つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

愛とは

2013-09-29 17:21:00 | 日記
お味噌汁の季節になってきて、作る。
あいにくいつもの赤味噌が1kgまるごと封を切っていない状態で開けるのが少々面倒なので、白味噌で作る。
赤味噌ならば、えのきと豆腐と油揚げが定番だけれど、白味噌は何を入れたらいいのだろうと、残りものを全部入れることにした。

玉ねぎ、ミョウガ、豆腐、油揚げ、茄子。
鰹の厚削りで出汁を取ることが多いのだけれど、ここのところずっと切らしているので顆粒の鰹だしを入れる。
野菜を摂れるせっかくのチャンスだからとやたら具沢山になってしまう。
澄まし汁、のようなものは私は自分では作ることがないのではと思ってしまう。

お味噌汁で失敗する人がいるかどうかは知らないけれど、私はお味噌汁で失敗したことはない。
いつもしみじみ、おいしいなあ、と思うものができる。
作りたてのお味噌汁が好き。

実は幼い頃はお味噌汁はあまり好きではなかった。
ただ毎日絶対あるもの、として存在していただけで、何が嫌だったかというとたぶん翌日の煮詰まり濁ったお味噌汁が好きではなかったのだと思う。
そもそもお味噌汁は赤味噌でも白味噌でも透明なものではないけれど、翌日のお味噌汁は具が少し溶け出して輪郭を失い、それが汁に濁った雑味になっているような気がするのである。

とはいえ、ひとり暮らしで一人分のお味噌汁を作ることはかえって難しいので、それなりの量を作る。

最近は、お米もよく炊く。
以前は5kgのお米が何ヶ月あったことだろう。

居住スペースが広くなって、家でやりたいことが増えた。
ギターもよく弾くし、字もよく書く、ブログも捗るし、料理もよくする。

人里離れたことにはなったし、とは言え山手線の内側という大都心であるが、そういう意味では家にいることも増えたかもしれない。
私は私の楽しみを余すところなく味わいたいのであって、新しいことは尊くて、それは文字通りの外界にあることも多いけれど、それでも心底「あぁ今日はいい日だった」とひとりで混じりっけなく言い切ることもできるときはできる。

ほぼ何もなさそうだと分かりきっている部類のことも、ある。
それは一応身をもって実験した。
だから微々たるスケベ心みたいなものは、しばらく見なくてもいいやとそう思うのである。

無条件に心が動いて、心がジャンプして感じることが最優位で、それはコントロールの利かないものだから、放っておく。
でも、それ以外の状態については、というか、その無条件に心を動かすものが一体何なのかについて、私は考えたいのである。
その渦中は考えるとかできないから。
それに、私が最近自分に認めたひとつのことは、そういうことを掘り下げて考えてもいいのだ、ということだ。

考え過ぎだと言われることも、もっと開放できると言われることも、それはそう思わなくもない。
一時麻痺させることによる絶頂も時々はいいかもしれない、というかたまにであれば私もそうしたい。
ただ連続的な麻痺によって得られた絶頂が、のちの恐ろしい空虚を生むことや、あるいは麻痺による絶頂なしに生きていくことが難しくなるだろうことはわかる。
だからそれが本当の自由だとも開放だとも思わない。
かと言って私が本当の自由だとか本当の開放への近道を行けるかというとそういうことでもないけれど。

ぐるぐる回って考えるわけだけれど、「楽しければいいじゃん」と私が思っていることもまた確かだ。
私の基本形が怠惰であることもまた確かだ。


花の定期便で、バラが届いた。
真っ赤なバラと真っ白なバラ。

赤い方からは、青くてひどく透明な独立した香りがする。
白い方からは、黄色くてひどく透明な湿った香りがする。
どちらも所謂甘いローズの香りではなくて、花びらの静かで冷たい香りがする。

