つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

図星のライン

2013-01-30 14:43:20 | 日記
結局NUMERO TOKYOの年間購読をこれからの一年分をまた購入した。
東さんの花と、烏賀陽さんのコラムと、田中さんの編集があれば私はもう何年かはリピートし続けるだろうと思う。

今回も、東さんと椎木さんの花のページを目の前にして、私は艶のある紙の匂いしかしない雑誌の前で深く息を吸い込む。
影の中の薔薇。
肉厚でベロアの布みたいな花びら。

私は花がかわいくて仕方がないけれど、時々植物に鳥肌が立つくらいのおどろおどろしさを感じることがある。
日の当たらない部屋の中で芽吹くパキラの新芽だとか、根を断ち切られた切り花の蕾に血色が通い反りくり返るほどに咲く百合の花だったり。

東さんの作品には時々怖いくらいの植物のおどろおどろしさがあったりする。
それは創っている東さんや撮っている椎木さんの目線であるのだと思う。
金属などの異質さを取り入れたり、根をむき出しにさせたり、松の木を燃やしてみたり、花びらを瓶詰めにしたり、奇を衒うことはある種の新しさへの挑戦なのだと思う。
観る者の良し悪しも心地良さもさておき。
あるいは、私には奇を衒ったように見える作品が、まさに彼らの内側にあるものの表出なのかもしれない。

また最近は輪をかけてくぐもっていたり酷く湿っていたり攻撃的であったり深い色合いの作品が多いように思うけれど、私は花や植物がなるべくそのままである状態の作品が好きだ。
もちろん、根を断ち切り茎を断ち切っている時点で、何をそのままというのかという話もあるけれど。
そういう私も、不気味さ自体に魅入っていることだってもちろんあるけれど。

また、私はそもそもとても単純にビビットな「色」にも魅せられる。
だから、赤や黄や紫や白やピンクや青や、色というだけでそれがペンキであってもどきどきするというのに、色とりどりの花の群集だったりすると私は軽い眩暈を起こすほどどきどきする。
まだ寒い初春の芽吹きの季節にはそういう作品も見たいなあと思う。

写真でもそうなのだから、生は言うまでもない。
もう一度、あの立派極まりない花たちに触れにジャルダンデフルールに行こうか。

そういえば、東さんも花や植物のことを話すときはとてもとても饒舌になる。

私は体が弱い方ではないのだけれど、寝不足には本当に弱い。
寝不足は二日酔いよりも良くない。

まだまだよくわからないことがたくさんあって、たぶんそんなことはなくならないとも思うけれど、今を気持ちよく過ごせたらいいなあと思う。

「言う」のではなくて、「やる」
それ以外に、自分のことを負う、なんてことできない。

多彩な人を見ると、最近少し恐縮する。
本当は恐縮する必要なんて全然ないのに。
それを取り払うのは、たぶん、「やる」ことだけなのだと思う。



論理上のやわらかさ

2013-01-27 20:10:11 | 日記
ヒロトのインタビューが載っている、ヒロトが表紙の「Rollong Stone」が届いた。
「あと4分50秒以内の注文であれば本日の発送となります」というのは私の見間違いだったようで、「あと4分50秒以内の注文であれば本日のお届けです」が正しかった。
当日注文した商品が、当日に届く。
まさかそんなこととは思っていなかったので私はポストを見なかったのだが、確かにそれは当日の配送がなされていた。

欲しいものがその欲しい感情がとても高ぶっているうちに届く。
欲しいものを待っている時間もまた云々・・と言い換えることもできなくはないけれど、今欲しい、というものを、しかも消費者の期待を上回るスピードで本当に届けることができるアマゾンはすごい。
クロネコヤマトもすごい。
それが当たり前になってしまうとおそらく人は待てなくなると思うから、サービスの提供者側はある程度最速の限りを尽くすことをコントロールしてもいいようにも思う。
いつでも消費者の期待を上回る他のサービスが提供されるのであればまた別だけれど。

最速の驚きを提供することの皺寄せを食らっているのはおそらく物流関係の人たちで、どんなにオートメーション化されていても多くの部分は人の目や人の手が加えられて消費者のもとに物が届く。
そんなことを今の仕事から色々と想像したりしつつも、最速という便利さをすんなりと享受もする。

