お味噌汁の季節になってきて、作る。
あいにくいつもの赤味噌が1kgまるごと封を切っていない状態で開けるのが少々面倒なので、白味噌で作る。
赤味噌ならば、えのきと豆腐と油揚げが定番だけれど、白味噌は何を入れたらいいのだろうと、残りものを全部入れることにした。
玉ねぎ、ミョウガ、豆腐、油揚げ、茄子。
鰹の厚削りで出汁を取ることが多いのだけれど、ここのところずっと切らしているので顆粒の鰹だしを入れる。
野菜を摂れるせっかくのチャンスだからとやたら具沢山になってしまう。
澄まし汁、のようなものは私は自分では作ることがないのではと思ってしまう。
お味噌汁で失敗する人がいるかどうかは知らないけれど、私はお味噌汁で失敗したことはない。
いつもしみじみ、おいしいなあ、と思うものができる。
作りたてのお味噌汁が好き。
実は幼い頃はお味噌汁はあまり好きではなかった。
ただ毎日絶対あるもの、として存在していただけで、何が嫌だったかというとたぶん翌日の煮詰まり濁ったお味噌汁が好きではなかったのだと思う。
そもそもお味噌汁は赤味噌でも白味噌でも透明なものではないけれど、翌日のお味噌汁は具が少し溶け出して輪郭を失い、それが汁に濁った雑味になっているような気がするのである。
とはいえ、ひとり暮らしで一人分のお味噌汁を作ることはかえって難しいので、それなりの量を作る。
最近は、お米もよく炊く。
以前は5kgのお米が何ヶ月あったことだろう。
居住スペースが広くなって、家でやりたいことが増えた。
ギターもよく弾くし、字もよく書く、ブログも捗るし、料理もよくする。
人里離れたことにはなったし、とは言え山手線の内側という大都心であるが、そういう意味では家にいることも増えたかもしれない。
私は私の楽しみを余すところなく味わいたいのであって、新しいことは尊くて、それは文字通りの外界にあることも多いけれど、それでも心底「あぁ今日はいい日だった」とひとりで混じりっけなく言い切ることもできるときはできる。
ほぼ何もなさそうだと分かりきっている部類のことも、ある。
それは一応身をもって実験した。
だから微々たるスケベ心みたいなものは、しばらく見なくてもいいやとそう思うのである。
無条件に心が動いて、心がジャンプして感じることが最優位で、それはコントロールの利かないものだから、放っておく。
でも、それ以外の状態については、というか、その無条件に心を動かすものが一体何なのかについて、私は考えたいのである。
その渦中は考えるとかできないから。
それに、私が最近自分に認めたひとつのことは、そういうことを掘り下げて考えてもいいのだ、ということだ。
考え過ぎだと言われることも、もっと開放できると言われることも、それはそう思わなくもない。
一時麻痺させることによる絶頂も時々はいいかもしれない、というかたまにであれば私もそうしたい。
ただ連続的な麻痺によって得られた絶頂が、のちの恐ろしい空虚を生むことや、あるいは麻痺による絶頂なしに生きていくことが難しくなるだろうことはわかる。
だからそれが本当の自由だとも開放だとも思わない。
かと言って私が本当の自由だとか本当の開放への近道を行けるかというとそういうことでもないけれど。
ぐるぐる回って考えるわけだけれど、「楽しければいいじゃん」と私が思っていることもまた確かだ。
私の基本形が怠惰であることもまた確かだ。
花の定期便で、バラが届いた。
真っ赤なバラと真っ白なバラ。
赤い方からは、青くてひどく透明な独立した香りがする。
白い方からは、黄色くてひどく透明な湿った香りがする。
どちらも所謂甘いローズの香りではなくて、花びらの静かで冷たい香りがする。
非常に眠期。
あいにくいつもの赤味噌が1kgまるごと封を切っていない状態で開けるのが少々面倒なので、白味噌で作る。
赤味噌ならば、えのきと豆腐と油揚げが定番だけれど、白味噌は何を入れたらいいのだろうと、残りものを全部入れることにした。
玉ねぎ、ミョウガ、豆腐、油揚げ、茄子。
鰹の厚削りで出汁を取ることが多いのだけれど、ここのところずっと切らしているので顆粒の鰹だしを入れる。
野菜を摂れるせっかくのチャンスだからとやたら具沢山になってしまう。
澄まし汁、のようなものは私は自分では作ることがないのではと思ってしまう。
お味噌汁で失敗する人がいるかどうかは知らないけれど、私はお味噌汁で失敗したことはない。
いつもしみじみ、おいしいなあ、と思うものができる。
作りたてのお味噌汁が好き。
実は幼い頃はお味噌汁はあまり好きではなかった。
ただ毎日絶対あるもの、として存在していただけで、何が嫌だったかというとたぶん翌日の煮詰まり濁ったお味噌汁が好きではなかったのだと思う。
そもそもお味噌汁は赤味噌でも白味噌でも透明なものではないけれど、翌日のお味噌汁は具が少し溶け出して輪郭を失い、それが汁に濁った雑味になっているような気がするのである。
とはいえ、ひとり暮らしで一人分のお味噌汁を作ることはかえって難しいので、それなりの量を作る。
最近は、お米もよく炊く。
以前は5kgのお米が何ヶ月あったことだろう。
居住スペースが広くなって、家でやりたいことが増えた。
ギターもよく弾くし、字もよく書く、ブログも捗るし、料理もよくする。
人里離れたことにはなったし、とは言え山手線の内側という大都心であるが、そういう意味では家にいることも増えたかもしれない。
私は私の楽しみを余すところなく味わいたいのであって、新しいことは尊くて、それは文字通りの外界にあることも多いけれど、それでも心底「あぁ今日はいい日だった」とひとりで混じりっけなく言い切ることもできるときはできる。
ほぼ何もなさそうだと分かりきっている部類のことも、ある。
それは一応身をもって実験した。
だから微々たるスケベ心みたいなものは、しばらく見なくてもいいやとそう思うのである。
無条件に心が動いて、心がジャンプして感じることが最優位で、それはコントロールの利かないものだから、放っておく。
でも、それ以外の状態については、というか、その無条件に心を動かすものが一体何なのかについて、私は考えたいのである。
その渦中は考えるとかできないから。
それに、私が最近自分に認めたひとつのことは、そういうことを掘り下げて考えてもいいのだ、ということだ。
考え過ぎだと言われることも、もっと開放できると言われることも、それはそう思わなくもない。
一時麻痺させることによる絶頂も時々はいいかもしれない、というかたまにであれば私もそうしたい。
ただ連続的な麻痺によって得られた絶頂が、のちの恐ろしい空虚を生むことや、あるいは麻痺による絶頂なしに生きていくことが難しくなるだろうことはわかる。
だからそれが本当の自由だとも開放だとも思わない。
かと言って私が本当の自由だとか本当の開放への近道を行けるかというとそういうことでもないけれど。
ぐるぐる回って考えるわけだけれど、「楽しければいいじゃん」と私が思っていることもまた確かだ。
私の基本形が怠惰であることもまた確かだ。
花の定期便で、バラが届いた。
真っ赤なバラと真っ白なバラ。
赤い方からは、青くてひどく透明な独立した香りがする。
白い方からは、黄色くてひどく透明な湿った香りがする。
どちらも所謂甘いローズの香りではなくて、花びらの静かで冷たい香りがする。
非常に眠期。