非常に眠期。



電話越しの鳩時計

2013-09-27 01:02:27 | 日記
新居は建物が古くて光回線を引けなかったので、ポケットワイファイでも契約しようかと思っていたのだけれど、iPhoneでテザリングして使えると聞いたのでそうしていた。

「テザリング」なのか、「デザリング」なのか、はたまた「ギャザリング」なのか、長い間あやふやなままにしてきた。
そのものやその状態が想像しづらかったり、身を持って体験することがない新しい言葉は全然覚えることができない。
「テザリング」の「テザー」は「tether」で、繋ぐ、という意味があるらしい。

テザリングでPCを使っていて、おそらくドロップボックスの同期のせいで膨大な通信料が発生し、いくらパケット放題とは言え制限があるらしく、その許容量を超過して回線速度規制のペナルティを食らってしまった。
アクセスが重たいこと、重たいこと、重たいこと。

せっかくスマートフォンで観ようと制限を食らう前に購入した「たべるダケ」の3話分の動画の、見残した1話が途切れ途切れになってしまって見られたものではない。
月末でこのペナルティは解除されるらしいが、動画でなくともインターネットアクセス自体が非常に重たい。

狭い住み処から広いところへ、遅い通信速度から早いアクセスへ、ペラペラのスプーンから重たいスプーンへ。
良いと思うものへ一度シフトしてしまうと、元にはなかなか戻せない。
戻すとなると、それにはストレスが生じてしまう。

ロックに対する興奮にも同じことが言えて、同じかもっと大きな興奮を、でなければ新しい興奮を、となる。
飽きたらず音楽を探すのは、新しい興奮が欲しいということだ。
何度もなんどもいつもいつもブルーハーツとハイロウズを聴くのは、私にとって、今のところずっと慣れずに良い、ということだ。
これに関するひとつのやりたいことが私の頭の中で見えてきて、まだやってないのに、それはなんて幸せで、なんて嬉しいことなんだろうと想像しただけでぎゅうっとなる。

アクセスが重たい中、マーシーの発言をまとめたツイッターを読んでいてまた、ぎゅうっとなる。
マーシーがヒロトに対して話していることが出てくる。
個人として完全に独立していることが彼らの言わばポリシーのようなものだと思うけれど、こんなにも一緒にいられて、一緒にいることでしかできない増幅や爆発を起こしていることは、彼ら個人にとって何とも“特別”であるのだと思う。

まったく稀有で、まったく貴重で、まったく唯一で、死ぬほど大事な、そんな関係。
これの前提が「圧倒的に個人」であることの孤高さや孤独さ。

とりあえず、ポケットワイファイとアップルTVと掃除機と、電化製品でほしいものがたくさんある。
ポケットワイファイが電化製品であるかどうかはさておき。

ミックジャガーのアルバムを聴いていて、脈絡なくローリング・ストーンズよりいいなとか思っていた。
そしたら、ミックジャガーはローリング・ストーンズのメンバーであって、私はなんとそれを今知った。
たくさんの“今さら”がある私だけれども、ここ最近で一番の“今さら”だったかもしれない。

いや、特に海外バンドのメンバーや歌詞などを知っているわけでは全然ないのだけど、それでもローリング・ストーンズのミックジャガーくらいは知っていても良さそうなことだ。
まあ別に知らなかったことで何も起こってはいないけれど、そんなネットワーク上にいたいと願いつつ実際はこうなのである。

でも、いい。
私は音楽やロックバンドについて何かを話すとき、たぶんこれからもずっと歴史や権威やバンドの立ち位置などについてを語ることはしないと思う。
誰かがそれを教えてくれるのであれば興味はとてもあるし、自分でもそういうことを調べたりはするかもしれないけれど。
語るのは、私にとってどうかということと、そのバンド自体についてだ。

