つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

オレンジの勝ち

2012-05-31 21:11:56 | 日記
ある日。
まだ日差しに慣れていない肌が、じりじりと水分を奪われていく。
アスファルトを成している粒子一粒ひとつぶが光を反射している。
空気は温められるけれど、風は爽やかさを忘れずにいる。
私は少し汗ばんで、日焼けを気にして羽織りものを着る。

またある日。
雨は降らなそうだけれど、太陽は雲隠れ。
直接の日差しがないと随分と涼しい、を越えて肌寒い。
そんなではない季節のはずなのに、徐々に身体の芯まで冷やされていく。
風は指先から体温を奪って、気温に対して薄手すぎる羽織りものを手繰り寄せる。

手放せないもの。
手放したくないもの。
手放さなければならないもの。
手放してはいけないもの。

それらは決め事で済む話と、決め事で済まない話がある。
自分にとって大切なことの主体が自分以外になっていいことはない。
全ての責任は私にしか持てないし、生き様、なんて少し武士度が過ぎるが、そんなようなものも今の私の中にはあったりする。
決め事で済む話も案外多かったりして、というか、本当に最終地点では、結果理性が丸く収めました、ということにしかならないようにも思う。

2つのベクトルは真反対の方向に伸びて、その大きさはロマンティストの大きさになる。
このロマンティストはナルシストやエゴイストにも似ている。

消化、浄化、昇華。


ヒロトの生声をどこまで持続させられるだろうと、色々聞いていた音楽もまたブルーハーツとハイロウズばかりになって、またYouTubeで観過ぎたインタビュー映像まで見返している。
それだけで、ただそれだけで、嬉しくなれる。

笑っちゃうくらい青いことに、本当に笑っちゃえるのなら、笑っちゃった方が、もう圧倒的に勝ち、なんだと思う。



強風波浪注意報

2012-05-29 13:39:28 | 日記
家にいる芍薬の花がかわいくてかわいくて。
どう考えてもあの蕾にしまわれているとは思えない花びらの量で、うそみたいだけれど、疑いようのないほんとのことで。
これがうそであっても私はもうどちらでもいいのだけど、ほんとみたいなうそ、よりも、うそみたいなほんと、の方が断然いい。

それぞれ種類の違う3つの芍薬。
カメリアやプルメリアのように均整の取れた芍薬が咲いた。
それがあまりにも見事で、愛おしくて、できれば私をこの中に入れてほしいけれど。

「日曜日よりの使者」を聴きながら帰ってきて、それを流したまま30分、私は携帯電話のカメラで写真を撮り続けた。
私は何か文章を書いているときも時々周りの音が聞こえなくなるのだが、花の写真を撮っているときもそれに近い。
夢中、ってゆめの中なんだなと思う。

熱帯魚を飼うのとか、犬を飼うのとか、子どもを産むのとか、植物と動物を比べるのは、また、動物と人間を比べるのは、やっぱり重さや意味は全然決定的に違うのだけれど、私の花に対する想いというのは何かを「愛でる」という点においてそれらと似ているところがある。
生きている長さや移ろうスピードが、長かったり短かったり早かったり遅かったりするけれど、この場合の「愛でる」は「育てる」に近しくて、「育てる」ということは「育ててあげる」という力関係がある。
しかし、育てる側の思う美しさやかわいさなどの見返りに反したり、意図しないことをされたり、期待を上回ったり下回ったり、いつもコントローラブルとはいかない。
でもだから面白くて、愛おしくて、見方はいつも自分側にしかないことを知りつつ、あなたが思う最高の状態になってねと願う。

意志なきものを擬人化してしまうのは、私の癖だ。


髪の毛が重たくなってきた。
そういえば前回1年ぶりに美容院に行ったとき、染めただけで切らなかった。
確かに私は、外人さんみたいなおでこの生え際からみっちり生えたたくさんの毛量のソバージュヘアに憧れがあって、あえて梳かないようにはしているものの、もう1年半くらい鋏を入れていないことになるからさすがに重たい。

「引っ越しました」という写真付きのハガキが届いていた。
ポストの前でそれを手にして、もうしばらく会っていない方々だけど、私はずっとこの人たちのことが好きなんだなと思った。

