つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

乙女の森

2013-02-28 14:18:02 | 日記
太陽が近づいてきた感じがする。
陽射しが力を帯びてきた。

春はいろんな理由があって、得意ではないけれど。
たぶんずっと、春は苦手なのだろうけれど。

春めく。
芽吹く。
色づく。

ということはやっぱり好ましいことだなあと思う。
ついでに、蠢く、はイメージとして好まないけれど、やっぱりこれも春、なのだと思う。

春が待ち遠しい話を私はここ数年、いやもしかすると今までしたことがないかもしれないくらいだけど、来月に友人と行く箱根の話をしていたらとても春が待ち遠しくなった。
ロマンスカーに乗って、喋って、美術館に行って、食べて、写真撮って、喋って、美術館に行って、寝っころがって、喋って、写真撮って、食べて、飲んで、温泉に入って、喋って、寝る。
晴れることは大事な要素だけど、晴れなくたってきっと楽しい。
だって、楽しくないことをするつもりないから。

3月の、半分平日で半分休日の1泊2日。
かれこれ10年くらいの付き合いになる2人の自由な旅。
10年目に初めての旅行。
10何時間も話し続けたことも、お互いの一人暮らしの部屋に泊まったことも、実家に来たことも、ご両親や兄弟に挨拶をしたこともあるけれど、旅行は初めて。

「あ、この人いける」と初対面で私たちはお互いに思った。
そのときに私が一番信じていた、友達ができる、という瞬間の感覚。
それがあった。
大学の社会学の授業だった。
その後新しく友達ができるときにこの感覚自体は少し薄れたけれど、あのときの感覚は本物だったと10年経ってなお思う。

いつしか、楽しみなことをとても楽しみに待てるようになった、それが嬉しい。
楽しいことが楽しい。
嬉しいことが嬉しい。

やっと届いたトムロビンソンバンドのアルバム。
新しく手にしたアルバムを1枚通して何度も聴くものはそうは多くはないが、これはあたり。
ハイスタやゼブラヘッドやストロークスやマンドゥディアオやスマッシュマウスと同じように、好き選んで聴く洋楽BGMの1枚になりそうだ。
すっかり音楽を聴きながら仕事をする私だけれど、このあたりが仕事しながらにちょうど良い。
ハイスタは日本人だけれども英語なので洋楽扱いとする。

WiFi環境でiPhoneが画面の右上に、くるくる回るマークを表示しながらPCのiTunesと同期している。
PCと離れた場所にある携帯電話に、新しく追加された曲だけが取り込まれていく。
そしてそれが終わると、携帯電話からその音楽も聞けるようになる。

いったい見えないところで何が起こっているのだろうととてもとても不思議に思う。
今はクラウドにあるデータと端末データを自動同期というのはよくあることだとは思うのだけど、本当に一体何がどうなっているのだろう。
通信しているのはいいのだけど、線で繋いでもいないのに、見えないこの目の前で一体何が起こっているのだ。

その手が見えなくても劇的に何かを変えられる。
考えればメールなどもそうなのであって、見えないものだらけで重要な大きな何かが構成されているのだ。
無論悪いなんてことはなくて、解せなくてもいいから恩恵には与りたい。

蕾、蕾、蕾。
つぼみ、つぼみ、つぼみ。



3つのB

2013-02-26 01:02:07 | 日記
グリーンデイが好きだ。
と改めて聴きながら思う。
ギターの感じも好きなのだけど、私はどうしてもボーカルのビリーの声が好きなのだ。
ビリーが時々どこかのライブ会場で激高しているのだということをネットニュースで読んだりすると、先日怒りはどうのこうのと言ったばかりであるが、私は本当になぜだかほほえましく思ってしまう。
私のiTunesの再生回数のTOP10に「Minority」は入るし、「American Idiot」は好きなアルバムベスト5に入る。
でもまるごと全部、というふうにはいかなくて、最近のものはちょっとゆるいので聞いていない。

以前、私は信頼している人とお酒を飲みながら音楽について話していたら、「お前は上っ面なものが好きなんだよ。俺はゴアトラが好きなんだ」とその人が言っていた。
「ゴアトラ?」と聞き返すと、それがインドのゴアのトランスだということを教えてくれた。
と同時に、「上っ面じゃない!そういうふうに好きなわけじゃないんですよ!」と私は熱を上げて言ったわけだが、「奴らは上っ面に見えてるんだよ。上っ面を装ってるのかもしれない。そして上っ面だ。それでもそれが好きだということが本当なんだ。俺はゴアトラが好きなんだ。それも本当なんだ。」と言われて私はその人が何を言っているのかが腑に落ちた。