ずっと新参者で、ずっと謙虚でいたい。
“今さら”初めて出会って、“今さらに今”興奮するのだ。



ストレートファイター

2013-09-25 17:18:33 | 日記
去年も行ったスカビルジャパン。
今年は去年と違う友人と一緒に行く。

久しぶりに生の演奏を聞いたけれど、一番良かったことは、友人と話ができたことだった。
既に連絡済みであった「たべるダケ」を猛烈に勧める。
他にも、あれは違う、これは違う、でもこれはそうで、もうすごいそういうこと、というようなことを激烈に話していく。

良い日を過ごせば過ごすほど、やりたくないことがやれなくなってくる。
欲しいものがなかなか手に入らないイライラではない、ものすごく単純なイラつきに襲われていて、それは大方自分のせいであることが更に腹立たしい。
やりたいことへのイライラではなくて、やりたくないことのイライラは、情けなくて泣きたくなる。

かつて欲しいような気がしていた所謂帰属意識も、今は全然欲しくない。

できることなら全部見ないことにしたいのだけど、そういうわけにもいかないから自分に落ち着けと言い聞かせる。
これについては自分が2年前と言っていることがものすごく変わってしまっているので周囲に迷惑をかけていることは重々承知している。
しかしながら、前の私の考えには戻れないし、結局のところ当時だって自分の言動に責任を持ってなかったのだ。

これ以上には、私は口を閉ざすしかなくて、だってこれは私が変わってしまったことだから。
閉ざすとか言って中途半端に力任せに口を開くものだから、私の他人にとって必要以上に熱せられた鉄球は、相手に火傷を負わせることすらもできないまま自分に跳ね返ってくる。
自分の鉄球で自分がケガを負ってしまう。

近しそうで、もしかしたら一番遠いかもしれないこと。
そのことは私を悲しくさせる。

気が重いのを取り外す思考だってあるはずだと、深呼吸してみる。

9月までに使わないと消失してしまう有給を取って、体力があって眠くない状態で好きなことをする。

ギターを弾く。
いつもは気持ちいいコードしか弾かないけれど、今日は時間も気力もあるのでA♭dimも練習するし、C♯7のハイポジションも考えてみる。
このサイトに載っているC♯mは確かに要素はC♯mだけれども、ルート音が違うじゃないかと気付いてみる。
確かに、ここにもBのコードはあるけれど、やっぱりこのサウンドではしっくりこないとか思ってみたりする。

コードの一番低い音が音色の主体になるし、コードの一番高い音が主旋律のように聞こえてしまうので、コードを展開して不協和音に鳴らなかったとしても何か違う、ということになる。
と言っても、全然まったく自在に展開することはできないので、ひとつずつ音の要素を考えて書き出し、ギターの弦に戻って数えながらその音を探していく。
この作業は全然好きではないし非常に面倒くさい。
しかしこういうことがもう一段階大きなレイヤーのことと結び付けば、応用できることも増えると思うのでたまに面倒も買う。

プリングとチョーキングとハンマリングとスライド。
まだ上手くできないけれど、そういうふうに使っていたのかという実感は得られた。

先日久しぶりにギター教室に行って、たぶん先生は私がなぜそんな考えればすぐに分かることを聞くのだろうかと思うくらいの質問をしていたと思う。
しかしその渦中にいるとギターという楽器の前では基本形が迷子状態なのでひとつの法則を手に入れても多くても1展開くらいしかできず、たくさんの方向から法則を覚えて徐々にじょじょに既存の法則と繋げられるものを繋げていくしかないのである。
だから先生はなぜそんなことがわからないのかと疑問に思っているかもしれないが、それでも私に小さな法則を丁寧に教えてくれる。

結局のところ、自分の出したい音が出ればどんな押さえ方でもどんな弾き方でもいい。
これはすごく高度な話だと思うけど、そういうことだ。
そのやり方で、気の済むまでやればいい。

いやしかし、「青空」のバンドスコアでマーシーのギターをなぞってみるのだけれど、やっぱりソロの部分がわからない。
タブ譜があってもわからない。

「KAMINOGE」という雑誌が届いた。
プロレスの雑誌ということを知らずに、ヒロトのインタビューが見たくて買った。
雑誌などの取材インタビューでは怒っている感じが誌面ですら伝わってくるヒロトだけれど、このインタビューは楽しそうな会話をしている饒舌なヒロトだった。