今日もヒロトの声がiPodから流れている。
これが生の声だったという、うそみたいなほんと。



し過ぎない配慮

2012-05-28 00:17:12 | 日記
私たちは本当にヒロトが大好きで、ヒロトと生の時間を共有できるという夢のような、ほんとの時間が実現した。
私は実際、先日夢にまでこのライブを見た。
二階席であることも夢の中に誇張されて出てきて、地上からものすごく高い位置まで梯子で一段一段席まで登って、挙げ句座席は遊園地の乗り物みたいに回転して怖がりながら鑑賞するというものだった。

ひどい二日酔いを引きずりながら友人と落ち合うまでクロマニヨンズではないが、ブルーハーツとハイロウズを流していた。
神奈川県座間市まで向かう道中、彼女がほんとに用意していたマーシーバンダナや、YouTubeのマニアックな小ネタを交わしたり、あの曲のどこが好きかという非常に的の狭い話をしていたら一時間の道のりなど、もう着いたのというくらいだった。

座間のハーモニーホールは普段は閑散としているらしく、民謡の会にきていたノリの良いご婦人に「今日は何かあるの?」「クロマニヨンズのライブなんです」から始まったコントのようなおかしな一幕があった。
彼女といるといつも時空がねじれるような出来事が2つも3つも起こる。

クロマニヨンズが登場するとき、あのヒロトに会えるんだと思ったらそれだけで私は感極まって泣きそうというか少し泣いていた。

いつも思うけれど、一人でも十分に楽しいことも、心から一緒にそれを楽しんでくれる人がいるのは奇跡的で本当に嬉しい。
嬉しさを一緒にいっぱいにぽんぽんに膨らませて、「あー、嬉しいね、楽しいね」って、大事なだいじなエクスタシーだ。
ありがとうって本気で思う。

You Tube で見ていたパフォーマンスそのままに、30年間くらいもヒロトはヒロトのままロックライブというアートを見せてくれた。
職業ロック歌手、体力的にも観客からの期待へ応じ続けることにおいても、なんて大変なことなんだろう。
根本は変わらなかったとしても、そう思えないときがあったり、気分が乗らないときだってあるだろう。
それでもロックの精神だけは全開でなければならない。

私のように何年も経って彼らを知って、ブルーハーツのときのようなパフォーマンスをやっぱり期待してしまうのは、仕方がない。
でも、彼らのあり方が変わってしまうこともまた、仕方がない。
それでも、バンドは変わっても、以前と同じようなパフォーマンスを同じ空間で生で見ることができて私はとても幸せだ。

私にこんな思いをさせてくれるもの達に、恥ずかしがらず、ためらいなく、ありがとう、と言いたい。
世界は捨てたものではない。

また芍薬の花を買った。
先の枯れてしまった芍薬もまだ生けている。
萎びてしまった花びらの芍薬は、しわしわの優しいおばあちゃんみたいでかわいい。
身の詰まった小さな蕾から、爆発するように美しく咲いて、柔らかく萎びる。
見ていてどきどきする。


贅沢だから

2012-05-26 13:10:35 | 日記
私は事務的連絡以外の用件で人に電話をすることがほとんどない。
何年か前にはそういうこともしていたし、時に3時間以上もぶっ続けでそんなことをしていた。
でも、相手が誰であろうとそうしなくなった。

電話は相手の反応が伺いづらいし、時々声が途切れたりするとテンポがわからなくなってしまう。
しかもスマートフォンでは会話中に何かに触れて切れてしまったり、第一手に収まりが悪くて話しづらい。

だったら会って話そうと、そう思うわけだが、今でないと間に合わないことや時間をおいて風化してしまったら意味のないことも時にはある。
でもだからと言って、その時に相手が電話に出られる状況とは限らず、相手がそのことを聞ける状態かなど分からない。

と、電話ひとつにそんなに思わなくてもいいのだろうが自分で勝手にハードルをあげて、通話ボタンを押すまでに少し悩んで、私は友人に電話をかけた。

電話して良かった、と思った。
自分のことにも関わらず、物分かりの悪い私に、順序立てて何度も説明してくれた。
噛み合わない私に何度も何度も言葉を変えて伝えてくれた。

