つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

応援できない

2013-08-31 02:39:04 | 日記
銀色の大きなトレイに、銀色の楕円のお皿やスープカップ、銀色のカトラリー。
白い紙ナプキンと、分厚いワイングラス、白い磁器の器。

メインのトマトと鶏肉の煮込み、アルデンテのお米添え。
たっぷりの冷製かぼちゃスープ。
1人前のニース風のサラダ。
一切れのパンプディング。
重たいパンがトレイに直に。

お米は炊くのではなくて、茹でる。
芯が少しだけ残っているお米はさらりとしたトマト煮込みの汁に良く合う。
鶏肉は主張しないけれど、程よく柔らか。

壺のような白くて大きな器に入ったかぼちゃ色のスープ。
とろとろと重みはあるけれど、きちんと裏ごししてあるなめらかさ。
温かいと思って口に運ぶとそれは冷製で、心地のよい冷たさはかぼちゃの甘みを引き立てる。

レタスと8つ切りのゆで卵ひとかけ、オリーブ1個、ブラッドオレンジのような鮮やかな赤橙色のニンジンのビネガー漬け、白肌の茹でじゃがいも。
オリーブオイルとビネガー、塩のドレッシング。
茹でじゃがいもが、驚くほど"じゃがいも"という味がして気圧される。

活気のあるどこかアジアの国の朝市で、荷車に積んで売られていそうな茶けたパン。
元はたぶん丸くて大きいのだろうなという感じの1ピース。
中身のたくさん詰まった羽毛枕のように、弾力のあるふかふか具合。

しっとりと隅々まで卵液に浸かったパンプディング。
縁はこげ茶色のカラメルが染み込んでいて、ほんのり苦い。
珈琲は小さなカップで、おかわり自由。

赤を基調にした店内。
アコーディオンが醸す陽気な音楽。
ぎりぎりの掃除を施した、ちょっと湿気た空気。
使い込んだレジ台やテーブル。
薄汚れたビニールのテーブルクロス。
「周りの人がダメと言ったら禁煙です」とカードが乗った灰皿。
色彩鮮やか、でも古ぼけた油絵。
トレイに雑に積まれたワインのコルク。
東京時間の時計と、パリ時間の時計。
白いシャツに黒いチョッキとエプロンをしたウェイターたち。

女たちのうるさい笑い声、喋り声。

一つひとつのパーツにきちんと輪郭があって、良くできた絵本みたいに統合されていて一貫性がある。
確立された世界観。
フランスの田舎町の小さな工場やオフィスで働く人たちで賑わう大衆食堂、のような。

脳天突っ切るようなおいしさとは違う、とてもおいしい時間。

とある渋谷の路地裏フレンチレストランのランチ。

C'était délicieux.




模造紙ですか

2013-08-30 01:28:48 | 日記
眠れない、という話を時々周りの人が言っているのを聞くことがある。
「寝る前にホットミルクを飲むとよく眠れるらしいよ」などと軽々しく発言ができないタイプの"眠れない"だ。
寝るためにランニングをして体力を消耗したり、寝る前にスマートフォンなどの光を見ないようにしたり、寝つきに悪そうなでも大好きなジャンクフードを止めてみたり、本人的な努力はとてもしているらしい。
また、せっかく寝られたとしても途中で何度も目覚めてそのまままた眠れないと言う。
朝まで寝つけなかった日には、一日中今晩どうやって寝ようかということを考えてしまうと言う。

お酒を飲んで酔っ払ってもそのまま寝付いてしまうことがなく、乗り物で寝ることもない。
幼い頃の方がもっと酷く、例えば友人宅に泊まりに行ったりすると一睡もできなかったらしい。

ちなみに時間がもったいないということをよく感じるようで、どこか旅に出ると、朝6時から深夜0時くらいまでの行動予定をびっちり組んで走って移動するくらいなのだと言う。