ヒロトは最高にロックンロールだけれど、でもロックを受けるだけではなくて、自分の中で本当によく咀嚼して考えている。
たくさんのものを観て読んで、そして自分で考え尽くしているのだと思う。
考えるだけにとどまらず、それを言葉にできるくらいまで落とし込んでいるのだ。
それでもアンコントローラブルな心や興奮が愛おしくてたまらないのだろう。

「ロックンロールで破壊活動をしてるからさ。でも、これも変な哲学的な話になっちゃうけどさ、僕が「世界をぶっ壊す」っていうその“世界”っていうのは自分の中にあるんだよ?こんな話をしてもつまんないかもしんないし、「また、よくある話ですね」って言われるかもしんない話だけど“世界”っていうのは自分の中にあるんです」

そして、「世界は素晴らしい」と言う。

そう、世界は素晴らしい。

なぜだろう、別に新しく触れた概念でもなんでもないのだけれど、この類の話をしたり読んだりしているだけで、目頭が熱くなる。




白に白

2013-09-23 00:05:29 | 日記
今度は展覧会ではなくて、書道教室の授業の中での創作としてマーシーの「手紙」を書くことにした。
マーシーの、セピア色の絵本みたいな独特の世界観の歌。
自分がそれを紙に書くと、マーシーが考えていたことの中に入れるような気がする。

背骨で聞いている ハチミツの雨
ヒマワリ畑で ラジオが歌うよ

手紙を書いたなら 空に飛ばすんだ
風が運ぶだろう 君のところまで

青空の下 怪獣退治 ギターを片手に
輝いている 夜明け前は もう春だ


この柔らかに照れ臭い質感と空気感。
マーシーの静かな曲は、ファンタジーに溢れていて、それは異世界なのにすんなりすっかり溶け込むことができる。

コピーバンドはできないけれど、「コピー書道」がもっとしたい。
彼らが思っていたことを想像して、エネルギーが溜まって、それを紙に書く。
「私のオリジナル」も書いては見たいけれど、それよりも今は「コピー書道」がしたい。

丸ごと、書きたい。
こんなにも、こんなにも、好きで好きで。


テレビ東京でやっている「たべるダケ」というドラマの録画を見せてもらった。
食べ物をとてもおいしそうに無心で食べる不思議な女の子が、何人かの人のもとに現れて、食べるダケの姿で彼らに生きる勇気や気づきを与えて行くという話。

これはすごい。
すごいロック。
ものすごく官能的。
いやはや、これはすごい。

欲望とそれへの目覚め。
目覚めない人も惹きつけられる人間の根底の欲望。
それを「たべるダケ」ということで表している。

後藤まりこという人を私は初めて知ったけれど、おそらく彼女でないとできないのではないかというくらいの適役。
「いただきます」「ごちそうさま」としか言葉を発しないのだけれど、大口開けて奥歯まで見せて食べる映像というのは息を止めて見てしまうくらいに凝視してしまうのである。
もう一言、井上和香が出てくる回で、井上和香が食べるところを見て「きれい」と発するのだが、「本当においしそうに食べている姿」に対してそれを言うのである。

食べる、ということは生きることであり、同時にとてつもなく性的なものになるときがある。
そして味覚というのはとても個人的なもので、人間の欲望の大きなひとつであり、それによる衝撃からの自分の思考行動指針が変化していく、というのはロックンロールに近しいというか、ロックンロールなのだ。

第一話で3度の離婚歴がある冴えない男が、「たべるダケさま」に会って衝撃を受け、「生きてるーーーーーー」と言って猛ダッシュするシーンがある。
こういうことなのである。