何度目かの言葉で私はようやく自分の中に落とすことができた。
自分が納得できないことに適当な頷きや相槌ができない私に、押し付けるでもなく、本当に私がどうしたいのかに導いてくれた。

私の周りは尊敬する人たちばかりで、本当に偉大だと思う。
人の大きさや優しさに触れて、私は自分の小ささや未熟さや優しくないことを知るが、同時に彼らのようにありたいと小さな心で思ったりする。

自分が自分を喜ばせてあげること、それが一番手っ取り早くてそうできるならそうした方がいい。
でも新しさは外にしかないから誰かの目線で外からの生の声を聴くのもやっぱりいい。


大きな芍薬の花は大量の花びらから生気が抜けてくたっとしている。
でもまだ驚くほど柔らかいから、もう少しだけ、生けておく。



安易な妄想

2012-05-20 22:30:17 | 日記
芍薬の季節。
出掛ける先々で花屋を覗き、大きな芍薬の花を見るたびいつ連れて帰ろうかとそればかり考えていた。
一番好きな花は?と聞かれて迷った末に私は今は芍薬、と答える。

芍薬の蕾が好き。
まんまるでぎゅっとしていて、緑の蕾から花びらが顔を出してピンクの蕾に変わる。

愛らしいその丸さは、次第に緩みはじめて、一枚いちまいの花びらの間に空気を取り込みはじめる。
中には蕾の大きさからは想像できないくらい驚くほど花びらが詰まっていて、蕾の5倍ほどの大きさの花となる。

柔らかくて、繊細で、大きいのにどこか控えめ。
チューリップが、にこにこ、だとすると、芍薬は、うふふ。
ちなみにパンジーは、がはは。

バックに難しい名前の緑の縦長の葉っぱと、こちらも季節のショウブの花と一緒に生ける。
ショウブの紫の蕾は幼い子供か和服を着ているみたいだ。
これもびっくりするほどおおっぴろげに開いて、空を羽ばたく紫のトキのようになった。

先日買った新緑の枝から挽いた胡椒の粒のような黒い点々がたくさん落ちるものだから何だろうと思っていたら新緑が虫に食われていた。
よく見ると1.5センチほどの青虫がいて、お食事中であった。
私は本当にああいう類いのものが生理的に大嫌いで、それでもゴミとして捨てることができなくて、鳥肌が立つのを押して新緑の枝ごとマンションの裏の植え込みにそっと置いた。


早朝6時の白金高輪。
5月の早朝。
空はかろうじて水色、ほとんど白。

大事な友人が東京を離れることになった。
一緒に暮らしたり、お互いの家族になるわけでもない、友人、という関係は、私にとって人格の一部の形成に関わるくらいの大事なことだ。
寂しい、と簡潔な言葉をなかなか言えずに、婉曲的な会話。
私も一度東京を離れたことがあるから、思う以上に、今みたいに気軽に会えなくなるだろうことはわかる。
離れる側も離れられる側も、同じくらいに寂しい。

でもその人の人生を最大限応援したい、その人の最終決断を最大に祝福したい、そう思えるから今後のことは努力でどうにかする。
きれいにまとめると、幸せにいてくれることが、それが一番いい。

誰も他人の人生の幸せの全部なんて請け負えない。
恋人も家族でさえも。
誰かの幸せの一端を担うことができたのなら、願わくはお互いに、それ以上の関係なんてないのではと思う。

ちゃんと話を聞いて、ちゃんと伝えようと思っていたのに結局私は少々外れたところで感じ入ってしまって、また肩を貸してもらう始末。
挙げ句、ベッドまで占領して話の続きもせずに酔いに寝潰れてしまった。

頼ることと頼られること。
素直でいたいと思うことと迷惑になりたくないと思うこと。

そんなに儚くもない人生において、今の理解できないほど過剰さ。
ただ大きな確かさの中には、決定的な不確かさが含まれている。
最近の私はいつも他人の憂いを自分の憂いにすり替えてしまう。

PUSHIM の「I pray 」やサナカナクションの「enough」、「さや侍」にまで泣かされる。
私は多少の危うさや面倒を増やしてしまったようだが、それでも今の方がいいとしか言えない。
人間臭くなった、たぶんそんなようなこと。