眠れないのは体質と恒常的な緊張状態がそうさせるのだと思うけれど、何に対する焦燥感や不安感なのか、あるいは何が欲しいのかを知ることで多少改善できるのではと思う。
もっとも体質的なものはそれだけで良くなるものではないとは思うし、それに例えば欲しいものが分かったとしたらもっと覚醒してしまう可能性もあるけれど。
あとは、どんな方法であれ交感神経を鎮める方法を知ること。
と言ったところで、副交感神経が優位なタイプの私が言っても説得力が極めて乏しいが。

私は眠りに困ったことは短期的な1日2日といった単位以外ではない。
その1日2日だって1~2時間寝つきに時間がかかった、あるいは、夜中に目覚めて少しの間覚醒してしまった、ということ以外は本当に経験がない。
どうにも嫌なことがあっても、本来の意味ではなく文字通りの「泣き寝入り」ができてしまうくらいだ。

これは幼い頃からそうだ。
ただ、眠れないことが稀であるから眠れなかった経験というのは結構印象深いらしく、よく記憶に残っている。
保育園のお昼寝のとき、たまたま寝付けなくて、お昼寝風景を撮影していた先生が私にカメラを向けたのを見てぎゅっと目を閉じたところを撮られた。
しまった撮られてしまった、しかもぎゅっと目を瞑って、と何がいけないのかもわからないままどぎまぎし続けたことをよく憶えている。
あと、なぜかよくわからないけれど、地震が来たらどうしようとか泥棒が入ってきたらどうしようと突然ものすごい恐怖に襲われたことがあってその夜は朝が来るまで眠れなかった。
やっと朝が来た、と陽の光に恐怖が終わったことに心から安堵していた。
しかしこれも単発的なもので、何日も続いていたわけでは全然ない。

その眠れない人は、寝る前に浮かんでしまう考え事のせいで眠れないと言っていた。
私も夜に色々と考え事をするのだけれど、その考え事は温いお湯が染み込むように眠気に浸され、やがて支配されて、うつろな状態で輪郭を失った考え事の芯がどこかを彷徨い・・・としているうちに寝てしまう。
読んでいた本が面白くて眠れなくなってしまったこともないし、スマートフォンで動画を見て興奮しても、次の瞬間に眠れる。
特に病的に眠ってしまうこともないけれど、電車やプラネタリウムはおろか映画館でも寝てしまう。

でもひとつあるのが、誰かといると眠れない、という経験は幾度かある。
誰といても眠れないわけでは全然なくて、思い浮かぶ人を考えてみると、私はその人に対して気を使っていて私が自然でいられない人なんだなと考え当たる。
いつもと違うベッドや枕で寝つきが悪くなったと思っていたシチュエーションも今思えばこれが原因だったように思う。
その人が好きとかそうでないとかをさておき。

私が眠れない人について、何かをしてあげることはできないけれど、気持ちよく寝られるようになるといいなと切に願う。
私のように眠れる人は、悩みのない全くの楽天家であると受け取られてしまうことがある。
まあでも少なくとも眠りについて悩みがないことはその面ではとても楽であるから、そう思われてもいいかと思う。

私の中にある大きな何か、というものは私の中である程度明確化してきていて、抑揚やジェスチャー込みであれば何割か、何となく言葉で誰かには伝わるかもしれない。
ひとつは先日書いた手紙のようなことであるし、その奥なのか先なのか、というようなこと。
誰かに私を分かってほしい、と思うけれど、それが非常に難しいことと、おそらくそれで終われないだろうということも想像がつく。