後藤まりこ本人のライブ映像をYou Tubeで観て、友達に私の興奮を直接連絡する。
誰かに伝えたいというのは、闇雲には思えないけれど、伝えたいと思う人がいることはとてもうれしいことだなと思う。

聞いてくれる人がいるのなら、「うれしかったよ!!!」とか「すごかったよ!!!」とか、ついでにたぶんものすごい勢いでそれを勧めてしまうとは思うけど、まずはただただそんな喜びを。





良質なマットパープル

2013-09-22 16:30:17 | 日記
久しぶりに朝帰りなんかしてみて。
AM6時の秋の朝は、しっとりと湿っていた。
朝のミストの中を自転車でゆらゆらと走っていく。

音楽はなしでいいか、と思うものの、やっぱり耳寂しくてiPodをつなぐ

静かで湿った早朝の都会。
流れてきたのは、ハイロウズの「アレアレ」

シャワーを浴びて再び眠る。
起きて窓を開け放ち、バナナを一本齧って、せっせと掃除を始める。
敷物やクッションカバーも洗うために2回洗濯機を回す。

パキラが新入りしたので、家具の配置も少しだけ変える。

人から年末の大掃除みたいと言われた私の週末の掃除。
2度の水拭きで、全体的につるりときれいになった部屋を見るのはとても気分が良い。
空気も清浄化されたかのように、部屋を抜ける風もさらりと感じられる。

しかし正直なところ、やはり2度の水拭きをするには広すぎるので掃除機の購入を検討している。
スリムで吸引力があって、紙パックが要らないもの。
置き場所も検討してしまっている。

仕上げに、やっぱり自分にはふりかけないジョーマローンの香水を玄関マットにふりかける。

掃除をしている間、レンタルCDをPCに取り込みながら、同時に聴いていく。
先日借りたPUNK USのオムニバスから、それぞれのバンドのアルバムを借りた。

トム・ペティアンド・ザ・ハートブレーカーズ
ラモーンズ
ヴェルヴェット・ザ・アンダーグラウンド
テレヴィジョン
イギー・ポップ

私がバンド名を多くの場合カタカナで表記するのは、英語をタイプするのが面倒ということもあるけれど、読み方を覚えるためというのもある。
英語表記だとどこかからコピー&ペーストしてしまい、その場合私はほとんど柄としての字面しか見ていないので発音できないことが多い。

ネットレンタルCDの良くないところは、歌詞カードが入ってないことである。
ネットで調べるには数も多いし、PCやスマートフォンの画面では全体を見渡すことができないので見づらい。

歌詞を超越して、音や感じだけで入ってくるものはそれはそれは価値のあることだ。
しかい、何を言っているのか、日本語みたいに入ってくるのならば、私にとってのブルーハーツやハイロウズのような存在になってくれるバンドも洋楽の中にあるのではと思うと残念でならない。

まあそれでも、自分がパンクロックが好きだというのはサウンドで十分感じられる。
それに、ヒロトやマーシーが影響を受けたルーツも十分に感じられる。
みんな初めに受けた衝撃を、憧れと尊敬をもって「俺もそれやりたい!」という衝動の下で再現しているのだなと思う。

そういえばロックな書道家柿沼康二が「尊敬とは追従ではなく対決である」と言っていた。
それもまた然りだとも思う。

新しくなければいけない、ということもないけれど、新しくないと面白くない、という側面もある。
自分が良いと思えれば何だっていい、しかし、自分がいつか今の自分に飽きてしまうのではという恐怖もあって、新しいことはひとつ良いことである、と私は思っている。

セックス・ピストルズをYou Tubeで観る。
こんなふうに、こういう人たちが「アナーキー・イン・ザ・UK」を歌っていたのか、と知る。
私の場合、音だけではないパフォーマンスや精神性も非常に重要なので、気になる人はとにかくYou Tubeである。
ついでに和訳も見てみる。

パンクの中にある抗いの精神の中にある圧倒的な切なさで、目が滲む。
泣くような曲ではないと思うものの。