ブルーハーツが好きだとかグリーンデイが好きだとかハイスタが好きだとか、それはある側面において確かに「上っ面」なのだと思う。
ただ、私はあまりに音楽を聴き始めたのが遅かったから世間的なバンドの立ち位置や見られ方、さらにはそれを聴く人のカテゴライズの認識など一切なく好きになった。
その分、最初は完全にフラットであったし、自分の感情に忠実だったとも言える。

ただ「上っ面」という言葉自体に反応してものすごく必死に「違う!」と叫んでいたものだから、私はこのときその人に何発か頭をはたかれた。
でも私は、それが好きであることを許された気がして、はたかれて嬉しかったことをよく憶えている。

と、これは年末の話なのだが思い出したのでゴアトラがどんなものなのか今さらに聞いてみようと思う。

やっと、本当にやっと、ほんのちょっとだけギターのコードの仕組みが分かった気がする。
理論を展開するとコード全部を覚えなくてもとても便利だ、ということだけは理解はしていたので、わかりたいと思っていたのだが、理論を聞いてもその理論をギターの弦の上に適用できる気がまったくもってしないものだから、もう理論で考えるのは諦めようと思っていた。
一般的な押さえ方ひとつ以上でできないものは、もうできないということでいいと思っていた。
距離とか度数とか、何番目とか、組み合わせとか、私の頭が完全にショートしてしまう分野のことなのは仕方のないことだ。

今回少し分かったというのは、理論ではない。
弦の上に理論をあてはめたときのコード展開のパズルだ。
と言っても、コードが直結してわかるようになったわけでもなくて、ここがRootの音だとするとここが1オクターブでRootの音になる、で、それをどこにずらしても同じことだ、というそのくらいのこと。
音階ではなくて、形、で成り立つのだということ。

ギターのコード理論も、弦の並びも、私にとっては算数と空間の部類に分けられる。
たぶん私は口が立たない方ではないけれど、算数と空間の能力についてはとんでもなく低い。
生きていくのに少々支障があるくらいにまずい。
ということをギターの先生が認識しているかどうかは知らないけれど、そんな私にちょっとだけでも分からせてくれてありがとうございます、と思う。

元気かなあと思いを馳せる人がいる。
元気だといいなあと思う。
たとえば言葉を交わすそのときまで、できるのは私は私を面白くしておくことくらいだけれど。



上手なリロード

2013-02-25 02:01:17 | 日記
まさか体質まで変わったということもなく、私の粘膜は反応を始めた。
鼻もそうなのだけど、私の花粉症症状としては、目と喉に出る。
粘膜全体が過敏になっているようで、風邪でもひいたかのようにだるくもなる。

そんな今年はじめの花粉感知の日にまつ毛パーマなんてかけに行ってしまったものだから、弱っている粘膜にパーマ液が沁みて目腫れてしまった。
翌日起きると、私は結構厚みのある二重なのだけど、それがなくなるくらいに腫れあがっている。
きっちりあがったまつ毛と、腫れあがった目。
洗顔するのもお湯があたるのさえも痛いわけだから、アイラインとコンタクトなんてとんでもなく、久しぶりに眼鏡をかけて外出する。

これも前に書いたことがあるけれど、眼鏡をかけて外に出ると思考力が3割減になる。
買い物に行けば必ず余分なものを買ってしまうし、会話も気が抜けて適当になってしまうし、電車も乗り間違える。
世界が隔絶されたように遠くなってしまって、他人から見えていないように、自分が消えたように感じてしまうのだ。
加えて、少し気が大きくなる。
判断力が著しく鈍るので、私は眼鏡をかけて仕事をしないほうが良い。

このことを人に伝えようとするとさっぱりわかってもらえないのだが、妹だけはわかってくれる。
二卵性の双子だけれども、決して他人がわからない体のことを私たちは3つほど共通して持っている。
その妹は既に子供を産んで、考えや人格までもを変えてお母さんという役割をしている。
姪はすくすくと大きくなって、のそのそとこの世を動き回り始めた。

そうそう、大人になることは、自由になることなんだよ。
と、友人が長きモラトリアムの中にいる彼女の弟に言っていた言葉を、私はほふく前進のようなことをしている姪にかける。

それにしても、どうして小さな子への話言葉で方言を消すのが難しいのかが未だによくわからない。

1日経って目の腫れは随分と引いた。
それでもアイラインは怖くて引けない。
眼球まで腫れているような気がして目が痛い。
仕事へ行くには、コンタクトだけはつけないといけない。
眼鏡で仕事をするわけにはいかないから目が痛いまま仕事をすることになるだろう。


やっぱりラナンキュラスはかわいい。
狭い花屋の店内をうろうろして10分、色とりどりのラナンキュラスから赤とクリーム色と、その反転の2本に決めた。
あと、イグアナみたいな春色の菜の花、と名前は忘れた白い小花も一緒に。
桃もポップなピンクをしていたけれど、枝ものははらはらと花びらを散らすから、ちょっとだけ引いてしまう。