時々、不意にそのブラックホールを目の当たりにして息を飲む。
時々、自らそのブラックホールを覗いて仰け反る。

私は、嘆きや悲しみや淋しさと引き換えに笑っているわけではない。
本当に楽しいときに、本当に面白いときに笑っているだけだ。
本当にただそれだけだ。

抗うことを原動力に輝きたいわけでも全然ない。
それは違う。

喜びや楽しみと、ブラックホールとの関係は極めて独立的である。
しかしながら、完全な独立ではないこともまた真である。



畳みかけられているのか、畳みかけているのか

2013-08-28 22:12:02 | 日記
仕事帰りに、書道教室に向かう。
疲れていると書けないのだなと思い知る。
体力レベルMAX100のうち、特段何事もなかった日でも仕事終わりはレベル40くらいであって、レベル40では全然書けない。

魚が脂がのっておいしくなるように、何かを創るにはいつもに増した脂や潤滑油のようなものも必要で、疲れているときは本当に脂がのらない。
ちなみに、体力的な意味だけでなく、精神的に疲れていても書けない。
と言っても、精神の高みでないと書けない、という類のものでもなくて、それなりに書きたい気持ちがあればそれはそれでよい。
実際に、大きな紙を広げて中腰のような体勢で書き続けるその実質的な体力の影響の方が大きい。

私は体調は滅多に崩さないけれど、体力が底なしのタイプでは全然ないので、体力がMAXなのは前日よく寝た土曜日か日曜日、何もせずに一日時間を過ごした夜くらいなものである。
ちなみに、バックミュージックはパンクロックもしくは奥田民生、真心ブラザーズあたり。
BOOWYもBEAT CHILDの予習で借りてみたけれど、これも書道をするのにちょうど良い。

あとよく思うのが、満腹も全然だめだ。
お腹が空いているときの方がよい。
できれば飢餓状態の方が良いくらいだ。

ロックンロールは、お腹いっぱいでなお満たされないという飢餓感から生まれる、と言ったのは誰だったろうか。
私にとって書道がロックンロールであると言っているわけでは毛頭ないけれど、私もこのことについては非常に体感としてよくわかる。
ロックという言葉は、反発や反骨、現状からの脱却、のようなイメージが先行しがちだと思うし、そういうものから生まれているという側面も確かにある。
しかし、私が体験したことも、私がロックだと思うものも、周りの人や環境への直接的な反発というよりかは、自分の中の飢餓感が満ちたとき、あるいはそれに気が付いたとき、を表現しているものが多いように思う。
それが社会通念や常識と言われることと異なることも多く、アンチ社会の立場と見られがちだけれども、決してアンチの立場ではなくて、比較でなく己を正としているだけということなのだ。

私は最近自分が一番最初にロックに触れたときの感じを、ダチョウやエミューの卵をトンカチでかち割られたような、という表現が最も良く形容しているような気がしている。
分厚くて丈夫なエミューの卵の中にいたのは、赤剥けのエミュー、ではなくて私。

ロックンロールは、陰の中の陽だけではなく、陽の中の陽も成り立つ。
ついでに言うと、陰の中の陰もたぶん成り立つ、と言うかそこまでいくと似通ってくる気もする。
陽の中の陰だけはイメージがない。

食べるのに困らず、寝るのに困らず、体調が悪いわけでもなく、何とか仕事もしていて、家族がいて友達がいて、趣味まであって、生きることに脅かされてないどころか、どんなに充実しているだろう。
これは別に私がロックンロールに触れる前から、およそずっと満たされ続けていることだ。
しかしそれでも私はロックンロールに落ちてしまったようだし、それに触れてしまってからあらゆる思考指針や行動指針が変わってしまった。

満腹の飢餓感は、おそらく定常的に満たされることは死ぬまでなくて、その満足の瞬間を得るために手を伸ばし続けるのだと思う。
だからこそ、この人ロックだなと感じる人には、大きなおおきな孤独も同時に見るし、その人たちが創ったものに圧倒的な切なさのようなものが滲んでしまうのだと思う。
でもそれは本人がひっくり返したところで悩みにはならなくて、何かをする原動力以外には働かない。