ヒロトが話すことはだいたいいつも同じようなことを言っていたりする。
この人は本当に自分の言葉で話している。
自分で感じたことを、自分の解釈で、自分の言葉で。
だから同じような内容のことを話していたとしても肉付けにバリエーションがあったり、その時の気分が上乗せされていたりして読んでいても聴いていても本当に私は飽きない。

私は、おこがましいことを承知の上で、甲本ヒロトがロックにブルブル震えたというManfred Mann「Do Wah Diddy」が私にとってのブルーハーツの「リンダリンダ」である、と言いたい。
およそ男子中学生に向けられているような彼らのロックンロールは、26歳の私に降ってきたのだ。
それは女子高生がアイドルグループに熱を上げるのとは全然違っていて、私はヒロトにもマーシーにも、例えば付き合えたらいいのに、とかは全く思わない。
ふとあるときに人から言われるまでそんな発想もなかったことを知った。

しかしながら私が感じるロックにはセックス・ジェンダーにおけるセックス要素も多分に含んでいることもまた事実で、私はロックは男性にやってもらいたい。
むしろ最近は音楽全般、男性のものしか聴かないといってもいいほど。
それは女性がそういう表現をする絶対的人数が少ないということもあるだろうし、それに感化される人数というのはもしかすると男性より少ないということかもしれない。

ヒロトはManfred Mannとのセッション経験があるらしい。
ものすごく恐縮もしたけれど、畳何畳か分のスペースで演奏することはただ単純に仲間として楽しいんだ、というようなことを言っている。
自分の中のロックンロールを目覚めさせたまさにその人たちと一緒に演奏するだなんて、私のなけなしの想像力で想像したって恐ろしいくらいの興奮だったろうと思う。
それを結果楽しめたということは、ヒロトと彼らの間には本物のロックンロールが存在したということだろう。

私もヒロトとマーシーに直に会えたらいいのに、とは思うけれど、ライブで生を観られるだけでもいいのかもしれないとも思う。
直に会うなんてことは、まさに「恐縮」という言葉にしかならなくて、それに耐え得るだけのものを私は持ち合わせていない。

でも、会いたいけれど。
そんな飛んだ想像が楽しい。

アマゾンの戦略にまんまと乗ってついでに買った「ロックンロールが降ってきた日」という本。
現在活躍するロックミュージシャンのロックとの初めての出会いを、モノローグで綴られた本。

一人ひとりのテンションがそのまま溢れて伝わってくる。
言っている内容は、ロックンロールというものが根底にあって、それぞれの経験をものすごくマニアックなことを話している。
アーティストとしての彼らではなく、一人のリスナーとして。

別に文章として面白いわけではまったくない。
それに私はロックミュージックに詳しいわけでも全然ないからそれぞれから溢れ出てくるとてもたくさんのバンド名や曲名については宇宙語のように扱うしかないけれど、誰かが何かを心から好きであることを、相手が口を挟む隙もないくらい一生懸命話すその様は本当に美しいと思う。
内容を本当に理解することや自分の考えと合致することは置いておいて、そうでなくとも、そういう姿を楽しく嬉しく頷いて聴くことはできる。

人は本当に好きなものを話している時はとても饒舌になる。
「な、すごいだろ?いいだろ?すごいんだよこれ。」と最終的にはそういうところに落ち着くのだけれど。

一貫してたぶん彼らは人よりもエネルギー量が多い方の人間であると思う。
それを消化・昇華させる何かを見つけて、その何かにとことん興ずることはなんて素敵なことなんだろう。

書道も、ギターも、先生にそういうところを垣間見ることができるから私は好きなんだなと思う。



点々と線々

2013-01-23 14:45:36 | 日記
私が何百回と自転車で素通りしていた坂上にある地下のバー。
私は常連のお店、というものは知り合いの店以外に1軒も持っていない。
また、そういう場でする四方山話が好きではない。

でも誰かに連れて行ってもらったりして、そこで出会う新しい人にとても感銘を受けたなんていうラッキーが続いて、場は選ぶ必要はあれど、そのラッキーの確率は案外私が思っているよりも高いのかもしれないと思う。
薄暗いバーで、ジャズギターの生演奏を聴きながらウイスキーの水割りをご馳走になっているだなんて、それは現実にそこにいたのが私なのだろうかと思うほどに受け入れがたい。
また、私にウイスキーの水割りをご馳走してくれた私に感銘を与えたおじさんも、本当に存在していたのだろうかと思うほど、小説の世界みたいに近いようで遠い。