ラナンキュラスをメスシリンダーみたいな花瓶に生ける。
薔薇みたいな葉茎をしながら、花は薔薇よりも丸っこくて花びらがたくさん。

ぎゅうぎゅう。みっちり。ぎっしり。

つい何度も覗き込んで、ひとり感嘆。



お姉さんからの祝杯

2013-02-24 01:42:37 | 日記
御徒町に出向いたついでに上野の国立博物館でやっている王羲之展まで足を伸ばす。
上野・御徒町は自分が住んでいる街の次によく訪れる街である。
しかし上野公園は全体像が大きすぎるので、何かのついでに寄るには少し体力が足りない。
ただ会期終了も間近なのでついでに行くことにした。

よく晴れた休日の上野公園は、やっぱり広い。
その分当然ながら空も大きくて、冷たい空気で深呼吸する。
博物館までの長い道のりに、牡丹まつりなんかがやっていて、きっちり有料だったけれどここで入らない選択などできず牡丹園に吸い込まれていった。

大きなおおきな牡丹の花。
雨雪や風を凌ぐための藁で覆われていて、写真はいささか取りづらかったけれど、牡丹の他にも梅や水仙、三叉などもあって私は満足した。

私は青空をバックに花を撮るのが好きだけれど、最近よく青空バックに落葉樹の剥き出しの枝を撮る。
脈々と血管のように伸びた枝々で、空にヒビを入れる。
植物や花の写真がなんとなくそれらしい写真になるのは、それらがそのままでそれぞれに曲線や色や形や質感を持っているからだと思う。
あとは人が撮るときにどの角度から、どの部分を、どの光加減で撮るかで良い。
何枚も撮りたくなってしまうのは、角度が違えばその表情も違うからだ。

王羲之展は、思いの外混雑していて、あのあたりにはいくつかの書道教室があるから書を嗜んでいる人が多いのはわかるが、そういう人ばかりではないだろう。
大半は年配の方々で、あちこちで「よくもまあこんな細かい字が書けること」といった声があちらこちらから聞こえてきて、なぜこの王羲之展に来たのだろうかと思ってしまった。
しかし私は全般的に古いものにどきどきはしないのだけれど、歴史を含めた古来の物が今ここに、という興奮がそこにはあるのかもしれない。

王羲之の蘭亭の序は以前の課題でやった。
法帖で出てくる昔の書家の字は、書道を習い始めた頃は楷書や篆書・隷書以外は本当にさっぱり分からなかった。
今でも正しく理解しているわけではないと思うけれど、その“良さ”みたいなものはわかるようになった。
それに取っていた特別ゼミのおかげで草書が前よりも見えるようになった。
要は、“それっぽく見えること”が重要なのだとざっくりと思っている。

ちなみに私は曲がりなりにも書道を齧っているが、古典そのものについて興味はさほどない。
授業の中で、歴史的背景やらも勉強するわけだけれど、あまり覚えていない。
字体とその特徴は照らし合せればわかるけれど、それが誰が書いたかと言われると自信を持って答えられはしない。
それを生業としないものの甘えであるし、もちろん知っていた方が作品に活かせることもあるだろうけれど、まあいい。

展覧会などでもない限り、私は漢詩を扱うときはほとんど意味を取らない。
字を書くこと、見ることそのものが好きだから、すぐに入ってこない漢詩の意味はあまり気にならない。
ただ五言絶句・七言律詩など、墨継ぎの位置は気にするので文字数は見ていたりはする。
また、日本語の詩となれば話は別だが。

混雑した会場で、それでもやっぱり私は書が好きだなあと足早に見て回る。

もう本当にいよいよ展覧会の作品を決めなければいけない。
「日曜日よりの使者」「不死身の花」「月の爆撃機」「情熱の薔薇」までは絞れた。
意図は特にないがどれもヒロトの詞である。

やはりアマゾンに頼って買った「Talking Rock」をカフェで開く。
クロマニヨンズのインタビュー記事。
彼らは基本的にずっと同じことを言っているのだけど、インタビュアーによってはその場の会話のやりとりの弾みの言葉遊びから、説明的だけではない新しいものが引き出されたりする。
友人の言うとおり、とてもすごいインタビュアーだった。
「涙の俺一号」と「人生80歳」のくだりが特に良かった。

これから4回も彼らのライブに行けることが決まっている。
正式には、うち1回は先行抽選結果待ちだけれど。
爪がもげようと、痣ができようと、他人の汗を浴びようと、彼らの生を手放すわけには行かないのだ。
というくらい、これは私の生なのだ。