しかしながら、改めて「ロックンロール」という言葉の意味をウィキペディアなどで調べてみると、アメリカ文化(特に音楽)の象徴としての説明が多くて、私の持っているロックンロールの概念と結構違っている。
私の持つ「ロックンロール」の概念を説明しようと思えばできないこともないのだけれど、それを極めて的確に表現することは今の私にはできない。
「ロックンロール」のど真ん中の概念を説明する理解も術も持ち合わせていない。

こんなにも「ロックンロール、ロックンロール」と、連発するようになった。
最近そんなことばかり考えている。
もはや私の心の中心にある。



相の問題

2013-08-26 01:27:22 | 日記
エアコンを付けっぱなしで寝てしまったのかと思った。
ひんやりした朝の空気の中、薄い布団を抱きかかえていた。

どんなに暑い朝でも、私は朝にホットコーヒーを飲む。
秋めいてきた日の朝は、大好きな夏が通り過ぎてしまう淋しさよりも、コーヒーの温かさの幸せ感の方が勝る。

また期限に迫られて、展覧会の書作をする。
私の中で、1枚の大きな紙に対する自主性のようなものがはっきりと生まれてきていて、それを紙の上で体現するのはとても楽しい。

何をやっても良い、わけではないけれど、限りなく、何をやっても良い、のだ。

何をやっても良い、と言うのが嫌いだった。
何をやっても良い、では、何をやったら良いのか、わからなかった。

私はイメージに入り込んだり空想できるようになって、その未知のスペースワールドを十分に楽しむこともできるようになった。
そのことは、フジロックで七尾旅人が私に合格をくれた。

対面する真っ白な紙に、私の筆の行く先は最初から特に出来上がっているものではなく、足をこっちに出したら面白いかな、というふうに進んでいく。
時に意図的に曲げる、時にあらぬ方向に飛ぶ。
結果的に、意図したことも意図しなかったことも、良いかどうかは一晩寝かせ全部が完全に乾いてみないと分からない。

未だおよその意味しか取らないまま書いている漢詩作品と、書いている途中にぎゅうっとなってしまう「リンダリンダ」
どちらもそれぞれ、書作する楽しみがある。

それにしても、新聞紙を私は生活の中で使いたいときがよくあるのだけど、新聞紙がなかなか手に入らない。
書道をするときの一時置き場にしたり、汚れ防止に敷いたり、ブーツに詰めたり、何かをくるんだり、そんなことをしたいのだけど、今の生活は新聞紙に遠い。
幼い頃から、新聞紙は資源回収のときにまとめて縛って出すもの、と思っているので大量に簡単に手に入るもの、という認識が消えないのだけれど。
カラー印刷の広告でもなくて、何かを印字したA4の用紙でもなくて、新聞紙が良い。

必要に駆られて150円出して、読まない新聞を買う。


以前私が人に言われて、痛いというか、いてもたってもいられなくなったその発言を、今度は私が友人に対してしてしまう。
私がそれを人から言われたとき、私は他人に干渉されたと少し怒っていた。
私はそれからまもなく、言われた内容が自分の中である一定の消化にたどり着いて、私に干渉してくれたことを本当に心からありがたく思った。
だからと言うわけではないけれど、私は友人の、非常に心の奥深くのところを突いてしまったのかもしれない。

考えても簡単にはわからなそうなことで、でもものすごく自分の核に触れていそうなことで、と言うか考えなければいけないことなのかどうかもさえも分からないようなこと。
でも、それについて友人は知りたいし考えたいタイプの人間なのではないかなと勝手に思うから言ってしまったというのもあるし、私自身のそれについてもっと深く入り込んでみたいと思うから、他者への跳ね返りで自分を知りたいという気持ちもあった。

「面倒くさい」とか「どっちでもいい」とか「考えてもしょうがない」とか、確かにそういう側面もあるようなことだ。
「感じることが大切だ」ということもごもっともだ。
しかし、あまりにも「感じること」を最優先させすぎるがあまり本当は理解に至れることも理解に至れないのは、何か大事なことを取り逃がしているような気がしてならないのだ。