面白い。
帰り道で、声に出して笑ってしまうくらい。

嘘だったかもしれない。
ほんとだったかもしれない。

自分の足で動く、自分の目で見る、自分の心で感じる。
それ以外に自分に厚みを増す方法はないのだと思う。
あとは、自分で選ぶ。

昔、「低空飛行でいい」とか「人の関係なんてもう今以上なくてもいい」と思っていた自分に何発か蹴りをいれてやりたい。
それだけ私は近くにいてくれる人のことが好きだということも、今ある関係を保ちたいとかより良くしたいとかも変わらないということも、それがどれほどに貴いかということも、全く変わらないけれど、それでもやっぱり外にしかないものはある。

外に出ることは、単純に体力が要る、また、根底の小心者の私には怖く思えたりもする。
でもそうしたいと思って、面倒を跳ねのけて動いたことによって得られたものがここ何年かでいっぱいあったから、だから面倒も買う。

友人が買ったというヒロトが表紙の雑誌Rolling Stoneを買った。
アマゾンで、「あと4分50秒以内にご注文確定頂けたら当日発送です」と見て急いで注文する。
ヒロトとマーシーが写っている雑誌が他にも色々とたくさん出てきてしまってもうこれは大変、と思ってもう一冊だけとりあえず追加で注文する。

悲しみが多すぎて
泣いてばかりいたって
なんにも見えなくなっちゃうよ

でたらめばかりだって
耳をふさいでいたら
なんにも聞こえなくなっちゃうよ


どうにもしようがないくらい、好き過ぎて。



ボーダーに住まう

2013-01-22 22:08:01 | 日記
書道の文字考というゼミを取った。
文字の成り立ちを知り、それゆえの草書体への崩し方を学ぶ。
1か月半にもわたって土曜日の午前10時だなんて、とても意志の要ることであるが、普段の授業の中でもこういった話も少しはあるもののまとまった話が聴けるのは稀なことだから楽しみにしていた。

しかし案の定、第1回目の土曜の前日、私は朝まで起きていて、するりと10時を寝過ごした。
ありがたいことに火曜にも振替が可能とのことで、出社を遅らせて出席する。

「書はデザインではない。だからたとえその文字が読めた(認識できた)としても間違いというのはある」
と私の通う教室ではよく言われる。
最終的には個人の創作活動を支援するところに目的があるように思う教室であるが、創作の際に字をアクロバティックに動かしたりすることを良しとする。
しかしながら、読めなければいけないことも前提に、ルールもあってそれを逸脱してはいけない。
ひらがなも、字源となった漢字からすると、「す」は「寸」という字から来ているから、最後のはらいをとても長くすることは間違っている、とかそのようなこと。

書道のある生活にももうだいぶ慣れていて、さっぱり努力もせずにぬるぬると続けているのだが、こういった話はとても興味深い。
生活に役に立つのか、という問いには答える余地もない、単純な知的好奇心の充足感。

このために久しぶりにノートを買った。
私は書道をやるけれども、実際の作品や勉強したものについて紙で持っていることを好まない。
仕事のメモはほとんどデータ化してしまうし、データすらも溜めたくはない。
ただこれは創作のときに何度も見るだろうから、ノートを取る必要がある。

罫線があるノートなのだが、この罫線が非常に邪魔で使いづらい。
というか、勉強としてノートを取るということが久しぶりすぎて、どうまとめたらいいのかわからない。
きれいに書く必要もないし、別に誰かに見せるわけでもないけれど、自分として納得のいかない雑さになってしまった。
罫線のせいにして、罫線のない新しいノートを買おうかと思う。

私はそんなにストイックな人間ではない。
緩い、適当、怠慢、それゆえ何かが成し得なかったとしても自分がだめになるほど圧迫することもない。
何かを「成す」ことに対して目標が低いし、意識も高くない。
興味のあることでさえそれなのだから、興味のないことなど聞いても聞かなかった同然くらいになってしまう。
今さら双子のせいにするけれど、幼い頃から他人からの比較から逃れたくて、スポットライトの当たるリングに上がることを拒む癖があるのだろうと思う。
そのくせ見栄っ張りに負けず嫌いなものだから、地道なことは人知れずにしたりもする。

