がして、直った自転車で八百屋に向かう。
葉物はこんなに高かったっけというほど値段が上がっている。
安売りをしていた空芯菜、初めて買ってみる。
まあ豚肉とウェイパーで炒めれば何のことはなく美味しいだろう。
他に、デラウェア、えのき、玉ねぎ、ショウガ、ピーマンなども買う。

そのまま近くのドラッグストアによって、ビタミンCの錠剤を購入。
ビタミンCが足りていないのは美容にも健康にも良くないというのは信じているので、気休めと思いつつも定常的に飲んでいる。


オーストラリアでUGGのショルダーバッグを買った。
今使っているものはお気に入りだけれど、使い倒して擦り切れてきていて、都合よくUGGのバッグに一目ぼれ、しかも30%OFFということで買うことにした。

20年くらいの自分のバッグ歴を思い返すと、ブランド物や見た目重視で、バッグ本体の重さや使い勝手をあまり優先的に選んでこなかった。
しかし最近は、昔に比べるとかなり「軽い」「使い勝手が良い」を優先するようになった。
また両手を自由にしたいので、いつからか基本がショルダーバッグになった。

新入りのUGGを早速使ってみると、とても軽い。
今までのものも重いと思ったことはないのだが、それと比べても随分と軽い。
開閉がファスナーなので、閉め忘れることがないよう気を付けなければならないが、見た目も皮の質感もとても良い。

かなり小さなサイズのバッグだが、私は化粧ポーチも持ち歩かないし、財布と携帯とリップクリームと1冊の文庫本が入ればOKだ。
日傘が入らないのが残念だが、これからの季節必要はなくなるだろう。
ペットボトルなど、急遽買ったものが入らないのは不便かもしれない。

物は1個買ったら、1個捨てたい。
しかし、このUGGのバッグをもうしばらく使って様子を見た方が良いかもしれない。
使い勝手的にこれまでのバッグに勝てないのなら、多少重くてもこれまでのバッグを復活させた方が良いと思うかもしれない。


引き続いて、ブログがレポート調である。


砂地に芽吹いた小さな多肉植物。
かわいい。