それに、「感じること」はいずれにせよ制御できないのだし、それはもう身体に任せていたって問題なさそうではないか。

私も友人も、笑えなくなったり、寝られなくなったりしたら、本当にそれは大問題だけれど。
どうにもならない破滅に向かうような性質では、私も友人もないように思う。

どうせ、暗くされたり、暖かくされたり、白すぎたり、乗り物に乗ったりすれば寝てしまうし。
その話するだけでも、笑ってしまうし。

そんな笑いごとだっけと、大真面目に考えた後に、ふっと笑ったらいいかなと、私はそう思う。


もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら
そんなときはどうか愛の意味を知ってください





裸の不眠じゃない人

2013-08-25 02:20:04 | 日記
自転車を撤去されてしまった。
完全に自分のせいなので、申し訳なさと反省を連れて、保管場所まで取りに行く。

保管場所は旧居の近くで、そんなに遠くはないと思い、さあ自転車に乗って出かけよう、としたところで、そうだ自転車はないんだったと気がつく。
マイナー駅からマイナー駅へ、3回も乗り換えなければならず、自転車なら10分くらいのところを40分も要した。

こんなに面倒な迂回を帰りもするのか、とうんざりしたところで、そうだ帰りは自転車があるんだった、と気がつく。

2000円の罰金のような撤去料を支払って、白い愛機を取り戻した。
やっぱり自転車が好き。


昨日、友人からLINEでひとつの画像が送られてきた。
私はそれを帰宅中の電車の中で見た。
電車の中で本当に発狂する寸前で、私はLINEの中で発狂した。

それはヒロトからのサインの画像だった。

降車した瞬間、私は友人に電話をかけた。
本当に本当に、それはヒロトのサインだった。

私は電話しながら、半泣きだった。
嘘みたいな本当のことが、本当に起こったことに興奮して、「ほんとに?ほんとに?」と繰り返すばかりだった。

私たちは彼らの会社であるハッピーソングに手紙を書いていた。
それは4ヶ月ほど前のことだった。
7枚もの便箋と、返信用封筒とポストカードを付けて。

友人との電話に興奮冷めやらず、私のポストには今日それがないこともわかっていた。
それは来ているのなら旧居に来ている。
引越しをして転送をかけているものの、本当に届くのだろうかといたたまれず都内の郵便転送の所要時間をネットで調べたりした。

お休みの今日、朝から事あるごとにポストを覗きに行く。
今日は偶然にもその友人と家でDVDを観ようという日で、友人のその現物を見ながら私のはまだかまだかと待った。

夕方、本日6度目くらいのポスト、転送のシールが貼られて私のポストにあった。

奇声をあげて部屋に戻って震える手で開封する。
そこには私の名前入りでヒロトのサインとおちゃめなイラストと日付が書かれていた。

図々しくも自分で頼んでおいて、本当にそれが手元にあることが、どうにも未だにはっきりとは理解に至れない。

サインをもらうことがロックンロールを体現することではない。
それは明らかに違う。
でも、とても単純に、ヒロトとマーシーは私にとってのその入口だったわけだから、彼らのことは特別に大切過ぎて、それに触れたという事実を手にしたことは、もう本当に涙が出てしまうくらい嬉しい。

マーシーはその場にいなかったのだろうか。

ジャンキーと私と彼女の今後について、ヒロトとマーシーを持ち出しながら話す。
「楽しければいいや」というのはそうなのだけれども、それだけで済まなそうなことが自分の中には存在することを知っている。
今後その済まなそうなことをどうしていくのか、どう自分を満たし続けていくのか。

話し足りなさを引きずって、家に帰って、talking RockやRolling Stoneのインタビューや「ロックンロールが降ってきた日」を引っ張り出す。