何かについて「許せない」という感情は何かをする原動力になり得る。
自分自身について考えてみると、「許せない」というような対象もあるはあるものの、それほどの怒りを抱けない、もしくは抱くことまたその表現を無意識に拒否しているのだろうなあと思う。

笑っていたい、というのは紛れもなく本当のことで、議論は嫌いではないけれど、自分も他人も、底が見えない感じで怒っている人は好きではない。
というより、怖い。

ヒヤシンスの小さな花の群集が開いた。
色といい、葉っぱといい、様相がかわいくてたまらない。



ケチャップ野郎と裏返しの一張羅

2013-01-20 01:02:18 | 日記
最近結婚して、戸建を買ったという友人の家に行く。
首都圏で戸建を買ったという話は身近では初めて聞いた。
そこは首都圏特有の住宅の密集具合だけれど、小高い丘の上に立っていて風が良く通る気持ちの良い場所だった。
大きな冷蔵庫や、炬燵にダイニングテーブル、吹き抜けや客間があったりして、「家」という感じがする。
犬や猫がいるようなそんな。
新居特有の資材の匂いと、木の香ばしい香りは、なぜだか私を切ない気分にさせた。

私は田舎の一戸建て育ちだけれど、戸建願望が全くない。
できればマンションに住みたいし、賃貸でいいとさえ思っている。
お金のことを詳しく計算をしたことはないからどちらの方がお得かということはさておき、たぶん飽きてしまったり気分を刷新したくなったりするだろうことが容易に想像できるからだ。
身を固める、みたいなことのときに考えを改めるのかもしれないけれど、そうなったとしても私は「仮住まい」でいいように思っている。

ただ、人の「家」は時々すごく居心地が良くて、大きなソファに座って炬燵に足を突っ込んでいると腰は途端に重くなる。
絵みたいに炬燵テーブルの上にはみかんがあったりして、実家の今を思い出したりする。

この動画が良かった、とYouTubeをお互いにひとしきり見せ合う。
彼女はアニメソングが主に好きで、私にはそれはよくはわからないのだけど、「異文化交流会」と称して次々に観ていく。
お互いのひどく熱い解説付きで。

聴き手になっている方は何を見聞きしているかって、その動画の音や映像は二の次に、聴き手の嬉々としているその様だったりする。
他人の興味の在り処というのは、めったに被らないから被った時は爆発するのだけれども、被らなくても単純にその嬉々としている様の見せ合いだけでも楽しかったりする。

今のところ私はアニソンを漁ったりする気は起きなかったけれど、確かに私にとって新しいから面白い。
一緒にそんなことをして、笑っちゃったり、泣いちゃったり、感心したり、わからない!とずばっと言っちゃったり。
安心してそういうことができる関係は、毎度毎度、ありがたいと思わずにいられない。

家に帰ってひとり、「チェインギャング」がゆっくりだしパワーコードでできるからとギターを弾いていると不意に目が潤む。
変革期の終末と思っているけれど、どうにもこうにも、こういう現象だけはなくならないかもしれない。

ヒヤシンスを買った。
ヒヤシンスと言えば、もう小学校の教室の異様に温かな陽だまりしか思い出せない。
球根から根が生えていて、植物園の温室の中みたいな湿り気を帯びて温く甘ったるい香りがする。

ヒヤシンスだけでもなくて、鉄の味のする給食のスプーンや黄ばんだプラスチックの食器、乾燥した雑巾の臭いや、先生が板書する黒板から落ちるチョークの粉、などは、私にとってとても奇妙で心地悪い。
私のこのあたりの感覚が、小川洋子の作品を読むとなんだか近しい感じがよくするものだ。

ヒヤシンスを買ったのは、葉っぱがあまりに黄緑色で艶々としているから、だった。
太くて美味しそうな茎。
私は、美味しそう、という観点で時々花を買う。

ただ、小川洋子のことを思い出していたら、茶色の薬瓶にそれを生けたくなって、家にあったサプリメントの瓶を空けてそれに生ける。
サイズが少し小さかったけれど、雰囲気は私のイメージするところになった。

ちょっと不気味な具合ができあがったら、急にそれが滑稽に思えた。
Don't Look Back In Anger をもう一回聴いてみる。
長い時をかけて、すうっと抜けていく、かつてすごく重たかったもの。