レトロ&ポーク

2013-02-20 23:56:13 | 日記
とりあえず3時までに寝られれば、翌日使いものにならない、というふうにはならないということが最近分かった。
ただ、なんだかとても疲弊してしまって力が入らない。
眠れないことがないのはさすが私だと思うけれど、少し強ばった緊張状態で、ため息には深呼吸の効果もあるのだと知る。

前にも書いたけれど、私は怒りの感情を表出させることや人に向けることが苦手だ。
これは小心者であるが故、レスポンスが怖いからだと思う。

そもそも私はある一つのことに対すること以外には心の底から大きな怒りを感じることがない。
ある一つのことも、怒りというには少し種類の違うもので、怒りなのか悲しみなのか判然としないくらいで、それに、これに関してもようやく私は折り合いを付けることができそうな気が体でしている。

私が根源的な大きな怒りを持っていないのは、体質ゆえであっても、環境ゆえであってもラッキーなのかもしれない。
例えば、社会、国、政治、一般、世間、会社、組織、学校、のような大きなものに対して、怒りはおろか不平不満も興味感心、熱意も私は全然持っていない。
だから知識もないから、議論もできない。
今は、学校、というか教育機関については少し思うこともあるけれど。

とはいえ、全く穏和な人間かと言われれば別にそうではないし、普段の出来事で「本当に腹立たしい」と声をあげて一時怒っていることはあるし、心無い言動に傷ついたりすることも、どうしようもなく残念だと思うことも、当然ある。
この時点で、私の中で怒りは悲しみに変化してしまっているのかもしれない。
怒りで手が付けられないということは全然なくて、怒りの矛先が例えば特定の誰かに対してだったとしたらぶつけたことは今までにないし、当該以外の人にそれをぶちまけるにしても私はそれを笑ってしか話せない。
太刀打ちできなさそうなことに対しては、小心者ゆえに見ないことにしていたら、それへの関心もなくなって本当に見えなくなったのかもしれない。

わなわなと震えてしまうくらいの大きな怒りから生まれるものは、表出方法によって正だったり負だったりする。
それが何かを成す原動力となることもあるだろう。
マーシーの言葉を借りると、「表現の衝動は僕はみんな怒りだと思うけど。」ということも「僕にとってロックンロールはポジティブじゃなくちゃならない」ということなのであって、私も本当にそう思う。
もちろんこれは「表現物」として何かを出すときのことで、一瞬の感情の表出について言っているのではない。

私の怒りも悲しみも、また喜びも楽しみも、それらは基本的に内側を向いている。
外が怖いからということだろうし、時にとても自分勝手だと思うこともあるけれど、どうにもしようがない外側がもはやあまり気にならないし、環境的にありがたい立場にいるのだろう、だからそれはそれで良しとしたいと思う。

自分が思っていることがどれだけ正しいと思っても、それは他人にとっては正しくないかもしれない。
正しさも間違いも、自分の思う以外のそれなど存在しないけれど、他人にとってそれが逆でさえあり得る、そして他人にとってそれが正であるという真実。
自分のルールは、簡単には他人に適用できないけれど、そのことは決して絶望なんかではなくて、当然が当然ではないから、他人と何かを共有することにとても価値があるのではないかと思う。

一方で、私は困ったことに、人が発している怒りはものすごく吸収しやすい。
それは近しい人ならなおさらであるし、近しくない全く感じ入る必要のない人からの怒りに触れても私はそれを丸呑みにしてしまいがちである。
最近はさほど感じ入る必要のないものに関しては、蹴散らす方法を得てきたから長く持ってしまうことはなくなったが。

矛先が私に向けられているとしたらそれこそもう全力で逃げ出すのかもしれないが、全くそうでない怒りも、そこに本当のことが含まれていたりすると、私の中にどうにもしようがないくらいに入ってきてしまうことがある。
「大丈夫だよ」も「分かるよ」も、軽率には発することができなくて、それは私の中で私の単純な悲しみになってしまう。
私の悲しみになってしまう、だなんて筋違いも甚だしいけれど。
たぶん、本当の意味で、手当てが有効なんだと思うけれど、私はそうすることもできないくらいに臆病で。

私には理解することが難しいだろうから、それをあからさまに示したりはしない。
それでもその怒りがどうかどこか遠くへ行って、なくならないにしてもうまく付き合ってくれたらと願う。
そして私が、もしそうしたければ手を差し伸べる度胸と勇気を持った人間になれることも合わせて願う。

怒ってはいけないなんてこともない。
怒らないといけないこともある。

しかしどう思おうと、私は、ただただ単純に、怒っているというそのさまがどうにも嫌いなようで。
手が冷たくなって涙が出るくらい。
そんなに大したことかどうかもよくわからないのに。

笑えないときに、笑わなくてもいい。
でも、笑えるときには、いつでも笑えるように。
笑えることが多くあるように。
そうありたいと、大真面目に、私は思う。